4、互いの記憶
アシェリーはマッチを胸ポケットに入れると、天井のパイプへと飛びついた。
蛍光灯へと手を伸ばす。思った通り点滅を繰り返してはいるが、そこそこ温かい。
パイプに腕を絡めマッチを取り出し蛍光灯の上に並べていった。これで暫くすれば乾く筈である。
「おい、何してんだ! マッチが使い物にならないなら早く戻って来いよ」
最初と比べて男の口調が横柄なものになってきている。
アシェリーは床に飛び降りるとマッチ箱を投げ捨て、隣の部屋へと続く穴の横に腰を下ろした。
「今、マッチを乾かしてるわ。それまで自己紹介でもしない?」
とは言ったもののアシェリーも名前くらいしか分からないのだが。名前にしたってこのプレートに書いてあるだけで、本当かどうかも分からない。
そんな事よりここでのポイントは、男の情報である。安心(信用)出来る何かが欲しい。
もしかしたら隣にいる男がこんな事をした張本人……もしくは仲間だと言う可能性もあるかもしれない。
「……あぁ、そうだな。記憶の中に脱出の手掛かりがあるかもしれないしな」
「私の名前がアシェリーだって言うのは言ったわよね。あなたは何か思い出した?」
少し間があってから男が口を開いた。
「……少しだけな。ハッキリとしないが、俺は医者をしてたんじゃないかと思う」
ひどく曖昧な答えである。
「思うって言うのはどう言う事?」
仕事か……私は何をしてたのかしら。
「あ、いや……さっき死体に触れた瞬間、頭にメスを握っている姿が浮かんだんだ」
それだけで医者とは断定出来ないが、アシェリーは他にメスを使う仕事が思いつかなかった。
「外科医か……じゃあ、きっとお金持ちね。羨ましいわ」
「いや、そうと決まった訳じゃないからな。そうだ、俺のプレートを投げるから名前を確認してくれないか」
そう言うや否やネームプレートがアシェリーの顔をかすめる様に飛んできて床に転がった。
なる程……なにも直接胸に付いてるのを見なくても、安全ピンを外せばこちらで確認出来る訳か。
アシェリーはプレートを拾い上げると書かれた文字を見る。
「ノア……ベイカーさんみたいよ」
アシェリーは少し大きな声で言った。が、またも男からの返答が無い。
耳をすますと、隣の部屋からノア・ベイカー……ノア・ベイカーと繰り返す声が聞こえてきた。
「ア~ハッハッハ……」
突如男の笑い声が響いてきて、アシェリーは体がビクンッとなった。
「な、何!? 何かおかしかった? それとも何か思い出したの?」
どちらにしても薄気味悪い印象を拭いきれない。
「……いや、洒落た名前だと思ってな。ノアなんて人気の名前で検索したらベストスリーに入るぜ」
それだけ? つまらない事で笑わないで欲しいわ。
「確かにお洒落な名前ね。あなたの事はノアと呼べばいい? それともベイカーさんがいいかしら」
「せっかくだからノアにしてくれ」
「そうね。ノア、私の事はアシュって呼んでちょうだい! あだ名なの」
そう言った瞬間頭に痛みが走った。あだ名……アシュ。
突然口から出てきたアシュと言う名前に自分で驚いてしまった。名前が思い出せないのに、あだ名がスラスラと出てきた事に……。
「あだ名か……。そっちこそ何か思い出したんじゃないのか?」
男の声がこちらを警戒する様に、低く曇ったトーンになった。
「自然と口から出てきたの。名前も思い出せないくせにね……」
アシェリーは自分で言って鼻で笑ってしまった。
「そうか、お互い何か思い出したら報告する事にしよう。アシュ」
「そうね。どうにかしてここから出ましょ! よろしく、ノア」
ノアとの距離が僅かだが近づいた気がする。
その後アシェリーは数少ない記憶をノアに話して聞かせた。幼い時に両親が死んで、叔母の家に引き取られた事を。
ノアは黙ってアシェリーの話を聞いてくれた。そしてゆっくりと話し始めた。
「……似てるな。実は俺も似たような環境で育った。俺の場合は引き取り手がいなくて施設送りだったけどな」
「あなたも両親を亡くしてるの? ここに居る事に関係あるかしら」
こんな偶然がある? もしかしたらノアと私には、もっと共通点があるのかもしれない。こんな状況にある何かが……。
「さあ、どうかな。アシュはいくつなんだ? 俺は二七だ。今のところそれしか思い出せない」
「二七才なの!? ウフッ……」
「何かおかしいか?」
「あ、違うの、ごめんなさい気を悪くしないで。私は二三よ、思ってたより歳が近かったから嬉しくなっちゃって」
本当は低くこもり落ち着いた口調から、四十は過ぎていると勝手に思っていたのだ。
「そうか……それより、そっちの部屋には本当に何も無いのか?」
「えぇ、あなたにこっちへ来てもらえると、簡単に証明出来るんだけど……」
多分ノアも気づいているとは思うが、蛇口の事はあえて言わなかった。
せっかく落ち着いてきているノアを、刺激するのを避けたかったのだ。水を出したのはアシェリー……イコール敵と彼の性格上考え兼ねない。
「あっ、でも壁に『it's up to you』って書かれてるわ」
「あなた次第か。ふざけやがって……」
その辺はアシェリーも同感である。
アシェリーはマッチを二本取り触ってみる。乾いている様に感じる。
「ねぇ、マッチ乾いたみたいだけど。どうかしら?」
アシェリーは隣の部屋へと頭を突っ込み、ノアにマッチを渡した。
「箱は?」
「箱? 箱が一番湿ってたから捨てちゃったけど」
「箱がなけりゃマッチを擦れないないじゃないか」
「あっ、それなら多分平気よ。それ多分ロウマッチだから」
父が靴の裏や壁で擦っているのを見た記憶がある。父と言うと決まってこの記憶……マッチを擦って煙草に火を着ける仕草を思い出す。
「ロウマッチか懐かしいな。俺も昔使ってた」
ノアは少し感傷的になったのか、声が小さくなった。
「あなたも禁煙したくちなの?」
「俺は無理矢理な……。も、って事はアシュもか?」
「ううん、私の父が母に言われて渋々やめた……」
再び忘れ掛けていた激しい頭痛に襲われた。
父と母……顔がぼやけて思い出せない。すらっとしたモデル体型だった様な、それでいて両親共にかなりぽっちゃり体型だった様な。相反する物が現れては消えていく……。
「どうした?」
「ちょっと頭が痛くて……」
本当は割れそうに痛むのだが、あまり弱みを見せたくなかった。
「こっちは俺が調べるから、少し横にでもなってたらどうだ?」
アシェリーはノアの言葉に甘えて、穴から出て布団を広げ横になった。
頭の奥がズキッズキッと脈拍に合わせて痛む。こめかみをマッサージしながら、隣の部屋から壁でマッチを擦る音に耳を傾ける。
まだ完全に乾いてなかったのか、マッチが燃え上がる音は聞こえてこないが。あのリンが燃える独特の匂いが微かに漂ってきた……。
アシェリーは激しい頭痛の中で。母は嫌っていたが、幼い頃マッチを擦った時の匂いが好きで、両親の目を盗んでは、父の部屋で火を着けて遊んでいた……。
当然匂いで父にはバレたけど、父さんもこの匂いが好きなんだって優しく怒られたっけ。そんな事を考えていると、余計に頭痛が酷くなった気がする……。