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神無月の姫  作者: ガルド
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第六章


 ※ ※ ※




 第六章






 ※ ※ ※




 時が流れる。

 夜が明けて、日が昇り、昼を越す。

 不眠不休で、やがて来る時を待つ。

 時雨が言うには仕掛けた魔術の発動にはとにかく時間がかかるのだそうだ。

 その詳細を尋ねると、私にも分からない、とだけ言われた。

 込み入った事情があるのだろう。

 朝、昼共に亮が食事を作った。

 それ以外はひたすらに作戦会議を行った。

 繰り返し繰り返し概要を語り、話し合い、内容を煮詰める。強靭に、しなやかに、作戦を練り上げる。

 課せられたルールは単純明快。

 校内におびき寄せた敵を捕らえ、亮の魔術を解術させる、あるいは解く方法を聞きだすこと。ただこれだけ。時雨曰く、『暗示式』の仕業である限り任務には解術するための暗示があるはずなのだそうだ。

 それも有難かったが、亮にとっては敵を捕らえる、という前提も同じくらい有難かった。

 いかに魔術師同士の戦闘が外部に漏れることが無く、たとえ殺したとしても社会的に裁かれることがないとは言え、亮にとっては人を殺す、ということは恐怖以外の何物でもなかった。

「なにを甘いことを言っているの? だいたい、殺さないってのも状況的に仕方が無いってだけだし、それでも手足の一本や二本、獲るつもりでいきなさいよ。心意気だけでも、殺し合いをするつもりで行かなきゃ相手はプロなのよ?」

「お前、実はグロい事けっこう普通に言う奴なのな」

 実はファンシー趣味のくせしやがって。

 そう思って、

 ……って、こいつはそういう世界の住人なのか。

 亮は思いなおした。

「しかし例え捕まえるまで上手くいったとして、相手がそのキーワードを素直に言うか? 相手としては俺さえ死ねばそれでとりあえず任務完了なんだろ。最後までだんまり決め込まれたら流石に打つ手無しじゃないか」

 それとも拷問とか? と聞いた亮の言葉にあっさり頷いた時雨を見て、亮は顔を引きつらせた。

「まあ、それもありって言えばありだけど、それについては心配ないわ。今回のことは完全に敵に否がある。魔術師の社会において、ね。完全な管轄界侵犯。『議会』を通せば十中八九、相手の口を割らせる事が出来る。生け捕りに出来れば、ね」

「そこでなんで生け捕りが必要になるんだよ」

「死人に口なし、ってね。もし文月にそのまま今回の犯人を切り捨てられたら責任の言及に困るのよ。それに、もし暗示の解術キーワードを知っているのが犯人だけならなおさら文月の思惑通りだわ。ま、犯人を捕まえたとしてもその口を割らせるまで神崎は一睡も出来ないわけだけど」

「いや、2、3日くらいの徹夜なら別に苦でもなんでもないけど……」

「そう、なら大丈夫よ。それに、敵はあくまで貴方には自然死――拳銃で撃たれたなんてのじゃなくて、『偶然』の心臓発作でしんでもらわなくちゃいけない。つまり、敵の直接的な標的になるのは私だけ。これはかなり明るい材料よ」

「自分の危険を明るい材料にすんな、アホ」

 時雨の頭をこずく。

 時雨は一瞬きょとんとした顔をするが、すぐに顔を真っ赤にした。

 その顔を見ていたら、急に亮まで恥ずかしくなってしまった。

 ……こいつ、なにに照れてるんだ?

 意味不明だった。

 と、そんな時。

 亮のベッドの枕元にある備え付けの電話が鳴った。

 亮は助かったとばかりに受話器をとる。

「はい、もしも……」

「あ、あたし。楓。そっちに……斉藤いるでしょう? 変わって」

 小泉楓だった。

 そして楓の言う斉藤、という名前に一瞬反応できなかった。

 そして一瞬の後時雨の事だと思い至る。

「時雨」

 受話器の口元を押さえ、時雨を呼ぶ。

「ウチのクラスの小泉だ。えっと、知り合いか?」

 時雨は軽く頷くと受話器を受け取った。

 亮は少し、礼儀として電話から離れて、

 ……なんで楓がうちに時雨がいることを知ってるんだ?

 当然の疑問へ至った。

 電話へ出ている時雨は雰囲気を一変させていた。

 そこにあるのは時雨と言う少女ではなく、ひとりの魔術師の姿だった。

 やがて、受話器を置いた時雨が言う。

「神崎、そろそろ時間よ。行きましょう」

 空を支配する日はすでに傾き始めていた。






 ※ ※ ※




 学校へは制服で行くことにしていた。

 時雨は着替えを持っていなかったし、亮には命をかけた戦いに赴くための戦闘装束など持ち合わせていなかった。

 幸い、ブレザーをどこかで脱げば制服はそれほど動きにくい服装ではなかった。

 普段との目立った違いは二つ。

 流石にローファーで行くわけにもいかず、靴は普通の運動靴に変えたこと。

 もうひとつは時雨の刀が明確に姿を現していること。

 時雨は右の腰に睦月源から受け取った日本刀『時雨』と愛刀『止水』を下げている。また、体のどこかに拳銃を1丁、隠し持っているはずだ。それ以外にも、彼女は様々な武装をしている。

 亮は時雨から借り受けた日本刀を(『明鏡』、という銘らしい)左手に持っている。時雨に家に得物はあるかと尋ねられたが、首を振った結果だ。本来、神崎家には代々伝わる『神明』という日本刀があったのだが、これは神崎流継承の証なので祖父から神崎流を継承できなかった者として、祖父の体と共にあの世へ持っていってもらっていた。今では神崎家の墓の下に、使い物にならなくなった鉄の棒が祖父の遺骨と共に在るだけだ。

 家にある訓練刀は全て大太刀である『神明』を模してあるため、重く太い。線の細い『明鏡』に一抹の不安は覚えるものの、日本刀などそう易々と手に入るものでもなし。贅沢は言っていられない。それに、時雨の感じから言ってこの『明鏡』もそれなりの業物なのだろう。

 2人、いつもの並木道。赤と黄色の絨毯の上を、誰もいない道を歩く。

「しっかし本当に誰もいないな。本来休日のこの時間帯はわりに人の通る道なんだがな」

「当たり前よ。魔術師の『結界』に隙間があっては話にならないわ」

「『結界』、か。そして魔術、ね。ああ、そうだったな」

 歩く。

 学校へ向けて。

 全て、この1週間の答えを出すために。

「…………」

「…………」

 たどり着く正門前。

 通いなれた校舎を眼前に構え、呟く。

「で、ここにいる、本来一般人じゃ通ることの出来ない『敷居』を平然とまたいだ奴が、俺たちの敵なんだな?」

「そう」

 時雨は簡単に、しかし強く頷いた。

 亮はブレザーの右腕だけを外し、そしてその手で自分の襟を掴むと、景気付けに勢いよくブレザーを脱ぎ捨てた。

「さて、それでは行くとしよう」

 自分に言い聞かせ、校門をくぐる。

 左手の刀が、どくん、と。

 躍動した。






 ※ ※ ※




「Empty throne where blood falls.……Only 30 percent is opened. (枷解術―発動―三割開放)」

 作戦の第一段階は、まず敵を見つけるとこだ。

 枷解術を起動させたままで、しかしあえて普段と同じだけの速度で神崎と共に校舎を駆ける。

 この状態で行動すれば、集中力以外は普段と同じように動ける。筋繊維は切れないし、異常な情報量に脳がオーバーロードを起こす心配も無い。それでも、いつ敵に襲われるともわからない状態で枷解術を解いて行動するわけにもいかない。

 時雨は両の刀を抜身で構え走る。鞘は校門へ置いてきた。

 神崎は自己の流派に居合いの技があるのか刀は鞘に刺したまま、手をかけるだけの姿勢だ。

 状況が普通でないことくらい、間違いなく敵は気が付いている。120パーセントの可能性でこちらを迎え撃つ姿勢にあるだろう。本職ではないにしろ、場合によってはトラップが仕掛けられている危険性もある。どちらかと言えば、ここはアウェイ。成り行き上仕方が無かったとはいえ敵に陣地を作成するだけの余裕を与えたのは、念頭に置いておかなくてはならない。相手が水無月でなくて本当に良かった。

 ルートは神崎邸での作戦通り、1階の端の教室から虱潰しに回っている。

 次の教室へ当たる2年B組へ向かう廊下で、時雨はふと神崎へ目をやる。

 神崎は頷く。

 それに頷き返し、時雨は2−Bのスライド式の扉を蹴り開けた。

 そこには、机や椅子が全て大掃除の時のように後ろへ並べられた、部屋の半分が空けられた教室があった。

「なに!?」

 神崎が呟く。

 それで、気が付いた。

「飛んで!!」

 言うがいなや、時雨は3割の枷解術で出せる最速のスピードで、神崎の体を蹴るようにして教室へ押し込んだ。

 瞬間、

 ゴウッ。

 風が唸り声を上げる音がして、体の脇を不可視の弾丸が、いや、『空気弾』が通り過ぎた。

「くっ」

 振り返りざまに敵を視認する。

 敵の姿は、中肉中背。肩の骨格などから恐らく男。だが、

 肝心の容姿は、暗緑色のローブに阻まれて確認することが出来なかった。

 体は神崎を押し込んだ蹴りを放った勢いのまま一回転。足が着地すると同時に地面を噛む。

 だが、

 敵は再び空気弾を放つ。

 再び大気を切り裂く音が聞こえる。

 見えない、ということは恐ろしいことだ。

 時雨の枷解術の完成度から行けば、瞬間的な開放密度を高めれば銃弾だってかわすことが出来る。だが、それはあくまで銃弾が見えることが前提だ。弾の速さ、その大きさ、数。それらを視認することなくかわすことは容易ではない。

 時雨は一瞬だけ、開放密度を上限一歩手前の六割まで上昇させる。

 着地した足で地面を穿つ。

 真横へ、飛ぶ。

 空中で前転を行い勢いを殺し、着地する前に枷解術を三割まで引き降ろす。

 その頃には時雨がいた2−Bの入り口が、不自然な形にひしゃげていた。

 人の体が直撃すれば文字通り吹っ飛ぶ。単純なダメージ計算だけでもただの骨折ではすむまい。

 恐らく、敵の魔導具。

 魔術を導くための道具。時雨の短刀に始まり神崎にした目隠しやこの両の日本刀も、そして男のまとっているローブも。全てはこのカテゴリに分類される。

 だが、それでも男の持つそれ(恐らく形状は銃)は時雨の持つ諸刃の刀並に規格外。恐らく、【逆説真理パラドクシカルトゥルース】クラスの『探求者』が造った一級品だ。

 普段の時雨よりも三割力強さを増した足が、廊下にエッジを立てて踏ん張る。

 見えなかった分、大きく跳びすぎた。

 距離にして約6メートル。

 刹那の移動、攻撃に転じるには、少しばかり広い。

 駆ける。

 ローブの男は空気弾を放った後素早く身を翻し隣の教室、2−Cへその身を隠した。広い廊下では、速く動ける『枷解士』を相手取るには不利ととったのか。あるいは、罠か。

 2−Bから人が起き上がる気配を感じながら、その前を疾走する。

 勢いに任せて突っ込まず、2−Cの前で一旦ブレーキを踏んでから突入する。

 敷居を跨ぎ、視界が広がった瞬間、

 机と椅子が吹っ飛んできた。

 慌てず騒がず前回り受身で緊急回避を取り、その先、今度は普通に机と椅子が並べられた教室の窓際に、ハンドサイズの大砲のような奇妙な形状の銃と、連射式の一般的で普遍的な機関銃を、ローブの裾から出してこちらに構える暗緑色の姿があった。

 ……あ、まずっ。

 という、自分の中だけで起こった一瞬の感覚的間の後、来るのは一斉掃射。

 再び開放密度を上げる。

 今度は限界の七割。

 足に腱を痛めたような嫌な感触があった。そろそろ痛覚麻痺を使用しなくてはならなくなりそうだ。

 そうして、七割の枷解術で逃れた先。

 敵との間合い、約3メートル。

 ぎりぎり、時雨の間合い。

 両手に構えた刀に力がこもる。

 攻撃を放つ瞬間、予想通りガス欠を起こした魔術が途切れる。

 この瞬間、時雨は多少鍛えただけの一般的な人間の行動速度までスピードは落ち込む。

 構わず放つ。

 右足で飛び込み、

 その時、敵の魔導具で飛ばされた机が時雨を襲う。

 正中線のやや左側に回転軸を作る。空中で左の『時雨』を薙ぎ、机を真っ二つにする。

 ……さすがおばさま、良い仕事してるわ。

 そうして出来た空間に体をねじ込み右の『止水』を敵の脳天から叩き落す。

 殺すためではない。

 次の己の動作のための間を稼ぐために。

 敵はすでに銃を手にしていない。

 一本の、いやに太い小太刀で時雨の刀を受け止めていた。

 弾かれる。

 逆らわず、流れるままに回転する。

 再び双刀による二連撃。

 敵魔術師は手にする小太刀で『止水』を受けると、円を描いて『時雨』も絡め取る。

 突きが来る。

 横の動作でそれをかわす。

 枷解術の回復はまだだ。

 フードの奥の敵と、視線が交錯する。

 一瞬の間、

 再開される攻防。

 回転、斬撃、回避、薙ぎ払う。

 防御、後退、刺突、受け払う。

 夕暮れに染まる教室に響く、鉄と鉄の交錯する金切り声。

 円運動と円軌道の日本刀が飛び交い縺れ合う。

 攻撃と防御が明確に分かれた剣舞。

 徐々に、時雨は敵を端へ追い詰めていた。

 それでも、どうしても決定打が与えられない。

 時雨は焦っていた。

 枷解術が戻るまで、持ちこたえなくてはならない。この剣舞を持たせなくてはならない。

 敵に、銃を握る隙を与えてはいけない。

 今の時雨には、それを避ける術がない。

 だが、焦ってはならない。

 冷静さを欠いてはいけない。

 戦局を、冷静に支配しなくてはならない。

 その頭と体を埋め尽くす二律背反が、時雨の身を突き動かす。

 何度やっても、何度経験しても、この感覚に慣れることは無い。あるいはこれこそが、この感覚こそが己の存在意義なのかもしれない。

 喉が焼ける。

 体が焦げる。

 頭が火照る。

 その先で、時雨はあるものを捉えた。

 敵の剣撃が空を奔る。

 右へステップを切る。

 己のこの先に動くべき行動が、脳内になだれ込んで来る。

 積み上げてきた経験が、何秒も先の自分を、敵を、戦局を、全てを取り込んで脳内で再構成する。未来が見える。

 その未来を辿る。

 軌跡をなぞる。

 斜め前に回転軸を作り、飛び込みながら時間差の二連を振るう。

 それらはこれまで通り、敵の小太刀の作る円へ絡め取られる。

 これまでと違うのは小太刀の突起、これまで敵が巧妙に隠していたその部分に双刀が絡められている事。

 ソードブレイカー。

 刀はそのまま捻られ、回され、そして、

 弾き飛ばされる。

「ッ!!」

 足元に零れる二本の刀。

 作られる最初にして最大の隙。

 敵魔術師に与えられた、銃を抜く時間。

 時雨に、刀を拾っているだけの時間は無い。

 枷解術は、結局間に合わなかった。

 ローブの奥へ片手が吸い込まれていくのが、アドレナリンの分泌で遅々として進まない時の中で、嫌に良く見えた。

 そして、

 その、奥の光景も。

 時雨は構築された己の未来図の達成に、笑みを零した。




 亮は、時雨に飛ばされて2−Bの中へ転がり込むと、すぐに起き上がった。

 立ち上がるとすぐに、教室の前を時雨が疾走していくのが見えた。

 半端じゃないスピードだった。

 それこそ、100メートルも5秒で走り切りそうな速度だ。

 アレが、魔術。

 魔力など無く、誰もが無意識に使っているものを、ただ意図的に使用するだけという、十二の家系にのみ伝わる秘伝。

 全ては己が内側のみで完結させてしまう、自己暗示に依る神無月の魔術。枷解術。

 急ぎ廊下へ戻る。

 敵と時雨は2−Cへ移動していた。

 重い物体が吹き飛ぶ音。刀が振るわれ、何かを切りつける音。鍔迫り合いの音。

 夕方の学校で行われる、どこまでも非現実的な音楽会。

 開幕には立ち会えなかった。

 命の削りあい、という恐怖と同じくらい、決定点に自己が居なかった事に恐怖する。

 誰にも、何事にも、神崎亮を決定させてはならない。

 その強迫観念にも似たなにかに突き動かされて、亮は2−Cへ向かう。

 そこには、

 剣技で敵を圧倒する時雨の姿があった。

 一瞬、出て行っていいものが躊躇する。

 左に握った『明鏡』の鞘に、思わず力がこもる。

 だがそれも一瞬。

 あの時雨の剣撃に合わせるだけの自信は、ある。

 真剣を人間に向ける、という恐怖も、もちろんある。 

 それでも、自分はこんな所で終わるわけにはいかない。

 ここで、誰よりも強いことを証明しなくてはいけない。

 ……神崎亮が神崎亮という神を信仰しつづけるには、自身をもって自己へ証明しなくてはならない。神崎亮は神崎亮という存在を持って、信仰に報わねばならない。俺は他の誰でもない俺に証明したい。俺の努力は無駄ではなかったと。意味があったのだと。ここに示したい。努力は必ず報われるなんてのは綺麗事で、この世のどこにも存在しなくとも、それでも意味はあり、望んだ結末へ近づけるのだと、説得したい。論拠が欲しい。確かを信じることはできなくとも、微かを期待する可能性を得たい。俺は死ぬまで俺を信じ続けていたい。

 廻る思考はひとつの解を伴って、

 だから、行こう。

 鞘を握りなおし、決意を固める。

 教室を駆けた。

 その時、時雨がアイコンタクトを送ってきた。

 行ってもいい、と。

 来い、と。

 亮は鞘と、そしてそこから生える柄を構えた。

 左手で鍔を軽く弾く。

 その間に起こったことなど関係ない。

 例え、時雨が刀を取り落としていても、

 例え、敵が銃を取り出していたとしても。

 敵を討てばそれで勝ち、ここで迷えば時雨が危ない。なにより、

 神崎流は全自動。

 一度固めた意志を、曲げることは出来ない。

 ……先風の陣。

 居合い抜き。下段一閃。

 大怪我は免れないだろうが、これで捕った、と。

 亮は思った。


 だが、


 全ては勝利を確信したまま動いた亮の慢心がいけなかった。

 その慢心さえなければ、攻撃を避けられるのはともかく反撃の一撃を食らうことはなかった。

 暗転する視界。

 光陰を繰り返す世界。

 なにが起こったのが、よく、分からなかった。

 ただ急速に力が抜けていくという虚脱感。

 ふらつく足元。

 後退していく時間。

 天上が遠のいて、

 無意識に掴んだその手が敵のローブのようなものを掴み、

 顔をあらわにした魔術師――

「それでは、おやすみなさい」

 成見 影司が、

 温和な笑みを浮かべているのが最後に見えた。

 そして、それが亮の見た最後の光景だった。




 全ては一瞬だった。

 視界に教室を駆ける神崎を捉え、

 敵のソードブレイカーにわざと引っかかり、

 銃を抜く隙を与え、

 そこに出来た銃を抜くという隙へ神崎を滑り込ませた。


 そうして、亮だけでなく時雨でさえも勝利を確信した。


 ただ、2人の違いは勝利を確信してなお万全を期そうとする、性質でもなく、ましてや能力の差でもない、経験の差だった。

 時雨は勝利に笑みはしても安心に笑みはしなかった。

 だから、神崎の攻撃の成功を信じてなお自分も胸のうちへ手を滑り込ませることを忘れなかった。

 全ては一瞬の出来事だった。

 神崎の放った下段の一閃は確かに敵の足元を捕らえた。だが、結果から見てなお正確を期すならば、それは敵のローブを、だった。

 敵は見もせずに背後から迫る剣撃を、予備動作も無しに、まるで縄跳びでも飛ぶかのようにローブの内側でひとっ跳びに附したのだ。

 そうした中、取り出した新たな拳銃のグリップ底で神崎の首筋に一撃を加えた。

「それでは、おやすみなさい」

 膝から崩れ落ちる神崎にローブを剥ぎ取られ、そうしてようやく姿を現した魔術師の姿は、B組の、神崎の担任にして社会科教諭、成見影司そのひとだった。

 時雨はすでに見当違いな喜びを焦りに変えて、己の拳銃を抜かんとする所だった。

 成見影司は温和な笑みを崩さぬまま、

 邪魔になった神崎を蹴り飛ばし、

 時雨と全く同時に、

 互いの敵対者、その心臓へ、


 カチャリ。


 胸倉でも掴み合っているかのような距離。互いに半身になって、片手で銃を構える。

「できれば、今回は最後まで姿を見せずに終わらせたかったんだがな」

 何気ない口調で呟く魔術師。

 校舎の影から現れた黄昏の炎が、橙色に教室を染め上げた。






 ※ ※ ※




 幕間


 『それ』が人間と出会い、『それ』だった私が『私』に変わる過程。『家』に決別を誓うその少し前。『それ』は人間と共にいた。共に在った。長い時間を、共に。いつの間にか『それ』は人間に特別な何かを感じるようになっていた。更なる時間が過ぎ、人間は『それ』の子を身ごもった。

 そして、やがて来る破滅。

 人間――長い時を共に在った女性の、暗殺命令。

 今思えばそれは当然の帰結。女性の親も、暗殺されるだけの意味や価値があったからこそ『それ』と女性は出会えた。その同じ家系に名を連ねる彼女にその価値が生まれてしまうことにはなんら不自然は無い。そうして『それ』のもとに暗殺命令は下った。

 『それ』だった『私』に、逆らうという選択肢は無かった。ただ、不可解な頭痛と吐き気、このままでは死んでしまうのではないかと思うほどの息苦しさの中で、その人間を、最愛の女性と自分の子供を、『それ』は殺した。

 ただ従うだけだった自分が憎かった。

 だから滅茶苦茶にしてやろうと思った。自分と、自分を取り巻く世界を。この狂った仕組みを、魔術師という生き物を。根絶やしにしてやろうと思った。

 そうすることがせめてもの罪滅ぼしだと思ったし、そんなことでは救われないことも分かっていた。

 それでも、そうした復讐を抱かなければ『私』は立ち行かなくなっていた。原動力が必要だった。燃料が必要だった。

 最愛の女と守るべきだった者を喰らって生きるこの身は、滅びることさえ決して許されるものではなかった。






 ※ ※ ※




 落ちて行く。

 闇の淵へ。

 堕ちて行く。

 死の底へ。

 ……ああ、今回は違う。

 と、亮は確かにこれまでとの違いを感じた。

 時雨の見立ては正しかった。

 これは、今までの夢とは確実に異質なものだった。

 ふわり、と。

 亮は己の『意思』をもって闇の中へ降り立つ。

 不思議な感覚だった。

 足場など無いのに、そう『意思』を固めただけで、体も、周囲も、世界さえも、その在り方を変えた。

 そうしてここが夢の中であるということを亮は再認識した。

 そして、この感覚こそが『魔術』。

 夢の中、という本来ありえない、本来全て自分の無意識だけで構成されている空間だからこそ、亮のように特別な訓練を受けていない者にも擬似的に『魔術』が使えるわけだが。

 それでも実感というものは大切だ。

 亮は確かな手ごたえを感じていた。

 そうして闇の中を歩き出す。

 時雨と練った作戦の中には、最悪最後の影夢を見てしまった場合の行動も含まれていた。

 ……ここに現れる"何か"に対し、それを討つ。

 そして、時雨が解術の暗示を手に入れるのを待つ。それが何時間かかるのか、何日かかるのか、それは分からない。だが、亮はそれでも、今この時をもってしても死ぬ気は全く無かった。

 一般人なら手の打ちようはなかった。だが、亮は聞いただけとはいえ『魔術』を知っていた。

 ……いい? 神崎。文月の暗示、今回は夢だけど、それに抵抗するという事は擬似的とはいえ魔術を使うということよ。

 時雨は言った。

 ならば、使いこなして見せよう。

 『魔術』、を。

 やがて目の前には鏡が現れる。

 完全なる闇に現れる鏡。

 それは、もはや自分がもうひとり居るという光景に他ならなかった。

 鏡に映る学生服の神崎亮。

 互いに左手には日本刀。

 ここに来て互いに語り合う事など無い。

 唯一の違いは、鏡に映る日本刀は時雨から借り受けた『明鏡』では無く、

 鞘はすでに無い。夢に堕ちる時に取り落とした。刀を落とさなくて良かった。そして、抜身の刀身を構える。

 ……流水の陣。

 影が持つのは神崎家に伝わる、伝わっていた家宝、『神明』だった。



 一合目は空振りに終わった。

 影はバックステップで横薙ぎの剣撃を逃れると、下がった反動でこちらへ突きを放ってくる。

 亮を襲うのは当然のごとく神崎流。己の使う流派。

 ……じじいが死んで以来、か。

 ちくりと、その想いが胸を焦がす。

 ……雷地の型。

 突きに対する対処法。戦局にあわせて全自動で組みあがるひたすらに積み重ねられた戦闘理念。それを己が体を持って再生する。

 最小限の横の動きで剣先から逃れ、振るった『明鏡』を体へ引き戻し、立てた状態でこちらへ一直線に伸びる敵の刀の表面を滑らせる。

 鉄の磨れる摩擦音。

 懐へ潜り込む。

 ……地流の陣。

 そのまま柄尻で影のみぞおちを狙う。

 流れる体。

 流れる意思。

 流れる戦局。

 その全てに身を任せ、感情の生まれる余地を埋めていく。

 戦う機械へ。正確で精密に高速を。そう在る様に敵を討つ。

 影は突きをかわすとその勢いを殺さずそのまま前へ逃れようとする。

 打撃は近ければ近いほど威力が増すわけではない。一つひとつの打撃には攻撃した人間の意図があり、その意図にはそれに相応しい打点がある。相応しい打点から遠ざかるのは、なにも射程から逃げるだけが全てではない。むしろ、近づけば近づいただけ威力は無くなり反撃への無駄も減らせる。

 柄尻で叩いた打点は完全にゼロ距離まで縮められていた。

 故に無威力。ノーダメージ。

 むしろ体の勢いに押されて体勢を崩す。

 影はそのまま至近距離を突っ切って、

「クッ」

 ……傾谷の、陣ッ!

 亮は『明鏡』を両手で持って左上段めがけて切り上げる。

 影は、空を跳び宙で反転。『神明』でもってこちらの顔面へ、片手で下段を叩き込む。

 そこで激突する刀と刀。

 そして、

「なに!?」

 暗黒の夢の中。斬り合う影二つ。その内ひとつの持つ刀。

 時雨の刀、『明鏡』が、

 折れた。






 ※ ※ ※




「ある意味、無傷のあなたとこうして話をする機会を持てたのは、幸運だったのかもしれないわね」

「はは、私が魔術師だったことについてはノーコメントか? 結構意外な黒幕だと、自分でも思っていたんだがな」

 心臓に照準を当てたまま、2人は微動だにせず口だけを動かす。

 1メートル先には成見影司に蹴り飛ばされた神崎が転がっている。動かない所を見ると完全に意識を失っているようだ。

 正直、状況はあまり芳しくない。

 幸運、というのもあくまで不幸中の幸い程度だ。

 成見影司、いや、文月影司は構わず続ける。

「名乗るのが礼儀かな? 【時雨ル玉座スゥロウ・ドォウター】」

 温和な笑みを今は皮肉に歪めて、言った。

 魔術師が相手の二つ名を口にするのは敬意か敵意の二つにひとつだ。現状は、言うまでも無い。

「私は序列七番目の魔術師・『暗示式』、【影踏み(ドッペルゲンガー)】文月影司だ。おっと、憶えておく必要も名乗る必要も無い。どの道私達のどちらかは消える事になるのだからな」

 この教師はこんな時でも所構わず評判どおり、異常なほどに気さくに言った。

「あなたの軽口に付き合っている暇は無いの、文月」

「そうだったな、私はともかくお前は私を殺せないんだったな、神無月」

 ギリ、と奥歯が音を立てて軋む。

「当主から『家令』が出ているんだろ? 『絶対に敵を殺してはならない』という意味深な命令が」

 それは、神崎にも言えなかった敵を殺せない本当の理由。

 当主【神有月】から出された絶対の命令だ。

 一体何故、この男がそれを知っている。

 目の前の敵がどれだけの情報を有しているのかが計りきれない。

 昨日受けたばかりの『家令』が――しかも時雨自身が【神有月】と一対一の会話の中で受けた最重要命令が、すでに外へ漏れているなど、普通に考えればありえない。これではまるで、【情報屋】を味方につけているような早さと正確さだ。【情報屋】を味方につける、というのが一番ありえない話ではあるが。

 文月の魔術師はひとり朗々と話し続ける。

「まあ、そこのガキを救いたいお前にとっちゃ、願ってもない話だったようだが」

 その言葉に、拳銃を握る手が震える。

 頭に血が上る。

 集中力が足りない。

 魔術師に成りきれていない。

 ……駄目だ!

 これは魔術戦だ。

 敵の口車に乗ってはいけない。

 今は折角のこのこう着状態を上手く活用しなくてはならない。

 文月はまだ喋り続ける。

「しかし、私としてもこうした形での決着は意外なんだ。私の見解では神無月は神崎亮を見捨てて次の人物を立てるのだとばかり思っていた。いやいや、そっちの対策ばかりにかまけて本来の目的が多少おざなりになっていたようだ」




 心を震わせてはいけない。

 必要にして十分、適確にして必然の言葉を。

 論理の拮抗を図る。

「いったい何が目的? ここまで大々的に管轄界の侵犯を行ってまで、文月は何がしたいって言うの?」

「そういきり立つなよ、ゆっくり行こうぜ神無月。だいたい、お前が聞きたいのはそんなことじゃないだろう?」

「…………」

 情報量に絶対的で絶望的なまでに差がある。

 この男、いったいどこまで知っている。

 数秒の沈黙。

 完全に会話の主導権を奪われている。

 かといっていつまでもだんまりを決め込むわけにも行かない。

 神崎がどのくらい持ちこたえられるのか、それは誰にも分からない。決着は早ければ早いほど良い。

 ここは、会話を進めるしかない。

「解術の暗示を大人しくよこしなさい」

「ああ、素直でいい、いいぞ神無月。悪くない」

 文月はのらりくらりとこちらの言葉をかわしていく。

 言葉に手ごたえを感じない。

「ところで神無月。どうして文月の暗示式には解術方法があるのか、考えたことはあるか?」

 そういう仕組みだから、ではないのだろうか。

「まさか、そういう仕組み、とでも考えていないだろうな?」

 図星を突かれた。

 が、今回は平静を保ちきる。保ちきれたはずだ。

 文月が鼻にかかった嫌な笑いを漏らす。

「おいおいおい、考えても見ろ。お前は武器を作り上げる時にわざわざ自爆装置をつけるのか? つけないだろう。攻撃するためのものに、攻撃をキャンセルする部品なんざ本来必要ないんだよ。回避は使用者の役目で、我々の暗示式は武器そのものだ」

 しかし文月はそこまで一気に捲し立てると、

「あー、例示にミスったか? そうか、そうだったな。お前ら神無月は壊す者で創る者じゃなかったな。悪い悪い」

 勝手に話を自己完結していた。

「で、だ。文月の暗示式に解術があるのはな、神無月。作戦の変更にも十分に対応するためだ」

 そしてまだまだ続く文月の演説。

 敵の意図が読めない。

 思考がトレースできない。

 何を考えているのか。何をたくらんでいるのか。

 それら文月のルールをこちらへ漏らす事に、いったいどのような利点がありどのような効果があるのか。魔術師のやることに無駄はありえない。何かしらの意図があるはずなのだ。それを読み取れれば裏をかけるかもしれない。だが、それができなければ敵の思う壺だ。

 ……焦ってはいけない。

 しかし背筋は、もはや周囲の気温が分からないほどに感覚器官を狂わされている。背骨には冷たい冷気が密集し、一瞬後には融解した鉄を流し込まれる。毛穴が痛いくらいに開閉を繰り返す。

「例えば対象を人質に使う時、例えば対象に価値が無くなった時、例えば事情により対象を殺してはならなくなった時。そういった時、柔軟に動けるように、文月には解術方法を作っておかねばならないという決まりがある」

 何故ここで、

 何故たった今、

 何故こんな状況で、

 それをこちらへ伝えるのか。

 前提を懇切丁寧に説明する時は、大抵の場合がそれを次でひっくり返す場合だが、

「では質問だ、神無月。例えば『家令』でさえも聞く必要が無くなった文月が、どんなことがあっても必殺したい邪魔者を相手にした場合に解術なんていうまだるっこしい手順を踏むだろうか?」

 その必然性に、

「ッ!!」

 気づいた瞬間、

 凍る視界。

 冷える四肢。

 冴える思考。

 氷水でもかぶったかのような感覚だ。

「貴様、一体どういうつもりだ!」

 一気に戻る集中力。

 今更戻る枷解術。

 最大出力は三割。

 銃弾を避けるほどのスピードは望めないが、隙さえつけば、『いける』。

 が、

「枷解術なら止めておけ、神無月。私には枷解術の使用が視認できる」

「!!」

 あるいはただのハッタリだったのか。

 枷解術の使用が外見から判断できるなどといった話は聞いたことがない。

 だが、どちらにした所でもう手遅れ。

 驚いてしまった所ですでに不意打ちには失敗している。

「はは、しかし君は話が早くて助かる。私は馬鹿が嫌いなんだ。私のような、馬鹿な人間がね」

 そう、話は分かった。分かってしまった。

 この男が、神崎に人質としての価値を全く感じていないということに。

 これまでだって十分理解不能な行動だったのに、ここまでくるともはや理解不能などという言葉でこの男を括る事は出来ない。トレースなど、出来るわけが無い。

 狂っている。

「そう、君が察したように私は文月として動いているわけではない。一人単独で管轄界を侵し、君たち神無月に喧嘩を売っているわけだ。『家』には内緒でな」

 よって、

「私にとってはその喧嘩の引き金となってくれる神崎亮という必殺の布石に」

 時雨はすぐそこで横たわる神崎へ移しそうになる視線を、必死に敵へ固定する。

 それではつまり、

 つまり、

「神崎亮へかけた暗示式に、解術方法は無い」






 ※ ※ ※




 折れる刀。

 次撃を構える影。

 遊離する意識。

 一瞬一瞬が静止画のようにスライドを繰り返す。

 恐怖すら覚える間もない無我の時間がのっぺりと動き出す。

 刀を横に構える影の前、

 何も考えていなかった。

 ただそう在る様に動いた。

 当て身。

 空中から着地したばかりの敵がバランスを崩す。

 追撃に右の蹴りを腹へ叩き込んだ。

 影の構えが完全に解ける。

 同時、

 2人の足が地面を軽く弾き、バックステップで距離を取る。

 距離にして間合い5メートル。

 腹への蹴りは完全に決まっていたはずなのに、影はバランスを崩す以外にはダメージらしいダメージを受けた形跡が無い。

 ……どういうことだ。

 影はゆっくりとした足運びで少しずつ距離を詰めてくる。

 亮はそれから逃れるように距離を保つ。

 ……そして、どうする。

 敵の得物は日本刀が一本。対してこちらはもはや丸腰。『明鏡』は意識を外したとらんに見つけられなくなった。

 ……どうする、どうする、どうする。

 急いてはいけない。

 心臓は極度の緊張に今にも張り裂けそうで、呼吸は戦闘が始まってからこっちまともに吸う事も吐く事も出来ない。

 死を賭した戦い。

 これまで、自分が経験してきたどれとも全く異質の存在。その存在が寄り添ってくる。死を肌で感じる。焼け付くようだ。

 それでも、急いてはいけない。

 なにもかも見逃してはいけない。

 この間合いならば受けに徹する限りは負けはない。

 "敵(自分)"もそれが分かっているから絶対優位なこの状態でも無闇につっこんでこない。

 考えろ、

 この絶対不利を覆すなにかを。

 考えろ、

 生きて明日へ帰る方法を。

 何かあるはずだ。

 鼓動の音が思考を阻害する。

 考えろ、考えろ、考えろ。

 頭が痛い。

 酸素が足りない。

 脳細胞が足りない。

 あれだけ溜め込んだ知識が、土壇場では何の役にも立たない。

 考えが足らない。

 答えが、ない。

 ……止めろ。思考を停止させるな。まだ生きてるお前にその資格はない。

 自分に声をかける。

 思考を進めろ。

 戦いを再開させろ。

 敵を討て。

 敵と向かい合いながら、互いにそろりそろりと足を動かす。

 間合いを保つ。

 そうして亮はポケットを探る。

 なにか、なにか武器になるようなものは……

 探る。

 しかし、何も無い。

 ……くそ、これなら普段からポケットにペンの一本でも入れておけば、……ん?

 ポケットに入れておく、という言葉に引っ掛かりを覚える。

 確か、制服の左ポケットには魔除けのルビー、その残骸が入っていたはず。

 脳裏にハンカチへ包んだ時雨のルビーがよぎる。

 もう一度、左のポケットへ手を突っ込む。

「……え?」

 あった。

 さっきまで無かったハンカチが、そして恐らくこれに包まれたルビーが、今度はあった。

 さっきまで無かった物が、今度はあった。

 ……と、いうことは。

 その事実、そのルールに再び頭が回転を始める。

 そもそも、なぜ亮はこの姿――制服姿でここ(夢の中)へいる。

 それはもちろん、ここへ堕ちて来る前にその姿だったからだ。

 だがこれまでの夢は決して寝る前と同じ姿ではなかった。

 当たり前だ。夢の中なのだからそんな縛りがあるはずが無い。

 つまり、起きていた時の格好は直接的には関係が無い。

 何故ルビーは最初探した時にはポケットに無かった。

 逆に、どうすることでルビーは亮の手元へやってきた。

 ここはどこで、ここはどんな場所だ。

 それらを並列して並べ、そうして己にもう一度問う。

 では何故、自分はこの姿なのか?

 それは、


 今の自分はこういう姿であると、亮自身が『認識』しているから。


 『認識』。

 繋がっていく。

 夢の中。

 形作られていく。

 それは、

 己の頭の中に存在する世界。

「そういうことか」

 一歩、影へ向かって歩を進める。

 右手を開き、

 頭の中へ明確な形を思い描く。色、長さ、重さ、質感、臭いに至るまで、己が持てる全てをもって一本の刀を再生する。集中力を一点に絞る。そこに、まるで刀があるかのように両の手を上段へ構える。迷いは無い。ここは自分の夢の中。思い描けば世界でさえも変えてみせる。なんだ、そんなこと、ここへ来て一番最初に理解したルールじゃないか。

 影が、低くかがんで刀を横に構える。

 足の筋肉が力を溜め込み、こちらへ刀を振るわんと唸り声を上げる。

 刹那、

 亮が叫び影が跳んだ。

「来い! 『神明』!!」

 同じ長さ、同じ重さ、同じ素材。

 同じ使用者、同じ銘。

 "神崎亮"の放ちあった『神明』は、

 乾いた甲高い音を立てて、今度こそがっぷり四つに組み合った。



 息遣いさえ伝わってしまうような至近距離。

 刀二本を挟んで向かい合う全く同じ顔はしかし、浮かべる表情は全く違う。

 亮は歯をむき出しにして全力で影の刀を受ける。

 一方影は馬鹿にするような表情で、亮を品定めするような余裕の表情。常に相手を見下げる上に立つ者の視線だ。

 ……どういう、ことだ。

 刀は一瞬でも気を緩めれば押し切られてしまうような力だ。

 こんな、余裕を持ったままで出せるような力では決してない。

 これが全力のはずだ。

 それを証明するように、影はそれ以上の力を発揮してこない。できない。

「これ以上戦ってその先に何を望む。疲れたのだろう? いい加減認めろよ。分かってるんだろう? お前は意地になってるだけだ。実際、それほど生への執着もないくせに。なあ、"俺"」

 そんなことはない。

 自分はまだ生きたい。

 まだやるべき事が残っている。

「やるべき事、か。またそれだ。それは、その思いは、本当にお前のものなのか? だいたい、やるべき事とはなんだ。他人から与えられた目的意識など振りかざして、さもそれが自分のもののように振舞う。貴様は一体誰なんだ」

「黙れ!」

 競り合っていた刀を弾く。

 無我夢中で刀を振るう。

 振り下ろす。

 切り上げる。

 薙ぎ払う。

 押す。

 押して押して押し続ける。

「だあああああああああああああ!!」

 足を前へ。

 ひたすらに刀を振るう。

 それら全てを影は後退しながらも涼しげな顔で捌く。

「感情を否定してはがらんどうの"神崎亮"という殻に自分を押し込める」

 呼吸などとうに忘れた。

 己の体を機械と成して、ただひたすらに刀を振るう。

「己の本質などに眼を向けることもなく、ただひたすらに自分というものから逃避する」

 体が軋む。

 思考を止めて、理性を捨てて、本能のままに刀を振るう。

「逃げていることさえ否定して、そうして答えのない自己矛盾の輪に囚われる」

 頭蓋骨が熱い。

 血管がブチ切れそうだ。それすらも燃料へ変えて、何かを守るように刀を振るう。

「いつしかそれすらも当たり前となり、感覚は麻痺して己の置かれている状態すら誤認する」

 視界がぼやける。

 自分自身を超越して、そんなにも走り続けて、それでもまた見えてくる自分の背中。

「そんなに負けることが怖いか」

 亮は、

「うああああああああああッ!!」

 叫び声を上げて更なる一刀を放つ。






 ※ ※ ※





 夕焼けの教室には拳銃を構えた二人の人間を描いた影絵が浮かび上がる。

 堕ち日の直射を受けて、時雨と文月影司の影は長く伸びる。

 その姿、その在り方を大きくする。

 影。

 影法師。

 そして、【影踏み(ドッペルゲンガー)】。

「影。多次元での自己投影。私の暗示式が象徴する死の因子。神崎亮へかけた暗示式の魔術の『概念』だ」

 文月の饒舌は留まる所を知らない。

 魔術師の教えには魔術戦では敵よりもより多く、より強く、言葉を繰れ、というのがある。

 変わり者や曲がり者が多い魔術師の中にあって、文月影司は基本に忠実で奇をてらわず、手堅く堅実に戦局を転がしてくる。

 作戦だけじゃない。

 この男は己の扱い方にさえ隙というものが無い。

 だが、それでも自分の魔術についてまでわざわざ敵に教えてくるなんてことは普通ありえない。確かにその話ならば自分ひとりの独壇場である上に、相手も無関心ではいられないネタなので対魔術師必中の話術ではある。だが、それでも払う値と得る値が釣り合うことは無い。

 自己の鍛錬の成果。よういに盗めるようなものではないとはいえ、それでも種を明かしてしまえば魔術は通用しづらくなる。さらには対策も立てられてしまう。それはあくまで次回があれば、の話ではあるが。

 ……ここで私を必ず仕留められるという自信の表れ、ってとこかしら。

 舐められたものだ。

 なんの準備も無しに戦場へ飛び込んできたとでも思っているのだろうか。

 この状況は、神崎のことさえ差し引けば時雨にとって、思い描いた最高の立ち位置だというのに。

 そう、神崎のことさえ、差し引けば。

 とにかく、彼はまだ生きている。

 戦っている。

 協力者として、言葉に出来ない感謝の気持ちとして、その気持ちを抱いてしまった恨み言を言うために、時雨はまだ戦わなくてはならない。

 なにより、『家令』は絶対だ。

 隙が無いなら作るまで。

 その為に文月の言葉に耳を傾ける。

「我が魔術は影という『概念』が内包するもうひとりの自分、己という他人、等号にして不等号の記号をもって主人格を塗りつぶすことで成立する。影にカタチがあれば表へ出てこれるのかもしれないが、生憎イコールで結ばれていた所でXとYは別物だ。持ち主を失った体は心肺停止という形で矛盾を解決する」

 塗りつぶす。

 神崎は夢の中で幾度と無く自分の影と戦ったと言っていた。

 その夢の中で影に殺されると視界が全て闇に呑まれ、やがて朝が来るのだと。

 今回の夢が本命ならば、そこから導き出される敗北――死亡条件は影に負けること。しかし、裏をかけば影に勝つことが出来れば、もしかしたら暗示式を破れるのではないだろうか。

「では、体の持ち主が影に勝利すれば、どこにも矛盾は生まれなくなると言う事ね。あなたの扱う『概念』は【死】ではなく【影】。死は応用で、あくまで二次的なものなのだから」

 久しぶりに口を開いた気がする。

 口の中がカラカラだ。

 濁った唾液が喉の奥に絡みつき、気持ちが悪い。

「二次的、という部分に喜んでいるようだな、神無月。だがな、そもそもお前たちに無縁のものだろうが【死】という『概念』は弱い。あまりにも抽象的で、あまりに括る範囲が大きすぎる。それでは魔術に満足な効果は望めない」

 挑発的な物言い。

 お前たちには解らないだろう? と。

 時雨を、神無月を挑発している。

 これらは魔術構築理論における初歩の初歩。知らないはずが無い。

 だがこの文月が使う魔術が100%【死】の『概念』使いでないと、初めから決めてかかることは出来ない。魔術師を相手に「有り得ない」、などといった言い訳は通用しない。そんな時期はとうに過ぎた。

「一方【影】は具体的で身近にあり、かつ象徴的なモノだ。影はその身を暗示する。縫い付ける事でその身を捕らえ、捕らえることで焚きつけて、そうやって自分が自分を殺すと言う矛盾論理へと追い込む」

 縫い付ける。

 焚きつける。

 自分を殺す。

「影とその実像は切っても切り離せない。互いに相互作用し続ける。自分が消えれば影も消える。影が無ければそこに実像は無い」

 そんな馬鹿なことは無い。相互作用などしない。影と己の関係など所詮一方通行だ。

「戯言を。夜が来れば影は無くなる。それでも己は存在できる。ふざけた詭弁を弄するな、文月」

 文月が我が意を得たりと、にやりと笑う。

「違うな。夜が来れば影はその存在を大きくするだけだ。世界そのものが全て影となるのだから、無くなってなどいない。むしろ夜こそが影の真骨頂。狭苦しい器を抜け出して世界を自由に渡り歩く影の時間だ」

「器が無くなった時点でその影は己の影では無くなる。それは世界の影であって己の影ではない。己の影が消えても己は無くならない」

「それこそ馬鹿な話だ。これだから神無月はいけない。世界とはつまり己も他人も周囲も、全て含んでこそ世界だ。生きている限り人は影から逃れることは出来ない。影が無くなる時は死ぬ時だけだ」

 やっと得た会話の手応え。

 ここを取り逃してはいけない。

「建物の中ならば影はない。その論理は破綻している」

「建物の中にも影はある。薄くて見ずらいだけだ。存在が希薄な事と、存在していない事は大きく違う。光あるところに影は必ず出来る。影のある所に人は必ずいる。影が行っていることは必ず人が行っている」

 違う。

 奴の言っている事はおかしい。

 おかしい所が多すぎて、指摘が追いつかない。

 『概念』を『定義』させてはならない。

 情報を引き出さなくてはならない。

 隙を見せてはならない。

 切り口を変える。

「では影が無いという事は死んでいるという事。では人が生きる限り影は無くならない。例え斬ったとしても、例え殺したとしても。どんな事をしようと人が生きる限り影は無くならない。影があるということは、その人間が生きている」

 否定では埒が明かない。

 論理を用意されている以上、こちらが不利なことは明白。ならば自分に都合の良い部分だけを強調して認めていく。敵がそれを否定してくれればその時点で論理を破綻させられる。肯定すれば肯定した部分の論理は埋まる。敵の自由にはならない。

 と、そこで。

「解術の方法が無いと分かれば次は対象が自力で助かる方法の模索か? 止めておけ。いらぬ期待は戦場において判断を鈍らせる。だいたい、これはそこのガキがそう考えている限り、永遠に助かる術は見つからない類のものだ」

「!」

 助かる術は見つからない、と言った。

 男は自分の失言に気が付いただろうか。それとも、これでさえも男にとっては瑣末な問題なのだろうか。

 見つからない、ということは何処かには在る、ということだ。

 魔術師はこういう時に事の言い回しに長けている分ぼろが出やすい。

 物事を厳密に言う癖が付いているせいで、言葉の端々にヒントがにじみ出る。

 ――これはそこのガキがそう考えている限り、

 神崎の考え、神崎の持つ"歪み"、神崎の抱える矛盾。

 時雨の考えていることが正しければ、助かる糸口はある。

 神崎の"歪み"。

 文月がそれを魔術のキッカケに使っているならば、

 そして、神崎が"歪み"を直視することができれば、

 時雨が認識した、神崎亮という人物ならば、

 勝てる望みはある。

 ともかく光明は見えた。

 希望は捨ててはならない。

「ぬか喜びの所悪いが、見つからない、というのは言葉のあやだぞ神無月。私の用意する影は実に精巧だ。戦う相手が本人である限り、決して勝つことは叶わない」

 時雨はうっすらと苦笑いを浮かべ、冷や汗をやり過ごす。

 この男、心でも見えるのではないだろうか。

 生半可な読心術ではない。

 文月は新たな切り口を得たようで、再び話し続ける。様子を見るために放った言葉でさえも、相手は絡めとり自分の糧とする。不用意に喋る事も出来ない。形勢は押され続けで時計は時を刻む。

「影とはつまり自分だ。それを倒す事はできない。実力は同等。己と戦っているのだから終わるわけが無い。鏡と戦っているのを想像すれば話は早い。刀を切り下ろせば鏡の境界面でぶつかり合い、拳を突き出せば拳がぶつかり合う」

 鏡、とは恐らく比喩。

 神崎の話では影は勝手に動き回ると言う。動き回り、命を狙うと言う。

 鏡。

 だが、そういうことなのだろう。攻撃しても当たらず攻撃されても当たらない。鏡と言う比喩は、神崎の話から受ける影の戦い方の印象にピタリと嵌る。

「だが影は己だが己は影ではない。影はあくまで己を投影した存在。人間ではない。人間はやがて疲れる。疲労する。擦り切れる。永遠に終わらない戦いに放り込まれたら誰だってそうなる。肉体よりも先に、精神が疲弊する。……肉体など夢の中にはどこにも在りはしないのに、な」

 言論の隙が無いのなら肉体の隙を狙う。

 日本刀もだが、銃と言う武器は外見以上に重い。

 だが喋り続ける間、文月の拳銃はぴくりとも動かない。

 すでに結構な時間が過ぎているはずなのに、少しもだ。

「神崎亮が刀を持った経験があったのは手っ取り早かった。神崎グループの御曹司だったこともあって、あの歳にして生き死にについて真剣に考えたことのあるというのもでかい。死を身近に感じたことがある人間ほどこれは効果的な魔術だ」

 時雨は女であろうと神無月の魔術師だ。一般人など言うに及ばず、魔術師の中でも最高位の運動能力と、そして鍛錬を積んできている。

 文月は暗殺などの専門で、戦闘は得意としない家だ。もしかしたら長引かせれば腕の痺れを狙えるかもといった希望的観測も持っていたが、それは捨てた方が賢明のようだ。先の接近戦でも感じたが、この男はどうやら規格外のようだ。

 クジ運は昔から良い方だったが、ここまでくるとその能力もどうかと思う。五万と居る文月の魔術師の中で、ハズレというには余りにも稀少な存在を引き当ててしまったらしい。

「影は夢の中にある限り無敵。なにせその空間の創造主だからな。同じ実力、同じ思考回路、同じ身体能力、異なる起源。人は人である限り人でないモノに勝利する事は叶わない。人でない影に人としての限界はない。肉体の疲労も精神の疲弊も、影には存在しない。故に必勝」

 そこで、文月が初めて動いた。

 これまで身動ぎひとつしなかった文月影司が、動いた。

 空いている左手に銀色の痩躯、ボールペンよりもやや長さが足りないほどの長さの突起物を出現させる。それこそ、マジシャンのように。そのカタチはまるで、

 時雨も突然のサブウエポンの登場に機敏に反応する。腰元から短刀を抜き出す。

 互いに、拳銃を動かすという愚は犯さない。どちらの銃口も精密に心臓を狙い続ける。

 時雨はいつでも短刀を投げられるよう、いつでも斬りつけられるように頭の中で身構える。

 時雨の動きにも文月は全く反応を見せずに、まるで自分は何もしなかったかのごとく独り言を続ける。

「個人差はあれど必勝。故に必殺。私が暗示式を使った人間で、」

 そのカタチはまるで、

「生きている人間は皆無だ」

 ダーツの矢のような形をしていた。






 ※ ※ ※




 終わらない死闘。

 いくら撃っても決定打になりえない変わりに、敵の攻撃も紙一重でなんとかかわすことができる。

 繰り返される攻防。

 永遠の再現。

 もはやここへ堕ちて来てどれくらいの時間がたったのかも解らない。

 数時間。数日間。数ヶ月。

 あるいは数年間?

 それだって現実の時間がどれくらい経過しているのかは解った物じゃない。

 いや、そんな区切りはもはや無意味だろう。

 地獄というものがあるというのなら、まさにここは地獄。

 久遠の時をもって死者へ鞭打つ終着駅だ。

 ……死者、か。笑えない冗談だ。

 吐く息が熱い。

 頭がもうろうとし始めたのは一体いつからだったか。

 互いの行動が作業化する。

 体を動かせばそれだけで辛く、それなのに作業は一向に終わる気配を見せない。

 集中力などもうひと欠片も無い。

 打ち合っていられるのはひとえに扱う流派が神崎流だったというだけの幸運。

 動く手を止めれば待っているのは死だけ。

 節々は痛み、それなのに行動不能になるだけの強力さは持ち合わせていない。

 諸々は霞み、全てその奥へ真実を隠しさる。

 鉄と鉄を擦り合う音だけが亮の全てを突き動かす。

 思えば意地の悪い話だ。痛みは死を強要するだけの力を見せず、時間は死をちらつかせ誘惑するのみ。こちらを焦らすだけ焦らしておいて、死ぬのならご勝手に。ただし自分の意思で。死のう、と思って死んで行け。

 迫り来る斬撃。

 磨耗しきるまでの永い時。

 放つ攻撃。

 既視感しか覚えない全ての行動。

「お前は俺には勝てないよ」

 いつまでたっても同じ調子を繰り返す影。

 酷く、あらゆることに疲れた。

 ……俺は、ここで終わるのかな。

 体を動かす事に疲れた。

 頭を動かす事に疲れた。

 意地を貫き通す事に疲れた。

 そもそも、自分は一体何の意地を貫いてきたのか。何のために貫いてきたのか。

 酷く、曖昧になる。

「俺にはお前など必要ない。お前も俺など必要ない。ちょうど良い取引だろうに」

 影はこれまでの時間が無かったかのように動き続ける。

 亮だってただ馬鹿のように刀を振るっていたわけではない。

 影の正体にもなんとなく気が付いた。

 あの影はつまり、自分の認識している"神崎亮"の姿だ。こうあるように、こうするように、こうである。願望、思考、事実。それらから成る"神崎亮"を神崎亮が主観を通して客観視した姿。つまり自分自身だ。

 よって実力は同等。同じ戦闘理念によって動くから、互いの攻防はかみ合い続ける。亮が防御を放棄しない限りは。永遠に続く。

 影は認識の具現であるが故に常に平均の力を発揮する。コンディションによる好調も無ければ時間による磨耗も無い。

 人は傷が無ければ痛みを認識できない。痛いだろうという想像は出来ても、刹那刹那の体験をなくして痛いという実感は得られない。平時の認識を基にするカタチを与えられた影は、痛みを感じることも疲れを感じることもない。受けた情報をフィートバックできない。更新されない。故に無敵。

 倒す事の出来ない敵の前へ放り出されて、いったい誰が力尽きるまで戦い続ける事ができようか。

 もうそろそろ終わりにしよう、と。

 ついに否定することも出来ない弱音が心の中に染み出す。

 体が言い訳一撃を求めて影の姿を食い入るように見詰る。

 だけど、

 ……違う。

 首筋を狙う刀を弾き飛ばした。

 ……違う。

 自分自身だからこそ熟知する技後の隙を『神明』で付く。

「違う!」

 もはや何が違うのか、自分自身にも分からない。

 矛盾だらけで統合性が取れない。だけど、

 出所の知れない淡い痒みに身震いが止まらない。

 だけど、

 前後不覚の灼熱じゃない。微熱。矛盾がもたらす我慢できるゆえの辛さが亮を満たす。

 だけど、

 ……俺は負けたくない!!

 胸のモヤモヤをブッ放つ。

「負けたく、ねぇーーーーーーーーーーーー!!」

 感情を乗せた一撃。

 咆哮と共に放った出鱈目の一閃。

 神崎流を無視し、戦況を無視して、上段から大きく振り下ろした隙だらけの一刀。

 その攻撃は、

 遂に影を捉えた。


 が、


「ぐあああああああ」

 闇を転がる。

 ゼイゼイと漏れる自分の息遣いが苦しさを増す。

 距離を取る、などといった理性は残っていなかった。

 ただ痛みに、零れる灼熱に悶えた。

 斬られたのだ。

 影を捉えた一刀は、しかし痛みを感じない影には亮自身の隙をさらけ出しただけに過ぎなかった。

 ……痛い。

 言い訳には十分すぎる。

 こんな傷、受けたその日には十分死ねる。

 お疲れ様、だ。

 もうやらなくていい。

 もう戦わなくていい。

 もう投げ出して構わない。

 そう思うと、体がすっと軽くなった。

 でも、

「これでお前の負けだ、神崎亮。その傷ではもう満足に動けないだろう」

 亮は微熱にうなされもうろうと立ち上がる。

 でも、それと同じくらい胸が苦しい。

 ……負けたくない。

 張り裂けそうだ。

 ……嫌だ。負けたなくない。

 この感情は、そう。

 ……悔しい。

 物事において、亮は初めてそう思った。

 悔しい、と。

 負けられない、ではなく、負けたくない、と。

 或いは封じてきた感情か。

 再び開いた距離に、亮は『神明』を構える。

 ずっと思っていたのかもしれない。この幼稚で瑣末な感情を、ずっと胸の奥でくすぶらせていたのかもしれない。何かに負けるのは悔しいと。それだけの、まるで幼稚園児のような理由で、ここまで走り続けてきたのか。

 時の止まったあの公園に、心だけを置いてけぼりにして、体だけがここまで走り続けてきたのかもしれない。

 そう思うと、己の行為全てが恥ずかしい。大義名分を振りかざし、大仰に振る舞い、さもそれが当然のごとく偉そうなことを言い偉そうなことを行う。そんなのは全て、自分のたった一つの性質からくる幼稚な衝動だったのではないか、など。

 羞恥心で心が壊れてしまいそうだ。

「くくく」

 何故か、ちょっとだけ愉快。

 自分はなんて愚かで馬鹿馬鹿しい人間なのだろうか。

 大勢の人間をまとめようという人間が、その為に振舞ってきた行為が、全てはガキの背伸びだった。

 余りに滑稽。

 それを、

「あっははははは」

 尊いと感じてしまう自分も、全部含めて。

 腹がよじれる。

 影はそれを無表情で見詰る。

 しばらく、独り笑い続ける。

「はあ、はあ、はあ。あーー、笑った。でもなんかまだ笑いたんねーや」

 なんせ17年分の笑いだ。足りるわけが無い。

 できることなら、現実世界でもこうして笑ったり泣いたりをもっとしたかった。

「さて」

 覚悟を決めれば頭は驚くほどクリアだ。自分がどれだけ怯え、緊張していたのかが分かる。

 ……常時を基とするならば、勝つための条件はただひとつ。首筋、脳天、心臓。ダメージは蓄積しない。狙うなら一撃必殺しかない。扱うは【死】の『概念』。死に行く体をもって【死】を体現させる!

 闇を駆けた。



 ……流水の陣。

 幾千、幾万と繰り返してきた初断ちの一刀。亮の『形』。

 敵の脇をすり抜けるようにして刀を薙ぐ。

 鉄と鉄がこすれる音。

 刀は弾かれて体はすれ違う。

 敵の動きなど、見なくても分かる。

 次に出す左足にエッジを立てて、ブレーキを通り越して後ろへ跳ぶ。

 ……風見の陣。

 腰をひねって振り向きざまに袈裟斬りを放つ。

 振り向いた先には影の放った清空の型がある。

 そこから導かれる『形』はひとつ。次は天峰の陣が来る。

 突きと分かれば避けるのは容易い。

 清空の型の刀を絡めて滑らす軌道。

 ……柳の型。

 踏ん張らずにされるがままに流される。

 直線軌道の突きは左右の移動に対応できない。そして神崎流は全自動。流された先、再び強くブレーキを踏み、首筋めがけて跳ぶ。

 ……風見の陣。

 振るった先に影の姿は無い。

 『形』を解体された。

 解体。神崎流の全自動を補う唯一の緊急回避。

 影は屈んだ状態で眼下に潜む。

 影が刀を切り上げる。

 ……高凍の型。

 受け流さずに刀で刀を受ける。

 一瞬の拮抗。

 同時に互いを弾き飛ばし、

 ……復刀の陣。

 再び同時に斬りかかる。

 上段から振り下ろした刀。

 下段からすくい上げられる刀。

 激突。

 振動に手がしびれる。

 肉薄する死に恐怖する。

 それでもまた前へ進む。

 ……戒閃の陣。

 シンプルな横薙ぎ。

 影は屈むようにして刀を避ける。

 間髪いれずに突きの反撃が来る。

 ……光陰の型。

 それでもまだ前へ進む。

 点を点で捉え、突きを弾き飛ばす。

 一歩間違えばそこにあるのは奈落。

 弾いた刀と弾かれた刀。

 互いに取り落としてはいないものの、どちらも体の支点から刀が遠い。これでは次撃が遅れる。

 ……くらえ!

 『形』が無い故に動けない影へ、その腹めがけて亮は蹴りを叩き込む。

 ダメージはゼロ。だが、体勢は崩せる。

 流派の無視に、思わず苦笑いが零れる。だが、どうしてかじじいも笑っている気がした。

 崩れた体勢へ、大上段から袈裟切りを見舞う。

 ……壱の陣。

 影が刀を寝かして両の手でその一撃を防ぐ。

 勢いに負けて影が後ろへずり下がる。

 初めて傾き始めた戦況に心が粟立つ。

 更に前へ。

 ……隆の陣。

 切り下げた刀の次は切り上げる逆袈裟。

 何度も響く、金属音の協奏曲。

 影は同じように受け続ける。

 まだだ。

 拮抗は崩れ始めた。

 焦りに冷や汗が止まらない。

 進め。進め。進め。

 前へ。

 ……傾谷の陣。

 柄を先行させ、両手で持って左上段めがけて飛び跳ねながら切り上げる。

 影はそれを受け止めようとするが、勢いで押し切る。受け止められてはいけない。宙へ跳ばなくてはならない。高く、滞空時間を得る。

 呼吸が止まる。鼓動が止まる。全て停滞する世界。無音の境地。

 必要なのは想像力。そこに至るまでの過程とそこから先への未来。抽象を具体へ、曖昧な輪郭に明確な形を構成する。

 ……旋空の陣。

 亮は宙で反転。刀を左へ持ち替え振り下ろした。敵の下段へと叩き込む。

 影を掠める刀。それでは駄目だ。

 これでは勝てない。もっと、もっとだ。

 崩れる体勢を空中で強引に引き戻す。

 世界がゆっくりと流れる。滞空が長い変わりに体も動きが緩慢だ。脳髄に走る痛み。人間の構造限界へ挑む。限界は認識が生み出した幻想。人体の損傷さえ恐れなければ、人間はもっと早く、どこまでも速く動く事ができる。枷を外せ。お前の力はこんなものではない。

 本来ありえない体の動きに脳の認識処理が悲鳴を上げる。眼球が乾く。喉の奥が干上がる。

 不安定ながらも両の足で着地に成功。

 影は今だ刀を構える段階。斬られた痛みはやはり感じていない。

 世界の停滞を置いてけぼりに、体はしがらみから開放される。

 刀は水平に。

 狙いは首筋に。

 心は前へ。

 ……流水の陣。

 足に違和感。だがそれも一瞬。

 首筋一閃。

 亮は、影の脇をすり抜けると同時に刀を薙いだ。

 確かな手ごたえ。

 ブレーキを踏んですぐさま振り返れば、


「残念賞ー。いやいや、がんばったで賞ってところか? ホント、残念だったな。その程度で"俺(影)"は無くならないよ。俺とお前は一心同体だからな。俺を消したきゃお前が死ぬしかない」


 今だ立ちはだかる影の姿があった。

「本当に反則だな、"お前"。友達いないだろ」

「ああ、よく分かったな。だが親友はいるぜ。なあ、相棒」

「ふん。そうか、そうだったな。ところで"俺"」

「なんだ? 俺」

 更新されない。

 受けた情報をフィートバックできない。

 ということは、

「"お前"、自分のこと強いと思うか?」

「そんなこと、言うまでも無いだろう?」

 自信満々の笑み。"自分"が敵(自分)に勝てることを、露ほどにも疑っていない。それは、"神崎亮"の笑みだった。

「そうか」

 確かに、言うまでも無いことだった。

「そうだったな」

 なにせ2人は親友だ。心と心どころか根っこの部分まで全くおんなじもんで出来ている。違うのは青く茂った枝葉のみ。先へと続く可能性の違いだ。

「だがな、神崎亮」

 いざ、言葉にするとなると上手く言語化出来ない。

 喉が渇いて心臓が喘ぐ。

 胸が苦しい。

 否定してしまえば楽になると、"自分"が自分へささやく。

 言葉にし、"自分"へ言い放ってしまえば後戻りは出来ない。

 ―――苦しい。

 それでも――、

 だからこそ、今の自分を『定義』しなくてはならない。

 これを飲み込まずして先へは行かれない。

「……"お前(俺)"は弱い」

 "俺(影)"は一瞬だけきょとんとして、次の瞬間憤怒に顔を染め上げた。

「馬鹿な。俺は強い。誰よりも強い。そう在る様に生きてきた。それはお前が一番良く知っているだろう」

 "影(俺)"は全く取り合わない。

 話など、聞いちゃいない。

 ―――全てを一人で完結させられるようにと走り続けてきた。

 それを目標にやってきた。まだまだ辿りつけていないのだと思い込んでいた。自分の目標地点が、こんなにも不完全で出鱈目なものなのだと思いもしなかった。

 なんて事はない。

 ある意味で、もはや神崎亮は『行き着いてしまっていた』。

 辿り着いてしまっていたんだ。最果てまで。望んだように。願ったように。ひとりぼっちの場所まで、とっくに。

 ……そりゃあ歪んで見えるよ。

 明らかに不自然だ。

 "己"の姿を鼻で笑い飛ばす。

 そして、『定義』する。

 神妙に、

 厳粛に、

 告げる。

「我は、序列番外の魔術師、『枷解士』・神崎亮」

 何度でも構えなおされる刀。

 幾度となく繰り返される死闘。

「だから俺は、だから今は、弱いからこそ強く在りたいと願う」

 神崎亮はひとり、囁くように枷解術を発動させた。






 ※ ※ ※




 文月はくるり、くるりと独りダーツを回し始める。

 思わず力の入る四肢に手綱を引く。

 やり方を変えよう。このままでは敵の思う壺だ。角度を変えて、平面ではなく立体で敵を捉えよう。

 ここでどれだけ食い下がった所で、結局は神崎を信じるしかないのだ。それよりも、こっちは神崎が帰ってきた時のための準備をしておかねばならない。

「そもそも、あなたは一体何のためにここまでやっているの?」

 『家』を抜けて独り。

 時雨が言うのはなんかもしれないが、余りにも馬鹿馬鹿しい。暗黙の了解なんてものではない。『議会』のルールの第一項に記される行為、裏切りだ。

 こんなことをして、ただで済むとでも思っているのだろうか。

 目の前の男を、本当に全く少しも理解できない。

 解った気にさえさせてくれない。

 意味は分かる。本家の命令も無しに管轄界を破り、それを本家に悟らせないように動いているのだ。

 どうなるかも分かる。文字通り喧嘩になる。それも、どう転んだ所でその戦いは避けられない所までお膳立てさせられている。この男の思い通りに。

 だがそれは、いったいなんの利益を生み出すと言うのか。

 同時に父さんの出した命令の意味にも思い至る。

 【神有月】は言った。

「もしかしたら、神崎亮を見捨てずにここまでやってきたのは僥倖かもしれん。いいか、時雨。今回の敵だけはどんなことがあっても『殺してはならん』。そして、言われるまでもないだろうができることならば神崎亮も助け出せ。これは『家令』だ。命令違反は許さん。そしてお前が死ぬこともだ、【時雨ル玉座(我が娘よ)】」

 今回の件が魔術師社会で表沙汰になれば、神無月がその面子を守るために戦わざるを得ない。文月側から見れば、あらぬ冤罪をかけられる形になるのだから交渉の余地は無い。

 逆にもし時雨が目の前の男を殺してしまえば、しばらくは誤魔化せてもいつかは文月に何らかの形でバレてしまう。なんせ二つ名を持っているほどの人材だ。文月は戦わざるおえないし、神無月としてはやはり冤罪だ。

 あまりにも、隙の無さ過ぎる計画だった。

 しかしそこまで思って、再びここに行き着く。

「そんなことをして、あなたにいったい何の利益があるの」

 隙は無い。

 隙は無いが、それでもそれに有り余る危険のまとわりつく計画だ。

 いったい、何が彼をそこまで突き動かすのか。

 確かに有意義な質問ではあるが、それ以上に自然に出た純粋な質問だった。

 だが、

「利益、か。はん、その合理主義が本当に頭にくる」

 相も変わらず文月の言葉は空洞だった。

「壊したくなったから壊す、では理由にならないか? お前たちは本当に何でもかんでも理由を付けたがる。本当に無粋だ」 

 くるり、くるり、と。

「言うなれば娯楽だ。壊してみたくなったんだ、この世界を」

 文月は元の顔など見る影もないほどに、皮肉に相好を崩した。

 その顔は本当につまらなそうで、空白で、何を考えているのか全く読み取れない。

 無表情よりのっぺりとした顔のまま、それでも笑顔を絶やさず文月は続ける。

「なにもかも馬鹿馬鹿しくなったんだよ。ある時気が付いたんだ。この世に愛すべきものなど何も無く、守るべきものなど何も無いのだと。それら全ては幻想で、人生は全て与えられた無駄をいかに消費するかが命題なのだとな。だから、」

 くるり、くるり、と。

 文月は忍び笑いを漏らしながら続ける。

「これは私から魔術師諸君へのプレゼントだ。ゲームをするのなら、フィールドはなるたけ大きくルールは飛び切り複雑で、賭けるのなら己が全てだ。ハイリスクにしてノーリターン。これだけ上等の娯楽など、この世には他にあるまい」

 くるり、くるり。

 文月はそのまま狂気に任せて笑う。

 空白の笑みを撒き散らす。

 その笑みは、理由も無く悲痛で、

 それでも時雨は目を逸らすことも出来ずに直視する。

 余りにも見るに耐えない笑みだった。

 そこにあるのは虚無だけで、本来自己暗示によって封じるべき怒りや恐怖と言った感情を、そもそも喚起さえしない。

 ただただ痛々しくて、そして不安になる。

 足元が不確かになる哂いだった。

 時雨はそれら感情へ繋がるものを、自己暗示によって封じた。

 影に支配されたこの空間を脱するために、時雨はさらに問いを重ねる。

「こんなことをして、ただで済むと思っているの?」

「クク、では神無月。私はどうなるのかね? 聞いてみたいものだな、君は占いが出来るのか?」

 完全に馬鹿にしきった声。

 魔術戦に置ける時雨の対極にあるスタンスだ。

 平静に続ける。

 微妙に言葉を無視して話を脱線しないように修正する。

「こんなことをすれば、『議会』も霜月もあなたを放っておかない」

 そこで、文月は初めて表情を変化させた。

「『議会』、か」

 くるり、くるり。

 温和な笑みから空白な皮肉で顔を造っていた文月は、今度こそ本当に無表情となった。

「私はな、神無月。私は影でいいんだ。後に来るゲーム、その主役に立ちたいとは思わない。裏方で構わないんだ。だがな、裏方なくして本体の完成はありえない。まだ舞台は完成していない。私の用意した舞台は、こんなものではない」

 文月の静かで淡々とした呟き。

 その言葉、このタイミングで、時雨はようやく目の前の男に戦慄した。

「私はまだ死ぬわけにはいかない。お前に殺されるわけにはいかない」

 平坦な、起伏のない言葉。

 意識して聞かなければ、何を言っているのかさえ分からなくなる。

「魔術師を根絶やしにするためには『大戦』が必要だ。かつてない規模の戦が。その為には神崎グループに消えてもらうのが一番手っ取り早い。ここで私とお前が戦おうが戦うまいが、どのみち神崎亮は自分の影に喰われて死ぬ運命にあったんだよ」

 解術が存在しないのだから、ここで時雨のやっていることは無駄だ、と。

 文月は時雨を揶揄する。

 だが、

「そんなことはない」

 そんなことには、させない。

 なんとしてでも文月を捕え、戦など起こさせない。

 今の神無月に他家と争うほどの力は残されていない。

 それも、それでさえも、この男にとっては全て計算どおりなのだろうが。

「私はかならず貴様を捕えてみせる。ここで全てを終わらせてみせる。戦争など、させはしない」

 文月が薄く笑った。

 元の、成見影司を思い出させる温和な笑みだった。

「だがな、神無月。いや、斉藤時雨」

 生徒を指導する教師の顔で、

「お前は狂っていると思ったことはないか? 歪んでいると思ったことは? この、我々魔術師という生き物を。社会を。システムを。おかしいと思ったことが、一度もないのか?」

 その問いに答える事は、

 お礼を言う事もままならない魔術師同士の付き合い。

 生まれて初めて人にお礼を言った時の事。

 守られるはずのないゆびきり。

 そして、両親に『家族』。

「………………」

 出来なかった。

「何故、自分はこのような境遇に生まれなければならなかった。周りを見渡せば、自分には欲しくとも永遠に手の届かない幸福を手にしている人間のなんと多い事か。……と、な。お前の表情を見ていれば分かる。お前は決して私のような人形ではない。逆に、生粋の魔術師でもない。それならすでにたどり着いてしまったはずだ。どのようにしてお前がその論理矛盾に合理性を見出しているのかは、正直興味のある話ではあるが。もはやどうでもいい話だ」

「!」

 文月がダーツを投げた。

「双方向性の『定義』により汝が影を束縛する」

 詠唱。

 それに応じて短刀を動かそうとした時雨は、

 ダーツの矢が時雨の影を射抜いた瞬間。

 ……動かない!?

「な、」

 と、漏らしたつもりだった。その言葉さえ音にはならなかった。

 ……しまっ、

 体が、動かない。

 『影踏み』、とはこういうことか。

 引き金にかけた指も、地面に縛り付けられた足も、短刀を手にした腕も、なにも、動かす事が出来ない。どんなに力を入れても、動かす事が出来ない。

「影の双方向性を論破できなかった時点で貴様の負けだ、神無月」

 文月は、廻り回って最後には元の温和な笑みを浮かべた表情だった。

 その表情のまま、

 文月影司の放った銃弾は、


 鼓膜を振るわせる轟音。


 時雨の心臓を穿った。






 ※ ※ ※




 これは夢である。

 という大原則にして大前提。確認し、認識し、使用したこのルールを、自分はまた失念していた。

 影は痛みを受け付けない。何故か。認識できないからだ。

 そこで思考を止めていた。

 時雨は何と言ったか。『魔術師の言葉に耳を傾けるな』。それが意味することは認識の拒絶だ。

 痛い、というが、そもそもここのどこに痛むべき肉体がある。

 一度気が付いてしまえばそれは驚くほど簡単なルール。

 痛むはずがない。ここには体など無いのだから。

 痛むのは神崎亮の意識が【痛み】という『概念』を『認識』したからだ。

 つまり、ここが夢の中であると気づいてしまえば、斬られた傷など完治するまでも無く感知など出来なくなる。"神崎亮"が無敵のはずである。ここでは全てが思うがままだ。

 体が痛むのも、骨が軋むのも、息が上がるのも、頭蓋が焼けるのも。全て認識が生み出した幻想だ。ここには肉体の限界など無い。

 あるのはルールによるルールの潰し合い。そして精神の応酬だ。

 より上位にあるルールが下位のルールを凌駕する。単純明快な世界。

 迫り来る影。

 神崎流の刀。

 己の持てる技巧を尽くした剣技は、しかし今の亮にとっては余りにも遅すぎた。

 想像の中で、自分に巻かれた十重二十重の鎖を、全て粉々に砕き散らす。

 遅い。

 刀を弾く。

 遅すぎる。

 背後へ回る。

 影はまだ反応し切れていない。

 時雨は枷解術には身体へ計り知れないリスクを背負うと言っていた。

 しかし、それでさえここでは無意味だ。

 やっとこちらへ反応し始めた影へ。

 その頭を横薙ぎ一閃、弾き飛ばす。

 自分の姿をした者の頭部が砂と散る。

 影は一瞬ノイズが走ったかのように揺らめき、ビデオを巻き戻すかのように元へと戻りかけ、

 亮は更に刀を走らせる。

 心臓、脊髄、靭帯、手足。

 人が行動するのに必要だと思われる場所を、思いついた場所をありったけ切りつける。

 斬りつけてなお、更に斬りつける。

 斬るべき場所などなくなるほどに、無くなってしまえばまた最初から。

 自分自身を滅多切りにする。

 当たり前の【死】で足りないのなら、人という形ごと【滅ぼす】まで。

 頭はどこまでもクールでドライだ。

 体は軽く、息に至ってはするまでもない。

 さらに刀を重ねて、そろそろやりすぎたかと思った所で手を止めた。

 影は、見る影もなく塵と消え去った。

「それでも、まだ、なんだよな」

 亮は誰も居ない闇の中で独り呟く。

 それも一瞬だけ。

 一瞬の後には再び闇から立ち昇る"神崎亮"の影。それが、今度は2つ。

 顔にはこれまでの余裕はなく、まるで双子のように憎しみに歪んだ顔を亮へ向けてきた。

「「認めないぞ、"俺"が俺に負けるはずがない」」

 亮はその言葉を鼻で笑う。

 影へ、無言で走り出す。

 2人になったからといって何が変わるわけではない。

 結局は自分自身。

 2人のコンビネーションは完璧で、どこにも隙はない。

 それでも、

 影の上段を受け流す。

 もう1人の下段が逆側から飛ぶ。

 それを返す刀で払い流し、1人目の次撃を受け止める。

 反対側から来る逆袈裟をかわし、牽制の一刀を放つ。

 刀と刀の噛み合う甲高い音。

 そうして5回6回と打ち合い、左右合計で十数の剣撃をいなし、

 亮の『神明』が影の心臓を貫き脳天を割った。

 砂を散らす影2つ。

 振るった刀を引き戻し、元の体勢を整える亮。

 立ち上がる。

 そうして広がった何処まで広がる闇世界。

 その視界の先に、

 うじゃうじゃと湧き上がる影の大群。

 もはや、5人や6人では利かない。

 無数、というにもまだ甘い。

 十数でもまだ足りない。

 その先に広がるのは、百を越える"神崎亮"の大軍。

 思わず苦笑が漏れる。

 我が事ながら、その短絡思考が頭に来る。

「いいだろう。かかって来いよ"過去の俺"。先に言っておくが、舞台がここである限りにおいては俺は無敵だ」

 まだ増え続ける影の大軍。

 どこまでも、永遠に増え続ける。無限の軍団。

 もはや、滑稽で笑いが止まらない。

「なんせお前は1人。こちとら俺と時雨で2人前だ。単純計算が好きならこれほど圧倒的な数字は他になかろう」

 刀を構えなおす。

 1人1人が亮自身と同等の実力を持つ影の大群。

 魔術の有無のアドバンテージがあったとして、亮の精神力がどこまで続くかは不明だ。精神死を前に、この世界ごと消えてなくなってしまうかもしれない。

 数に対する不安はある。

 それでも、自分は負けたくない。

 時雨にまた会いたい。

 まだまだやりたい事がある。

 なにより、過去の自分に今の自分が負けるわけにはいかない。誰に与えられた訳でもなく、それでも神崎亮は負ける訳にはいかなかった。

 その憎悪に歪んだ顔へ向けて、他でもない"俺の敵"へ向けて、叫ぶ。

「来い!!」

 亮の一刀が、先鋒の胴を薙ぎ払った。






 ※ ※ ※




 胸が痛みに疼く。

 やはり、勝敗を決したのは位置関係。

 時雨の用意した隠し玉は、まさに願ったりの形で作動した。

 時雨は、ありったけの畏怖と、憤怒と、恐怖と、その他諸々を籠めて、微笑んだ。






 ※ ※ ※




 幕間


 拳銃の轟音が余韻を残す教室で、私は神無月時雨が胸を押さえながらもゆっくりと立ち上がるのを見た。

「な、に?」

 拳銃は確かに神無月時雨の心臓を貫いた。

 私がその位置を違える訳がない。

 よってそれは間違いがない。

 なのに、

「それでは、私を倒す事はできないわよ」

 敵はまだ拳銃を構えていた。

 何故。

 そんなことを考える前に、手を動かさねば。

 緩慢な時の動きの中、

「神無月の心臓を打ち抜くことは出来ない。そんなことは無意味よ」

 声が聞こえてくる。

 無視する。

 もう一度、私は敵の心臓へ向けて、自然な思考の流れで、弾丸を発射した。

 死なない。

 何故だ。

「拳銃で神無月は倒せない。魔術師間では基本でしょ?」

 その通りだ。

 だが、そうではない。

 だったら何故。

 何故、

 なぜ、なぜ、なぜ。

 なんで奴は死なない。

 こんな所で死ぬわけにはいかない。

 このままではまずい。

 こんなことは予定にない。

 おかしい。

 なにか、歯車が噛み合っていない。

 その間にも、私は銃弾を放ち続ける。

 でも死なない。

 死なない。

「痛いじゃない」

 そう言って、神無月が笑った。

 おかしい。

 追い詰めているのは自分のはずなのに、なんで私が焦っている。

 そうしている間に、敵はこちらの心臓へ、ぴたりと標準をあわせる。

 魔術師といえど、私はあくまでただの人間だ。

 心臓に銃弾を喰らって生きていられるはずがない。

 神無月の連中のような化け物ではない。

 神無月が何かをぶつぶつと呟く声が聞こえる。

 その意味も、もはや理解する事も出来ない。

「……【死】とは生命活動の停止、認識の空白。世界を認識する事は出来ない」

 神無月は詠唱を終えて、

「うん、それじゃ、」

 私の心臓へ標準した拳銃。【死】の具現。避けられない概念。

 魔術師が、引き金を引いた。

「死んで?」

 再び轟く銃声。


 そして、


 ……………………。

 ……………。

 ……。






 ※ ※ ※




 何処かから、自分を呼ぶ声が聞こえた。

 闇の中で、一筋の光。向かうべき道しるべが出来た。

 だから、そこへ行った。


 眼を開けると、そこにはどこかで見たのと同じ光景――時雨のドアップがあった。


 いつかよりもずっと恥ずかしい、膝枕の上だった。

 でも、不思議と恥ずかしくはなかった。

 それよりも安心感と、そして喪失感の方が強かった。

 時雨は微笑んでいた。

「おかえりなさい」

「ただいま」

 微笑んで、亮の頬を撫でた。

 そこにあった水滴をすくった。

「あ、れ?」

 頬に触れる。

 亮は泣いていた。

 教室の床で、女子に膝枕をされながら泣いていた。

「な、んで? 悲しくなんかないのに。お、おかしいな。涙が、」

 止まらない。

 止まるどころか、泣いている事を自覚したとたん、歯止めが利かなくなった。

 堰を切ったように、ぽろぽろぼろぼろと涙が零れていく。

 それを止められない。

 その涙を、時雨は拭いてくれていた。

 見れば胸からは薄っすらと血が流れ、顔は疲弊の色が濃い。

 それでも、ずっと。優しく、微笑みながら。

 涙で、しゃくり上げながら亮はぼやく。

「くそ、フツー逆だろ」

 男が女に涙を拭われてどうする。

 だけど、

 胸にぽっかりと穴が開いたようで、

 何故か涙が止まらなかった。

「カッコわりぃ…………」

 だけど、

 時雨の手はとても心地よくて、

 しばらくの間、亮は時雨の膝で泣き続けた。






 ※ ※ ※




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