episode3『運命の交錯』
三次関数なんて社会で使うのか否か。難しい問題ですよね。
白摩零は何処までも白い世界を漂っていた。左右上下見渡しても、白、白、白の一色。身体はなく、意識だけが彷徨っているような感じだ。ゆらゆらと揺らめき自己と他との領域が怪しくなる。此処はどこなのか、自分は誰なのか、記憶に靄がかかったようにも思える。
ただ、強き己を手に得れるため新しくした今の名と、涙と共に捨て去り胸の奥底に刻まれたもう一つの本当の名。そして大好きで仕方がなかったあの人の名前だけは、はっきりと思い出すことが出来る。
『大丈夫、××は私が必ず守ってあげるから』
顔にかかった生暖かい液体と鼻孔を刺激する鉄のにおい。暗い部屋で“彼女”の柔らかな胸の中に抱きしめられながら、白摩は呆然としているしかなかった。 それは現実に目を瞑り“彼女”優さに甘え、溺れ、総てを他人に押し付ける最も愚かな選択。
この時のことを、白摩は何万回後悔しただろうか。何度何度も壁に頭を打ち付け額を割ったことは数知れず。
だが、幾度となく自らを痛めつけても、罪悪感の楔から逃れることは叶わなかった。そして、罪から目を逸らし逃げようとした自分に堪らなく嫌悪し反吐が出そうになる。黒梛悠に会わなければ、白摩は悪循環と云う牢獄に今でも捕らわれていただろう。
時間の概念すら定かでない、白い空間と対照的な昏いドロドロした感情が、身体の内を這いずろうとしたとき、ふと、白摩の意識の前に青い光の粒が浮遊してきた。
青い粒子はゆらゆらと螺旋を描くように浮遊し、やがて白摩の意識上の目の辺りまで来ると突然弾けた。
パァン、と硝子が割れたような音が響くと、24インチテレビ画面程の青白いスクリーンが現れた。 途端、辺り一面に広がる花畑と白いドレスを身に纏いアクアブルーの髪を靡かせた優美な女が浮かび上がった。
『どう?綺麗でしょ』
自身と流麗な髪の上に、色とりどりの花で編んだ花冠を乗せて、女は微笑んだ。花畑を駆け抜ける穏やかな風が、女の髪を浮かび上がらせる。
初めて見た光景だった。蒼い髪の女性。瞳は最高級の宝石をも凌ぐほど煌めき、蒼い。照れたように笑う頬は仄かに紅潮していて、何故だか無性に愛おしく感じた。
思わず手を伸ばそうとするが、実体のない白摩にはできない。それがこの上なくもどかしい。
そこで白摩は自分の思考に驚いた。初めて見る女にこれほど心が揺らめいていることが信じられない。今まで“彼女”以外に欲求とも言うべき興味を示すことはなかった。
自分の人生観を180度変えられたあの事件以来、他人や特に異性に対しては壁を作り上げ避けていたのかもしれない。
『もう……行くの?』
色彩豊かな世界の中で、絶世の美貌を哀しそうに歪ませる女に胸が締め付けられた。無形の胸にぽっかりと穴が開くような感覚に苛まれていると、スクリーンに映る場面が変わった。
『ダメっ!!それ以上は戻れなくなる!!』
燃え盛る火の中で懸命に訴える女。雪のように白い肌は、今は煤で汚されていた。光沢のあった蒼い髪は所々焦げてしまっていた。蒼穹の如き瞳は深い絶望に彩られている。
さっきの情景とは程遠い女の姿。白摩の胸に鋭い痛みが走る。
また場面が変わる。
『ねぇ……どうしてこうなっちゃったんだろうね』
テラスの手すりに寄りかかり眦に大粒の涙を溜めて女がいう。夜の空に浮かぶ月が、精緻な女の顔に影を落とす。
更に場面が変わった。
『お願い、やめて……ッ!』
端正な要望を悲痛に歪め女が叫んだ。蒼銀の髪を振り乱しながら泣き叫び、女はうずくまった。初めて見る光景なのに酷く胸が揺さぶられる。
場面が変わる。
『私はアナタと一緒に居られるだけで良かったのに……』
震える手に鋭利なナイフを持ちながら女がいった。頬を伝う涙は覚悟の証のような気がした。
場面が動く。
『世界は私達を拒絶した……私はアナタだけが好き、アナタだけを愛してる。アナタさえ居れば…………他に何もいらない』
曇天の空に浮かんだ女は、眼下に広がる都市を俯瞰しながら、蒼い瞳に紅蓮の憎悪を燃やし言った。直後、どこからともなく生まれた大波が都市を丸ごと呑み込んだ。
情景が映る。
『………愛して……るよ……アルバート』
透明なステンドガラスから月明かりが注ぎ、祭壇の上に横たわる女を銀に照らし出す。その胸には白摩に輝く美しい剣が刺さっていた。白い布地が赤く染まっていく。
瞼が下がり一筋の雫が頬を伝う。口許にうっすらと笑みを浮かべ、女は事切れた。
意識の身体で、溢れる哀しみと穿つような絶望に白摩は慟哭し絶叫した。
大切な人を、掛け替えのない人を失った者のみ理解できる苦しみ。今、亡き姫を見つめている者の思いがスクリーンを通じて白摩の中になだれ込んでくる。
『――お前を待っていた』
不意に低い声が響き、美しい女を映していたスクリーンが無数の光の粒子となって消滅した。
霧散していく粒子が完全に消えると、一人の男が立っていた。身体の半分を純白のクロークで覆い、その下には外套と同じく白い袖と諸処に金刺繍が施された軍服を着ている。
頭髪は白く、琥珀色の瞳は冷徹に光っている。怜悧な容貌の男は、全体的に白く統一されていてある種の威圧感がある。
『お前を待っていた』
もう一度、落ち着いた声で男が言った。白い外套をはためかせこちらに歩いてくる。
意識体である白摩の前に来ると、男は立ち止まった。
『永きに渡る呪いの連鎖も漸く終わる。憎悪と悲哀に支配された世界は真の継承者たちによって浄化されだろう。それが――』
男は瞑目し琥珀色に宿る感情を隠した。
『――それこそが、シャールの願いだ』
再び目を開けると男はすっと手を伸ばした。
『我が半身よ、貴様は此から世界の悪意に触れ、絶望するときが来るだろう』
死を連想させる冷たい掌が無体の白摩に触れた。
『だが忘れるな。賤しき人間たちの中には、貴様を支えてくれる者達が必ずいることを』
意識体に触れる男の手が放れた。
『貴様には、辛い思いをさせることになるだろうな……すまない』
謝罪を口にする青年の顔には、深い憂慮が浮かんでいる。
『しかし、抗うことを止めてはならない。我が半身よ、堕ちた女神を殺し穢れ神を滅ぼせ。それが世界を救う唯一の方法だ』
強い意志を瞳に湛え青年が言った。途端、白い装束に身を包んだ青年の身体が薄れていくように透けていった。
『……時間のようだ。貴様とはまたまみえることになるだろう。それまで、貴様が少しでも無事であることを心から祈っている』
青年の姿が空気に溶けていくように消えた。
直後、世界が莫大な量の光に包まれた。暗い闇に消えていったように、白摩の意識が光の奔流に巻き込まれていく。
一層光が輝きを増したとき、白摩の意識は完全に呑み込まれた。
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暖かな日差しが目蓋を通して伝わる。
肢体を包み込む人肌のような温もりが心地いい。周りには鳥達がいるようで、絶えず小気味良い囀りを聞かせてくれる。 吹き通る風邪が枝を打ち鳴らし、葉同士のせめぎ合いが木々のざわめきを伝えてくる。
気怠い目蓋を持ち上げると煌めく木漏れ日が視界に広がっていた。
頭には鈍痛が走り、身体は鉛のように重いが何とか体を起こす。
「っつ、ここは……?」
二日酔いってこんな感じなのだろうか、と益体の無い感想を脳裏に浮かべ、白摩は周囲を見渡す。
樹齢数百年は越えていそうな木々が鬱蒼と生い茂っている。白摩が今居るのは、恐らくギャップと呼ばれる場所だろう。薄暗い森の中に於いて、ここだけ木が生えていなく太陽の陽光が目一杯取り込まれていた。
「何処だよ……ここ」
さっきまでの記憶はある。昼食時に突如として勃発した黒梛との格闘戦に、紅い髪の女が乱入し、非現実的な事象を見せつけられた。直後、別の女の声が闖入して教室が崩壊。それによって白摩は闇の中に閉ざされた。
そこまで考えていると、不意に奇妙な違和感が生まれた。
「……暗闇の世界とは別の世界に居なかったか?俺」
海馬に存在しているはずの記憶の欠片を搾り出そうとするが、全く思い出せない。何か途徹もなく大切なことのような気がするが、
「くそ、霧掛かったみたいだ」
頭を振って思考を断ち切った。分からないことに何時まで も固執するのは時間の無駄だ。今考えなくてはならないことは幾らでもある。
「……此処が地球のどこかである可能性28%、夢を見ている可能性25%、異世界である可能性45%…………既に死んでいる可能性2%ってところか」
実は天国でした、何てオチは是非とも勘弁願いたい。
最期に響いた女の子声が正しいのであれば、ここは九分九厘異世界とやらだろう。本来なら笑い飛ばすそれも、あんなファンタジーな光景を見せられたら流石に現実だと理解するしかない。
問題は何故白摩が異世界に飛ばされなければならなかったのか、ということである。大体、紅い瞳の女も白摩と黒梛を部下にしたいと宣っていたこともそうだが、不可解なことが多すぎる。
産まれる前、と意味深なことを言っていたことから、前世に関係する可能性を模索してみたが、頭を振ることで否定する。
幾らファンタジーな現象を見せられたからと言って、オカルトの類いを肯定するきにはならない。
今注視しなければならないのは黒梛のことだ。崩壊しかかった教室に残して来てしまったこともそうだが、紅の瞳を持つ女の動向も非常に気掛かりだった。
白摩が女の意に背いた場合、次に狙うのは直前の文脈から推測すると必ず黒梛の筈だ。黒梛のことだから、女の要求なんぞ笑い飛ばすに決まっているがそれは結構、いやかなり不味い。黒梛悠は比較的冷静に物事を考えられる人間だが、いざ仲間のこととなると箍が外れやすい。
白摩の末路を知れば、先ず女を倒しその後こちらの世界に来ようとするだろう。それはそれで頼もしくもあるのだが、如何せん女が手強すぎる。
襲いかかって逆に返り討ちになる未来予想図しか見えない。そして、死の淵に立たされようが黒梛は女の提案を呑まない。断言できる。
そうなれば、あの冷酷な女は容赦しないだろう。こうなったとき白摩を救った? 声の女に期待したいところだが、余り宛てに出来ない。
「詰まるところ打つ手なしか」
そのことが酷く苛立たしい。親友の傍らに立てず、こんな場所でなにもできないでいる。
焦燥感が胸を焦がし思考回路がオーバーヒートする寸前、白摩は大きく息を吸い、吐き出した。肺に溜まった澱んだ空気が除去され、新鮮な酸素が肺胞を喜ばす。冷たい酸素が脳に行き渡り、沸騰仕掛けた脳細胞を冷ました。
「……切り替えるよう。今俺に出来ることはない」
あとは黒梛の悪運を信じるほか無い。あいつならどんな逆境でも笑いながら平気で跳ね返す。そんな光景を白摩は側で見てきた。自分には無いものをも持つ少年。
羨望とも嫉妬とも取れるその感情を黒梛は知らない。
「クロが出来ないことを俺がフォローする。いつもそうだったじゃないか」
黒梛が光で白摩は影。名前と役割が反対だな、とよく二人で笑いあった。喧嘩を始めるのは黒梛、後始末をするのが白摩。各々役目ははっきりしている。
「当面は寝床と飯をどうするかだが……」
そこでふと、白摩は気づいた。今胡座をかいているすぐ側、両端を切り揃えられ丁寧に削りだされた梢の棒が突き刺さっていた。
表面は凹凸が全くなく滑らかでさわり心地がとても良さそうだ。幹を削って作ったのだろうそれは白樺のような色合いで檜のように堅牢そうだ。驚いたことにグリップがついていて動物性の黒っぽい鞣革が巻かれている。
何とも自分に誂えたように突き刺さる木棒に白摩は苦笑いをした。これほど威圧感を放つ存在を気付けなかったこともそうだが、誰が何のためにこの贈り物を白摩に渡したのか分かったからだ。
「一応『歓迎』されているのか?もっと別なものが良かった気もするが……高望みか」
せめて放り出すなら人里近い場所にして貰いたかった。さっきから小鳥たちの陽気な囀りや幾重に重なる葉擦れの音しか聞こえない。
溜め息を一つ吐いて白摩は立ち上がった。傍らに突き刺さる木棒を引き抜く。
「――重っ、何だよこれ只の木じゃないのか?」
手にずしりのし掛かる重厚な重み。木棒は60㎝程度の長さで、一見片手ですんなり扱えるイメージだったが両手でないとまず振ることが出来ない。鍛えている白摩であってそれだ。その重量は推して知るべしだろう。
このサイズの木材としては異常で、いったいどれほどの密度であるのか想像もつかない。だが、これから生活に於いてこれほど頼もしい相棒はいないのも事実だった。
「それじゃあ始めるとしますか――俺の異世界生活を」
静謐を破る宣言によって辺りに響き小鳥たちの囀りが大きくなる。それはこれからの白摩の行く末を祝福しているように感じられた。
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人間とは往々にして物事に油断、楽観視してしまうきらいがある。特に非現実、有り得ない事象を目の当たりにすることで脳の演算処理が追い付かなくなり、それはもうぐだぐだになるのだ。
賢者は歴史に学び愚者は経験に学ぶという。
言わずもがな、白摩も愚者の一員である。
「甘かった……!人どころかまず水が無い」
現在白摩は歩いても歩いても出口の見えない迷宮に捕らわれているような気分に陥っていた。
意気揚々と新生活を始めようとし、最初の一歩を踏み出してから体感で5時間。
何もなかった。いや正確にいうと何も無いわけではない。地上に躍り出た太い根に寄生する、色とりどりの毒々しいキノコたち。如何にも熟して美味しそうな桃色の果実は、目の前でそれを啄もうとした小鳥を逆に食虫植物の如き動きで捕食した。シュールというより、おどろおどろしい光景は今も白摩の網膜に焼き付いている。
正直、異世界ファンタジーを舐めていた。当初の予定では川か湖だかを探し出し、そこを拠点にして食糧を調達。時期をみてこの世界の生活圏を模索していく筈だった。
「……このままだとクロより先にくたばりそうだな」
ひび割れた唇から漏れるのは乾いた嗤いだけだ。既に唾液は干上がり喉はかれ、水分への渇望が限界に来ていた。 人間にとって生きるための最も大切な要は水だ。生命の素ともいうべきそれは決して欠くことは出来ない。古代文明然り、あらゆる文明が興った歴史的地域は必ず水際に存在した。それほどまでに人と水の関係性は高い。
生活基盤で何が重要かと聞かれれば今の白摩には迷わず“水”と答えられる自信がある。
「不味い、余計喉乾いた」
迷走し始めた思考回路を断ち切り近くにそびえ立つ一際大きな大木の側に寄ると、絶対的な逞しさを誇る太い幹に白摩は力無くしなだれかかった。
「口渇、口唇の乾燥、全身倦怠感プラスめまい……典型的な脱水症状だな」
これが脱力感や眠気、頭痛などを起こすほど(体重の4~6%程度)の脱水の場合には、医療機関で点滴による水分補給を受けた方が手っ取り早く回復するのだが、この世界に医療機関が存在するかの不明なのに加え、そもそも現状治療を受けられるわけがない。しかし、これ以上の脱水の場合には、医療機関で緊急の処置を受ける必要がある為、そろそろ身体に給水してやらねば本当に危険だ。
これもそれも、長時間ぶっ通しで散策していたことが大きいだろう。
ある意味、白摩は切り替えるのが非常に早い。普段なら美点であるはずのそれも、異世界トリップと言う特異な状況に於いては足枷となってしまった。
未知なる場所への知的好奇心。それは男子たるもの必ず備えている。
端的に言うと白摩は浮かれていたのだ。故郷である地球には、楽しかった思い出と共に永劫忘れることなど赦されない記憶が存在する。
一度魂の深淵に刻まれた傷は、成長した今であっても建物を這う蔦のように白摩の心に絡み付いて離れてくれない。
故に、この世界へ飛ばされたことは白摩にとってある種の救済措置と言えなくもない。無論それはただ逃避なのだが。
「ああクソ、気持ち悪くなって来やがった」
水分不足による脱水症で死亡。そんな結末は些か格好悪すぎる。
段々意識が朦朧として来た。まるで陽炎のように揺らめき、不動であるはずの大地が震えているような錯覚に襲われる。
さっきからやけに呼吸が苦しい。
小鳥たちの歌声も聞こえなくなり、この近辺は静寂に包まれていた。
「……結構呆気なかった」
死と言うのは、突発的で、理不尽で、不条理で、死に神の持っている鎌のように鋭い。己の首筋に湾曲した鋭利な刃物が押し当てられているが如き感覚。
だがどうやら天国で胡座を掻いている神様は、白摩を楽にしてやるつもりはないらしい。
混濁した意識の狭間で鼓膜を聞き捨てならない音がふるわせた。
それは流れるような、跳ねるような、打ち付けるような、そんな音だった。
崩れかかっていた思考の断片が接合されていく。不完全で歪な意識がイメージしたのはある意味妄執なのかもしれない。
――緩やかに蛇行し流れるすんだ川の流れ。
失われていた力が四肢にたぎっていく。今の白摩を突き動かしているのは純粋な欲望。
「み゛ずッ!!」
巨人の如き緩慢に立ち上がった後の行動は機敏極まりないものだった。
僅かに音のしている方への全力疾走。さっきまで棺桶に片足を突っ込んでいたとは思えない怒涛の勢いで森林を突っ切って行く。
毒キノコを踏み潰し、肉食果実を蹴り飛ばす。小鳥たちが怯えたように跳び去ろうが、今の白摩にとってはどうでもいい。
やがて前方に光が見えた。漸く、果てがないと思うほど広いこの森の終着点にたどり着こうとしているのだ。
さらに速度を速め風を切る。途端、薄暗い世界が終わりを告げ、溢れんばかりの陽光が照りつける。
そして遂に楽園がその姿を表した。
日の光を反射して水面がキラキラと煌めいている。緩やかに蛇行ししたせせらぎは、一滴の青い液体を垂らしたように仄かに青みがかり、清澄きわまる故に川底の小石が覗ける。
「う、美しい」
ルネサンス期の巨匠たちが悩み苦しみながら作り上げたどの傑作よりも優美で突出している。人の手では決して届くことのない、自然の生み出した究極芸術。
ぴちゃん、と水が跳ねる音で我に返り白摩は重しの如く感じられた木棒を放り投げ、川辺に手をつくと頭を水面に突っ込む勢いで口を付けた。盛大に音を立てて貪るように啜り上げる。餓えた獣を連想させる姿は普段の白摩からは考えられないほど粗雑だったが、同時にそれは純粋な欲望に身を委ねた正しき形なのかもしれない。
口触りの良い軟水がひび割れた唇が癒し、干からびた口腔に潤いがもどる。枯れ果てていた喉は水を吸い上げ息を吹き返した。
今まで飲んできたどのミネラルウォーターより甘美で極上な水だ。これほどの水を啜ってしまえば、もう市販の天然水などそこらの水道水と何ら変わりない。
飲むというより吸引すると形容すべき行為が数分続いた。 腹が水で満たされ全身に軽い倦怠感と満ち満ちた充足感が訪れる。
ふう、と息を吐き白摩は川辺に倒れ込んだ。仰向けになると視界に広がるのは流れて行く雲霞とどこまで澄んだ蒼穹。 この光景は都会のくすんで濁りきった空では決して拝めない。
惚けたように蒼い世界を眺めてる時が過ぎていった。
だがそんな穏やかな時間は長く続かなかった。
『イヤァッ!!来ないで!!』
大気を引き裂くような鋭い悲鳴。それはある意味、白摩が切望していたモノだった。
弾かれたように跳ね起き、傍らにある相棒を掴んで声の方へと疾駆する。どうやら声の主は川の先にいるらしい。よく見ると、直ぐ先には湖のような場所になっていた。
悲鳴はなお断続的に続いており、声には恐怖が滲み出ていてその緊急性が伺える。
脅威がどれほどのものなのか不明のまま、がむしゃらに突っ込むというのはあまり得策とは言えない。しかし、全く未知数の世界で最初の異世界人との接触だ。見捨てる選択肢があろう訳がない。
やがて鬱蒼と茂った樹木が開けると、巨大な湖面が姿を表した。恐らく面積は琵琶湖の数十倍。透明度も比ではなく、遥か奥底まで見通せる。
どうやら湖岸は浅瀬になっているらしく、件の声の主は底にいた。
一瞬、白摩は歩みをとめ固まった。声の主は綺麗な金髪を流す類い希な美貌の少女だった。
年は一見14,5に見える。水浴びでもしていたようで、処女雪のように白い肌を惜しげもなく晒し、金糸のような髪がまだ未成熟の胸に貼り付いていて辛うじてその存在を秘匿していた。
一瞬、女神の水浴びでも覗いてしまったのではないかと焦ったが、それも少女の恐怖に歪められたら精緻な顔と、彼女の直ぐ前にいる黒い獣を認めるとたち消えた。
全身を黒い剛毛に包まれた四足歩行の生物。狼に酷似しているが、赤く光る双眸には醜い欲望と、絶え間なく唾液をしたらせる口腔からは驚くほど鋭く巨大な犬歯がせり出ている。
明らかに異常。しかしファンタジー世界ならこれくらい当たり前なのかもしれない。さっきの毒キノコや肉食果実と合わせ、動物好きなだけにこの世界の生物に期待していた偶像があえなく砕け散ったのを白摩は感じた。
軽く落ち込んでいる白摩に気づく素振りも見せず、黒い獣はただ己の欲望を満たすため裸体の少女に迫って行く。
「感慨に耽ったる場合じゃない――かッ!」
大地を蹴り一気にに加速する。水の中に入れば減速してしまうが、幸いなことに獣と少女は岸のすぐ側だ。
水に飛び込んだ途端、欲に捕らわれていた黒い獣が存在に気づき後ろに飛ぼうとする。しかし、僅かに初動が遅れ後ろ脚が水面から離れたところで白摩の射程圏が獣を捉えた。
「遅いんだよ!!」
超重量の木棒に助走の勢いが上乗せされ、足腰の力を存分に使った見事なフルスイングが獣の腹に直撃した。
「キゃァン゛!!」
甲高い悲鳴を上げ大量の水しぶきを上げながら獣は水面を跳躍していく。
腹部の殴打と合わせ人間ならば致命傷と成りうる衝撃が加わったはずだ。
しかし、流石は厳酷な弱肉強食の世に生きる野生の獣といったところか。
三度ほどバウンドし岸に飛び出したところで体勢を立て直し、猫を思わせるしなやかな四肢でしっかり地を踏みしめた。
改めて獣を棒先の正中線上に据え、右下段に構える。
獣の次の行動パターンを予測していると、後ろから少女の僅かに震えた声が掛かった。
「あ、あなたは?」
「ヒーローって柄じゃないがアンタを助けに来た……少しばかり手こずりそうだから下がってろ」 「わ、分かりました」
頷く気配がし、少女が短く距離を取ったが分かると白摩は低く唸る獣を観察する。
凶悪な形相の獣だが体長は大型犬程度でそれ程大きくない。さっきの動作を考慮すると驚くほど俊敏と言うわけでもないようだ。
これが目を見張る巨躯や俊敏性の持ち主なら即刻少女の手を引いて逃げるとだが、どうやらそんな醜態は晒さなくて良いらしい。
――殺れるか?
己に問い掛けるが当然の事ながら返答は返ってこない。
実戦は何度か経験しているが、命のやり取りをする感覚は今だ馴れない。やはり場数をこなさなければ真の強者足り得ないのだろう。
「グガャオォォ!!」
殺意を瞳に滾らせた獣は、細い四肢からは考えられない脚力で跳躍する。
木棒は竹刀のように俊敏に振り回すことは出来ない。近接戦闘では圧倒的に白摩が不利だ。だから狙うのは方向転換が不可能な着地地点。
白摩は冷静に獣の軌道を推測し、打撃点を合わせる。
ギリギリまで引き付け鋭利な牙が首筋に突き刺さろうと瞬間、白摩は上体を僅かに逸らし回避し逆にまんまと懐に飛び込んで来た獣の顔面目掛け木棒を振り抜く。
素早いとは言えないが、超重量の木棒は吸い込まれるように獣の眉間にクリーンヒット。
再度獣を後方に吹き飛ばし、今度は白摩も同時に動く。 岸辺に飛ばされた獣が体勢を整えた時には、もう白摩は地に踏み込んでいた。
「ハァッ!!」
初撃とは反対側、丁度内臓のしまわれている腹部に再度衝撃波を打ち込む。
「ゃギィン!!」
一度目より短く弱々しい声が響いた。 そのまま砂煙を巻き上げながら地面を転がっていく。
もう動くことすらままならないな思っていると、
「まだ立ち上がるのかよ……」
獣は震える脚で立ち上がった。そこには敵に弱ったところを晒さないという野生のプライドが垣間見えた。 この近辺を探索してみたが食べられそうなものはなかった。
狼に似たこの獣も生きるために必死だったのだろう。だからといって負けてやるつもりなど毛頭無いが。
「――ここから去れ!今引くなら手出しはしない!」
言葉が通じるかは分からない。しかし、ここで立ち去ってもらわなければ一つの生命を葬らなければならない。半ば祈る気持ちでいると、獣はじっと白摩を見つめ、やがてのっそりとした動作で森へ帰って行った。
途端、緊張の糸が解けた。ついさっきまで患っていた脱水症の名残と相まって莫大な疲労感が訪れる。
あちこち軋む身体を動かし、白摩は立ち竦んだままの少女の方を振り向いた。
ここまでお付き合い下さり、ありがとうございます。感想、ご指摘など御座いましたらバンバンお願い致します。