Ep.05 レジスタンス(2)
ほとんど廊下の壁に寄り掛かるようにしながら、ヒイロは何とか前進していた。といってもそれはもはや、芋虫が這うようなものだったけれど。
ぜえはあと肩で息をしながらも、彼は足を動かした。意地になっているようなものだった。しきりに痛みを訴える患部をきつく抑えつけ、小さく悪態をつく。
「何だ、あいつ。偉そうなのはお前だっての。貴族の坊ちゃんみたいな澄ましたツラしやがって」
奇しくも、名前も知らない彼への怒りが、今のヒイロが動くための一番の動力になっていた。彼は眉間に深い皺を刻み、ぎり、と奥歯を噛みしめる。
「生理的に受け付けない」
同じことを件の彼にも言われていることを、ヒイロはもちろん知らない。
だが怒りだけで動くのもそろそろ限界だった。一歩進むごとに彼の態勢は低くなっていき、しまいにはその場に蹲る。それ以上どうしようもなくなって動けなくなったところに、助け舟がやってきた。
「おーい、大丈夫か?」
不意に、声が上から降ってくる。声音から判断するに、男だ。たぶん年も近い。そこまで考えて、ヒイロは緩慢な動作で顔を上げた。自分のそばにしゃがみ込み、背中をさすってくれている少年と至近距離で目が合う。
彼の明るい茶色の目がまんまるに見開かれた。
「お。すっげ、真っ赤」
彼は感心したように声をもらし、まじまじとヒイロを観察する。
「赤い髪って珍しいな。目もおんなじ色か。あれ、でもそんな奴ここにいたっけ」
一人で百面相をしている少年を、ヒイロは呆れた目で見やる。その視線に気づいて、少年は「あ」と声を上げた。
「っと、悪い。具合悪いんだよな。腹痛?頭痛?とりあえず医務室に」
「行かない」
きっぱりと拒否の意思を示す。
あれだけ啖呵をきった後でのこのこ戻るなんてできない。ナツハゼとも顔を合わせづらい。
ヒイロは唇を噛んで、服の生地を握りしめた。そのときにやっと、着ているものが新しくなっていることに気がつく。研究所で着せられていたボロ布より遥かに清潔で着心地が良いはずなのに、何故か余計に気分が重くなった。
行かないと言ったきり岩のように押し黙るヒイロを、少年はしゃがんで頬杖をつきつつ、覗き込むように見やる。その顔を見て何かを察したのか、彼はうーん、と唸ってから、それ以上詮索することなく話題を変える。
「お前、名前は?」
「……ヒイロ」
ああ、ナツハゼが連れてきた奴か、と呟いて、彼はにっかりと笑った。
「俺はハルト。とりあえず廊下でいつまでもしゃがみ込んでるわけにいかないから、向こう行こう」
ヒイロはひとつ瞬きをする。
ハルト。その名前には聞き覚えがあった。ナツハゼが言っていた、ヒイロを迎えに来るはずだった少年だ。
彼に肩を貸してもらって立ち上がり、ヒイロは彼の言う「向こう」まで歩いていった。入口型に四角くくり抜かれた簡素な扉を潜り、数度瞬きをする。
そこには、おおよそレジスタンスに似合わない光景が広がっていた。
子ども。まだ五歳に届くか届かないかくらいの幼い子どもから、ヒイロと同じ歳くらいの者までいる。ざっと見て二十人ほどいるだろう彼らは、楽しそうに遊んでいた。カードやボードゲーム。他にもヒイロが知らない道具を使ってそれぞれに遊んでいた。和気藹々としたその雰囲気は、とてもレジスタンスという物騒な言葉とは結びつかない。
「……ここって実は孤児院かなんか?」
「いや、一時保護中なんだ。でも、ちゃんとした組織の一員も混じってる」
ヒイロが聞くと、ハルトは入口近くのソファに彼を座らせながらそう答えた。どういう意味かと聞こうとしたとき、どん、とハルトの腰に小さな女の子が飛びついてきたので、言葉は喉奥に引っ込む。突然やってきた少女はハルトやヒイロとそう年が変わらないように見えるけれど、臆面なくハルトに飛びつく行動や表情が妙に幼さを感じさせた。
「ハル兄、その人だれ?」
ほとんどハルトの後ろに隠れるようにして、彼女は小さな声で聞いた。小動物のように警戒心をあらわにした黒い目はじっとヒイロを見つめている。
「新しく来た奴。ヒイロっていうんだとさ。あ、こいつ怪我してるから飛びかかったりすんなよ」
紹介の後にさらりと付け加えられた注意を聞いて、ヒイロは内心舌を巻いた。怪我してるなんて一言も言っていない。たぶんハルトはヒイロが左脇腹を庇いながら歩いているのに目敏く気づいたのだろう。
「ヒイロ。こいつ、サヨっていうんだ。ほらサヨ、挨拶」
「……こんにちは」
推定十四歳ほどに見えるその子は、相変わらずハルトにべったり張り付いたまま、息がもれているような小さな声で挨拶した。ヒイロも一応「こんにちは」と返す。
サヨを始めとして、部屋にいた子どもたちはわらわらと寄ってきた。全員の名前を教えてもらったのだが、途中で覚えるのを諦めたら全部頭から吹っ飛んだ。結果的に覚えているのは、サヨの名前だけになった。
「こんな風に遊んでていいのか」
トランプの札をひっくり返したりチェスの駒を進めたり、絵本を読むことに夢中になっている子どもたちを眺めやり、ヒイロはハルトに聞いた。ヒイロの隣でソファに背をもたせかけた彼は、目だけで話の続きを促す。
「お前ら、緊張感ないんじゃねえの。政府相手にするんだったら、寝る間も惜しんで訓練すべきじゃないのか。アオイもやたら緊張感なかったし」
「……ああ、アオイは」
一瞬変に言葉を区切って、ハルトは斜め下に視線を逃がした。
「あいつは別なんだ。色々と」
ヒイロが意味深な言葉を追求しようとしたのを抑えるように、ハルトは無理やり話を続けた。
「俺らがこんなに遊んでていいのか、だっけ。別に遊んでるだけじゃないんだぜ。ちゃんと訓練はしてる。ただこういうガス抜きってな、必要なんだ。うまくやらないと変に思い詰めて心が病む」
「それにしたって」
まだ不服そうなヒイロの顔を覗き込んで、ハルトはにやりと笑った。
「お?その顔は、ここにいる奴らまともな戦闘能力がないと思ってるな?」
「そりゃあ……」
子どもだろ、と自分のことを見事に棚に上げた発言をヒイロがする前に、ハルトはまたもや意味深なことを言った。
「牙を持たない兎だってタカ括ってたら、痛い目見るぜ」
何かを言い返そうとして、ヒイロは口を噤んだ。その顔がさあっ、と青くなる。
「ん、どうした?」
ハルトが聞くのにヒイロは答えず、脇腹を抱えてゆっくりと体を折る。その額には冷や汗が浮かんでいた。
「ヒイロ!ここにいたのか」
「ナツハゼ」
息を切らして現れたナツハゼを見て、ハルトは意外そうな声をあげる。ナツハゼはすぐさまヒイロの足元にしゃがみ込んで、彼の細い体を支えた。
「そろそろ痛み止めが切れる頃だろうと思って。君、五針も縫ったんだよ」
「五針!?」
痛みで何も言えないヒイロの代わりに、ハルトがリアクションをする。
部屋の外では、簡易担架を持ったカイがため息をついていた。
ヒイロは、ついさっき喧嘩のようなものをした相手に運ばれる羽目になってしまった。
◇
「おはよう!」
元気すぎるくらい元気な挨拶とともにアオイが医務室に顔を出した。
「……おはよう」
ベッドで横になっていたヒイロは身を起こし、萎んだ声で返事を返す。それから医務室の扉のところにいる彼女の姿をみとめて、瞬きをする。
「アオイ、その顔」
彼女の頬には大きめの湿布が貼られていた。
研究所を脱出するときのいざこざが頭の中にひらめく。彼女も腕を捻り上げられて、顔面を床に叩きつけられていた。そのときに怪我をしたのかもしれない。
そんなヒイロの思考を表情から読み取ったのか、アオイはへらりと笑って顔の傷の理由を答える。
「ああ、これは違うの。怒られちゃっただけ。命令破って勝手に動いたのばれちゃって」
「命令を破った?」
「うん。本当は君を迎えに行くのは別の人の役目だったんだけど、私が無理やりその役を代わってもらった」
「だってあれは、手違いがあったとかって」
「ごめん。それは嘘」
彼女はさらりと、悪びれることもなく謝る。ヒイロは絶句した。アオイは構うことなく部屋の中に入ってきて、ヒイロが使っているベッドの端に腰を下ろす。ぎし、とスプリングが軋む音がした。
「それで、一日謹慎食らっちゃってさ」
「だから最近は見かけなかったのか」
廊下で蹲っていたところをハルトに助けられた数日前、ヒイロは強制的に医務室に搬送され、痛み止めを飲んでベッドに括り付けられた。さすがの彼もその日は大人しく寝た。
「おまけに、新人教育も任されちゃったんだよ」
アオイの言葉に、ヒイロは苦い顔をする。
新人というのは紛れもなく自分のことだろう。だけど教育なんて器用な真似、本当にこのフリーダムな女にできるのか。いや、できない。
疑いの眼差しを向けてくるヒイロを笑い飛ばし、アオイは中途半端に閉まっていたベッド周りのカーテンを開け放った。しゃっ、と小気味良い音がして、ちょうどその向こうに隠れていたナツハゼが見えるようになる。
「まあ、御察しの通り私ひとりじゃ不安だからさ。ナツハゼにも来て貰いたいな」
「え」
机に向かって書類を書いていたナツハゼの顔が固まる。彼はそれからちらりとヒイロを見て、すぐに目線を下に落とした。
「いや、僕は。仕事もあるし」
「ええ?」
アオイは不満げに頬を膨らまし、ナツハゼの背後から彼が書いている書類を覗き込む。そしてぎゅっ、と眉間に皺を寄せた。
「何これ。全然急ぎの仕事じゃないじゃん。今回の報告書も各所に上げたし、諸々の経費決算も済んでるでしょ?相変わらずナツハゼは仕事早いね」
アオイがぺらぺらと喋るにつれ、ナツハゼの顔色は悪くなり、だらだらと汗が流れ出した。
「いや、でも」
ナツハゼはもう一度ちらりとヒイロを見る。ヒイロはふいとそっぽを向いた。空気が重たく淀んで行くような、気持ちの悪い雰囲気がその場に漂い始める。
アオイは彼ら二人の様子を見て、すっと目を細めた。
「ふうん。なるほどねぇ」
呟く声は、明らかに何かを企んでいる。そして彼女は重たい空気を払うようにぱん、と手を叩き、にっこりと笑った。
「やっぱり三人で行こう。ヒイロに何かあったとき、私じゃ対処できないし」
アオイの強引な言葉によって、微妙に雰囲気の悪い面子で施設内の探索をすることが決定してしまった。
痛み止めが切れることさえなければ、ヒイロは普通に動けるらしい。痛みも感じない。あの日やたらと傷が痛んだのは、そもそも痛み止めが切れる時間だったからだとナツハゼは言った。つまり定期的に薬を飲んで、激しい動きさえしなければ、何も問題はない。休み休み施設内を見て回ることくらいはできるそうだ。
「そもそもこの建物、どこにあるんだ?」
医務室から出て廊下を歩く途中で、ヒイロは前を行く二人に聞いてみた。ここがレジスタンスの拠点だということは聞いていたが、どこにあるのかは聞いていない。
聞かれたアオイは、ヒイロを振り返ってにまりと笑う。
「さあ、どこにあるんだと思う?」
年はいくつだ、と聞いていくつに見える、と問い返されるのと同じような苛立ちが芽吹く。顔をしかめたヒイロに笑って、アオイは前を向きなおした。当てずっぽうでも答えなきゃ正解は教えてあげない、と言わんばかりの背中に、ヒイロは投げやりな答えを返す。
「東の、端……第八区あたり?」
「ハズレ。そんな僻地じゃ首都までの移動にお金と時間がかかり過ぎる。あたしたちは政府の中枢がある首都を中心に活動するのに、そんなの不利益しかないよね」
「んなこと言っても、まさか首都のど真ん中に拠点を構えるわけにいかないだろ」
「あ、ちょっと正解に近づいたよ」
「は?」
素っ頓狂な声を上げて、ヒイロは眉間に皺を寄せた。
スラムや廃墟群が広がる東よりも、首都中央の方がこの拠点の正確な位置を表している。そんなこと言われても実感は湧かないし違和感は拭えない。
「さすがに首都中央からはだいぶ外れてるけどね。ここは近郊あたりかな」
アオイはまるでスキップでもしそうなくらい軽やかに歩を進めながら言う。
三人が歩く廊下は全体的に作りが簡素で、仮設のプレハブのような安っぽさがあった。天井を走る数本の太い電気ケーブルは丸見えだし、鉄の骨組みが剥き出しになっている。研究所の洗練された空間とはまるで違い、廊下の端には段ボールが山と積まれていたり用途不明な鉄パイプが放置されていたりと、様々な物品が放り出されている。おまけに照明がついていなくて薄暗い。ところがその薄暗さは、進むにつれて薄れていった。どうやら向こうには照明があるらしい。狭い廊下は終わり、視界が開けた。
明るく光の指す向こう側に、ナツハゼとアオイが足を踏み入れる。眩しさに顔をしかめ、ヒイロは影の内側から彼らを見た。少女がくるりと振り返って、言う。
「この拠点の位置は首都近郊の直下に当たる。つまり地下だよ」
その口元が笑みの形に歪んだ。
「あたしたちの根城。旧第五地下シェルター」