13
アダリアが去ったその翌朝、ファナンは騒がしくもルスカの眠る小塔の鍵を開け、地下へ一直線に伸びた階段を駆け下りた。部屋の中央に置かれた寝台を見下ろし、安堵のため息を吐いた。傍で治療師がルスカの躰の上に手を翳している。ファナンは治療師に感謝の笑みを浮かべた。
ファナンは静かに階段を降りきると寝台へと歩み寄った。治療師が静々と下がる。そこには床に届く銀髪を麻糸の如く乱し眠るルスカの姿があった。ファナンは我知らず、小さな溜め息を吐いた。魔の王として君臨した経験が、生命体には似つかわしくない程の冷たさを醸しているものの、意識を失うとそれは幾分緩和され、どこか娘めいた華やかさにとって代わられるのであった。
ファナンは男の長い髪をそっと耳の脇で纏めてやると、薄く開かれた、色のない唇に耳を近づけた。微かではあるが、安定した呼吸を保っている。ファナンは一瞬泣き笑いのような顔をした。
しかしすぐに頬を固くする。つい先だって発見された、治療方法を思い起こして。それは治療師としての己が役割を遥かに超えた選択を要した。治療に何の手立ても無い状況よりも、一種一層の苦悩を与えられたと言って良い。しかもその発見は奇跡的でさえあった。リスティンの城にある無数の書の中から探し当てた、というのは当然のことながら、呪術に関連したものでは無く、歴史書の中に見出されたものであったのだから。
かつて魔と神とが住居においても思想においても何ら分かつことなく融合し生きていた時代、戯れとして神が人間を創造するよりも、言葉が紡がれるよりも、遥かに昔。何れの時代にもあるように、心がじわりと侵食され堕すその時、とある病が流行った。原因は知れない。ただ、若者が苦しみ抜き次々に死んでいく。意識を混濁させ、胸を掻き毟りながら、血を吐き、あたうる限りの恐怖と苦しみとを見せつけながら、死んでいくのである。
病など一切縁したことの無かった神々と魔物たちは、ずぶりと冷水被された程の恐怖を覚えた。
そしてもったいなくも次から次へ、千人もの若者の命が絶たれた時、忙しく死者の魂を整理していた賢者の一人が、とあることに気付いた。病で死ぬ若者は必ず神と魔との両方の血を併せ持っているということに。ある者は母を神とし、父を魔とした。またある者はその逆。そしてある者は父母は神であったが、二代遡るとそこには魔の存在があった。神と魔の混交は当時として非難されるものでは無く、何の障害もなく行われていた。元々似た性質を持つ種族だったことも影響していたのかもしれない。二者の相違は単なる趣向の問題にも思われた。神は光を好み、魔は闇を好む。そしてそこに優劣は無い。
賢者は自らの発見を神と魔の王に報告した。報告は即座に受け入れられた。何故なら、いかなることにでも縋らなくては統制が困難となる程に、恐怖が強く蔓延っていた為である。この病による恐怖は、二つの世界を崩壊さす寸前にまで来ていた。
神と魔の住居は即座に隔てられた。今後一切の交流を断つが為、それぞれ世界の両端に。即ち神は天上に。魔は地下深くに。
病は、消えた――。
賢者には神と魔の双方より山程の褒賞が贈られ、真の意味において賢者となった。賢者は自らの賛美を永久のものとすべく、最後の仕事を行った。神と魔が今後必ずや交わることのないよう、お互いを憎悪し合う心を贈ったのである。それは数千年後、数万年後までも朽ちることの無い、正に偉業であった。
ファナンは古くからの書物を無数に蓄えるリスティンの城内で、その記述を辿った際、即座に恐懼して近くに居る筈のリスティンを呼ばわった。リスティンには、歴史だのは分からない。ただしそこに描かれる伝承を聞くにつれ、天上で泣いていた美しい娘の姿が鮮やかに想起された。
ルスカの母親である。あれは、稚拙な文言で、己が非難されるべき道を歩んだことを頻りに訴えていた。その時はよく考えもしなかったけれども、あれは自分の過ちを訴えていたのではなかったか。ルスカの父君はおそらく魔族である。旅の最後、魔王の根城でルスカが裏切り者として糾弾されたことは、はっきりと覚えている。ルスカは魔と神との混血児であるに相違ない。
だとすれば――。ファナンの治療は自ずと定まった。一方の血を滅すること。滅するべきは何れの血か。それは誰が決するのか。更に己の半分を滅せば、その拠所たるべき記憶も、喪失することとなる。意識の無いルスカに対し、そこまでの権限を誰が持てるというのか。
想定さえしていなかった事態に混乱を覚えながら、それでもファナンはリスティンと共に即座にルスカの元へと馬を走らせた。胸には古びた歴史書が一冊。耐え難い程に重苦しい思いを抱えながら。
不眠と苦悩とに苛まれながら、病に伏すルスカの姿を凝視する。白き膚、金と銀の眼、天界で逢いし母親の相貌をそっくりと受け継いでいる。しかしその内実は、無数の人間を殺戮し、光を浴びれば即ち肌を灼き爛れさすという完膚無きまでの魔。
ファナンはそっと目前の陶器の如き頬に触れた。
ルスカを、己が命を懸けて滅したその魔に、再び帰そうというのか。否、そんなことはどうでもよい。両者の血を併せ持ち、誰よりも気高く、誰よりも強く、誰よりも繊弱だったルスカが消えてしまうことが問題なのだ。そして共に旅をした思い出さえも。歴史で消され、当の本人の記憶からも消されたならば……。
耐え難き重圧から逃れる様にファナンはとりあえず今まで通りの対処療法を治療師に命じ、地上へと出た。既に旭日が昇り、ルスカを包むことの無い朝の金色の光が、眩いばかりに全ての地上物を照らしていた。思わずファナンは、溜息を吐く。
ファナンは、かつて芽生えたことの無い闇を胸中に留まらせることとなった。だから名付けるには、暫しの逡巡が必要であった。これほどに治療に全てを賭して生きてきたというに、人一人救えぬという無力感、そして狂的なまでの庇護欲。ファナンはその場にしゃがみ込んだ。どうすればよいのか、わからなかった。そんな時にいつも近くにいてくれたのは――アダリアだった。だからファナンはふらふらとそのままアダリアの部屋へと赴いた。王の間と名付けられたその重厚に過ぎる扉を開けるや否や、ファナンはほとんど吐き出すように言った。
「アダリア、ルスカは魔であるの神であるの。」
アダリアは、書類に判を押し続けていたその手を、びくりとさせて止めた。振り返った先のファナンの様が余りに苦し気で、アダリアは暫し言葉を喪った。
「何故。」
「何れかの血を滅さなければ、ルスカは、死ぬ。」ファナンは残酷な答えに再度恐怖して、顔を蒼褪めさせた。「神と魔の混血児こそが、死に至る病を得る。だから、何れかを滅せることが出来れば、ルスカはきっと助かる。それ以外に術は、もう……。」
「それで、生きられるのか。」
アダリアの声にはファナンの如き混迷は無かった。そればかりか、否応無しに歓喜に震えていた。友の命が助かるやもしれぬという事態が、アダリアの全ての観念を新たにした。重々しい王の印がアダリアの手からごとりと鈍い音を立てて落ち、転がった。
「ルスカは、魔だ。」意気揚々とアダリアは言い放った。
ファナンは眼を見開く。
「魔だからこそ、我々と邂逅した。神など、ルスカに贖罪という名の痛苦を与え、死をも与えんとする奴等ではないか。神などでは無い。」
結局のところ、私怨であるに関わらずここまで断言できるアダリアの姿に、ファナンは瞠目した。己はどうしたって決断が出来なかった。それに比べ、アダリアは正に英雄なのだとこの瞬間確信させられた。ファナンがそれで思わず沈黙したことをアダリアは惑いと取ったのかもしれない。
「不安であればルスカの過去を覗けばよい。あいつがどう生きてきたか。」
「過去を、……覗く?」
その時、声も掛けずに扉を開けたのはリスティンだった。「ああ、やっぱりこっちにいたのね。」
「……確かに。」ファナンはしかし顧みることなく、呆然と呟いた。「覗く術は、ある。」
「神なんて、ルスカを苛めて悦に入っているだけだ。俺達の」少し言葉を探す。「敵だ。」
「あら、物騒な話ね。」と言いつつ、リスティンの頬には否応なしに笑みが広がっていった。
「まあ、十中八九は魔だよ、あいつは。神なんかじゃあない。だから神々だって、あいつを敵視してるんじゃあないか。」
しかし、いざそれを実行する前に、あらゆる可能性を考えておかねばならない。ファナンは重い口を開いた。「母親は何て云うかしら。自らの血が絶たれてしまうことについて。」
「何にも云わないんじゃない。」音程さえ付けながら、リスティンはそうあっけらかんと云ってのけた。「だってあの子だって、神から排除されていたじゃない。ルスカにも逢えず、閉じ込められて。きっと神なんて嫌い、という一人だわ。私達と一緒よ。それよりルスカを生かすことの方が遥かに重要。こんな酷い人生で、終わらせちゃいけない。」
ファナンの胸中に一つの姿が浮かび上がった。あの娘。サーシャに酷似した、ルスカの母の姿を。