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花を摘み、菓子を摘む、まだそんな振る舞いの似合う娘であった。しかし娘は囀る友もなく、親同胞もなく、天上界で一人、孤立していた。禁忌を犯した過去の罪によって。彼女は疎まれるより避けられるより、もっと根源的な「排除」を受けていた。
彼女はかつて魔物と身を通じたことがあった。そしてその間に、子を成したことが。子はだから生まれるより早く既に決まった病を背負った。それだけならば、まだ良かった。禁忌とはいえ、まだ個の問題で終わらせることができた。二親が逃げた人間の住む地上世界においても、「排除」を受けた。二親は無残に殺害され、そして、子は魔に引っさらわれることとなった。子は人を恨んだ。ただただ、恨んだ。どこからそのような力を沸かせ得たのであろう、成体を得るより早く人類に殺戮の刃を向け、それから僅か数年で、地上は魔の圧倒的力量に依る凄惨な支配を受けることとなった。神々にとって見れば、人間は人生という名の幕間劇見せてくれる相手であったし、その内容いかんに依っては、祈りを聞き届け無くも無かった。その愚かさと儚さを以てしても、決して侮蔑の対象ではなく、もっと愉快で、愛すべき存在であった。だから神は禁忌の子を憎んだ。どうにかして、その命を絶たんとし、一人の若者にその殺戮を命じたのである。
娘は若者の手にかかってしまう前にどうにかしようと、我が子に、幾度もその行為を止めるよう天上世界から働きかけた。しかし子は最早感応出来る相手ではなかった。生きる世界が異なれど親と子である。親が神であるならば多くの場合、意思を疎通させることは可能であったはずであった。ただし、わずかなりとも他種に対する想像力ないし愛情さえ抱いていれば。だのに、子にそれはなかった。皆無、であった。
子は憑かれた如く人間を屠った。一縷の迷いも無く、最後の一人まで同じく続けるのであろうことが確信される剣の揮いで、屠り続けた。
何もかも間違いである筈だった。娘は天上より何度も声を枯らして泣き叫んだ。貴方は魔と神との混血児であるのだから、中庸の運命にあるのだと。決して魔にのみ加担してはならない。そう、訴え続けた。それしかできなかった。
娘は日に何度も何度も、雲の合間から地上へと呼び掛けた。娘は妄執狂と呼ばれ、一層隔絶して何物とも関わりを持たぬ存在となった。
やがて隔絶された部屋で、己が祈りは何一つ叶わぬと知ると、娘は激しい後悔の念と、深い同情、そして母としての子に対する愛情に身を震わせ、ただただ泣き暮らすこととなった。涙は地上へと真直ぐに下りていった。
誰でも良い。誰でも良いから、助けて下さい。我が子ルスカを止めて下さい――。
それは神が初めて人間に対して投げ掛けられた真摯なる祈りであった故に、奇跡を齎した。
娘の涙は天上よりどこまでもどこまでも真直ぐに落ち伝い、地上の或る一人の若者の額へと落ちたのである。
若者は巨大な魔物との死闘の最中にいた。
魔物は六本の脚を持ち、体は黒光りする鎧の如きものに覆われ、体躯は軽く男の十倍もあった。そしてその癖、驚くべき俊敏な動きを見せる。男の妙なる技を集結して創り出された剣も、またそれを繰り出す男自身の地上無双と謳われた剣技も中々功を成さない。
男の仲間の一人である女呪術師が何やら呪法を唱えた。見る見る空が薄黒く染まり、雷が直進に魔物へと突き刺さる。
雷電に打たれた魔物が暫し動きを止めると、それを好機とばかり男と、続いて女武道家がそれぞれの最も得意とする型を取り飛び掛った。男が僅かにではあるが傷らしきもの、をようやく与え得た。その場所に再度、執拗に刀を食い込ませる。女は鍛え上げられた拳を。
堅固な鎧を引き裂き、魔物は身に似合わぬ甲高い叫びを残して、地響きを轟かしどうと倒れた。男は揺れる大地にしっかと両脚を広げ立った。
肩を激しく上下させながら、男は呪術師に振り向き、問う。
「今力が、力が溢れた。新しい呪術?」
「否、何もしていないわ。」
男は首を傾げ、自分の手と剣とを思わず凝視した。確かに、どこからか溢れんばかりの力が吹き込まれた感覚があったのである。でなければ、あの体躯に傷を付けることなど叶わなかった。
「最後の切り込み、凄かった。」
リスティンが未だ荒い息を整えながら、アダリアに向かって満足げに微笑む。アダリアはそれに応えることも無く、呆然と遥か上空を見上げた。ファナンではないとすれば、一体誰が――。
母は贈った。我が子を止める力を。もう、ルスカが傷つけられても構わない。それで人間の殺戮を止められるのであれば。もう、これ以上罪を重ねさせたくはない。しかしそれには常人ならざる力が必須であった。これが無ければ子に対抗出来ぬ。近付けぬ。子は今や過去あらゆる生物にとって例を見ない凄まじい破壊力を手にしていた。何故ああも危険な力を身につけたか、最早神々でさえも呆れ果て、手を拱くばかり。母は必死の努力で地上で最も力ある、そして感応のし易い純粋な心を持った男を知らずの内に探し当てたのだった。
幼少時の目前での父母の惨殺、あれで子の心が微塵に壊れてしまったことは容易に推測が付いた。後、子は魔に連れられ、魔の住人となった。人間を屠る力こそが全てであると教えられ、弱体でありながら欲に塗れた人間の過ちを教えられた。
子は純粋であった。子は二親を殺した相手を憎悪し、力を得ることのみを願い、日々奮迅した。親の無い故の寂寞を、憤怒で埋めることを覚えた。
母は、どうにかルスカを止めてくれるよう若者に力を贈り続けた。焦燥に駆られ罪悪感に覆われた祈りは、叶えられたと言えるのか。
若者の刃は、ルスカの生命を奪わんとするその寸での喉元でぴたりと停止したのである。
母は驚愕した。それからやはり子の死を願うことはできなかった己の思いに気付かされ、感涙に咽んだ。若者に額づく程の感謝を覚えた。