Ep.09 レジスタンス(6)
好意の裏には代償があった。
信用していた仲間には金目のものを全部掏られて逃げられた。笑顔の仮面を張り付けて寝床を貸してくれた老夫婦は、次の朝には馬鹿で単純な子どもを奴隷商に売っていた。
期待を裏切られるたびに湧き上がるのは「またか」という思いだけで、次第にそれも感じなくなっていった。
スラムには様々な事情で、社会という枠からはみ出した者たちが集まる。借金のカタに売られた若い娘、家が傾いて都市での生活を失った男、口減らしに捨てられた年端もいかない子ども。そこに無償の優しさは存在しない。何故ならそこに生きる者は皆、余裕がないからだ。自分一人が生きるのに精一杯で、そして生きるためには、誰かを騙して傷つけて、そんな行為を塗り重ねていかなければならなかった。盗むこと、奪うことが当たり前のこととして罷り通っている場所だった。
余裕を失えば人は本性を表す。
あの掃き溜めは、剥き出しになった人間の本質がごちゃ混ぜになって、重く澱んでいた。
甘いだけの誘いは信用してはいけない。ギブアンドテイクに持ち込むのが正解だ。それが無理ならばそもそも取り引きなどしてはいけない。
搾取されるだけだ。
ヒイロという少年の中ではそれが常識だった。だからこそ、ナツハゼについては判断しかねたし、戸惑った。
食べ物をくれる。怪我の手当てをしてくれる。優しい言葉をかけてくれる。
あちらには利益なんて、欠片もない。これは取り引きのかたちを成していない。おかしい。
彼の中ではそういう判断が下された。
この男はおかしい。信用できない、と。
そしてその考えはこんな風に繋がっていった。
見返りを求めない優しさを与えられるのは、あちらに余裕があるからだ。這いつくばって歯を食いしばって、明日息をしていられるかなんて心配をすることもない人間だから。住んでいる世界が違う。自分とは相容れないものだ。
物心ついた頃から、彼はスラムに生きていた。アルカディアの地形として、東側より西側の方がわずかに地面が高くなっている。それに加えて、きらびやかなビルやシンボルタワーは高く競い合うように聳え立っていた。暗く影を落としたスラムから見上げれば、その光はよく見える。東の人間から見れば、西はまさに遠くの楽園。理想郷だった。そこには十分な食べ物があって、温かい寝床があって、奴隷もいない。誰もが自由で、平等に幸せになれる。きっと東に生きる民は、誰であろうと皆、一度は西を見るだろう。羨望と嫉妬の入り混じったまなざしで見るだろう。
ヒイロがナツハゼに向ける感情は、それと酷似していた。
ハルトと別れ、ヒイロは渋々といった体で医務室に戻った。すぐに行って話してこいよ、とハルトが無言の圧力をかけてきたからだ。すっかり慣れた道順を辿りながら、眉間にしわをよせて誰にともなく悪態をつく。
「怪我は治ったんだから、もう医務室で寝る必要ないだろうが」
未だに彼の部屋は用意されていなかった。これも信用されていないことを表しているのかと思うと腹が立つ。そのせいで、毎日合わせたくもない顔を突き合わせなければならないのだ。
ほとんど叩きつけるようにして引き戸を開け放つと、部屋の中ではナツハゼがまんまるに目を見開いて面食らった顔をしていた。
「……どうかした?」
ついさっき言い合いをしたにも関わらず、ナツハゼはいつものようにヒイロを心配してくれる。ヒイロは何かを言いかけて口をつぐみ、また口を開いては唇を噛んで俯いた。
「……何であんたは、怒らないんだよ」
絞り出すようにして、やっとそれだけを言う。
彼はナツハゼの笑顔が嫌いだった。ひどい言葉をあっさりと流して、許してしまうところも嫌いだ。
そんな風に笑われたら、謝ることも出来なくなる。怒ってくれたほうがよっぽどやりやすかった。本当は随分前から、ヒイロだって知っていた。自分が彼に甘えているだけだということを。この人は八つ当たりをしても、酷いことを言っても、許してくれるだろうと心のどこかでわかっていた。だからさっき怒鳴られたときに驚いた。ナツハゼがヒイロに対して怒ったのは、あれが初めてだった。
死んだっていい。
その言葉で、初めて彼は声を荒げた。そんなことを言うな、と。
『でもそれは、あたしのために怒ってくれているんだよ』
アオイが言っていた言葉を思い出す。頬が腫れるくらいに強く殴られた後でも、彼女は悪態をつくどころか笑いながらそう言ってみせた。何故かその顔は嬉しそうでもあった。
今のヒイロなら、彼女があんな顔をしていた理由が少しわかる気がする。
「ごめんね、ヒイロ」
ぽん、と頭を優しく叩かれて、ヒイロは目を見開いた。いつのまにかナツハゼが席を立って、すぐそばに来ていた。
「僕はもともと人を怒るのは苦手で、どう頑張ってもアカツキみたいに上手くはできない」
どうしてここでアカツキが出てくるのかは謎だったが、人を怒るのが苦手だということは納得できた。まず怒ること自体あまりなさそうな男だ。
「でも君に対しては、必要以上に肩に力が入っていた」
ナツハゼは情けない顔で笑った。
「だからこれからは、変に取り繕おうとするのはやめるよ」
彼はくしゃくしゃとヒイロの頭を撫で回す。頭を撫でられるなんて、少年にとっては初めてのことだった。奇異の目を向けられるときのように居心地の悪さを感じたが、あれとは少し違う気もした。
「自分一人で生きているなんて思わないこと。誰かの命の上に自分の命があることを忘れずに、前を向くんだ。生きて帰ってくれさえすれば、僕が何度でも君の怪我を治すから」
優しくて穏やかな声だった。罵声と怒鳴り声を浴びてきた耳には久しい。ここに来てからヒイロは、慣れないことばかりだった。アオイもハルトも今まで接してきた人間とはずいぶん違う。自分以外の誰かのことを考えて生きている。その慣れないことは、この二週間で少しずつ積み上がってヒイロの内面を変えていった。
「あんたが治してくれても、俺はなにも返せないのに?」
俯いて乾いた唇を開いて、ヒイロは聞く。見上げたナツハゼは目を見張り、それから微笑んだ。
「君が元気になるところが見られる。それ以外に何が必要なんだい」
ナツハゼの言葉をゆっくりと嚙み砕き、自分のものにしてから、ヒイロはため息をつきたいのを必死でこらえた。
ああ、だめだ、と思う。
ここに来てから慣れないことばかりで、彼はずっと他人を拒絶していた。だけど今のナツハゼの言葉で、もう拒絶するのも馬鹿らしくなってきた。だから代わりに、受け入れてしまうことにした。
こいつはこういう奴なんだ、と。
「……八つ当たりしてごめん」
彼は声を絞り出すようにして、今までずっと心の奥にあった言葉を言った。
「それと、ありがとう」
後で考えてもぶっきらぼうな言い方だった。それでもナツハゼは嬉しそうに笑って、どういたしまして、と返した。
◇
暗く、厚い雲が垂れ込めた夜だった。その向こうにあるのだろう月球は半分よりも多く膨らんでいるはずなのに、銀の光はちらりとも地上を照らさない。暗闇に紛れて動くには絶好の天候だった。
生ぬるい風を受けながら、ヒイロはひとつ深呼吸をする。
『任務完遂目標時間、六百秒。それでは各班、薬のサンプルの奪取を最優先事項として行動してください』
イヤホンマイクの向こうから、カンナの落ち着いた声が作戦の概略を伝える。
『作戦開始』
ひときわ強く、風が吹きすさんだ。
木や建物の陰でまどろむ暗闇の中を、彼らは足音を立てずに、かつ素早く移動する。班長の男と副班長の女がアサルトライフルを持っているのに対し、他のメンバーは小銃のみの装備だ。狭い屋内での戦闘になることを鑑みての配備だった。メンバーの中に、ハルトの姿はない。一週間ほどの訓練の中で、ヒイロは彼の実力を体感した。まだ十代半ばと見えるのに、その実力は同年代の中でも頭ひとつ分抜きん出ている。だからこそ今回の任務は適任かと勝手に思い、班編成にも組み込まれていると踏んでいたのだが、予想は外れた。
——だからって、何でこいつがいるんだよ。
言ってもどうしようもない不満を心中で吐き棄てる。作戦会議で顔を合わせたときは、顔面の筋肉という筋肉が総動員して渋面をつくってしまった。
あの、海色の目の少年だった。
会議のときにメンバーの名前は全員覚えさせられたが、そのときやっと彼の名前を知った。知りたくもないし脳内から抹消したかったが、そういうわけにもいかない。班長の男の名はシノノメ。副班長の女の名はセリナといった。任務中は彼らを中心に動くということだった。他に、ヒイロを含む六人がメンバーに選出された。
二区の裏通り。指示された地区には、寂れた古い倉庫が佇んでいた。扉も壁も、果ては屋根までサビがこびりついていて、トタンを継ぎ接ぎした不恰好な外見だった。
「ポイントAー1に到着。これより倉庫内部に侵入」
班長が状況を本部へ報告する。了解、とカンナの声が返事をした。
班長と副班長とが先行して、倉庫の正面扉に背をつけ、ゆっくりと扉を押し開く。二人は中に侵入すると素早く銃を構えた。そして、敵がいないことを確認するとゆっくりと銃口を降ろす。間隔を置いて数人のメンバーが中に入り、残った二人は入り口の見張りに付く。ヒイロも班長の後ろについて中へ入った。
暗闇に慣れてきた目は、倉庫の中にあるものをある程度視認することができた。錆の浮いたドラム缶に、床に散らばる鉄板や木片などの廃材。壁には隙間から侵入した蔦が這い、床にも草が根を張り背を伸ばしていた。壁の上方と天井には大きな窓がいくつかついていたが、光のない夜の中では真っ黒に塗りつぶされているだけだ。
見たところ人の気配はないが、誰かが出入りしているのは間違いない。入り口付近の土は乱れていたし、何より倉庫内の床に積もった埃をいくつかの足跡がくり抜いている。
『正面に古いスチール製の棚があるでしょう。それをずらすと下に地下への入り口がある』
カンナの指示を聞き、それと思しき棚を二人がかりで退ける。ずるりと重い音を立てて動いた棚の下に、床に張り付くようにして赤く錆びた鉄の扉があった。四角い金属板に取っ手をつけただけの、実に簡素な扉だ。
『その先はアヤメの可動範囲外。会議のときに渡した見取り図はあくまで予想よ。大まかな部屋の規模と造りしかわからない』
「了解。これより地下に潜る」
速やかに情報伝達と報告が行われる。
どうやらアヤメが担う役は構成員同士の情報伝達に限られないらしい。医務室でナツハゼに抱え上げられていたのは本機で、あれの他に無数の子機がいる。本機よりも小さく可動性に優れたそれらは、敵情視察に使われているのだという。元はそちらの方が主要な目的であり、本機以外にはAIも搭載されていない。今回もアヤメの子機がこの倉庫を事前にリサーチしており、ある程度の情報はこちらにも揃っていた。
研究所への入り口。地下の大まかな見取り図。警備兵は少数だが確かに配備されていること。そしてその武力の壁を越えた向こうに、研究室が存在するであろうこと。
ぎぎ、と歪んだ鳴き声を上げて鉄の扉が開かれる。その向こうには底知れない暗闇がぽっかりと口を開けていた。そんな風に見えた。だが実際は、粗末な鉄の階段が細く続いているだけだ。生ぬるい風が、下から吹き付けていた。
その階段を見下ろした者たちは一様に眉をひそめた。通路が狭い。ここで撃ち合いになるのは避けたいと、誰もが考えた。下手すれば研究室に辿り着けずに失敗する。
「囮を立てる。一人が敵の気を引いているうちに一気になだれ込むしかない」
班長が声を落として簡潔に見解を述べる。しん、とその場が静まり返った。だが、不気味なほどの静寂は数秒と続かなかった。一人の青年が口火を切る。
「シノノメさん、そいつにやらせましょう」
彼が指差す先にいるのは、赤髪の少年。ヒイロだ。
「適任かと」
言う声は、氷のような冷たさを滴らせている。見れば、他のメンバーもだいたい同じような顔つきをしていた。ヒイロを見る目は猜疑心に塗れている。
突然現れ、いつ裏切るとも知れない。おまけにおかしな能力を持っている。その力をもってこちらに牙を剥きはしないか。
彼らの不安はだいたいそんなところだろう。今はヒイロも、そのことに対しての理不尽さはあまり感じなくなっていた。当然だ。生き物として異端を警戒するのは本能で、必要なことだ。ヒイロだって逆の立場であれば、馬鹿みたいに最初から全面の信用を預けたりしない。
とん、と背中に固いものが当たった。銃口だ。ちらりと振り返ると、班長がヒイロの背を銃口で押し、無言で「行け」と示していた。
「……シノノメ」
その行動を見て、眉をひそめ非難するような声を上げたのは副長ひとりだった。あとは当然だとばかりの顔をしてことの成り行きを見守っている。
ヒイロは黙ったまま眼下の光景を睨んだ。
地下への入り口は相変わらずぽっかりと口を開け、吞み込むべき餌を待つようだった。下から吹く風が赤い髪を絡め取る。目を閉じて、それから彼は再びその目を開けて前を向いた。
慎重に一歩踏み出し、彼は暗闇に足を浸した。