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蒼の果てのアルカディア  作者: 深見 鳴
一幕 緋色
8/22

Ep.08 レジスタンス(5)

 



 訓練を終えた後は簡易シャワールームで汗を流す。数が少ないから、時間制でゆっくりしてはいられない。お湯もあまり贅沢には使えなかった。それでもヒイロの基準で見れば、設備があるだけ天国のようなものだ。そのシャワールーム横の脱衣所でTシャツを被りながら、彼はふと思い出して聞いてみた。

「なあ、ハルト。スオウって人、知ってるか」

 すぐ隣でタオルを使って髪の湿気を拭っていたハルトが、ぴたりと動きを止める。だけどそれは本当に一瞬のことで、ヒイロが気づくことはなかった。

「知ってるよ。スオウがどうかしたのか」

 あっさりと肯定されて、言葉に詰まる。どうかしたと問われれば、上手く答えが見つからない。

 スオウはレジスタンスの構成員だった。

 だが、どうして。何のためにあそこにいた。ナツハゼにしてもそうだ。レジスタンスは何故あの研究所に潜伏していた。何か目的があったはずだ。

 ヒイロという不確定要素を回収するため、とも考えたが、きっとそれだけじゃない。だって仮にそうだとしたら、ナツハゼやスオウは時間をかけ過ぎている。タイミングも合わない。スオウは少なくともヒイロが施設に入る前、半年以上前からあそこにいたのだから。そしてナツハゼは恐らく、もっと長い時間滞在していた。

 何かを調べていた。探るのに時間を食われたと推測するのが妥当だ。

 いつまでも答えようとせず黙っているヒイロにも、ハルトは苛立ったり呆れたりしなかった。その代わり自分から口を開く。

「ヒイロは、研究所でスオウと会っているんだもんな」

「あ、ああ、うん」

「あの人、声がでかかったろう。底抜けに明るくてさ。自分の信じるものを絶対に曲げようとしない」

「……まあ、そうだな」

 スオウに対する認識は、ヒイロも同じようなものだった。話をしていると、次々にスオウの顔が思い浮かんでくる。それはたいてい顔をくしゃくしゃにした笑顔だった。あの人はいつも笑っていた。笑顔以外の表情を見せたのは数えるほどだけだ。

 ふっ、と脳裏に暗い光景が過る。それは本当に唐突で、なんの前触れもなかった。

 蹲って、血を吐いて、ぐったりと人形のように石の床に倒れ伏した彼の姿。

 さっきまで無茶苦茶に喚いて、喉をかきむしって悲鳴を上げてのたうち回っていたのが嘘みたいに静かだった。その目はガラス玉みたいに虚ろに光っていた。

 ばん、と脱衣所のロッカーを乱暴に閉める。その音で胸の悪くなる幻影を振り払うように。

 ハルトがびっくりした様子でどうした、と聞いてきたけれど、何でもない、とおざなりな返事をしておいた。

 スオウという男について、ヒイロが語れることはあまりに少ない。とにかく、彼のちっぽけな世界の中で、あの男は異質だった。

「そこの壁、何で大穴空いてんだ」

 ある日ヒイロが何とはなしにスオウに聞くと、彼はこう返した。

「ああ、それか。ここの生活ってストレス溜まるだろう。腹いせに殴ってたら、がらがらと崩れ落ちてな」

 身振り手振りをつけて説明しながら、彼は何がおかしいのか豪快に笑っていた。ヒイロは呆れた目で彼を見ていた。

 スオウという男はだいたいこんな奴だった。明朗快活、単純でまっすぐ。呆れるくらいに前向きで、細かいことは気にしないタチだった。だがその反面曲がったことは大嫌いで、間違っていると思ったときはとことん逆らう。それでよく警備兵や研究者とケンカしては、煙たがられていた。

 スオウの怪力のおかげで二つの牢屋の間に壁はなく、彼とヒイロは時間が空いたときによく話していた。ところがあるときから、彼は夜遅くまで独房に帰って来なくなった。彼に課せられた実験の量は明らかに異常で、彼は確実に体を壊していった。

 夜な夜なぐったりとして牢の床に倒れ込み、時折おかしな咳をする彼の元に、どうして駈け寄らなかったのだろうかと、今になって考える。壁なんてなかったはずなのに。そばに寄って背中をさするくらいはできたはずなのに。

 ある日、唐突にスオウは息をしなくなった。

 決して穏やかとは言えない死だった。彼は夜中に突然苦しみ出し、無茶苦茶に喚いて、喉をかきむしって悲鳴を上げてのたうち回った。時間にすれば十分にも満たないだろう。だけど、隣の牢屋で彼が苦しむ声を聞いていたヒイロには、残酷なくらい永く、永遠にも感じられた。何もできずに牢屋の隅に蹲って、彼は懸命にその声を聞くまいと耳を塞いでいた。

 やがて、部屋はしんと静まり返った。ヒイロは恐る恐る、スオウの独房を覗いた。後になってこれほど後悔した行動はない。

 血だまりの中に、ぐったりと人形のように倒れ伏す男の姿。生前の面影は跡形もなく、いつも笑顔を浮かべていた顔は恐ろしい形相を呈していた。

 ヒイロは、その場に尻餅をついて腹の中のものをあらかた戻してしまった。吐き出すものがなくなっても咳き込み続けた。

 このときから、彼の中で死は明確なかたちを保っている。死を思うときに浮かぶのはいつだって、倒れ伏したスオウの姿だった。




 ◇




「顔色が悪いね」

 ヒイロは無言で顔を逸らした。ナツハゼは心配そうに眉をひそめる。朝の定期検査のたびに、ヒイロはナツハゼにつんけんした態度を取っていた。すっかり嫌われてしまったナツハゼは、苦笑いしながらもめげずに会話を試みる。

「何かあった?」

「……別に。夢見が悪かっただけ」

「どんな夢だい」

「人が死ぬ夢」

 投げつけるような答え方に、ナツハゼは口をつぐんだ。さすがの彼でもめげそうになったのか、一つ深呼吸をしてから話を続ける。

「眠れないようなら睡眠薬を出そう。一週間後には仕事が控えているからね。万全のコンディションで挑まないと、つまらないミスで怪我をするかもしれない」

「いらない」

 ところがこれも、ヒイロはすげなく跳ね除けた。それどころか、鬱陶しそうにため息をつく。

「……あのさあ、その腫れ物に触るみたいな態度、イラつくんだよ」

 ナツハゼを睨みつけ、彼は鋭いナイフにも似た言葉を吐き出し続ける。それは途切れることなく向けられた相手を刺し続けた。

「堕ちて堕ちて、とうとう化け物にまで成り下がって、誰にも受け入れて貰えないガキがそんなに可哀想か」

 ナツハゼが何か言おうとしたのを遮るように、ヒイロは叫ぶ。

「同情なんかいらない!お前のその目、気分悪いんだよ!」

 夢見が悪かったこともあって、この日のヒイロはいつも以上に不安定だった。それがきっかけとなり、今まで溜め込んでいた感情が一気に爆発してしまった。

 手負いの獣のように敵意を剥き出しにし、低く唸っている彼を前に、ナツハゼは軽く唇を噛んで俯向く。

「……ごめん。そんなつもりは」

 それから思い直したように顔を上げて、真正面から睨みつけてくる少年の視線を受け止めた。

「ただ心配なだけなんだ。今回の任務は比較的難易度も低いけれど、それでも危険は伴う。油断したら命を落とすことだって」

 二人しか人がいない医務室がしんと静まり返る。しばらくはどちらも声を出さず、時計の音だけがその空間を支配していた。それほど明るさのない蛍光灯が不意にちかちかと点滅した。

「別に、いつ死んだっていい」

 紙のように乾いていて、無機質な声が言う。ナツハゼの目が大きく見開かれた。

「どうせ俺なんか」

 自分を貶めようとしたヒイロの声は、しかし最後まで紡がれることなく途絶える。ばんっ、と大きな音が反響した。乱暴に机を叩いて立ち上がったナツハゼを見上げ、ヒイロはぽかんと口を開けた。痛いほどの沈黙が薬臭い部屋を支配する。

「……二度と言うな」

 彼の声は今までに聞いたことがないほど剣呑で、まるで唸り声のようだった。その表情は前髪で隠れていてよく見えなかったが、きつく握られた拳が震えていることで、彼がこれ以上ないほどに激昂しているのがわかる。

「そんなこと言わないでくれ、頼むから」

 声はかすかに震えていて聞き取りづらい。その言葉の中にどれほどの意味が込められているのか。どれほどの感情が込められているのか。それを知ってしまうのを避けるかのように、ヒイロは彼から目を逸らして歯噛みする。そうしていつかと同じように、逃げるみたいに医務室から出た。そのときに入口のそばにいた人物とぶつかって軽くよろめく。ぶつかった相手が誰なのかを知って、反射的に顔をしかめた。

「……成長しないな、お前」

 以前と同じように軽蔑しきった眼差しで、海色の瞳の少年は冷ややかにヒイロを見つめる。負けずに彼を睨み返し、ヒイロは今日こそはと言い返してやった。

「立ち聞きなんて、いい趣味してるな」

「どうも。情報収集の技能だって立派な武器になるからな」

 ところが彼はささやかな嫌味をさらりといなし、鋭い刃でもって切り返してきた。

「不幸自慢したいだけなら出て行ってくれるか。正直、目障りだ」

 結局、今回もしてやられた。少年はヒイロに言い返す暇も与えず、曲がり角のむこうへ姿を消した。

 重苦しい思いを抱えながら、ヒイロはあの日と同じ道を辿る。たまにすれ違う人々は、ちらりと彼を見てはそそくさと通りすぎていった。俯くと視界は床で埋まる。白く薄汚れたそれに、自分の影が暗い色を落としていた。寄りかかった壁を苛立ちまぎれに殴ろうとして拳を握ったそのとき、暗い気分を吹き飛ばすような明るい声がかかった。

「ヒイロ、どうした」

 顔を上げると、穏やかに微笑んでいるハルトがいる。彼はくしゃりと顔を歪めて、なんか、デジャヴだな、と言った。確かに、気持ち悪いくらいにあの日と状況が一致していた。ただ一つ違ったのは、ハルトに連れて行かれたのが子供部屋じゃなく、食堂のフロアだったことだ。そこで貸し出しているコップに水を注ぎ、二人は適当なテーブルに腰掛けた。

「またナツハゼと喧嘩か」

 喧嘩というにはかなり一方的なものだったが、それ以外に適当な言葉を思いつかなかったのか、ハルトは彼らの不毛な言い合いをそう形容した。ヒイロはぶすっとした顔で口を開く。

「同情されるの、大っ嫌いなんだよ。ああいう誰にでもいい顔するような八方美人は特に嫌いだ。見ててイライラする」

「おい、ヒイロ」

「嘘くさい心配も、お節介も、全部鬱陶しい」

「……おい」

「本当は俺みたいな生意気なガキなんて嫌いなくせに、いい人ヅラして構ってきて……」

 ばしゃん、とグラスから水が勢いよく飛び出した。それは見事にヒイロの顔に直撃し、顔面を中心に前髪までも濡らす。ヒイロは唖然として目を見開き、そのままの姿勢で固まる。ぽた、と濡れた前髪から水滴が落ちた。

「ちょっとは頭、冷えたか」

 ハルトは怒って顔をしかめるでもなく、鼻白んで眉をひそめるでもなく、完全な無表情で言った。その手には空のグラスが握られていて、グラスの中に入っていたはずの水は全部ヒイロの体を濡らしている。

「……な、に……すんだよ……」

 まだ驚きが覚めやらないままに聞いても、彼は答えない。代わりに別のことを言った。

「俺さ、ずっと気になってたんだ。どうしてお前がナツハゼに突っかかるのか」

 語り始めたその声は静かで、とても静かで、ヒイロは固唾を飲んで彼の話を聞くしかなかった。このときのハルトからは、つくりものみたいに綺麗に微笑んでいるときのアオイと同種の恐ろしさを感じた。

「ナツハゼが優しいからだろ」

 突きつけられた答えは予想外のもので、ヒイロは言葉を失った。

「お前は単純に、優しくされるのに慣れてないんだ。信じられないんだろう。見返りなしに優しくしてくれる人間がいること。だからナツハゼの行動が奇妙で仕方なくて、理解できなくて、手当たり次第に当たり散らしてる」

 違う。

 叫んだはずの声は掠れていて、おまけにまともな音にすらなっていなかった。ただ息がもれただけだ。あの海色の目の少年に言い負かされたときのような理不尽な怒りは感じなかった。代わりに、何の感情も浮かんでこなかった。それはまるで、自分自身の心が、ハルトが言っていることを肯定しているようだった。

「違う、あいつのは……ただの、偽善だ。自分が”いい人”でいたいから」

「偽善じゃ駄目か?」

 必死で自分の凝り固まった考えを守ろうとするヒイロに、ハルトは容赦なく畳み掛ける。戦闘訓練のとき、次々と攻撃を繰り出してヒイロの動きを封じてしまうのと同じように。

「確かにこの世には、打算のない優しさなんてないかもしれない。それでも、受け取ったものに助けられたのは事実だろ」

 ヒイロはもう何も言えなかった。

 ナイフは奪われ、拳も捻り上げられて使えない。あとはもう、参ったと言うだけだ。

「知ってるかヒイロ。優しくしてもらって、誰かに何かを貰ったときは、ありがとうって言えばいいんだ。この言葉って、どんなに使っても減らないんだぜ」

 だから、出し惜しみしちゃ駄目なんだ。

 ハルトはやっと無表情を取り払って、にこりと笑った。その笑顔の前で、ヒイロはただただ唇を噛み、項垂れていた。



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