第三章 流転する昼 ―指針―
戒はドアを閉めた強さと同じくらい……少しだけ、憤慨していた。
しかし、その怒りも廊下を歩いていくうちに徐々に薄れていく。
そもそも御嶋零華は、そんな人間なのだ。
……そんな事でいちいち怒っていたら、こちらの身が持たないだろう。
それにある意味、彼女のそういう人間性に自分も惹かれたのだから仕方ない。(無論、異性としてでは、全く無い)
その点ではMR社の社員達は全員、『御嶋零華』という女性に……厳密に言えば、その人柄と才能に惚れこんでいるのだ。
過去にMR社を巨大な御嶋零華ファンクラブだと評した人がいたが、その指摘は的を射ている。
御嶋零華を中心に成り立っている企業であるから、MR社は上下の関係が少なく……その分、横の繋がりが強い。
故に背信行為も無いし、派閥争いも無いのだ。それはある意味では理想の会社ではある。
当然、そんな組織ならではの問題も多くあるのだが。
戒がエレベーターの前まで行きボタンを押すと、すぐに鋼鉄の箱はやって来た。
(……あれ?)
なんで、一階からエレベーターがやって来るのか?
啓子は、一般用のエレベーターで帰った筈だ。
だから一階・最上階間のこの直通エレベーターの方は先刻、自分が使った状態のまま……この階になければおかしい。
(……誰かが乗ってくる? 涼子さんか?)
事件の資料を持ってきてくれたのかも、と淡い期待を抱く。
だが、エレベーターから出てきたのは男だった。
その男は戒よりも一回り、大きな体付きをしてはいるが、男にしては肌も白いし睫毛も長い。
髪の色が茶髪でなければ、『高校生』と言っても通用しそうな……優男とでも表現したくなる男だ。
しかし、よく見ると戒には見覚えのある男である。
「……あれ? 久我先輩?」
よくよく見ると戒は、男がつい先刻、零華との話題に上った『先輩』こと諜報課・課長の『久我修司』である事に気付いた。
どうやら私服だった所為で……一瞬、誰なのか分からなかったようだ。
……決して、忘れていたのではない。
「ん? なんだ戒か、どしたんだ? 春休み中のしかも土曜日にこんな所で」
久我は不思議そうに戒の顔をまじまじと見つめた。
誰かと違い、キチンと戒が春休み中なのは知っているようだ。
……でも、自分の職場を『こんな所』扱いなのは、流石というべきだろうか?
「……その、零華さんに……」
「……スマン、みなまで言わんでいい……」
久我は一転して同情的な表情を作ると、戒の言葉を遮った。
毎度のことながら、急に呼び出されたのを理解したのだろう。
「そういえば、先輩はどうして? 出張してたんじゃないんですか?」
「ん? ……いや、長崎支社への出張は昨日に終わって、今日は休暇なんだが…顔出すついでにお土産を社長や涼子ちゃんに……ほら、コレ」
久我は右手に持った紙袋を左手で指差して言った。店の名前とロゴマークが印刷された紙袋。
どうやら、長崎が誇る銘菓カステラのようだ。
「そうだ、お前……昼飯まだか?」
「へ? まだ、ですけど……?」
昼食の準備をしようとした、まさにその時に零華からの電話があったので……結局、昼食は食べていない。
本格的な捜査をする前に、何か食べておいた方がいいだろう。
「よし。なら、食堂で一緒に食わないか?」
「え、食堂ですか?」
久我の言う『食堂』というのは、このビルの三階にある、社員食堂の事だ。
社員食堂というのは、会社から補助が出ているので大概、そこいらのレストランより、同じ美味さで安いか、同じ値段で美味い。
そして、MR社の社員食堂も例に漏れず、安くて美味い。
だから戒も社員食堂自体に文句がある訳ではないのだが、一人暮らしをしている戒としては予定外の出費は避けたい所だ。
「………………奢るぞ?」
戒の考えを察したのか久我は、そんな甘い言葉で誘惑した。
「さぁ、行きましょうか」
その間、約一秒。
一人暮らしの人間は『奢る』という言葉に例外無く、弱いのである。
「早っ! 他愛もなく引っ掛かるな……別にいいけど。
まあ、先輩として後輩に奢るのは、先輩としての当然の義務だしな」
久我は満足そうに頷いた。
ちなみに戒と久我の間に先輩・後輩の関係性は特に無い。
だが、久我の戒への態度や行動はまさに『先輩』だし「零華にいいように使われている」という点では、ある意味先輩である。
……とどのつまり似た立場の二人なのだ。
「実に素晴らしい義務ですね。
……でも零華さんに会わなくていいんですか?」
「いいよ、別に。
お土産は、後で涼子ちゃんにでも渡しておくからさ。
それに、社長の事だから……俺の出張先すら曖昧だろ?」
「……はい、忘れてました」
久我は「やっぱり」と肩をすくめた。
「……余計な仕事を押し付けられたくはないし……」
久我は、そう小声で呟きながら、食堂へ行く為に一般エレベーターに移った。
実際に『押し付けられた』戒は苦笑しながらも、それに続く。
MR社が誇る社員食堂は、三階フロアの実に三分の二を占めている。
その内装は、まず中央に三十人が優々と座れる二つの長テーブルと椅子。
窓際にはレストラン風のテーブルセット。残りのスペースに丸テーブルとパイプ椅子の組み合わせの物が、ずらっと並んでいる。
これが普通の企業なら、土曜日ともなると社員食堂は閉まっているか、ガラガラかのどちらかなのだが……。
探偵社には、曜日や休日は関係ない為、今日も社員食堂はフル稼動だ。
食堂の二つある入り口のそれぞれには数台の食券販売機が設置されている。
なにぶん、入る客もメニューもかなり多いので、一、二台では足りないのだ。
久我と戒は入り口から一番、近かった販売機の前に立った。
久我は財布を取り出して中から、既に絶滅危惧種と言える、幻の二千円札を取り出すと、皺を丹念に伸ばして販売機に呑み込ませた。
「何にする?」
「えーと……じゃあ、コレで」
訊かれた戒は、しばらく考えてから、ランプが光るボタンの一つを押した。
『酢豚定食』
酢豚にご飯と中華スープ、ザーサイが付いた中華系の中でも特に人気の定食だ。
一方、久我は戒が押したボタンよりも、かなり下に位置したボタンを押した。
社員の中で、『Dゾーン』と呼ばれ、多くの社員達を恐怖のどん底に陥れる、魔のメニュー達である。
ここの社員食堂のメニューは半分は至って普通のメニューなのだが、残りの半分は違う。
当たり外れの激しい、郷土料理や御当地メニュー。……そして、社長である零華が思いつきで加えた危険なメニューによって支配されている。
「…………あれ?」
固唾を飲んで出てくる食券を見守っていた戒だったが、出てきた食券は、ある種の期待を裏切り『蜆ラーメン』だった。
どうやら、危険メニューではなく、ご当地メニューの方だったようだ。
「……あの、先輩? 何でまた『蜆ラーメン』なんですか?」
「ん? ……探偵のくせに分からないのか?」
戒は理不尽な批判を受けた。
いくら戒でも、蜆ラーメンを食べたくなる理由は推理どころか、予想も出来ない。
っていうか、探偵は関係ない気がする。
「……皆目、見当もつきません」
「俺は、何処に出張してた?」
「……長崎ですよね? カステラがお土産だったし」
逆にカステラが土産なのに行き先が長崎じゃなかったら……かなりの驚きだ。
「あぁ、長崎支社の視察だったんだが……それじゃあ、蜆ラーメンは何処の料理だ?」
久我は訊きながら、単品メニューの『餃子』のボタンを押して食券を取り出した。
「……確か、東北の……青森でしたっけ?」
「正解。じゃあ、分かるだろ?」
しかし、戒には全く分からない。
青森と長崎に一体なんの関係があるというのか?
「冬にアイスとか冷たいモノが無性に食いたくなったりするだろ?」
「はい? ……確かにありますけど……?」
だからと言って、夏に鍋焼きうどんを食うのは、我慢大会参加者だけだろうが。
「つまりは、そういう事だな」
言いながら久我は、食券を持ってカウンターへと歩き出した。
そして、後を追いかける戒の脳裏に一つの仮定が生まれた。
しかし、その仮定は……あまりにもくだらな過ぎる。
「……もしかして、長崎に出張していたから、ちょうど反対側の青森の料理が無償に食べたくなったとか、言うつもりですか?」
「お、正解!」
振り向いた久我は、ニヤリと笑って言った。
戒は突発的に久我を殴りたい衝動に駆られる。
「なんですか、それは!? 真剣に考えて損しましたよ! っていうか、先刻のアイスの話、全く例えになってないじゃないですか!」
「……そうか? いい例えだと思うんだが?」
戒は叫んだが、久我は笑って聞く耳を持たない。
どうやら、からかわれていたようだ。……久我のそういう所は、零華と少し似ている。
「お姉さーん! 酢豚定食と蜆ラーメンと単品で餃子、お願いしまーす」
久我は、カウンターまで行くと、中で目まぐるしく動き回るコック服の女性に食券を差し出しながら、そう呼びかけた。
「え? あらやだ、お姉さんだなんて……ん?
……なんだ、久我君か。
そんな見え透いてるお世辞を言っても、オマケなんかしないからね! まったく……」
女性『橘梢』は頬を染めて照れたが、発言の主が久我だと分かると一転して怒鳴り、久我から食券をもぎ取った。
……しかし、その顔は……何というか、満面の笑顔だ。
「先輩……さすがに、お姉さんは……」
その後に続くであろう「無理がある」という言葉までは、声に出さない。
「……なんでだ? 女性の美しさを評価するのは、全ての男の永遠の義務だぞ?」
久我は「美しさ」をやけに強調しながら、それを『誰か』に聞かせるように言った。
「確かに、橘さんは美人ですけど…」
「そうだろ? 美人だろ? なら年上の美女は例外なく『お姉さん』だ」
今度は、奇妙な理屈と共に「美人」と「美女」を強調して言う。
「でも、さすがに同級生のお母さんを『お姉さん』って呼ぶのは、ちょっと……」
MR社の社員達の胃袋を支える、社員食堂・料理長の橘梢は、バツイチ子持ちの快活な女性だ。
今年17歳になる彼女の一人娘は戒とは去年、同じクラスだった。
彼の通う洸聖高校は、基本的にクラス替えがないので明後日からの新年度も同じクラスの筈である。
……いくらなんでも同級生の母親を『お姉さん』とは、呼べないだろう、普通。
「もう……いいのよ、神堂君。私だって、もう四十近いオバサンなんだから……久我君みたいにわざわざ見え透いた、お世辞なんて言わなくても」
カウンターに料理を置きながら、彼女は娘の同級生に暖かい視線を、一方の久我には冷たい視線を送った。
なのだが、置かれた料理は明らかに変化している。
蜆ラーメンは妙に蜆が沢山、上に乗っているし、酢豚も盛りが多い。
餃子は本来、六個の筈なのに、二個も増えて八個の餃子が皿に乗っている。
「………………すげぇな、おい」
それを狙って、彼女を褒めた張本人の久我もあからさまな効果に少々、面食らっている。
無意識に戒が、久我の『作戦』に協力するように会話していたのも、効果的だったようだ。
やはり、女性という生き物は歳を取ろうが子供を産もうが、美しさを褒められる事が、純粋に嬉しいのか……。
戒は、そんな女性の心理の不変さに一人、感嘆していた。
戒と久我は、やけに豪華な昼食を持って、座れそうな席を探した。
中央にある、二つの長テーブルの廊下側の端が空いている。
二人はそこに腰掛けると早速、料理を食べ始める。
麺をニ、三度啜った久我は、思い出したように話し出した。
「ところで、戒。零華から何の仕事を頼まれたんだ?」
「えっと…………」
どう説明すべきか、戒は迷った。
自分に依頼が回ってきた理由……戒の持っている力について、久我は知らない。
そして、その点に触れないように事情を説明するのは至難の業だ。
迂闊な事を話せば、全てが一気にバレる恐れがある。
「何だ? この先輩にも話せない事件なのか? ふ〜ん…………内緒にされると、逆に気になるな」
「え?」
「ホラホラ、話しちまえよ。全部、吐いて楽になったらどうだ? ………………」
「え、あの……その」
「…………………………」
戒の煮え切らない態度に好奇心を刺激されたのか、久我は無言の圧力を掛けて、話を促してくる。
次の瞬間、ゴンッという音と共に久我の後頭部に書類用のファイルがめり込んだ。
その衝撃で久我は目の前にあった、蜆ラーメンのスープの海へと、勢いよくダイブする。
「また、アンタは馬鹿な真似をして……」
沈没? した、久我の頭にグリグリとファイルを押し付けていたのは、社長秘書・檜山涼子嬢だった。
その様子は、普段の冷静沈着な社長秘書のそれとは異なり、付き合いの長い、男友達や出来の悪い弟と接するような感じにしか見えない。
「ばびぶんぼ、びょうぼびゃん!」
「…………は?」
久我はある意味、『水中』にいるので、その言葉は全然伝わらない。
仕方が無いので、戒は通訳に徹することにした。
……なんで久我の言っている事が分かるのかは謎だが。
「えっと、通訳すると『何すんの、涼子ちゃん!』だそうです」
「神堂君、よく解るわね……。
何すんのって……守秘義務があるのに無理矢理、事件の情報を聞き出そうとする、アンタがいけないんでしょ?
反省しなさいよ、反省を」
涼子は言いながら、ベシベシとファイルで久我の頭を叩いた。
「びばびぶびび、ばべっべびばぼび、ぼべばびょっぼ、びぼびんびゃばび?」
聴いていると頭が痛くなってくるが、戒は我慢して通訳を続ける。
「……今度は、『久しぶりに帰って来たのに、コレはちょっと、ひどいんじゃない?』と、言ってます……っていうか、そのままじゃ死んじゃいますよ!」
久我の生命の危険を感じた戒は、慌てて涼子を止めた。
……もう少し、放って置いてもよさそうだったが。
涼子は不満そうだったが渋々、久我を解放した。
「ゴホッゴホッ……し、死ぬかと思った……。
ちょっと、涼子ちゃん! これが同期に対する仕打ちかよ!?」
久我は咳き込んだ後、ハンカチで顔を拭いながら涼子に猛抗議した。
もし、このまま死因が『蜆ラーメン』での溺死にでもなったら、死んでも死にきれないだろう。
「くだらない事してる暇があるなら、社長室の隣の零華の私室の掃除でも手伝いなさいよ!
あの部屋の掃除は、猫の手でも借りたいんだから!」
零華の私室は、彼女の性格と家事スキルの欠如によって大変な状況になっている。
「げっ……あ! 俺、これからルネッサンスに行くんだった。
……じゃ、そういう事で」
苦しすぎる言い訳で逃走を図る久我の首根っこを涼子は、ガシィッと掴む。
「…………ニ、ニャー?」
久我は、咄嗟に猫をかぶった。
……いや、少し違うか?
「ニャー、じゃない! まあ、ちょうどいいわ。一応、猫の手だし」
「…………猫に手は無いワン。あれは足だワン」
久我は、揚げ足を取りながらも犬をかぶった。
……いや、言わないか?
「……別に犬の手でも足でもいいから、とにかく来なさい」
抵抗を続ける久我を涼子はズルズルと引きずっていく。
心優しい戒は、それを引き止めずに最高の笑顔で見送ってやった。……さらばだ、先輩。
「……うぅ、俺、今日は休暇なのに……戒!
料理は、そのままにしとけよ!
あと、餃子は半分、残しておけ! 俺の分まで食うなよ!
アイ・シャル・リターン!」
連行される久我は、最後まで料理の心配をしている。
それも悪役の断末魔のような台詞付きで……それ以前に自分が顔面を突っ込んだ、ラーメンを未だに食う気でいるらしい。
戒は呆れながら餃子を一個、口に入れた。
……一応、半分は残しておこう。
久我が涼子に連行されてから三分が経過した。
戒は自分の酢豚定食と餃子を半分の四個、キレイに完食し、食後のお茶を飲み寛いでいた。
既に久我のラーメンは伸びているけど。
(……そういえば涼子さん、先刻は何しに来たんだろう?)
よもや、久我にツッコミを入れる為だけに来たとは思えないのだが……。
と、そこまで考えて、戒は大事な事を思い出した。
そう、涼子は戒に事件の資料を持ってきたのだ。
久我の頭を叩いていたファイルがそうなのだろう。
久我の所為? で、涼子も戒もすっかり忘れてしまっていた。
どうしようか? と戒が悩んでいると、前方からズズッーと麺を啜る音が聴こえてきた。
「せ、先輩? い、何時の間に!?」
前方では、連行された筈の久我が復活し、ラーメンを啜っていた。
「……不味い……伸びすぎだな……」
いや、それは当たり前である。
……よく見ると、久我の手には涼子が持っていたファイルが握られている。
「先輩、涼子さんに連れて行かれたんじゃ? それにそのファイル……」
「ん? あぁ、カステラ渡して、気を逸らした隙に逃げてきた。これは戦利品な」
は蜆ではなく、あさり……もとい、あっさりと言った。
どうやら、お土産のカステラをあろうことか逃げる為のオトリに使ったらしい。
「……スったんですか」
「人聞きの悪い事を言うなよ。
お前にファイルを渡すのを忘れた、涼子ちゃんが悪いんだから」
言いながら、久我はファイルの中の書類を取り出し、テーブルの上に置いた。
そして戒に許可も取らず、勝手に書類を読み始める。
「……ふむふむ。ん? 暴行を受けて……自殺……?」
警察の捜査資料にざっと目を通した久我は不満そうな声を上げた。
口は伸びたラーメンを啜り続けているが、その瞳は『探偵』の眼光へと切り替わっている。
「……そうなんです。警察は自殺と判断した事件なんですよ」
戒も先刻までの久我との遣り取りで、完全にOFFになっていたスイッチを再び、ONへと切り替える。
「ふん、警察は直に自殺で片付けたがるな。……それに今時、そんな純真な娘がいるのか?」
言い方は少々あれだが、その指摘は的を射ていると戒も思った。
少なくとも自分や久我の周りにいる女性は、そんなに弱くは無い。
まぁ、自殺する前に犯人の命が無いだろう。
問題なのは『被害者』の藤原春奈が自殺を選んでしまう女性だったか、である。
「母親の啓子さんは、『強い娘』だって言ってましたけど……」
資料に添付されている、写真の中の藤原春奈という少女は、明るい笑顔が印象的で芯の強さが感じられる。
……この少女が既にこの世にいないと思うと、この笑顔までもが、どこか悲しいものに見えてくる。
「なぁ、戒。秀才と天才の違いが解かるか?」
餃子を一つ、口に放り込みながら、久我は戒に問い掛けた。
「…………えっと、天才は才能で秀才は技能……かな?」
そんな突然の質問にも、戒は戸惑う素振りを見せずに少し考えた後、そう答えた。
「正解。なら、学校の試験での秀才と天才の見分け方は解かるか?」
久我は、戒が正解を言うのを見越していたかのように次の質問をする。
「それは試験の点数……あれ?」
そう答えてから、違和感に気付く。
「そう、優劣での判断は難しいな。両方とも、能力的に満点を出す事は可能だから」
戒の疑問点が話の『主題』だったようで、久我は嬉しそうに頷きながら言った。
「ですよね…………なら、どうやって判断するんですか?」
「……いいか? 天才は努力しなくても満点が取れる、秀才は努力をして満点を取る。
でも『本当の天才』達は、『狙って』一定の点数を維持するんだ……七十点とかな」
戒は久我の言葉に少なからずの衝撃を覚える。
「え…………それって……わざと手を抜くって事ですか?」
「手を抜くというのは、少し違うかな。この場合は点数を調整する、って言った方が正しい」
そう言って、久我は苦笑する。
「なんで、そんな事を……?」
「秀才と天才では、その目的が異なるからだ。
……これは、試験に対する価値観の違いと言い換えてもいい。
秀才は『高得点を取る』とか『良い成績を残す』なんてのが目的だから、全力で頑張る。
でも天才は、その気になれば、簡単に満点が取れるから、点数に価値を求めない。
しかし、だからと言って普通に満点を取り続けていると、自分とは関係の無い所で、思わぬ問題が発生する…………何だか解かるか?」
「嫉妬……ですか?」
「そう! だから、天才達は手を抜くんだ、目立たぬように。
加えて言うなら、『価値』を感じない成績なんて物に余計な波風を起こされる方が嫌なんだよ、本物の天才ってのはさ」
「……それで結局、先輩は何が言いたいんですか?」
ここまでの久我の話は、何かしらの『アドバイス』の前フリなのだろう。
「一つ目は、我が社の社長殿も『天才』だって話。それも、どっちかと言えば芸術とか、右脳系の『天才』だな。
まぁ、あんな性格だから、妬まれたり、恨まれたりってのとは全然、縁が無い奴なんだけど。
二つ目は……天才も秀才も基本的には『プラス』の要素だけど、それが憎しみを呼ぶ事もあるって事。
公明正大な人物だからと言って、殺される可能性はゼロじゃない」
二つ目の言葉は、戒にとっては一つの光明であり、指針だった。
「恨まれないような人間だからこそ、羨望や嫉妬が殺意になる……?」
「逆に愛情や友情も行き過ぎれば、毒になる…………結果、人が死ぬ事もある。
この事件、他殺の線から調べるんだろ? そういう角度から攻めた方が、多分イケそうだぞ」
「そうですね、分かりました。その方向で調べてみます。……先輩は、これから?」
「悪いけど手伝えないぞ? 俺は、これから社長の私室の掃除なんでな」
「え? 結局、手伝うんですか?」
久我は何故か、カステラをオトリにしてまで必死に逃げようとした、零華の私室の掃除をこれからするつもりでいるらしい。
……それも自主的に。
「……別にいいだろ? 少しくらい手伝っても。
そうそう……タクシーの手配しておくから、乗って行くといい」
「タクシー?」
「この娘が亡くなった、鬼灯町の現場、見に行くんだろ? 割と遠いから、足が無いとツライぞ」
久我は頬を掻きながら、書類を指差して言った。
「あ、ありがとうございます。助かります」
「気にすんな、これも先輩の義務だよ」
久我は、この男にしては珍しく照れた様子を見せると、さっさと食堂を出ていく。
(なんだかんだ言っても、先輩って基本的にお人好しなんだよな……)
久我の後姿を眺めながら戒は、そんな感想を抱いた。
久我修司という男は、ふざけたり、抵抗する姿勢を取りながらも、最終的には結局、自分から人の面倒を看てしまうのだ。
久我の姿が見えなくなると、戒はテーブルの上に広げていた資料をファイルに戻した。
そして、食べ終えた食器をカウンターに返すと、久我の後を追うようにして食堂を出た。
今回、登場した『先輩』こと、久我修司。
色々な意味で秘密の多い男です。
この辺から、後々の話への複線が目立ってきます。
注意して読んでくれると嬉しいです。
今回は、過去編も一緒に投稿予定です。