episode2『始まりは終わりから』
ポケモンはマズいと思います。気が付くと廃人とかしてしまう、受験生なのに。
「――てなわけなんだけど……どう思う?」
黒髪の少年は首を傾げながら問うた。今は昼放課、窓際の席で机を合わせながら昼飯の真っ最中だ。購買で買ったBLTを口に運ぼうとする手を白摩は止めた。
「……冗談だろ?」
「確かに荒唐無稽な話だけどさ、何か妙にリアリティあったんだよね。本当に体験したことがそのまま夢になったみたいな」
黒髪の親友、黒梛悠はそういうと大きな欠伸をした。
黒梛の夢の話は余りにも現実から掛け放たれていた。意味の分からない固有名詞の数々、思わず口を噤みたくなるほど凄惨な情景。彼の話は中学二年生特有の病か何かの類に思えるが、しかし黒梛の口から語られる物語は整合性がきちんと取れていた。
臨場感溢れる語り口調。親友にこんな隠れた才能があったのかと驚く場面なのかもしれないが、今の白摩にはもっと他に驚くべき場所がある。
「なぁクロ、その夢俺もみたかもしれない」
「……はぁ?」
「一つ聞きたいんだけど、蒼い甲冑の女の瞳って紫色じゃなかったか?それと金髪は先が少しだけカールしてる」
「……マジかよ」
黒梛は天井を仰ぐように背もたれにもたれかかった。
「お前の言った通り金髪美人の瞳は綺麗な藤色だし、サラサラの金髪は先っぽがカールしてる……凄まじい偶然、なんだよな?」
「偶然だろ。大抵一緒にいるからそう言うこともあるかもしれない。まぁ、ファンタジー系の夢を見たことなんて今まで無かったけどな。結論を言えば、夢の中の出来事に一々反応しても無意味ってことだよ」
手に持っていたBLTを置き、白摩は平然といった様子でパックジュースに口を付ける。そんな白摩に黒梛は頬杖を付きながらもう片方の手で割り箸を突き出す。
「流石、シロ君は大人ですねー。まあ一般的には達観してるって受け取られるわけだけど。そう言うとこ改善したらもっと親しみ易くなると思うんだけどな」
「別に誰にどう思われようがどうでもいいよ俺は。それに人間関係ってどうしても円滑に進めないと駄目か?必要最低限のコミュニケーション能力さえ有れば十分だと思うんだが」
憮然とした表情で白摩が言い返すと、黒梛は盛大に溜め息を吐いた。
「だからさ、そう言う所だって。まずその考え方を直せよな」
「直せも何も、これが俺の素だよ。他人に流されて生きるなんて御免被る」
「……話戻すけど夢に出てきた白髪の方お前に似てたよな。何か他人と自分との間に壁を作ってる感じがさ。あれは絶対友達少ないね、教室の中で孤独気取ってるタイプだよありゃ。……どっかの誰かさんと同じで」
ニヤリと黒梛の口角がつり上がる。それと同時に黒梛は白摩が残していた、購買で限定30個という貴重なBLTの最期の一口を一瞬の隙を突いて簒奪し口の中に収めた。BLTは白摩が終鈴と同時に走り出し、生徒同士の熾烈な争いの末に勝ち取った大切な糧だった。
白摩が手に持っていたジュースのパックが中身を少し吐き出しながら潰れた。
「――そう言えば片割れの黒髪、お前に酷似してたな。あの短絡的思考ってか……戦闘脳いうのか、アレ。何にしてもマジで阿呆っぽかったよな……どっかの誰かを彷彿とさせるくらいには」
ニタァ、と笑った白摩は黒梛の弁当箱から諸処にフェイントを織り交ぜた巧みな箸捌きで、最後の一つとなった唐揚げを略奪した。それは彼の母親が特製のタレで一晩漬けてから揚げるという、手間暇掛かった一品で、言わずもがな黒梛の大好物である。
黒梛が持っていた割り箸が鈍い音を鳴らし半ばから折れた。
「はははははは……」
「ふふふふふふ………」
乾いた笑いがお互いを包み込む。ついさっきまで騒いでいたクラスメイトたちも、二人の少年の異様な雰囲気に緊張した面持ちで白摩たちを注視している。
途端、二人の少年から裂帛の気合いが放たれた。
「「ぶっ殺す!!」」
共に放った拳がお互いの顔面に炸裂する。椅子や机へを薙ぎ倒しながら白摩は教室の隅間で吹っ飛んでいた。
瞬時に態勢を立て直したときには既に、黒梛はこちらに跳躍していた。
体重を乗せた強烈な右ストレートを左掌で受け止め、お返しとばかりに足下を薙ぐように蹴りを放つ。
足下を掬われた黒梛は態勢を崩すが、逆に片手を床に着けそのまま白摩の顔面めがけて蹴りを繰り出す。
骨が軋む程の衝撃を両腕で受け止め、地に着いた黒梛の鳩尾に的確な掌打を打ち込む。腹に一撃を撃ち込まれた黒梛は、軽く呻いきながら隅まで飛んでいった。
「おい!トワイライトの白摩と黒梛がガチバトルだってよ!!」
「嘘だろ!?一昨日ガラス割りまくったばっかだろあいつら、どういう神経してやがんだ!?」
「おいおい、これまた学校壊れるだろ。何であいつら退学になんないんだ?」
「誰か今すぐ先生呼んでこい!!――ってお爺ちゃん先生じゃない!!誰だ老人引っ張り出したのは!!!」
教室の外に野次馬たちが集まり、口々に騒いでいる。
因みに《トワイライト》とは白摩と黒梛を含め、目つきの鋭い謎の薄金髪の青年、先日職を追われ26歳にしてフリーターと化した残念なお兄さん、元気一杯な自称天才截拳道美少女という変人たちの総称である。何故そんな中二くさい名称を彼らが背負うことになったのか、それには余りにも浅い理由がある。 とあるスーパーでのバイト中、二人の女子高生が20人程度の不良集団にしつこく絡まれている場面に遭遇したのだ。二人が誘いを拒絶し帰ろうとすると、不良たちは強引に彼女たちを路地裏に連れ込むと言う暴挙に出た。
あとは想像通り、白摩以下5名のバイトメンバーたちが、不良少年らに殴り掛かり血みどろの乱戦に発展した。最後に立っていたのは返り血を浴びた5人バイト戦士たち。その際スーパーの制服も血に塗れていたらしい。
スーパーの名は《とわいらいと吉田》、吉田の部分が血で隠れていたのだ、それも全員。
地元で有名だった不良グループを熨した5人の鬼神の如きバイトたち。小さな街故一瞬にしてその噂は広まってしまった。
翌日、尊敬と畏怖が混ざりあった全校生徒から視線を向けられときは流石に閉口した。黒梛に至っては何故か誇らしげにしていたが。
全ては偶然だったのだ。偶然5人のシフトが重なったとき、偶然不良たちが獲物の女子高生を喰い物にしようとし、偶然その下卑た行為が白摩たちの琴線に触れてしまった。
そう全ては偶然による不幸な産物。だが、運命の悪戯から逃れる術を白摩は知らない。
何だかんだ言って問題行動の多い二人の少年たちは今では学校での悪名を不動のモノとしている。
――白と黒居るところに戦場あり
これは最早学校での定説だ。
《トワイライト》の他のメンバーは、薄金髪の青年が何処に消え去り、截拳道少女がバイトを辞めフリーターお兄さんが残るのみとなっている。
事実上の解散?にも関わらず《トワイライト》の名が色褪せることはなかった。それもこれも二人の少年たちの行動に起因するところが大きい。
机を巻き込みながら教室の隅に飛ばされた黒梛が悠然と立ち上がった。それに呼応するように白摩は腰を屈め構えをとる。再び拳が交錯しようとするが、
「こ、こりぁ!!止めんか馬鹿者ぉ!!」
震える体を杖で支える一人の老人がそれを止める。御年64歳、来年になれば定年退職が待っている繁田先生だ。
歴史教師である繁田先生は64歳のはずだが、その老けり方は常軌を逸している。
色素の完全に抜け落ちた白髪が申し訳程度に頭皮に生えていて痩躯は骨と皮で構成されており、窪んだ眼窩が不気味さを加速させていた。
どう見ても百歳を優に超える歴史の生き証人の風体があった。
しかし化け物じみた容姿ながら、そのシニカルな動作が可愛いと一部の女子生徒に熱烈な人気がある。
痩躯を支える杖をわなわなと震わせる繁田先生を一瞥すると白摩は言った。
「申し訳ありません、先生。躾の成ってない友人をしっかり人前に出せるよう、一から教え込んでいる最中なんです。必ず迷惑を掛けることになると思いますが……まあ、黙って見ていてください」
「そうなんですよ。理屈ばかりで少々ひょろい友達を一人前の男に仕立て上げている途中なんで……多分色々壊れますけど邪魔しないで座っといて下さい」
白摩たちの余りにも不躾な態度にがついに決定打を放ってしまったのだろう。
ビギッ!!、と音がし、温厚であるはずの繁田先生の堪忍袋が破裂した。
「君達ぃ!!一昨日の事をもう忘れてしまったのかぁ!!窓ガラス16枚机8脚全損、24枚罅入り17脚修理不可要交換、さらには止めに入った窪田先生がとばっちりを受け緊急入院っ!!異例ですよこんなのはぁ!!それも喧嘩の理由が顔に落書きされたとか、あなた達は躾のなってない小学生ですかぁ!!処分しようにも教育委員会より上の組織から圧力が掛かって反省文20枚なんて訳わからんことになっとるし!!アンタらは一体何なんだ!!」
繁田先生のお怒りも尤もだ。確かに先日の一件は近頃稀にみる激闘だった。4時間目を睡眠に費やし、起きて見ればにやけ顔の黒梛。
怪訝に思ったものの、そのまま用を足すためにトイレに向かったところ何故かすれ違う生徒たちが軒並みギョッとした顔を向けてきた。
あとはトイレの鏡で、自分がパンダ男にされたことに気付いた白摩が黒梛に飛び蹴りをかました所で戦闘開始だ。
「――次で決めさせてもらう」
繁田教諭の言葉をガン無視した黒梛は右の拳を引いた構えをとる。その表情は、この下らない闘争であったとしても真剣そのものだ。
対する白摩も腰を下げ、左拳を突き出す構えをする。
「俺もだ、今日こそ決着をつけてやる」
瞬間、二人の少年が地を蹴った。
握りしめられた拳が再び交差しようとしたとき、それは起こった。
「――ッ!?」
拳の慣性の力によって黒梛が吹き飛ばされる。そのまま、床に叩きつけられ動かなくなった。 倒れたまま動かない親友の姿、それは白摩の勝利を裏付けるものだ。だが白摩が勝利の余韻に浸ることはなかった。――余りにも呆気ない無さ過ぎた。
今の一瞬、白摩は交錯した後の行動を数通り用意していた。今までの黒梛の攻撃パターンから次の行動を予測し、体勢を整える。万全を期すため、油断も隙も精神面に生ませなかった。
それ程までの強敵。数多く拳を交えた中で、黒梛ほど強く闘ってワクワクした奴はいない。
だがそんな猛者である親友が、初撃すら躱せず地に転がっている。目の前で起きた状況に白摩が戸惑っていると、ふと肩に誰かの手がおかれた。
「なかなか非道いことするのね。流石に動かない相手を殴りつけるのはどうかと思うわよ?」
弾かれたように振り向く。白摩の視界に映ったのは息をのむほどの美貌を備えた女だった。
切れ長の柳眉。淡雪のようにきめの細かい雪膚は眩しくなるほど白い。潤んだ瞳は腰まで流れる髪と同じで燃えるように紅く、内に潜める情熱を露わにしている。起伏に富んだ肢体は思わず触れくなるほど柔らかそうだ。
「誰だ……いや、何なんだお前」
並みの男なら瞬時に貪り尽くすだろう美貌を前にしても、白摩が抱いたのは劣情でなく警戒心だった。
数多の修羅場を乗り越えそれなりに場数を踏んできた白摩であるが、これまで一度も後ろを取られたことなどなかった。
それはどんな状況に陥っても決して気を抜かない性分故だと自負していた。だが、それも女の出現により脆くも崩れ去った。
「何だって、失礼な子ね」
軽やかに跳び白摩と距離を置くと、女は両手を腰に当て頬を膨らませた。
「私も女の子なのよ、そういう扱いされると傷つくわ」
女の子って柄かよ、と口をついて出そうになるが、その前に白摩は息を呑んだ。
――なんで誰も騒がない?
振り向いて辺りを確認する。そこにはクラスメイトに野次馬たちが揃っている。ある者は笑い、ある者は顔を覆い、ある者は呆れ顔をしていた。そして彼らの前に立つ、憤怒に顔を歪め今にも支えにしていたはずの杖を振り上げようとしている繁田先生。
皆様々な表情を浮かべているが、その姿のまま誰も彼も動きが固まっている。
それはそう、丁度時間を切り取って止めてしまったような……。
「これは一体……」
「やっと気づいたかしら?ホントはもうちょっと早く気付いて欲しかったんだけど」
手を広げ、まるで得意なことを自慢するように満面の笑みを浮かべる。
「これを……お前が?」
「うーん、厳密には少し違うのだけどね。……まぁ、そういうことで一応いいかな」
要領の得ない女に注意を怠らないようにしながら白摩は親友に目を向けた。黒梛は殴られたのにも関わらずピクリとも動かない。
手を抜かず今出せる全力だったが、黒梛を一撃で沈ませるには至らないはずだった。しかし現に黒梛は壁際にうずくまり微動だにしない。それこそがこの場を何より異質なモノにしていた。
「心配?」
こてん、と首を傾げ女が問うた。
「この程度でくたばるほどこいつは弱くないよ。それよりお前の意図が知りたい」
「冷たい……いや信頼か。なかなか面白いことになってるじゃない。長いこと待った甲斐があったってモノね」
「待っていたって……何のことだ?」
「そりゃあもう長い間よ。貴方の魂が異世と現世を彷徨い器となる肉体を得る前からずっと待っていたの――貴方が産まれ、成長するこの瞬間を」
謎掛けめいた女の言葉に、白摩は眉をひそめる。
「アンタの言いたいことが全く分からないんだが。結局何がしたい?」
白摩の問いかけに、女は口元の笑みを消し目を細めた。さっきまでの雰囲気が嘘のように場が冷たくなる。
「幾つかの選択肢を貴方にあげる。それをどう受け止め、どう行動するのかは貴方の自由。自らの意志で決めなさい」
女は人差し指を突き立てる。
「一、友達と一緒に私の配下に加わる」
また一本指を立てていく。
「二、二人の内どちらかは助かる。その場合、切り捨てられた方にのしかかる負担は倍になるけど」
そして、三本目の指が立てられた時、女の声が更に低くなった。
「三、私に逆らって今すぐここで肉塊に変わる」
「じゃあ四、アンタ倒して皆ハッピー」
人を喰ったように笑い、白摩は床を蹴った。
目の前にいる女は普通じゃない、異常だ。だが、ここで足が竦んむほど自分は弱いつもりじゃない。蛮勇と呼ばれるそれは、正しく今の白摩に相応しい。
女との距離は三メートル弱。この距離ならば一秒と掛からず女を無効化出来る――はずだった。
「なッ!?」
握り締められた拳が女の鳩尾に吸い込まれるその瞬間、血を想起させる紅いワンピースを纏った女は霧か何かのように掻き消えた。
慌てて周囲を確認するが女の姿は神隠しにでもあったかの如く姿形もない。
半ば呆然としていると、突然後ろから抱きすくめられた。柔らかい感触が背に当たる。
「……言ったわよね?そう言う扱いされるの嫌いなの。女の子の扱いはもっと丁寧になさい。じゃなきゃ……こうなるわよ」
途端、張りのある二の腕が首を思いっ切り締める。咽頭が潰され圧迫感が苦痛となる。酸素を求め生存本能が唸りをあげ、手がもがくように虚空を彷徨う。唐突に訪れた悪意に思考を妨げれる。華奢な体躯のどこにこ、れほどまでの膂力があるのか見当も付かない。
「……ぁがっ……あ……」
白摩の口腔から乾いた呻きが漏れた。意識が朦朧とし、忌まわしい過去が顔を上げ全身が嫌悪に埋め尽くされそうになったとき、女はそっと耳朶を湿っぽい吐息で嬲った。
「少しは反省したかな」
大男も裸足で逃げだしそうな腕力が消え、しなやかな腕による拘束が解かれる。
空っぽの肺に突如として大量の新鮮な酸素が取り込まれ、白摩は盛大に咽せた。
「ゲはッ、はぁッ……はぁはぁ」
「女は怖いわよ、気持ちだけで人をも容易く殺せるもの。今度から女を扱うときはもっと丁重になさい」
薄笑いを浮かべる女を前に、背筋を粟立つような戦慄が駆け巡った。
白摩が今まで敵対した者に恐怖を抱いたことなどない。それはどこかで負けるはずがない、とたかを括っていた面を否定することは出来ないが単純に力で拮抗している黒梛に対してであって畏怖したことはない。
だがそれは幼年期を除けばだ。過去に於いてまだ白摩が弱かった頃、恐怖に竦んで目の前で起こった惨劇に為す術なく指を加え何もしなかったことがある。
その時の自分への絶望と憤怒が白摩を形作っているといっていい。誰にも心を許さず、誰にも屈しず、誰にも奪わせない。もし黒梛と出会わなければ今も孤独を抱え刃の如き鋭さで他人を拒絶していた筈だ。
初めて出会った自分と同位の存在。黒梛は誰よりも強く、誰よりも鋭く(今までの場面からは想像もつかないだろうが)、また誰よりも鮮烈だった。
故に、白摩と黒梛は互いに争うことを何より好む。それが問題行動に直結し、色々な不始末へと繋がっていくわけだが。
黒梛と事あるごとに闘争しているなかで、決着らしい決着がついたことは一度もない。本来なら今この瞬間は黒梛と心行くまで争いを楽しんでいた筈だ。にも関わらず、黒梛は地に這い蹲り、白摩は女の存在に膝を屈している。
だからかもしれない。恐怖も逃避も何もかも精神力のみで押し殺して、白摩零はのっそりと立ち上がった。
「あら、まだ闘う気?てっきり死を目の当たりにして心が折れちゃったと思ってたのに」
「それは残念だったな。俺の心はこの程度で折れるほど脆くないよ。アンタの思惑が何であれ、こんなところで他人に屈するなら死んだ方がましだ」
「……つまらないわ。貴方はもう少し賢い子だと思っていたんだけれど、私の買い被りだったかしら」
深く溜め息を吐くと女は腕をくんで、気怠そうな眼差しを白摩に向けた。
「最後に聞くけど本当にいいの?貴方が欲しいのは嘘じゃないけど、どうしても固執するほどじゃないもの……本気で殺すわよ」
宝石を思わせる紅い瞳の中に確かな殺意が混じる。しかし、今度は白摩が恐怖を抱くことはなかった。
「何度も言わせるな。他人に屈服するなら死んだ方がましだ。アンタの指図を無視して今ここで死のうがそれは俺自身の意志だ――後悔はない」
白摩の揺るぎない確かな覚悟。その姿を見た女はもう一度盛大な溜め息を吐いた。
「ほんっと、お馬鹿さんなんだから。意地張って命を捨てるなんて…………貴方は昔と何一つ変わっていないのね」
懐かしむというより、どこか寂しげに女は目蓋を下ろした。暫く、白摩と女の間に静謐の帳が漂いどこか穏やかに時間が過ぎた。
どれほど時間が経ったのだろうか。そっと目蓋を開けた女の緋色の瞳には、殺意でも、悲哀でも、憤怒でもなく、ただ鋭利な刃物を思わせる意志の強さが漲っていた。
「交渉決裂ね。あの方の為に、何れ邪魔になろう貴方はここで死んでもらうわ」
「――上等!!」
愉悦にも似た獰猛な戦意が全身に滾って行く。恐らく白摩は此処で死ぬだろう。そのことは先に交えた攻防で既に分かっていた。だが、それだけで誰かに屈してしまえば、今まで積み重ねてきた何にもかもが音を立てて崩れて行くに違いない。白摩にとってそれは存在意義の崩壊に等しい。
故に例え絶命という確固たる結末が待っていようと、ここで女のものとなり立ち止まるような選択肢は有るはずもない。
それに白摩はこの状況に興奮していた。黒梛と拳を交えているかの如く高揚と、どうやってもかなう気がしない自分より上位の存在に出会えた狂喜。
二つの感情が胸の内で蠢き、絡み付き、交わり、やがて大きな塊となっていく。
骨が歪むほど拳を握り締め、足の関節が折れ曲がるほど床を踏みしめる。
全身全霊を掛けた正真正銘の渾身の一撃。例えそれで倒せるような相手でないとしても、生涯の集大成を女に叩き込められたのなら自分の産まれた意味も……あの人が俺を庇った理由もわかるかもしれない。
これじゃあ戦闘狂もといクロと変わらないな、と白摩は自嘲気味に笑った。
深く息を吸い込み短く吐き出した。女の一挙手一投足を漏さず捉えるため、瞳に映る総てに意識を傾け、鼓膜を叩く総ての音に神経を傾ける。
女は泰然とした風体で仁王立ちしている。その僅かに潤んだ紅い瞳からは王者の風格が、美しい四肢からは見る者を魅力する婀娜が醸し出されている。
水面から波が消えて行くように、心の感覚が研ぎ澄まされる。
恐らく此処で白摩が挽き肉にされれば次狙われるのは黒梛の筈だ。ただ、黒梛悠ならばどうにかして危機を脱出するのでは無いかと白摩は思う。如何なる状況でも冷静に対応出来る頭脳、様々な脅威に対抗できる優れた体術、これらで白摩が黒梛に劣ることはない。
しかし、白摩と黒梛の間には越えられない溝のような物がある。それは心の隔たりなどではなく、もっと概念的なもの、則ち黒梛悠にはあって白摩零の中には存在しないものだ。
それが何なのか、今をもってしても白摩には分からない。
分かることと言えば、それが黒梛の力の根源になっていることだ。白摩と黒梛、二人の性格は似ているようで似ていない。
詰まる所そこが全てなのだろう。深層心理の更に根底に眠る感情。それこそが白摩と黒梛の明暗を分ける。
ほんの数秒足らずで意識上の議論を収束させ、白摩は己の人生にけりを付けた。
眼前に立ちはだかる女は白摩が飛び込んでくるのを待っている。悔しいが今の白摩にそれ以外の選択肢はない。無様な駆け引きをすれば瞬時に肉片にされるからだ。
一泡吹かせられる確率が0.00001%でもあるのならば、白摩はそっちに総てを賭ける。
握り込んだ拳が血を滴らせたとき、白摩は地を蹴り飛ばした。
そして――
『今ここで死ぬのは些か早すぎるぞ、少年』
教室中に目の前ね女とは別の女の声が響く。地を滑空するような動いていた足が思わず止まる。
そして次の瞬間、紅い女に支配されていた教室が瓦解した。
「……何だこれ」
教室の壁という壁が剥がれ落ちていく。不可解なことに剥がれた部分は真っ黒で、そこに何も存在していないような。 廊下側の野次馬達の姿も段々剥がれていき消失していく。
パラパラと剥がれた欠片は床に落ち、砕け、その存在を消す。
少々、目の前の現象が白摩の許容量の範疇を凌駕したとき、眼前の女が恐ろしく冷めた声で呟いた。
「…………エキドナ、あなたの仕業ね。一体何度、あの方と私の邪魔をすれば気が済むのかしら?」
『何度だって邪魔してやるさ、過去の怨念に捕らわれたままの貴女が醜く朽ち果てるその瞬間までね』
「そんな風に育ててしまった私にも落ち度は有るけれど、これはちょっと不愉快だわ」
そっと、華奢な腕を前に突き出し、紅蓮の瞳に燃えたぎる冷徹な炎を宿すと、女は流麗に言葉を紡ぐ。
「世界を導く聖霊の慈光よ、天帝の妻たる我に魂の加護を」
伸ばされた女の手が仄かに輝いた。途端、まるで時間を巻き戻したように剥がれ落ちていく欠片が再び元の場所に貼り付いていく。
奇跡による奇跡の応酬。非日常的光景が、白摩の判断を鈍らせる。
「本来、権能を持たない不完全な《蒼天の巫女》たるあなたに世界を渡る術はないはず……となると《玄天の巫女》にでも頼んだのかしら?」
『その通りだ。私が友人と呼べる者は極僅かしか居ないのでな。エルフィスとは今でも懇意にしている』
「そう……でも残念だったわね。折角、《異空間歪曲魔法》に干渉して空間そのものの支配権を得ようとしたのでしょうけど。それだけじゃ私には届かないわよ。あれだけの術式なら編むのに相当な時間を費やしているんでしょうね。さしものあなたも悔しいんじゃないの?」
侮蔑と嘲弄を込めて女が言う。対してエキドナの返答は無機質なものだった。
『確かに堕天したとはいえ女神の1柱だけのことはある。貴女の魔法は強力で隙が全くと言っていいほどない。故に私は友たる北を守護する巫女に頭を下げた訳だが……元は取れたよ』
「何を……」
紅い瞳の女が不可解を滲ませた声を出す。
刹那、白摩を中心とした半径三メートル圏内の床が消失した。
「はぁ!?」
「しまったッ!!」
焦燥に駆られた女の顔が見えた、直後に内蔵が浮かび上がる不快な浮遊感が白摩を襲う。あっという間に黒い世界の中を落ちていった。
「くそっ、クロ!!」
手を伸ばすが、光明は遙か彼方になり米粒大になっている。
『ようこそ異世界へ、歓迎しよう』
真っ暗な世界を漂うなか無感動に頭に響くエキドナの声。
鈴の音のような凛とした声が甘く身体に溶ける。意識が朦朧としていき自己認識が崩壊していった。
どこまで行っても果てのない暗い、暗い世界。まず最初に手足の感覚が消え、徐々に身体のあちこちかの存在が透けていきやがて頭部を残すのみとなった。それも数秒の内に全て無くなるだろう。
最後に白摩が残り滓となった意識領域で考えたのは、唯一の友にして無二の親友のこと、そして失って初めて気付いた狂おしいほど好きだった最愛の女のことだった。
ここまでお付き合いくださった皆様、本当にありがとうございます。感想やご指摘など御座いましたらどしどしお願いしますm(_ _)m