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ファナンは果たして自分に呪術師としての才があるのか、呪術師としての人生を歩むことが真に理に叶っているのか、解らなかった。英雄の一人となりて、世界を救うた者よと賛美の声を浴びせられても、感激の涙を手の甲に擦り付けられても、尚。そればかりか、間を滅し、いよいよ冷静になってみると己が人生を顧みて、他の選択肢が無かったから、ここに在るのだという至極消極的な己が生に気付かされるのである。ただ、眼前の人間を救うための技術を磨いてきた。得意を覚えるものはあった。たとえば骨と肉との双方を同時に修復する方法、破れた皮膚と皮膚とを早急に接続させる方法。しかしそれはファナンの力のみで可能とするというよりは、本人の快癒への希求を前提とし、利用したものであった。
だからファナンにとってルスカの病は、己の疑念を一層強化させることとなった。ルスカの血が成す病は、自ら捨てたいと願うものでは無い。そればかりか償いの為と痛苦も厭わず。むしろ自ら臨み。
それにどう対処すればいいのか。何れにしろ、治療そのものがルスカの存在を否定することとなる。ファナンは一人混迷の海に投げ出された。
旅を終え、ルスカを探し当て、早一月が過ぎようとしていた。
僅か数月前の出来事が、歴史の一端として述べられることに、ファナンは違和感を覚えることも殆ど無くなっていた。それは賛美される側とは一切無縁の、民が欲する、民の為の英雄譚であったから。だからその正誤にも関心は無くなっていたし、それよりも目前のルスカの病の方が遥かにファナンにとっては重大であった。
――残すは神の血か魔の血か。まだ結論は出ていなかった。
意識も無いルスカに選択を迫ることは到底出来ず、ルスカの心嚢を覗き見るのには躊躇いがあった。
かつて育ての親である老師は幾度も説き聞かせたものだった。
呪術師たる者、己の益の為には指一本とて動かしてはならぬと。それは必ず、病有する人の益になるものでは無ければ、ならぬと。
ルスカの意識を取り戻したい。ルスカの病を治したい。そう、切に思う。
しかしそれは何よりも罪を償いたがっているルスカにとって、欲するところとなっていないことは明白であった。
ルスカを治癒したいとの思いは、いわば単なる利己心の発露。老師が生きていたならば必ずや止めるに相違無い。厚く、皴寄りて固くなった掌を我が手の甲に置き、低く諭すように云うであろう。「止めなさい、ファナン。呪術師は生を支援する影の存在なのだからね。司ろうとするのは、傲慢だよ。」と。
しかし今――、ファナンの胸中にはその傲慢さが確実に頭をもたげてきた。我々は英雄として万民の生命を救った。万民に心嚢から湧き上がる喜びを与えた。だのにかくばかりの利己心さえ許されぬのか、と――。
その時、ファナンは自分の中に、何か大切な思考の筋道がふっつりと途絶えたのを感じた。人はそれを解放ないし自立、あるいは成長と名付けるかもしれないが、老婆の教えを、――それも命を削ってまで説いた老婆の教えを蔑ろにするという意味合いにおいては、反逆とも位置付けられるべきものであった。
ルスカも反逆した。
そして人を救った。
では、何を惑うことがあろうか。
今、ファナンの最大の目的は、ルスカを魔として生きさせることの確信を得ること、それだけであった。アダリアもリスティンも、そしてディノルタも、ファナンの唇が呪法を紡ぎ、ルスカの過去を掌中の水晶が映し出すのを無言で、しかしひたぶるに待っていた。
それは、古来話すことのできない病人を相手にする際、または行き倒れ意識を失ったけが人を相手にする際、その者の良心に依拠した形で初めて使用の許される、秘儀である。
ファナンはかつて師匠より聞いた通りの手順を踏んで、遂にこの場に臨んだ。己が身を清め三日の間食を断ち、言葉を断ち、土、火、水、あらゆる精霊の補助を受けながら、完全なる球体した水晶に祈りを込める。眠るルスカの頭上でそれは始められた。
水晶は語り始める。
闇に濡れていた水晶が朧気ながら映し出したのは、緑溢れる木々であった。ルスカの記憶として想定していたものとは完全に異なるその様相に、ファナンを含め四人は驚いた。陽の光が幾重にも重なった葉を通し、円く絢かに黒々と湿った地を照らし出す。永久にも近い年月を同じように繰り返し繰り返し生きてきた深遠なる森。どこにあるかはわからない。ただあらゆる生物にとって、痛切なまでに懐かしい匂いがした。
そこに小さな丸太小屋があった。人一人が季節の移り変わらぬ間に、狩りか何かのために仮初の宿として住まうような、小さなそれである。ふとそこに新たな影が生じた。屈強な肉体をした若い男と、ほっそりとした体つきの、――天上界で狂気に陥っていた、あの娘であった。
男は森で狩りを行い、食べられる草や木の実、また娘を飾るための花を摘み帰った。時に迷い込んだ旅人を襲って金を得、街へ森では得られぬあれこれを求めに行くこともあった。
娘の腕には、小さな赤子が抱かれていた。若すぎる母、であった。男の生活の全てはこれを守らんが為にあった。
しかし赤子は森を射通す優しき光を身に浴びることができなかった。白子だったのである。その膚も髪も瞳も、色らしい色はなかった。そればかりか乳を含んでは吐くので、赤子らしい肉の丸みさえもなかった。赤子は小さな蝋人形のようにも見えた。だからそれは見る者にひどく不吉な感情を抱かせた。しかしこの若い夫婦にとっては、この赤子こそが無上の宝であった。己が故郷を捨ててでも守らなければならない、無二の美しき愛すべき存在であった。小屋の隙間よりうっかり差し込んだ光が赤子の膚を刺し紅く爛れさせると、若い夫婦は心より悲しんだ。
「太陽にこれ以上大切なルスカを灼かれたく、無い。闇の世界へ行きたい。」娘のような母は、眉間に皴を寄せながら云った。
「お前が天の者だと知れたら、魔物たちはお前を跡形もなく壊すだろう。」男はため息交じりに答えた。「ええ、知れたこと。でも地上ではこの子が灼かれてしまう。あの憎い太陽に。それに人間は魔を憎みまする。貴方も、貴方の血を受けしこの子も。存在が知らるれば、迷いなく殺されてしまうでしょう。だとすれば、」赤子の頬は肉が露出し膿を爛れさせていた。母はああ、とばかり低く呻いて赤子の額に荒々しく接吻した。「どうか貴男の故郷に。私はルスカさえ無事に育つのであれば、この身壊されても構いませぬ。ここにいてもいつ人間に壊されるかもしれぬ身。三界に安住出来る居場所さえ無いとは。」娘らしい激情を迸らせながら、母、は更なる高みを見透かしているかのように、木の幹の剥き出しになった天井を眺めた。それが零れる涙を寸でのところで止める為の所作と気付いて、男は堪らずその逞しい腕で母と子とを大きく抱いた。「その願い叶えたくとも、追放されしこの身では。」男は昨今急に節くれ出した手を見つめる。魔軍の一人として剣を揮っていた際とは大きく変化した掌を、しかし男は誇らしく思った。「もう少しこの子の身が大きゅうなったなら、……大きゅうなったなら」男は夢の中のように呟いた。「罪深き我々の命を引き換えに、この子を地下世界へ送ろう。それまでの辛抱だ。」
夫婦の絶望と幸福の丹念に織り交ぜられた生活は、その見事なまでの完璧な混じり具合によって、若い夫婦をわずか二、三年の内に、世界に他者の一人も存在しないかのような絶対的に強固な絆を得させたが、その後呆気なく幕を下ろされることとなった。
兼ねてより母が予感していた如く、人間の襲撃を受けたのである。