第一章 始まりの朝 ―転機―
200×年四月八日 午前七時二十三分
それは、夢だった。……いや、夢の筈だ
それが少年が覚醒し、思考を巡らせ、導き出した最終的な結論だった。
人間は、夢を見る動物だ。
当然、彼……『神堂戒』も、その例に漏れることはない。
しかし、考えれば考えるほど、自身の味わった感覚に違和感を覚えた。
現在、十七歳になるまでに夢は何度も見た。
思い出したくも無いような光景を見て、朝から吐き気を催したことも、一度や二度の事じゃない。
それでも、今まで見ていた光景は、明らかに従来のそれとは異なっていた。
夢というのは基本的に、自身の内から生ずるものだ。
記憶・願望・空想・現実。それらが複雑に絡み合い、混ざり合って一つの映像を作り出す。
……それが夢という現象なのだ。
だが、これはなんだ?
夢が自身の内から生まれる以上、記憶でも失っていない限り、夢の内容やその夢を見た原因に何かしらの心当たりがある筈なのだ。
……少なくとも、その断片くらいには。
にも関わらず、戒には自分が視た夢に、一切の心当たりが無かった。
しかも、こうして思考を巡らしている間にも、その夢の記憶は氷が溶けるように消えていく。
かろうじて覚えていることは、夢に出てきた場面が、何処かのビルの屋上だったということ。
……そして、もう一つ。
頬に残る、涙の痕。
それが示すのは、堪えられない悲しみの衝動だろうか。
……まるで誰かの心の声に共鳴したかのように、自然に流れたモノ。
(もしかして…………予知夢……?)
無論、彼に予知夢の経験などありはしない。
しかし、戒は直感的に自分の視たものが、未来か過去の映像のように感じられた。
…………いや、そうだと確信していた。
それは普通の人間なら、非科学的だと言って、断じてしまうような考えだ。
しかし戒は、どんな事象においても一方的に否定はせず、可能性を残しておくような考え方をする。
それは彼自身の性格故の考え方だが、予知夢とは別の『異能』を知っている、彼だからこその姿勢であるとも言える。
(……でも、内容を覚えていないんじゃ、予知夢の意味が無いよな……本末転倒だ)
そう思い、戒は嘆息する。
結局の所、内容がはっきりしない夢に大して価値は無い。
仮に予知夢だったとしても、何を予知したのか判明しなければ、どうしようもない。
「…………とりあえず、起きよう」
まだ少し、夢の内容が気になる戒は気持ちを切り替えるように呟くと、少し濡れた目を擦りながら布団を抜け出した。
丁寧に掛け布団を畳み、枕と一緒に敷布団の上に乗せる。
そして、枕元に置いてあった目覚し時計を止めておく。
元々、戒の寝起きは悪くないので目覚まし時計はいらないのだが、土日にはセットしておくのが、彼の習慣だった。
もし、彼が普通に学校に通う、ただの高校生ならば、休みの日にまで規則正しい生活を心がけたりはしないだろう。
でも彼の場合は、普段の学校生活に加えて日々の生活費の為に働いている。
だが、働きながら学校に通う子供は、現代社会では割と珍しくない。
問題は彼の職業が、不規則極まりないことにある。
「さて、と」
戒は眠気を払うように軽く体を捻ったり背伸びをしながら、寝室として使っている和室の戸を開ける。
そして欠伸を噛み殺しながら、リビングに出る。
現在、戒が一人で暮らしているこの部屋は、一人暮らしには不似合いな5DKである。
洋室が二部屋と和室が三部屋、そしてダイニングキッチン。加えて風呂・洗面所・物置などの設備も一通り揃っている。
……その上、エアコンも完備である。
本来なら、十七歳の高校二年生の少年が暮らせるような部屋ではないが、その理由も彼の仕事に起因する。
実際の所、戒が使っているのは和室と洋室が一つずつで、他の三部屋は空いている。
でも時折、泊り客が来るので、基本的に部屋は何時でも使えるようにしていた。
戒は、テーブルの上に置いてあるリモコンを手に取り、テレビの電源を入れる。
画面が明るくなる前に、和室へと戻る。
バルコニーに面した出窓を開けると、部屋と肺の中に朝の清涼な空気をたっぷりと取り入れた。
〈神郷市の前市長・矢島健三氏が心不全で亡くなってから三日が経ちました〉
そんな言葉から朝のニュースは始まっていた。
数日前から、一日一回はこの件に関するニュースをやっている。
〈矢島氏の葬儀は、昨日午前十一時から執り行われ、葬儀には多くの親戚や政界関係者が参列し、その中には市長選への立候補が噂される、三名の姿も見られました〉
そういえば、来週には神郷市の新しい市長を決める選挙が行なわれるというのを小耳に挟んだ記憶がある。
まぁ、投票権の無い十七歳には関係の無い事だが……。
しかし、いずれ学生にも選挙権が認められる社会になるかもしれない。
(そうすれば、学生で構成される投票組織ような団体が生まれて、政界へと影響力を持ったりもするのかな?)
戒は一人、ニュースを聴きながら……ふと、そんなことを思った。
『近頃、神郷市・鬼灯町で同じ不良グループ内での複数の暴力事件の目撃情報が寄せられています。現在の所、一般市民への被害は出ていないようですが、地域住民の方は……』
いつの間にか始まっていた、次のニュースを気持ち半分で聴きながら、朝食の準備を始める。
メニューは、サラダ、コーヒー、トースト、目玉焼き、と簡単なものにした。
朝食を摂りながら、戒はぼんやりと今日一日をどう過ごそうか考えていた。
(まず、部屋の掃除に洗濯。食料の買出しにも行きたいし……あ、それに風呂掃除もしておかないと……)
『一人暮らし=自立』ではないと、誰かが言っていた。
そういう意味では、戒は完全に自立した生活を営んでいると言える。
……少し、思考が主婦化しているのが問題だが。
それに健全な高校二年生の男子が、有意義な休日を専業主婦のように家事のみに費やすというのは、ある意味では暴挙のような気もする。
「とりあえず、掃除からかな……」
食事を済ませ、洗い物をしながら戒は呟いた。
近所のスーパーのタイムサービスまで、かなりの時間がある。
先に風呂掃除と部屋の掃除を済ませた方が効率的だ。
戒はそう判断すると廊下の物置に入っている掃除機を取り出して、コードをコンセントに差し込んだ。
この掃除機は以前、深夜にやっていた外国人のテレホンショッピングで他の商品と一緒に衝動買いした品である。その機能よりも、トークの巧さで買わされた感は拭えない。
戒は部屋の隅々まで掃除機をかけながらも、頭の中では買い物の予定を立てていた。
常に一歩先の事を考えておくのは、効率的で無駄のない行動をするのに役に立つ。
しかし、せっかく立てた予定も、すぐ無駄になるという、悲しい現実が待っていた。
午前十一時を過ぎ、部屋の掃除と風呂掃除、そして洗濯が終わり、その洗濯物を干している時に、その電話はかかって来た。
バルコニーにいた戒は、慌ててリビングに戻って受話器を取る。
「はい、もしもし? 神堂ですが」
戒は、自然に自分の口から出る『神堂』という苗字に小さな違和感を覚えながらも相手の第一声を待った。
電話口から飛び込んできたのは、女性の声。
《十五分以内に来なさい。……いいわね?》
電話の相手はそれだけ言うと、電話を切った。ピッという機械音が妙に響く。
(……な、なんていうか……スゴイ電話だよな……)
受話器を置いた戒は、どこからツッコミを入れるべきか真剣に悩んでしまった。
第一に電話の相手は、名乗っていない。
これは……かなり重要だ。相手が誰だか分からないと、以降の会話が成立しない。
……会話という表現にも疑問がある内容だけども。
第二に受け手を確かめていない。
つまり『〜ですか?』という確認が省かれている。
戒の場合、一人暮らしだから問題ない訳だが、複数の人間が暮らす場所に電話をしたら、普通は用件のある相手かどうかを確認するだろう。
第三に『来なさい』と要求しているにも関わらず、肝心の『場所』を指定していない。
これでは何処に行けばいいのか皆目、見当も付かないだろう。
挙句の果てに『いいわね?』と確認する姿勢を装ってはいるが、こちらの返答を聞かずに電話を切っているのだから、完全に無意味だ。
むしろ、最初からこちらの都合なんて、気にも止めていないのがモロバレである。
警察の捜査規範に『5W1H』の情報を明確にする、というのがあるが……。
この電話には5Wの中の『when』……つまり『何時』ぐらいしか情報が含まれていない。
これほど無礼で決定的に情報が欠如している電話も珍しい、と逆に感心すら出来る。
……とはいえ、心当たりの無い普通の人なら、間違いなく無視したくなる部類の電話に入る事だけは確かだ。
……そう、心当たりが無ければ。
ただ……残念なことに心当たりがある戒は、不本意ながら、出掛ける用意をしなければいけない。
……それも早急に、である。
「仕様が無いな……えっと、十五分か……とにかく、服を着替えないと
」
現在、着てる服でも別に構わない気がしたが『仕事』である以上は、それなりに整った服装で赴くべきだろう。
……文句を言われたくないし。
早足でリビングを出た戒は、自室として使用している洋室へと入ると、部屋の奥にあるクローゼットを開けた。
そして一番手前に掛けてあった学校の制服を手に取る。
新年度を前にクリーニングに出していたので、全体がパリッとしている。
「……これが一番、分かりやすいよな」
未成年の礼装として、一番の便利さを誇るのは、過去も現在も学校の制服なのである。
黒を基調とした生地に十字を思わせる白のラインが入ったデザインは、シンプルながらも生徒達に人気がある。
戒は制服の袖に腕を通しながら、壁に掛けられた時計を確認する。
「急がないと……あと、十分もない」
着替えと簡単な荷支度を済ませて、玄関を出たとき、既に電話がかかって来てから五分が経っていた。
目的地までは五分もあれば大丈夫だろう、と戒は少し安堵しながら、鍵を取り出す。
そして、しっかりと玄関の鍵を閉めた。
「……『神堂戒』……か」
玄関に取り付けられた表札。そこに記された名前を見ながら、感慨深げに戒は呟く。
そして、淡い微笑を浮べると、ゆっくりとエレベーターホールに向かって歩き出した。
やっと本編の始まりです。パチパチパチ……!
ここまでは、数時間のうちに一気に投稿した訳ですが……。
これ以降は、少しずつ着実に更新していきたいと思います。
急ぎ過ぎて、息切れしてもアレなんで。