プロローグ
…………一歩、また一歩。
僅かな星の光すら届かない漆黒の空。
とある街の郊外にある廃ビル。
そこの屋上を高校生くらいの少女が、沼に嵌ったような重い足取りで進んでいく。
まだ幼い少女の瞳は暗く染まり、そこからは一切の光と意思が奪われている。
さらに少女の服は、ズタズタに引き裂かれ、体を隠すという、服としての本来の役割は全くと言っていいほど果たせていない。
露出した白い肌は、この闇の中で、その白さを病的なまでに増しているようにも見える。
…………一歩、また一歩。
少女の明らかに『異常』な身なりは、彼女の身に起きた『何か』を明確に示している。
そのことを踏まえれば、こんな深夜に年頃の少女が、こんな場所に一人でいるという、明らかな『異常』にも納得がいく。
大抵の人間ならば……そんな風に考えるだろう。
しかし、この廃ビルの屋上は、少女の『異常』を呑み込んで、霞ませてしまうような、さらなる『異常』な状況に包まれていた。
世界に〈色〉が無いのだ。
廃ビルの屋上だけが、周囲の空間から隔絶されるように、全ての〈色〉を失い、白と黒だけの世界になっている。
色覚異常の人間が目にする世界のように、濃淡しかない空間。
『正常』と『異常』の境界線は、白と黒が絵の具のように混じり合い、霞み、歪んで、濁った〈灰色〉を生み出している。
…………一歩、また一歩。
これほどの〈異常〉の中にいながらも、少女は動じるでもなく、恐怖する訳でもない。
少女は、ただ歩みを進めるだけである。
まるで誰かに……そうする事を命じられているように。
…………一歩、また一歩。
次第に少女は、『異常』と『正常』の境界線へと近づいていく。
ここは、築数十年が経過している廃ビルだ……屋上の柵は腐敗し、壊れている。
少女を阻む物……止めてくれる物は、何も無い。
…………一歩。
突然、少女の歩みが遅くなった。
しかし、表情には変化が無い。
されど、その歩みには確実に遅くなっている。
それは何かに抵抗しているかのように見える。
だが、歩み自体が止まる事は無い。
遂に、少女は『異常』と『正常』の…………いや、『生』と『死』の境界線に辿り着いた。
そこで彼女の動きが完全に停止した。
だが、その体は小刻みに震える……それは、寒さや恐怖から齎されているモノでは無かった。
少女の震えは、拮抗する二つの力から発生するモノ。精神と肉体……この二つである。
肉体が精神に反しているのか、或いは精神が肉体に反しているのか。
似たような言葉でありながらも、その意味する所は大きく異なる。
だが、その答えを知る者は、この場にはいない。……彼女を救える者も。
……先に動いたのは肉体だった。
少女の右足が『正常』と『死』の世界へと一歩を踏み出すべく宙へと浮いた。
だが、彼女の足は闇の手前で沈黙した。
少女の精神が肉体の行動を拒んだのだ。
生きたい。
瞳に小さい光が燈った。全ての生命が生まれながらに持っている本能。
生きたいという、微かに生まれた意志。
だが、ようやく形を成した、その感情は、あまりに脆弱で儚い。
負けたくない。
このまま死ぬなんて……嫌だ。
例え、肉体が自分の言う事をきかずとも心は屈しない、屈したくない。
少女から生まれた、その感情も、簡単に闇に塗り潰されていく。
会いたい。
母の優しい温もりを感じる。
小生意気な弟の声が聴こえる。
今は亡き父の面影が思い出される。
……そして、一人の少年の横顔。
…………助けてなんて言わない……でも。
伝えないと。
自分は、生きようとしていたと。自分は、負けなかったと。せめて、それだけは。
その強い願いは少女の体に変化を齎した。
少女の両腕が『原因』へと伸ばされる。
そして、少女は自らの首を全力で引っ掻いた。
薄いピンク色の爪に肌の皮膚と赤い液体が入り込む。首筋からも鮮血が流れた。
本来なら痛みを感じる行為も、肉体が少女の支配化を逃れた今は、少女に痛みを伝えない。
あの人は。
自分が死んだら彼は、どんな反応をするのだろう?
泣いてくれるのだろうか? なら、少しは報われる。
結局、一言も自分の気持ちを伝えられなかった。
心残りといえば、それぐらいだろうか……?
ずっと……ずっと、言いたかった。でも、もう遅い。
ずっと、好きだったんだよ?
少女の最後の言葉は、漆黒の闇へと溶けて……そして、消えた。
やっと、プロローグです。
いきなり、暗いというか悲しいシーンから始まりましたね……。
これは、この作品のテーマというか、方針なんですが。
例え、人が死んでしまっても……そこには何らかの『救い』があるようにしていきたいと思っています。
本当は誰も死なずに平和なのが一番なんだけど……。
人の死に意味などないのでしょう。
でも、意味がないからこそ、そこに価値を求めたい。
そういうモノじゃありませんか?