15
ルスカの母の術によって力を得たアダリアが、長旅により疲弊し滞る思考によって度々逢着するのは、いかにしてこの争いが終結するのだろうかという、根源的な疑念であった。
いわば、知らぬ間に生じた争いを止める為、更なる争いを一任されたも同義である。これが正しいのか誤っているのか、アダリアはそんなこともわからなかった。考えようともしなかった。ただ、その運命の無責任さに対する憤りが疲弊と一緒に湧き出てくる時、我ながら醜い感情を誰に他言するでもなかったが、争いそのものに対する無益な憎悪は、しかしルスカを見ると干潮の如く自ずと引いていくのであった。
何故なら、ルスカは魔の王であったに関わらず、今や英雄の一人として、否、英雄を牽引する類稀なる力量を有する剣士として圧倒的な強さをもって魔を屠っているのであるから。その思考、経緯、はわからない。言葉を持たぬかのように徹して何も語らぬ、不可思議な人物であった。その超克に至った経緯が明るみとなったのは、ルスカが病に伏したことに依る。
あれ程の剣術を身に付けている方が不似合いな容貌ではあった。痩せぎすな体躯に、骨そのものであるかのような無機質な白磁の膚。狼の如き金色の瞳は、感情表出の器官としての役割を完全に放棄していた。魔族の中でいかような教育が行われていたかは窺い知れない。ただし王としてそこで生育された一人の人物が、感情というものを一切持たず、それ故かあまりに孤高にあり、人間を超越する強さを持つ存在であることは確かであった。
魔の根源であるその者を駆逐すべく降り立った地底世界では、地上には見た事も無い強大で凶悪な魔物に満ちていた。その見る者全てを殲滅させるべく生を受けた彼等のとてつもない力量に、アダリアは即座に自身らの敗北を痛感した。生命体としてのこの上なくも明確な格の違いを見せ付けられて。
その時である。
地上では馬車に乗せられたぎり、死人か何かのように全く動きもしなかったルスカが、光の無い世界が余程膚に合うのか、それとも地下世界の魔物に対峙するアダリアの剣技をあまりに心許無く感じたか、夢遊病者の如くふらりと馬車から降り立ったかと思うと、興味深げに周囲をゆっくりと見回したのだった。そこに飛び掛からんとする魔物の爪牙の輝きを見て、「危ない」とアダリアは絶叫したような、気がする。
しかしルスカは何も耳に入らぬかのように、うっとりと今度は上を眺めた。身を腐らせる太陽も月も無い。唯無も有も無く暗澹たる闇の広がるその場所を目一杯味わうかの如く、懐かしげに、嬉しげに、目を細めた。それを眺めるアダリアは思わず、弛緩した。
そしてルスカは腰に下げた、細かな彫刻の施された黄金の細い鞘から、もっと輝く剣をさらりと抜き払った。時が遅々と流れ出す、格別の優雅さをもって。アダリアは自分が死と隣り合わせになっている現実を忘れ、長い息を吐いた。
次の瞬間である。
美しき舞姫は世界を支配した。完全に無駄のない、そして絶対的な力でもって。ルスカは微笑みさえ浮かべているのではないかとアダリアには思えた。これは死闘などではなく、芸術である、美であると、そう確信された。仲間たちは鳴ってもいない音楽に魅了されるかの如く、茫然と立ち尽くした。
気が付くと、ルスカの周りにはその華奢な体躯の倍もあるかに思える怪物が無数に横たわっていた。ルスカは、剣先から粘る黒い体液を点々と垂らしながら、何事も無かったかのように静かに仲間達を振り返って呟いた。
「余は、魔の創造主ではない。」
それは仲間達にとってほとんど初めて聞く声であった。低くもなく、高くもなく、それは元より闇から生じ、闇に消えていくべき運命を担っているように、従順に周囲の闇へと染み入った。それは正に闇の声であった。
「地上の支配を一任されたに過ぎぬ。余を庇護し、幾多の魔物を創造したのは……」
ルスカは左腕を上げ、ひたと金色の眸を闇の中の一点へと向けた。同じ闇色のマントが翻り、内側の緋色が鮮やかに闇を切り裂いた。アダリア達には闇にしか映らぬその方向に、ルスカの金色に輝く眸には何かがはっきりと見えているのに違い無かった。
「その者は、貴方の親ではないの?」
ファナンが囁くように尋ねた。もし是と答えれば、親子間の情愛に鑑み、魔軍に世界を委ねる判断を下してしまうかのような、母の声で。
ルスカは全くの無表情でファナンを見据えた。冷風が頬を撫でる。
「貴方は、その者を殺しても、構わないの?」ファナンがゆっくりと問うた。息を呑んで返答を待つその間に、奇鳥の狂ったような鳴き声が、三つ、四つ、遠くで響き渡った。やがて、それも闇に吸い込まれた。
「行こう」アダリアは焦燥しながらそう叫んだ。「奴のところへ」己が非力さも忘れ、アダリアはルスカの指した方向を見、健康そうな歯を見せて笑った。そう、しなければならなかった。ルスカの内面は、言語化できる程に単純では無いに相違無かったから。大体、考えられぬ事態では無いか。かつて魔を司った人間が、いかなる思惑か、魔を裏切った。アダリア達の目の前で、同胞を屠ったのである。それは矛盾、というような一言で片付けられるものでは無い筈だ。
ルスカは地上とは別人のように軽やかに進み、魔物を次々に屠った。アダリアたちがその変貌を解せずに立ちすくんでいる間に、さも楽しげに、ごく自然なこととでもいうように、魔物はルスカの傍に伏していく。アダリアたちにとってみれば見たこともない敵どもが、見たこともない攻撃でもって唐突に襲い来るのである。しかしそれら全ての出方と習性を熟知しているかの如く、ルスカは舞姫の動きを以て来るもの全てを確実に、屠った。
「ねえ、ルスカ、もう体は大丈夫なの?」
リスティンは武力を発揮できる全ての機会を逃し、苛立ちと喜びとが綯交ぜとなった妙な声で、その華奢な後姿に言った。
「貴方、信じられない程、強かったのね。貴方が敵だったなんて、今考えると、心底ぞっとする。貴方の剣技、間近で見て怖くなってきたわ。最近、あんまり敵の強さに恐怖を感じたことなかったけれど。何、総大将はもっと強いわけ?」
ルスカは無言裡に、そのまま進み続けた。
リスティンはそれでも嬉しそうに笑顔で以て続ける。
「ここって、貴方の故郷か何か? だから膚に合うの?」
「……。」
「でもさあ、あんまり人の故郷を悪く言いたくはないけれど、いつまで経っても夜なのは、正直、気が滅入るわ。でも、お日様が無いってことで、貴方の体にとっては格別最適なのよね? それは本当に感謝している。貴方の力が十分に発揮できる環境だから、私達がこうして生き抜けている訳だし。でもさ、せっかくの岩山なんだし、可愛い山猫か何かがいれば、もっと本格的に言うこと無いんだけれど。」
「俺は嫌いじゃないぜ。」ディノルタが続ける。「こういう環境は、仕事がしやすい。」
「私は盗賊じゃないの。」
「そんなことはとっくに了承しているよ、お姫様。」
「何度も違うって言っているでしょ? 今は休業中なんだってば!」
リスティンの奇妙な誇りは、自らの出自が王族にありながら、それが財政難だか何だかで有名無実化しており、それ故休業ができるという訳の分からぬ点にあった。そしてそれが唯一彼女の行動を認め得る免罪符であるようだった。いわば、娘の身でありながら家を出、明日の命も知れぬ魔王討伐の旅に出ることへの。
「でもさあ、貴方よく、魔物に歯向かう気になったわよね。大した根性。」
「王族出の放蕩娘がよく言うぜ。」
「だから違うんだってば!」
ルスカはそれらの雑言が一切耳に入らぬかのように、迷い無く優雅に進んだ。アダリア達は初めこそ息も切れ切れに後に続いたが、地上に無双と謳われた武人たちのこと、数日でその速度にも慣れた。巨獣の群れにも、ルスカの屠った取り溢しを殺めていく内に、その呼吸が解されてきた。彼等は完膚なき迄に滅せられた自信を漸く回復し、互いに勇気付け合いながら尚闇の深きところへと歩みを進めた。朝も昼も無かったが、ルスカが歩みを止めた時に休み、立ち上がった時に旅を再開した。ルスカは最も適切な時機を知悉していた。そう、仲間達は確信していた。時折それが完璧に過ぎて、罠に嵌められているのではないかと訝ったこともある。しかしそれを単なる疑念から言動に移すには、あまりにも闇の世界は未知であり、不可思議に過ぎた。生まれ落ちた赤子が挙って大声で泣き喚かずにはいられないように、巨きな不安に支配されていたのである。
ただし闇の世界はアダリアたちが想像したよりも、苛酷な環境では無かった。たとえば地上の氷の大陸や砂漠の一帯を通るよりは。それに、何よりもルスカが戦える世界であることに、仲間たちは何よりも感謝の念を抱いた。