12
アダリアは一人寝室で豪奢な天井画を見上げていた。人と神々との邂逅を描いた画を目で追いながら、サーシャとの間にいつから超えようのない確執が生じてしまったかに思いを馳せた。幼い頃より、仲違い一つしたことは無かった筈なのに、ルスカを城内に運び込んで以来数日間、巧妙に避けられ顔を合わせることも無い。
リスティンの言う通りである。サーシャはルスカの到来を知り、殺意に近い憎悪を抱いているに相違無い。途方も知れない怒りをも秘めていよう。しかし、それは果たしてルスカに対してだけであろうか、そうは思われない。裏切者の自分に対し。それを取り巻く仲間たちに対しても。
かつて旅先でサーシャと邂逅した矢先、荷車に眠るルスカの姿を見、殆ど狂乱しながら、サーシャは激しく己を罵り激昂した。父母が、友が、親しい人々が、いかに残忍な殺され方をしたか。緑溢れる美しい故郷が、如何に容赦無く破壊し尽くされたか。それは聞くも辛いことではあった。悲しみさえ覚えた。だのに、なぜ己はそれをルスカへの怒りへと接続しなかったのであろう。アダリアは我ながら不思議に思う。
サーシャの言を借りるならば己は故郷を裏切り、人間を裏切っている。それに対し一応、罪悪感も覚えてはいる。だのに何故それがルスカへの親愛には勝らぬのであろう。過酷な旅で精神に欠陥を生じさせたのであろうか。旅立つ前の自分であるならば、確実に憤怒を滾らせたであろうことに鑑みるに、アダリアは自身がわからなくさえなってきた。
アダリアは外気を浴びようと溜息交じりに王室を出た。歩は自ずとルスカの元へと進む。
乾いた足音を立てながら、地下室へと降りる。ファナンに言われたように、扉を三重に設え、国一番の職人が作り上げた錠前を扉一枚一枚に括り付けた。呪術師達は白子の治療を命ぜられ、何を思うのだろう。王の命により突如この城に住まうこととなった彼等は、その優れた技量によってファナンの信頼を瞬時に得た。そしてかつてのファナンと同じように感情を決して表にしなかった。あたかもそんなものは端から存在さえしない、とでも言うように。頭巾の奥深くに潜むその眼差しは常に冷静そのものであり、アダリアが少々苦手を感ずるものでもあった。
アダリアがルスカの眠る階下へと降りていくと、二人の治療師がルスカのそれぞれ左右に位置し、呪法を唱えたり、また、手を翳して光を生じさせている最中であった。彼らはアダリアに気付くと小さく頭を下げ、再び治療に専念し出した。
アダリアはぼんやりとその様を眺めていた。
空気孔として設えられた小さな天窓からは冴え冴えとした月光が覗いたが、寝台にその光は落ちることは無かった。――全てはファナンの配慮である。彼女は寝台の位置から高さ、全てにおいて口を出した。無論それには感謝している。しかしその様は、異様と言わざるを得なかった。今まで表出してこなかった感情を剥き出しにして、ルスカを取り巻く全ての環境を整え、対峙してきた。――なぜ彼女は変わったろう。アダリアにはわからない。たしかに環境は激変した。我々は一旅人ではない。魔を滅した英雄よと称えられ賛美される存在へとなり、そして、巨きな秘密を抱えた。誰にも知られてはならない、知られたら秩序が崩壊するとも思われる、巨きな秘密を。それでファナンの心中に何らかの変化が訪れたのであろうか。治療師としての在り方にも関わるものである故に、口には出してこなかったが、今度リスティンにでも相談をしてみようとアダリアは思った。
呪術師の一人が下す呪法によって、ほんのりとルスカの躰には光が宿り始める。
ルスカは闇の中で静かなる眠りに就いていた。ルスカをここに運び入れて以来、常にここにはファナンが張り付いていた。食事の為にリスティンが無理矢理に連れ出す以外は。執念、そんな言葉が想起される様であった。
それと同時にアダリアは己の旅の記憶が、この上なくも遠くへ隔たっていくのを感じた。あの旅は、ファナンが冷静沈着であったからこそ紡がれた物語であった。彼女以外の三人が感情に溺れそうになる時、いつだってファナンが救ってきたのだ。体の傷も、心の暴走も全て。感情に思考に流されれば、それは必ず剣技に現れ、己を破滅へと導いたことであろう。それをファナンが押し留めてくれた。時には叱咤し、時には他愛のない話をしながら。
それだけファナンは感情を表出しなかった。なぜなら彼女は生まれもっての治療師であったから。命にかかわる治療の際に、感情が指先を震わせば取り返しのつかない失態を犯すこととなる。それは育ての老師によって厭という程に叩き込まれた教えであると言う。だからファナンは常に冷静であったし、そうあろうと平生より自ら制御している節もしばしば見受けられた。
そんなファナンが焦燥と苛立ちに襲われたのは、天上界よりルスカが消えたことがわかった、あの瞬間であった。即座に戻った地上で待ち構えるは水色に輝き亘る、城と無数の使用人。そしてそこを取り囲むようにして創造された麗しき街並。あれを果たしてファナンは目にしていたんであろうか。おそらくは、――否。押し寄せる歓待もろくに受け入れず、ファナンは独自の方途を用いてルスカを探し求め始めた。賛辞に笑みを浮かべるアダリアを時折軽侮の眼差しで眺めながら……。
それよりも、生き延びることのできた世界各国の呪術師や薬師、治療師といったかつての同胞に隈なく書を認めるファナンの眼は狂おしく血走って、唇は渇いて割れていた。食べる物も食べず、それよりは伝令を遣わした鳥の帰りを、見えぬ筈の闇夜を何時までも見上げながら待ち続けていることもあった。アダリアは流石に訝った。これらの必死な行動は、ファナンの感情表現と言えるのではないか、と。無論旅中でもファナンは懸命に敵と戦い、治療に励んだ。しかしそれは自分の成せる範囲で成すべき事柄を成す、との使命感に立脚したものであった。だから常に冷静であったし、己が思いを露呈さす真似はしなかった。
ルスカの居所を掴んだのは、いわば、そんな執念の結実、であった。
そこでアダリアはふと思い至った。ファナンの愛に。にわかには信じ難いことではあったが。
目の前の意識の戻らぬルスカは、見る者の心を凍らせんばかりの冷たい美しさを放っていた。神、というよりはやはり魔が丹精込めて作り出した芸術品であるかのように思われた。アダリアはその様を眺めながら、己とルスカとの間にある絶対的な隔絶を感じざるを得なかった。ルスカが何を思い、何を夢に見ているのか、掴みどころさえ無い。――いつか邂逅できる日が来るのであろうか。だとするならば、どうやって、いつ……。
「治療を、頼みます。」治療師に懇願するような声を絞り出すと、アダリアはそそくさとその場を離れた。