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蜥蜴は何も見ない振りをして、ルスカに呪法を施した。あの、娘との邂逅を忘却させる呪法を。夢魔の出来事として、記憶が曖昧に霞んでいく呪法を。未だ人間が多数のさばっているこの現状に鑑みれば、魔の王として相応しからぬ要素の全てを排除する必要があった。それは蜥蜴にとっての使命であった。至上の人間への憎悪と、至上の美貌を兼ね備えた存在を、目的を達するその日まで魔の王として祀り上げ続けること。さすれば欲望にのみ忠実な魔の群れを統率することができる。
ぐたり、と地に伏したルスカを部下に抱えさせ、「邪魔をしおって」、と蜥蜴が忌々しく嘯いたその時、しかし魔王の長年の病が消えていることに気付いてさすがの蜥蜴も瞠目した。そして口を大きく広げて笑った。これで、まだ魔の王として君臨させ続けることができる。壊れぬ玩具はないけれど、幾分の時間を永らえさせた偉業に鑑み、蜥蜴は娘を追わせ殺害する指示を止めた。
ルスカは暫くの後、己が寝台で目覚めた。ついぞ感じたことのない暖かな記憶が彼の心を照らしていたので、特別の夢を見ていたことはすぐに解った。夢なんぞはついぞ見たことは無かったのに。ましてや幸福の夢であるなど、かつて無いことであったのに。
ルスカはその直後、息が止まる程に驚いた。胸の痛みが消えていることに気付いて。生まれて以来一時も離れることの無かった痛みである。それでいて他の何者にも漏らしてはならぬもの。そのために、魔軍の誰かしらの手によって日々生産され寝所に届けられる薬剤を服用し続けてきた。出征の折にはそれによって痛苦を僅かに忘却し、人共を陣滅させてきた。殺戮の間病が身を突き破らんとしても、配下の前では気を保ち続け眉一つ変えること無く。しかし帰還すればいつも数日は痛みに伏し……。
暫くの間ルスカは欣喜するよりも胸を検め茫然としていた。この甚大なる変化を齎した次第を辿るべく、夢中の出来事を思い出そうと試みた。これは間違い無く、己が人生を変革させる出来事の一つであるに相違なかった。
ルスカは金の眸で闇の一点を凝視し続けた。これは呪術の鍛錬と酷似していた。呪法は、現実の能力と獲得を願う幻惑の能力とを、少しずつ結び付けて得られる。それは一本の髪を、更に二つに引き裂く程の丹念さでもって行われる。そして記憶の一つ一つを半刻でもよい、ただし確実に過去のそれと繋ぎ合わせること。ルスカは類稀なる集中力でもってそれを試みた。
しかし呪法の会得とは異なり、何も見えてはこない。ルスカは訝った。自らの呪法には、剣技程では無いにしろ、自信があった。何せ、自らの育ての親は稀代の魔術師なのであるから。その親でさえ、炎と氷と、それから風、雷という多様な対象を操れるのは例を見ぬことと賛美していた。だから記憶を辿ることがこんなにも困難を生じさせるとは考え難いことであった。ルスカは、何者かによって胸中に鍵をかけられているような、妙な違和感を覚え始めた。そしてそのようなことを行えるのは、ただ一人しかいないということに気が付いた。正にその育ての親である、ガイーナーザル。
己に気付かせぬよう呪法をかけられるという点においてもそうであるが、この室の扉を空け、入室できるのは、ガイーナーザルのみ。ルスカはそこに漸く思い当たって、益々真剣に記憶の糸を辿り始めた。何かに付けて近頃はガイーナーザルに対し、妙な反抗心が頭を擡げてくる。人間殺戮の作戦一つを取ってもそうである。身を案じ、根城に留まることを進言するガイーナーザルに対し、先頭に立つのは己以外にあってはならぬと、作戦を一掃してやったこともある。
ルスカは半ば意地になって、益々記憶の深奥へと歩みを進めさせた。遅々としてでも、一歩、一歩。油断をすれば最早其その入口さえ見失う。慎重に。大空を一面に覆う雷雲を呼び出す程の力をもって。汗が滲み、蟀谷が震えた。そして漸く、ルスカは到達した。
誰も入ることの叶わぬこの部屋に、惨殺された筈の母親が来たこと。否、母親ではなかった。母親と同じ顔をしてはいたが、その者の名は、「サーシャ」。「サーシャ」が己が長年得ていた痛みを呪術によって消滅せしめた。そしてここから逃がそうと試みた。漸く地下の世界から脱しようとしたその時、陽光に幻惑され、躊躇したところをガイーナーザルに留められた。
ルスカは初めて、ガイーナーザルに羞悪の情を抱いた。それはあってはならぬことではあった。自身は魔王であり、そしてそうである以上は、私情は無用。感情は己を滅ぼし、魔軍を滅ぼす。常に己は魔の統率者としての振る舞いと、それに相応しい心構えをしなくてはならなかった。その点から言えば、ガイーナーザルの行動こそが正義である。魔王の堅牢の室にたかだか呪法を用いられる人間一人を侵入させたとなれば、魔王に対する信頼は失墜する。絶対に、知られてはならない。
しかし、ルスカはこの度ばかりは従順しく肯んずることができない心の騒動を感じていた。
――なぜであろう。己は逃げたかったのであろうか。王位も無数の配下も投げ捨てて? 全てを賭して生きてきた、その道程に疑念一つ差し挟んだことは無かった。それに今、反旗を翻そうというのか。誰とも知らぬ人間の娘の為に? 否、あれは矢張母親ではなかったのか。
ルスカは脅えた。今まで波一つ立ったことのない深き胸の奥にある湖が、突如荒波立ち、そして激しく散じるのを覚えて。




