19
水晶を眺めていた四人は息を呑んだ。
闇一色に覆われた魔の統率者としてのルスカの人生に、突如光が灯り始めたのである。――サーシャであった。
薬効が切れ、胸を掻き毟り掻き毟り、ルスカは幻惑の部屋をのたうち回っていた。血痕が散じ、床は汚れていた。このような姿は既に何度も繰り返されてはいたが、次第に悪化しているようであった。
おそらくアダリアとそう変わらぬ青年ルスカの生を、既に永過ぎるとでも断じるように、病は徐々に、しかし確実に死へと歩みを進めさせていた。ルスカにとって死は恐れるべきものでは無かったが、人間の殲滅を図ること無く、この世から去るのは耐え難かった。だからルスカは人間への憎しみを以て病の痛苦に耐え続けた。それでも意識が薄れていく段となると、秘薬を投じ、夢幻を重ねた。
ルスカが夢に見るのは父母の記憶。即ち、愛を受けたという唯一の思い出。薬を用いてそれに浸れば、痛みは次第に消えていった。そうして自分の思い描く人間滅亡までの段取りが、細やかに、歓喜以て次々に想起した。ルスカは間もなく戦の最前線に立った。その繰り返しであった。
庇護者達が与えたこれが、尋常ならざる薬だということはルスカにもとうに知れていた。即ち己が命を削る類のものであると。しかしそこに苦悩はなかった。自らの生が終わり近いものになるとすれば、その分人間の殲滅を速めればよい。ルスカはそう己を鼓舞しながら、秘薬に手を伸ばし、一層狂気的な戦へと打って出た。己が命よりも魔軍の統制、人間の殲滅こそを重んじる庇護者の思いに疑念はなかった。全てを承知して、ルスカは秘薬を幾度も飲み下し、戦を続けた。
そのすぐ近くに現れたのは、他ならぬサーシャであった。サーシャの時間の感覚は喪失していた。それよりもまざまざと脳裏に焼き付いて離れないのは、魔物に攻め入られた故郷の姿。木々は炎に燃え立ち、人々が見るも巨大な爪牙の一振りに引き裂かれた。友も、父も、母も。大好きな人たちの全てが。それらは色鮮やかに、熱風さえ伴って瞼の裏に展開されている。排除しても排除しても色濃くそれは迫り来る。
それに、耳を劈く女の悲鳴、強風と炎とが混ぜ合わさった唸りが最早「現実」と言うべき心象を創った。
実際、の音では無い筈であった。その程度の正気は未だ辛うじて、保っていた。
サーシャは周囲を見回した。ここはどこであるのか。どこに自分は連れてこられたのか。
魔物の一匹に引かれ、かつて体験したことの無い速度でここに来たことは覚えていた。その間酷い眩暈と吐き気がした。おそらく瞬時移動の呪法であろう。ということは、かなりの高度な魔術の使い手がいるということだ。しかしそれ丈の力量の持ち主がいながら、自分は殺されなかった。自分だけが、殺されなかった。
殺されればよかった、とサーシャははっきりと思う。そこには微塵の揺らぎも無く。今後、どれだけの時間を与えられたとしても、死を共有したいという思いを抱ける人々と出会えるなどと思えない。ここで生を受け、ここを世界と判じ、ここの土となるべく眠る。そう断じて疑わなかった彼の場所こそが、自分にとっての最上の死に場所だった。だのにそれは失われてしまった。永遠に。
サーシャは群れから置いていかれた鳥のように大声で泣いた。何も考えたくは無かったが、親、友人の何より尊崇すべき肉体が血と土に塗れる姿が想起され、今し方殴られたかのように痛烈に頭が痛んだ。自分を取り巻く全てに対する怒りで、サーシャは血が滲むまで拳を地面に叩き付け続けた。
それも落ち着き、やがて啜り上げる音だけに変わる頃、サーシャはここがそれ程広くは無い、限られた場所であることを自らの血を叩く音の反響で知った。涙に滲むままそれでもじっと暗闇を見遣ると、四面が土と木の根に囲われていることが分かった。鱗めいた樹皮、そしてその合間から伝い落ちる金色の粘り強い樹液。巨大に過ぎるが、これはかつて故郷を包み込むようにしていた森にも自生していた、ユンディロの樹であるに違いなかった。暑さに弱いユンディロが自生できる地域は限られている。つまりここは故郷に近いか、同様の寒帯の地域であるということ。サーシャは埋められることの無い郷愁の念が押し寄せるのを感じ、再び声を震わせた。
サーシャは泣き、時には喚き、それに疲れて眠りに就いては、微睡み起きるを幾度と無く繰り返した。ここに連れて来られ未だ半日程度しか経たぬようにも思えたし、一月も経ったかにも思えた。全く時間の見当は付かなかった。それは己の受けた衝撃のためなのか、この魔物の城のためなのかはわからない。だがそうこうしている内に、サーシャの体力も回復を見せた。それとともに少々冷静を取り戻した感覚を頼りに、サーシャは闇の観察を行った。
どうやらここは魔物の巣窟であるらしかった。人間とは異なる、屈強な荒ぶる生命体の気配が濃厚にしたから。攻撃性のみを増幅させた生物、それから邪法を用いる奸智に長けた忌々しき存在。それらは殆ど際限無く無数に居たし、どこからか遣っても来た。その中には自分と同じような、魔物のそれとは完全に異なる、僅かな力量しか持たぬ存在の気配も感じ取れた。おそらく自分と同じように(希少な力を有するが故に?)何処ぞより連れて来られ、閉じ込められているのであろう。どうして殺さず、連れて来たのか。ふとサーシャは訝った。魔物の治療にでも当たらせる心算か、それとも魔軍の今後でも予知させるか、サーシャは他人事のように思った。
サーシャは誰に教わったのでも無く、物心付く頃より予知や治癒を行うことができた。天候を言い当て、病気を治す行為は、村人たちに心から感謝されたものだ。それは村の誰人にも、また、時折訪れる旅人にも無い能力であったから。そればかりか、噂を聞き及び遥々遠くからやってくる者もあった事態に鑑みるに、おそらく人間にとって稀な能力であったのに相違ないと、サーシャは幼心にも気づいていた。親も友人も、周囲の人間達は決してそれを広く知らしめようとは思ってはいなかったし、それに依って特別視された例も無い。だからサーシャは一つの個性、としか己が能力を認識しなかった。だが、魔物はそれを察知し、我が物としようと企んだのであるのではないか。だから、生かされ、ここに連れて来られた。
それにもしかしたら――。サーシャは絶望の壁に突き当たって、顔を歪めた。
こんなにも小さく、財もない人も少ない村が消滅したのは、あくまで二次的な結果に過ぎないのであって、奴等の目的は、魔物の襲来に聖堂の奥に身を潜めていた自分だけだったのではないか。無論それは単なる一つの可能性に過ぎなかったけれども。だとすれば、喜んで一人ここへ来たのに。何も、村人全員を殺害し、村全てを焼き払う必要は無かったのに。
サーシャは、それを否定してくれる存在が、最早地上の何処からも消えてしまったことに呻き声を上げた。慰めて欲しかった。否、叱咤でもよかった。唯、傍に、寄り添って欲しかった。
いつからであろう。サーシャを取り囲む闇に魔物が来るようになったのは。人間に近しい容貌持つ魔物が、それでも精一杯趣向を凝らしたであろう食事を運んでくる。サーシャが落ち着いた折を見計らって。だから感情を読み取る能力はあるのであろう。サーシャは投げやりな目線を、それに投げ掛けた。どうでも、よかった。今から自分が魔物の餌になろうとも。
ふと目に入った金の縁に繊細な彫刻の入った皿は、何処ぞの王宮からでも奪われてきたものだろうか。多数の命と引き換えに。
サーシャの心にはそんな寂寞とした思いが生じるだけで、目前の魔物に対する恐怖も怨恨も不思議と沸き起こってはこなかった。だから魔物に成されるがまま食事を採った。樹皮そっくりの膚持つ魔物は、背に生えた大きな翼を小刻みに震わしながら、サーシャの唇に浅いスープ入りの皿を不器用そうに注ぎ入れた。あたかもここから食物を摂取するのだと、今し方聞き齧りましたとでも言うように。
ある時運ばれてきたのは、香辛料の効いた肉入りのスープであった。不思議とそれは母の味と変わらなかった。味覚を覗く能力者でもいるのだろうか。その懐かしさに、サーシャは、吐いた。
魔物は、吐き出されてもめげずにスープを流し終えるとそのまま羽をばたつかせて、飛び上がったかと思うと、消えた。皿は置き去りにされた。それはサーシャの悲しみに怒りによって投げつけられ、部屋の端に寂しく転がった。
そんな事が何度か続いた。
「自身のせいで故郷が壊滅させられた。」その思いが始終サーシャの胸を強く刺した。サーシャは妄想の罪に苛まれた。だから誰かに必要とされたかった。誰かに存在を肯定して欲しかった。幾度とも無く恐怖し、泣き叫んだ後、一つの境地に達した。
「とりあえず、ここを脱しなければならない。」
甚大な罪を負ったのであれば、それだけの人を救わなければならない。――それは今のサーシャにとっては、痛みを紛らわす為の対処療法的な発想ではあったけれども、生き延びるためには必須の思考であった。しかしここに居れば、おそらくは操り人形の如くに、能力を魔物の為に利用されるに相違ない。今の居所も自分を攫った魔物の目的も相変わらず解らなかったが、それだけは確実なものに思われた。
サーシャは己が牢獄の奥壁、古くも逞しい大樹の根に己の思いを伝えた。ここを一刻も早く出なければならないこと。そして人間を救わなければならないこと。懐かしき父も言っていた。人間は人間を救うことでのみ存在価値があるのだと。貴賎ではない。いかに貧しくとも、弱者に寄り添う人間となれ、と……。
サーシャはその声音さえもはっきりと思い出し、呻きながら、目を瞑り、静かに絡み合う根に掌を当て対話を始めた。ぼんやりと温かな光が宿り、根は応える。堅牢であるかに見えた根と根の間に、意味ありげな小さな空間が生じた。初めは見間違いかと思った。しかしやがてそれは人一人が通れるくらいの穴となり、サーシャを招き入れる形となった。サーシャはそこへと身を躍らせると、這い蹲って奥へと進んだ。サーシャを招き入れた穴はやがて音もなく閉じた。
曲がりくねった暗い穴を進むサーシャの耳朶に、僅かな気配が掠めた。時に消え入りそうになるそれを集中して感受すると、暗い絶望と殆んど身と一体となった深い病の気配がした。
サーシャは咄嗟に、その者を救わなければならないと決意した。それは何より自分の為であった。故郷を殺戮せしめた、罪深き自分がこの世に生きていく為に。あまりに相応しい苦悩だと思われた。ついぞ感じ取ったことの無い深き苦悩と絶望、痛苦に見舞われたそれは。誰にも手柄を譲りたくないとの一念で、粘って濃い、闇の気配へと力の限り這い続けた。濃厚となる、信じ難いまでの痛み。あまりの苦境に、狂っているやもしれなかった。その精神の危うさ、生を受けて一度も浮かび上がったことの無い暗さ。生きる糧を得た随喜は、ふと助けようが無いやもしれぬとの躊躇を生じさせた。しかし、そうであるとしてもせめて、その病だけは、身体的な苦しみだけは、取り除きたい。取り除かねば、ならない。サーシャは燃え上がるような決意を胸に、尚進んだ。