10
夜分到着した城の正門を開け放つことは出来かった。何故にか。その答はアダリアの胸中にのみ秘められた。逡巡があった。
闇の中にも輝きわたる瑠璃色の城を見た時、それを誰かに受け渡すことを口惜しく思ったのだろうか。それとも無数の宝物と共に王としての役割を付与した神々への配慮が生じたのだろうか。
アダリアは自らの指示で城の西門を開けさせると、西の塔の地下へとルスカを運び入れた。それはルスカがその体質故、日の光を浴びることが危険な為であったが、無論それは表向きの理由に過ぎない。アダリアは自らの矛盾に吐き気を覚えながら、結局出来るだけ表向きの事由のみを考えるよう努めた。胸元の王の徴がいやに輝きわたる。
「もうこれで、生きているのか死んでいるのか、無事なのかそうでは無いのかと胸を痛ませずに済むわ。」
ルスカの病床を整えている最中、ファナンはやたら多弁であった。このような彼女をかつてアダリアは見たことが無かった。アダリアは多少の不審を込めてファナンを見据えた。
「そうだな。」
アダリアはルスカの痩せて落ち窪んだ眼窩を、右頬に走る大きな傷跡を、それから布に覆われた折れた腕と、無数の傷のある体躯とを、静かに見下ろした。
今ルスカは何を思うのか、何故償いを、己に肉体的痛苦を与えることと同一視したか、それをどう語れば改めてくれるのか、アダリアは何もルスカを説得し得る言葉を持ち得ていないことに今更ながら気付かされ、唖然とした。ルスカが何を考え、何を重んじ、何を信ずるのか、何も知らないことに。ルスカは旅の間、何も語らなかった。言葉を持っていないように思われた。そのぐらい、ルスカは何も語ろうとはしなかった。だからアダリアはルスカがどんな思考を有するのかも知らない。そのような状況において、どうすればルスカの罪に対する思考を一掃出来るのか。予想だにできなかった。神々の甘言をいとも容易く拒絶した、その言の裏にはどのような思いがあったのか、何も知らないのである。
「意識が戻って、……普通に生きられれば。」ファナンはそう発して初めて、それが夢物語であることに思い至った。ルスカの普通とは何であるか。人間を殺戮し続けることではないのか。そうやって、生きてきた。または、魔の統率者として人に、神に、刃を向け続けることでは。果たしてルスカにそれ以外の生の時間などが存在したのであろうか。ファナンは行き詰って言葉を飲み込んだ。
同様の事柄に誰もが思い至って、仲間達は全員黙した。
遂にアダリアはうかと首肯できない己に憤って、代わりに「おれは王を辞める。」と、言い放った。
「そうよ。誰かのせいにして窮屈な人生送ること程、我が命を侮辱する真似ったら、無いわ。」リスティンは朗々と語った。どうやらそれが王族の身分を放擲して旅に出た、彼女の行為を正当化する事由の全てであるらしいことが判明し、ディノルタは噴き出した。
「この城は、どうするの。」ファナンがため息交じりに云った。
「サーシャに譲る。あいつなら、どこぞの貴族とでも夫婦となって、何でも見事に遣ってのけるさ。そういう奴さ。」
「実妹に対して、随分他人事ですこと。」ふいと横を向いてファナンが云った。口許には苦笑を浮かべつつ。「こんな、露呈したら最後、彼女がただではおられないようなことを遣ってのけて。」
「ここは俺の城だ。友の治療をして、悪いことは無いだろう。」アダリアは矛盾していることを理解しつつ、そう述べた。そんなことは、ここでしか堂々と言って退けられないのである。サーシャの前ではとても言い出せない、己の醜悪なまでの弱さを思い知る。
何故か。何故云えないのか。ルスカが故郷を滅した為か。己がその時故郷を離れていた為か。故郷を焼いた炎を目にしなかった為か。断末魔の叫びを耳に入れなかった為か。されど魔はルスカが滅したではないか。跡形も無く……。ルスカが世界を救った。ルスカが魔の核を滅した。しかしそれは言葉にしてしまうと、何と軽微な響きしか持たぬのだろう。己の弱さをまざまざと露見した、思い起こすのさえ痛苦を齎すあの闘争が安易に言語化できてしまう事態に、アダリアは明確な憎悪を覚えた。
ファナンも、リスティンも、ディノルタも、言わずとアダリアの苦悩には気付いていた。しかし今更国民に、ルスカは生存していると、そして英雄達と共に旅をし、真の魔の核を滅したので、英雄達と同列に賛美せよと述べたところで誰が納得をし、従おう。時は遅すぎる。特にリスティンは貴族である父君の人心を掌握する労苦を肌で感じている分、それが完全な夢物語に過ぎぬことを誰よりも知悉していた。
「さあ、ルスカはこのまま様子を見ましょう。おそらく、まだ時間がかかる。だからとりあえず、これから明日からの事を話し合いましょう。治療の方針も固めていかなくては。」ファナンはそう三人を力づけるように言った。
熱心に言葉を交わしながら歩く四人の姿を、中央の噴水の合間から見詰める娘の影があった。
旭日と同じ眩い金色の長い髪を、勢いよく噴き上がる噴水のもたらす微風に靡かせながら、金と銀の輝きを秘めた瞳をひたと四人へと向けている。アダリアと同じ家で育ちながらも、その風貌は極端なまでに異なる、サーシャであった。アダリアが王座に着きながら未だ旅人の風貌を僅かにも衰えさせず、王の身なりが滑稽なほど悉く身に付いていないのに対し、サーシャは過酷な旅路を殆ど共にしなかった所為もあるが、膚は陶器そのものであり、体躯も華奢で、自分で誂えたのではない、神々の恩寵に依って与えられた種々のドレスさえも重たげに纏っているのであった。
四人に声をかける意思が無かった訳では無い。特にリスティンには先だっての茶会に用意してくれた美しき季節の花々の礼だって正式には未だ済ませていなかったし、近々来訪する隣国の王家の娘への手土産を一緒に選ぶ約束だって未だ果たしていない。ディノルタにだって、先日旅先で入手したという珍しい遠国の織物を貰ったばかりである。それに依ってどんなドレスを拵えたか、未だ伝えては無かった。
しかし実際には彼等を影から盗み見るような形になってしまったことを、少なからずサーシャは悔やんだ。自分はこの城内において兄に次ぐ地位にある。つまり、神にその存在を認められ、賞賛された存在であるのだ。サーシャは花の蜜のような瑞々しい下唇をほんの少し噛んだ。
しかし、声を掛けなかったのは得策かもしれない、とふと思い成す。四人がどこからやってきたのかには覚えがあったから。西南の塔である。そこはこの世に和平の続く限り、利用者は無い、ことになっていた。
あれは兵の為の地下室を備えた小塔である。おそらく訓練場の意味合いもあるのであろう、地下には五十人ほどが寝起きできる広さがあり、地上は十の階層より成り立っていた。屋上には、敵が攻めてきた際には確実にその役割を果たすであろう堅牢な見張り台さえ拵えてあった。無論、魔物は滅した。敵はいない。武力を用いて民を守るあらゆる設備は、既に不要である筈だった。だから、ここに住まう者達は心密かに思った。時代は繰り返す。その言を神々が最後の礼として人間に送ったのではないかと。魔が復活するのかもしれないし、あるいは愚かしい人間同士が争いを起こすのかもしれない。何れにしろ、戦いを要する時代が来る、と神は伝えたかったのではないかと。
そこに、である。サーシャの呪詛する、あまりに憎悪しすぎて時折叫び出したくなる衝動にさえ駆られる、彼の者が運び込まれたのだ。星一つ見られぬ今朝の黎明、サーシャは憤怒とも悪寒とも、果ては絶望とも悲嘆ともつかぬ種々の思いに膚を震わせ寝台を飛び起きた。悪夢ではないと全てを解したサーシャは思わず叫んで、部屋を飛び出したのである。
そうして、見た。彼の者が西の塔へと運び込まれる様を。
サーシャは卒倒しそうになる己を抱き締め、諤々と満身を震えさせながら、一つ一つこの現実を受け入れようと熟考した。ルスカが生きていたということ。そのルスカが此処へと連れて来られたということ。夜中の密事……、己には内密、ということにするのであろう。しかし、城内に住居を共にしながらその存在に全く無知でいることなど出来る訳も無い。自分には元来、特殊な能力が備わっている。人間の心を感知する能力。それは時には快い花の芳香のように、時には吐き気催す腐臭のように、感じられた。それが苦痛、恐怖、悲嘆の色を帯び、更にあまりに強烈な場合には臭気のみならず膚への痛みとなってサーシャを襲った。そう、襲った。
それはアダリアも、又、長年目的を同じくしてきた仲間たちも、知らぬ者は無い。だのにルスカを城に入れることを直接的に自分に誰も伝えようとはしなかった。面と向かって是非を論じられる正当性も持たず、隠れて実行したのだ。サーシャにはそれが堪らなく憤ろしかった。しかもそれが自分への配慮という形を取ろうとしていること自体が我慢ならなかったし、更には自身が断固として抗議の様相を取れずにいることが何より許せなかった。その理由は自分の中では判然としている。ルスカの名を口にするのも、耐え難いから。ただそれだけである。必死にサーシャはそう自身へと言い聞かせ、黙した。
しかしルスカの絶望に膚を刺される度、この上無く自分が冷酷になるのを感じた。何だって、まるで自分が被害者のような顔をしてこのような絶望と悲嘆の声を上げ続けるのか。人間を無数に殺害しておきながら、己が愛する父母と友と、故郷を焼き尽くしながら、何が一体苦痛なのか。本当の地獄を見せられたのは果たして誰だと思っているのか。想像力の根本的欠落、どうしたって相容れない立場の相違。
ルスカを殺したい、とサーシャは強く、はっきり、思う。城内に住む、ということはいつでもそれが可能となるということではないか。思い当たって、サーシャの胸中に、一つの滾るような希望が芽生えた。無論サーシャは兄達とは違って、魔物一匹殺害したことは無い。しかし短くはあったが兄と同行した旅中で、兄たちが屠った多くの魔物の臓物を見、そこから立ち上る温かな湯気を見た。サーシャはその当時は恐ろしくて正視できなかったその様をゆっくりと反芻してみた。土に染みていくどす黒く固まった肉塊と血痕。骨や歯も天の下に曝され、鮮やかに紅く染まって。彼の様にしてやりたいと、痛切に、思う。両親や村の人々を無残にも殺害し尽くした、懐かしい故郷を無に焼き尽くした、その筆頭を殺したいと思うのは必然であるし、寧ろそれは唯一生き残った己に課せられた使命であるにも思われた。故郷の惨状を知らぬ兄がああいう状態であるのならば、尚のこと。
しかしその様も刃で一突きをするだけでは、ならない。誰よりも無残に、誰よりも苦痛にのた打ち回りながら、世界中の全ての絶望を結集させて死んでほしい。憤りはそれほどに、深い。
己が荒ぶる感情に、ルスカが到来してからの不眠も相俟って最早ぐったりと疲弊しながら、この憎悪が染み出し、誰かの胸を刺してはいないかとふとサーシャは不安に駆られた。殊に、自分と似た能力を有するファナンに。この暴力的なまでの憎悪が滲み出し、どこで感受されているとも限らない。自分は人々より讃嘆され、神々の恩寵深き女王である。その自分が何故余命短い魔物にかく迄鋭い刃を向け続けなければならないのか。ふと自問する。
意識の無いルスカは近い将来、死ぬ。更に己が罪悪に囚われるルスカの苦悩と絶望は、世界中のそれを全て集めたよりも尚深い。だのにその死を、残忍な死を、懇願し続けてしまう。私はどうしたらいいのか。
幾ら熟考しても答は出なかった。だから後は、湧き出づる感情に任せた。露呈するのならすればよい。憎しみが募るなら募ればよい。器として己の心が壊れなければ、それでよい。今のところは、大丈夫だ。
サーシャはそうして疲弊し切った心を慰めた。




