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蒼の果てのアルカディア  作者: 深見 鳴
一幕 緋色
3/22

Ep.03 エスケープ(3)

 



 叩き割った凍結カプセルの破片が飛んだ。実験台の上に散らばるそれを、ナツハゼは無感動な目で見やる。そうして徐に、その破片の中にある小さな正方形の薄いものをハンマーで叩き潰した。ひしゃげたそれから細く緋色の液が伝い、水に溶ける。

 背後で扉が開く音がして、彼はぴくりと肩を震わせた。

「やってくれたな」

 背後から声をかけられて、ナツハゼはゆっくりと振り返る。彼の後ろにいたのは、黒い髪と目を持つ痩身の男性。年の頃は二十代後半ほどで、細い銀色のフレームの眼鏡をかけている。

 八代博士。超能力開発の第一人者だ。

 彼は皮肉な笑みを唇に乗せ、部屋の中に踏み入った。こつん、と靴音が響く。

「向こうで騒がしくしているのは陽動か。本当の目的はこちらだったと」

「……随分落ち着いているのですね。これで炎の能力を司るサイキックコアは、全て破壊されたというのに」

「全て?マウスが一匹残っているじゃないか。恐らくそちらも君たちにまんまと盗まれるのだろうがね。折をみて取り返すさ。それ一つさえあれば、また複製できる」

 どうやら八代は、今夜は何をするつもりもないらしい。盤上の戦況をひっくり返そうとは、思っていないようだった。

「君たちはアレの中にあるコアだけは、絶対に破壊することはできない」

 だがあっさりチェックメイトさせてはくれなかった。結果的に、この勝負はドローだ。

 灯りが落とされ、常夜灯のオレンジ色だけがかすかに暗闇を照らす研究室で、八代は薄く笑った。こちらを嘲笑っているようでもある。

 彼の言う通り、ナツハゼたちはあの少年の中にあるコアを破壊することができない。彼の中にあるコアは、もう彼の体の一部となり、命の流れの一部となっている。無理やり摘出することは、少年の死を意味する。

 生易しいお前たちには、そんなこと出来ないだろう。

 八代は言外にそう匂わせ、ナツハゼたちを嘲笑っているのだ。そして彼はそれに言い返すことができなかった。

 ヒイロという少年が人体実験の犠牲になったのは、自分たちの見通しが甘く、動きが遅かったせいでもあるのだから、尚更だった。

 ナツハゼは素早く時計の文字盤を確認し、残り時間があまりないことを悟った。

 長い白衣に隠されていたホルスターから素早く銃を抜き、照準を合わせる。

「八代博士、ここで死んでほしい」

 銃口を向けられても、八代は表情をかほども乱さない。むしろ鼻白んだような顔をする。つまらなそうに目を細めるさまは、今にもあくびの一つくらいかましそうな雰囲気がある。

 それから彼はゆったりと口の端を上げた。

「笑わせてくれる。君に撃てるか?」

「……撃てますよ」

 引き金に指をかけて、硬い声音でナツハゼは言う。

 ヤツカが考えてている通り、ナツハゼは人を殺める覚悟がない。だができないとは言っていられない。

 八代がわざとらしいため息をついた。

「私は悲しいよ。よもや学友に銃口を向けられる日が来ようとは」

 ちっとも悲しさなど感じさせない彼の能面のような表情に、ナツハゼは苦い顔をした。そうして余所余所しい敬語は取っ払い、以前ともに都市部の大学で学んでいたときと同じような、砕けた口調に切り替える。

「学友だからこそ、僕が選ばれたんだ。先入観があれば人を見る目は甘くなる。もっとも君は、他人のことなんて興味はないだろうけど」

「よくわかっているじゃないか」

 さも面倒臭そうに、彼は頷く。長話には飽きてきたのだと、態度で、表情で、彼は露骨に表していた。研究以外にはてんで無頓着なこういう人間だからこそ、この分野で並々ならぬ才を発揮できたのだろう。

 だが彼の興味は、及んではいけないところまで及んでしまった。

 ナツハゼは銃のグリップをかたく握りしめ、腹に力を込めて八代を睨む。

「君は道を踏み外した。これは人が触れてはならない領域だ」

「知っているさ、そんなこと。それでも私は必ず成し遂げてみせる」

 八代はことも無げにナツハゼの言葉を肯定する。ナツハゼは眉をひそめ、奥歯を噛んだ。

「……それならやっぱり、君はここで死ぬべきだ」

 ナツハゼは敵から目を逸らさないまま自分と八代との位置を再確認した。ほぼ部屋の対角線上の端と端。出口は八代の背後に一つ、ナツハゼの背後に一つ。

 計画を実行に移そうとした、刹那。

 八代の後ろに無数の警備兵が現れた。彼らの持つ銃の先は、一様にナツハゼの方を向いている。自分の身の安全だとかに関して無頓着な八代でも、さすがに黒とわかっている相手に単身で会いに来るような愚は犯さなかったらしい。

 ナツハゼの目は隠しきれない動揺に揺れたが、彼はすぐさま後ろの扉を開けて部屋を脱出した。

 その背中を眺めやり、八代は眉をひそめる。

 なぜ発砲しない。

 ほんの少しの違和感を覚えたその瞬間、彼の頭は高速で回転し始めた。

 最初から撃つ気などなかったのかもしれない。だとしたら、銃は単なる視線誘導。

 暗い部屋の中に目を凝らし、研究室の奥にある電気分解装置が稼働しているのを知る。これまでは暗くて気がつかなかった。

 八代が来るまでこの部屋は密閉状態だった。装置が発生させている気体は何だ。

 瞬間的に、繋がった。

 水素爆発。

 今この部屋は可燃性のガスと酸素で充満している。少しの刺激でも大爆発に繋がりかねない。例えば靴が床に擦れるのだけでも、充分に起爆剤になる。

 ナツハゼは発砲しなかったのではない。できなかったのだ。

 八代の情報処理の速度は申し分なかったが、さすがに武装兵たちが動き始める方が早かった。

 男たちはナツハゼを追おうと部屋に踏み入る。その背中に、「動くな」と八代の鋭い声がかかった。

 きゅっ、と武装兵たちがはいたブーツのゴム底が床に擦れる。

 爆音が響いた。




 ◇




 遠くで尋常でなく大きな音がした。これは爆発音だと、腕を捻り上げられたままヒイロは判断し、すぐに思考を切り替えた。今は爆発音の正体なんかを気にしている場合じゃない。

 少し離れたところでは、アオイが乱暴に髪を掴まれて苦しげに表情を歪めていた。二人が乗っていた機体は、更に少し距離を隔てたところに転がっている。さすが壁をぶち破るだけあって強度は申し分なく、警備ロボとぶつかった後でもその形を保っていた。アオイが咄嗟に操縦桿を右に切ったおかげで正面衝突は免れたが、機体はバランスを崩して二人は床に投げ出された。そこからはあっという間に包囲され、取り押さえられた。

「逃げようなんて生意気なことするじゃねぇか」

 聞き覚えのある声に顔を上げたヒイロの顔を、硬い靴の先が抉った。

「ヒイロ!」

 悲鳴を上げたアオイの顔を、黙ってろ、と別の武装兵が床に叩きつける。

 眩む視界で捉えた床に、赤い血が滴り落ちた。口が切れたのか、じわりと痛みが広がる。かと思えば乱暴に胸ぐらを掴まれて、ヒイロの頭は必然的に上を向く。

 見下ろして来るのは、つい二日前に彼を痛めつけた男だった。

「抹殺命令が出ている。逃げられて情報を外に洩らされるくらいなら処分しろ、と」

 頭に銃口を押し当てられ、咄嗟にヒイロはその銃を払った。そこで警備兵たちは悲鳴を上げる。

「お、おい、こいつ手錠が」

 一人が気づくと皆が後ずさった。ヒイロを取り押さえている一人を除いて。彼は払われて床に転がった銃を拾いには行かず、ごく落ち着いた動作で少年の首を絞め、持ち上げた。爪先が宙を引っ掻き、ヒイロの体は壁に叩きつけられた。自分の体重がまた自分の首を絞める。苦しげに喘ぐ声は、まるで自分のものじゃないように思えた。

 手は反射的に男の腕に爪を立てるが、それ以上の抵抗はしない。

「ほらな、やっぱり大したことねぇ。火を操るなんてそんな、馬鹿げたことがあり得るわけないんだ」

 強気なことを言いつつ、男の声には安堵した色がはっきり浮かんでいた。アオイが名前を叫ぶのを、ヒイロはぼんやり聞いていた。

 苦しい。

 この苦しさが限界を突破したら、後はもう何も感じることもないんだろう。それならそれで良いと思った。

 思ったはずだった。

 頭の中に人の姿がよぎる。蹲って、血を吐いて、ぐったりと人形のように石の床に倒れ伏した男が。

 閉じてしまっていた目をこじ開ける。

 死にたくない。

 何もないところに火が灯ったような感覚だった。その思いは唐突に彼の中に芽吹き、体の中を埋め尽くす。

 死にたくない。こんなところで終わりたくない。あんな、空っぽの人形みたいな骸にはなりたくない。

 男の腕を掴む手に力を込めた。その瞬間、野太い悲鳴が上がる。その腕を炎が焼き、皮膚を爛れさせる。堪らず男は手を離し、支えを失ったヒイロは床に膝をついた。急速に空気が肺の中に流れ込み、激しく咳き込む。ヒイロと男が離れたのを見て取り、今まで周りで傍観していた警備兵たちが一斉に銃を構えた。それを視界の端にみとめ、彼は即座に自分の周りを炎で取り囲む。本能的な、正しい判断だった。炎で視界が覆われたために警備兵たちは標的をはっきりと捉えられなくなり、銃口を降ろす。この炎の向こうにでたらめに発砲すれば、下手したら同士討ちになる。

 それどころか炎はどんどんその勢いを強くしていった。天井に届くほどに燃え盛り、スプリンクラーも意味をなさない。警備兵たちはやむなく撤退した。

 炎の内側に残されているのはたった二人だった。ヒイロと、そして彼を捕らえていた男。ヒイロは壁際に後ずさって震えている男に一歩ずつ近づいていく。来るな、という悲鳴は聞かず、一歩一歩、確実に。

 今は何だってできる。

 その高揚感が少年を突き動かしていた。

 手枷もない。檻もない。大嫌いで仕方なかったこの男に、好きなだけ仕返しができる。

 今、自分は絶対的な強者なのだ。

 その自覚は麻酔のように強烈で、どんな甘味よりも甘く、彼を酔わせるには充分過ぎた。笑みすら浮かべて近づいてくる少年に、男は引き攣った悲鳴を上げる。少年の痩せ細って筋の浮いた指が、太い首を両手で締め上げた。その指の隙間から、ぱちぱちと炎が漏れ出す。

 絶叫が轟いた。

「熱い熱い熱いっ!放せ、はなせっあづいぃああぁあぁっ!」

 男は必死でヒイロの手を引き剥がそうとしたが、なかなか少年の細い手は離れない。絶対に離さないと、その手は言っている。

 ところが一分もしないうちに彼の意識は混濁し始めた。脳みそがかき混ぜられているような感覚に陥る。

 喉が渇いた。

 漠然とそう思ったときには、ヒイロの体からは大量の汗が流れ出していた。心臓が暴れている。頭が痛い。激しく咳き込み、苦しげに心臓の上を押さえてよろめく。その喉から血が吐き出され、床に点々と緋色を落とした。

「ヒイロ!」

 遠くにアオイの声が聞こえた。

「ヒイロ、それ以上はだめだよ!君が死んじゃう!」

 ところが、悲鳴のような彼女の言葉はまともに頭の中に入ってこない。ただ喉が渇いた。体が熱かった。

 刹那、強い衝撃が、一種の混乱状態に陥っていた彼の頭は一気に冷やした。呆然とする彼の腹部に、熱と衝撃と鋭い痛みが広がる。ゆっくりと視線を下に降ろすと、サバイバルナイフが深々と腹に突き刺さっていた。男が突進するようにしてヒイロを刺したのだった。粗末な布で作られた服に、血の色が広がっていく。あっという間に足元には赤い水溜まりができた。

 少年がよろめいて倒れると、同時に炎は弱まる。スプリンクラーの水が勢いを取り戻してすぐに火を掻き消した。

 その場に倒れ込んだヒイロは、苦しげに浅い呼吸を繰り返す。少し離れたところでは、彼を刺したあと力尽きた男が気絶していた。

 唯一その場に残っていたアオイは、ヒイロに駆け寄ってその腹に刺さったナイフを引き抜く。呻いた彼のそばで、彼女は自分の着ていたシャツをそのナイフでためらいなく引き裂いた。

「いっ……」

「大人しくして」

「……あいつら、は」

「みんな火の勢いに怖がって逃げた。悪いけど、時間ないから手当ては雑に済ませるよ」

 ヒイロが傷によるものじゃない痛みに呻くくらいにきつく布で患部を締め付け、アオイは実に手際よく止血を済ませた。そして彼の体を肩に担ぎ、ビークルまで引きずるようにして運ぶと、エンジンをかける。つかの間不満げな唸り声を上げたものの、機体のエンジンは正常に作動してくれた。

 飛び立ってすぐ、ヒイロは少しの間気を失っていたのかもしれない。それとも出口が予想以上に近かったか。とにかく彼が気がついたときには、冷たい風が頬を撫でていた。街の遥か上空を、アオイが操作する機体は悠々と飛んでいた。

 ヒイロがぼんやりと街並みを見下ろしていると、不意に前方から光が差した。ちょうど、太陽がこの街に朝を連れてきたところだった。その光は、今まで影になっていた部分を明るく照らし出す。街は、東と西とで明らかに様相が違った。西に行くほどビル群は増え、磨かれたガラスの光が反射する。立体道路がぐねぐねと曲がりながら街中を細く走っている。よくわからない形をした高い建物は、何かのシンボルだろうか。それに比べて東側は閑散としていた。建物はいずれも崩れ、まともな形をしたものはない。道も舗装されていないだろうことが、よく見えなくても容易に予想できた。人が住んでいる気配がない。そして東と西、どちらも共通しているのは、緑が全く見当たらないことだ。この街の色を一言で表すのなら、灰色。ひとしく色を失った世界だ。

 これが俺たちのアルカディアなのだ。

 ヒイロは朝ぼらけの街並みと同じように霞みがかった頭で、ぼんやりと考えた。

 嘘と欺瞞で塗り固められた国。枯れゆく末に残ったわずかばかりの緑は排気ガスに曇り、平和の裏には常に抗争を抱えている。

 楽園の名を冠する、どうしようもない国の名だ。




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