第四章
第四章
※ ※ ※
校内へ入ると、すでに昼休みも中ほどまで終わっていた。
時雨と共に玄関口を通り、にぎわう校内を進む。階段の踊り場で談笑する女子生徒たちを尻目に、廊下でじゃれあう男子生徒たちを尻目に、2人は無言で教室を目指す。
ここはすでに戦場であり、どちらかと言えば敵のテリトリー。亮にとってはライフルを構えた狙撃手の前に、なんの遮蔽物もない場所へのこのこやってきたに等しい。
しかし、そうと解っていても。いや、解っているからこそ、やらねばならない。精神が左右する戦いだからこそ、戦場と理解してなお躍り出てくるくらいの強さを、――虚構で構わないのだ――敵に、なにより自分に認めさせなければならない。
神崎亮は強い。強いんだ。
弱さなど持ち合わせていない。
教室の前へたどり着くと、一度だけ時雨と目を合わせる。
2人だけに解るように、浅く、そして力強く、お互いに頷いた。
亮は踵を返し、自分の部屋へ向かう。
時雨も教室へ入っていくのが音と気配で分かった。
亮も扉へ手をかける。
その時、
「お、いたいた。おい神崎」
狙い済ましたようなタイミングで成見が話しかけてきた。
出席簿を小脇に抱え、なにやら茶封筒をひらひらさせながら近寄ってきた。
教師が職員室を出るには早すぎる。次は特別教室での授業だろうか。
「ほいコレ」
そうこう考えている内に、亮の前へ茶封筒を差し出してくる。
「? なんですか、これ」
「あら? 渡せば分かるって言われたんだがなぁ」
困ったように頬をかく成見。
「どなたからですか?」
「いや、お前の親戚を名乗る奴からだ」
……慎吾さんだろうか。
「どうしても緊急にって言うからな。本当ならこんなことは教員を通すべきではないと思うんだが」そう言って成見は一度言葉を濁し、「まあなんだ、お前には神崎グループの事もあるし、な」
「…………」
亮が神崎グループの大株主であると言う事を知る者は少ない。恐らく、例の神崎のコネの筋から聞いたのだろう。
亮は封筒を受け取った。
「有難うございます。とにかく中を見て見ます。何か忘れている事があるかもしれませんので」
そんなものがあるとも思えなかったが、ここ最近慌しかったのは事実だ。グループ内の緊急な動きを察知し損ねた可能性は無いとは言い切れない。隙あらばこちらのカードを奪って行こうという連中ばかりなのだ。警戒が足りない事こそあれ、警戒しすぎと言う事は無い。
封筒を受け取ると成見はニッコリ笑った。
「ま、お前もたまには遅刻くらいはしておけってこったな」
そう言って歩き出し、すれ違いざまに肩を軽く叩かれた。
ズキン。
……ぐぅ。
声は、出なかったと信じたい。
今朝の首の痛みが再び亮を襲った。
目を強く閉じ、深く息を吸う。
深呼吸。
心を強く持ち、手にした封筒を開封する。
閉じられた口を細く破る。
中から出てきたのはA4の印刷用紙だった。
嫌な予感がした。
広げる。
まずい。
内容は短く、たったの一文。
見るなっ! ――もう遅い。
『やがて影は夜の始まりをもって実体を持ち、実像は闇に埋れてその実体を見失う』
ガタンッ!
廊下の壁に体がぶつかる激しい音が昼休みの喧騒の中に吸い込まれていく。
力の入らない、痛みと寒さに蝕まれた体。その体を壁に預けると、壁がずるずると背中を滑っていく。ついには床へへたり込み、亮はうなだれた。
痛い、寒い、苦しい。
周囲を見渡せば誰も亮の様子には気づいていない。
成見も姿を消している。時雨も居ない。そのことが亮にとって、痛みよりも、寒さよりも、苦しさよりも、まず有難かった。
特に時雨。彼女には自分の協力者である彼女にだけは、協力者だからこそ、己の弱さを見せたくない。彼女が背を任せられるような、自分は対等なものでなくてはならない。
そのことを考えると胸が苦しくなる。
影とは全く関係の無い所で痛みを感じる。
理解できない。理解できない。理解できないっ。
もどかしくてむず痒くて息苦しい。
強く。強く息を吐く。
とにかく、いつまでもこうしているわけにもいかない。
こうしていれば遅かれ早かれ誰かに気づかれる。
幸い、痛みは幾分引いていた。
立ち上がる。
扉に手をかけ、スライドする。
今だ喧騒の中にある教室へ入ると、小さな違和感を覚えた。
痛みを飲み込んで席へ向かう。
トリオに挨拶され、小さく頷いた。
違和感の正体に気づいたのは5時間目が始まって出席を確認している時。それは、いつもいるはずの楓の姿が無かったためだった。
※ ※ ※
帰りのHRが終わり、成見が教室を出て行くのを見送ると、亮は手早く荷物をまとめるとすぐに席を立った。
とりあえず、あの後以降敵の魔術らしいものは見受けられなかった。
とにかく手紙の件や今日の予定などを決めるため、時雨の教室へ行こうとして廊下に出た。
すると、
「行くわよ。急いで」
「なに!?」
速攻で時雨に捕獲された。
手首を掴んで女らしさなどカケラもなく、グイグイと亮を引っ張っていく。半ば以上引きずられるようにして廊下を進む。
妙に女らしいと思えば今度はこれだ。どっちが素なのかと考えるとどっちも素っぽいところがどうにも手に負えない。やっぱり亮には時雨という人間が理解できなかった。かと言ってそれが不快なわけではない。むしろこんな性格だからこそ、なんだかんだで人間嫌いの自分が今日までこれたのだと思う。
周囲の注目を一斉に浴びながら、亮はずるずると引きずられていった。
駆ける。
校門をくぐり、並木道を尻目に、住宅街をすっ飛ばす。
やがて駅前の通りが見えてくる。
走りにはかなり自信を持っていたが、横に並ぶ時雨も輪をかけて速い。
日本刀を2本も担いでいるのだから亮よりずっと負担がかかっているはずなのだが、彼女からはそんなものは感じられない。
亮も今のスピードが限界ではないが、それは恐らく時雨も同じことだろう。
学校を出る時にどこへ行くのかと尋ねてみれば、
「駅」
と、とてもつもなく簡潔に答えられた。
よほど急いでいるようで時雨はそれ以上を言わず、亮にもさすがに話しをするほどの余裕はなくなった。
大通りを走り去り、駅の改札口まで差し掛かる。
「これ」
切符を手渡される。
通常の切符ではなく、少し大きめの長距離列車用の切符だ。
「こっちよ」
間に合う算段がついたのか、あくまで早足だがそれでも歩いて時雨は亮の前を進んだ。
亮はそれに無言で従う。
『神崎駅』。
首都の最果てに位置するこの地域の名を持った、ここいらでは最大の駅だ。多くの線を抱え、新幹線や寝台列車などの様々な列車が止まる。亮の姓と同じ名を持つのは決して偶然ではなく、神崎家自身がもともと三財界とは関係なくこの地域に根を張る名家だからである。
時雨についていくと、彼女はまもなく出発する新幹線に乗り込んでいった。
行動の余りの突飛さに呆れつつも亮も乗り込んだ。
中に入ると時雨は手元の切符の数字と座席の数字を見比べていた。
どうやら目当ての席が見つかったようで、時雨は席についた。
亮も手元を見ると、亮の席は時雨の向かい側だった。
周囲を見回すと席の埋まりはまばらで、都合4席あるこの一角もどうやら客は自分たちだけのようだ。
座り、話しかける。
「時雨、今更驚きも不満も無いが、せめて行き先くらいは事前に教えろ」
「あら、そのわりにはずいぶんと不機嫌な顔をしてるわね?」
隠していたつもりの感情が易々とばれてしまい、慌てて口元を手で撫で付けるようにして表情を隠す。
「あら図星? ホント、意外に純ていうか単純ていうか」
「っ、」
笑われてしまった。
とたん顔が熱くなり、恥ずかしさが胸を締め付けた。
亮は慌てて時雨の笑顔から顔を逸らし、窓の外の駅構内の風景へ意識を集中させた。
肘掛にひじを置き、頬杖をついて再び口元を覆う。
そっぽを向いてしまった亮を見て、時雨はますます笑みを深める。
亮はそれを視界の端で感じ、腹立たしさを抱えた。しかし同時に、つい数日前までは時雨がこんな顔で笑う人間だったとは思いもしていなかったことに、なんだか不思議を感じた。
「この間のお返しよ、お返し。……それと、そう、行き先だったわね」
笑みをたたえたままではあったが、少しだけ真面目な顔に戻って、時雨は言った。
「『家』に、いったん戻ろうと思うの」
「……い、え?」
……イエ、とはつまり、あの家のことだろうか。
「うん。あ、といっても寝ぐらの事ではないわよ?」
いや、寝ぐらってこのお嬢……。
だが、時雨は至って真剣な口調で続けた。
「神無月の『家』。つまり『本家』、ね。総本山って言えば、貴方には解り易いのかな。そこに行くわ」
それはつまり、魔術師の巣窟へ亮を連れ込むという事で、
魔術を他人へ漏らす事をあれだけ嫌った時雨にしてみれば、
それは果たして、どのような心境の変化なのだろうか。
……というか、俺はそこへ行っても本当に大丈夫なんだろうな。
疑問は当然口を突く。
「俺をそんなところへ連れて行っていいのか?」
時雨は、
「…………」
なにかを確認するかのように、その瞳に亮を写して、なにやら厳粛に頷いた。
亮は、動く事が出来なかった。
「ええ。それに、家だけじゃない。貴方には魔術を理解してもらうわ」
時雨の不敵な声だけが、脳髄へ響いた。
列車が、静かに走り出した。
列車が走り出して30分。時雨の言い分は取り合えずは納得した。
曰く、このままでは亮の精神は3日と持たず、それに合わせて敵も勝負を決めに来ている。魔術の理解は影夢の進行させるが、ここまでくれば1日や2日早くなろうが関係ない。ならばこちらも勝負をかけるまで。明日までに決戦の手はずを整え、亮には万全を期すために対処法を授ける。といった内容だった。
納得はしたが、これまであれだけ徹底して隠されていたものを今更教えられると言うのも、どうにも釈然としないものを感じる。
「しかし本当にいいのか? 魔術を習うことに俺自身の異論は無いが、それにしたって状況が急変しすぎじゃないか?」
亮の言葉に、時雨は悲しそうに微笑んだ。
「うん。でも、これが私の考えた最善だから」
少しだけ、亮と時雨の間には沈黙が下りる。
……なにか、俺の見えないところで色々な動きがあったんだな。
亮は結論付けた。
「しかし、決戦、ということは敵が解ったんだよな? 誰だ。いや、どんな奴だ。やっぱり学校関係者なのか?」
思いを口にすると、それに合わせて気持ちも高ぶってくる。興奮が自分でも制御できない。
黒板や空薬莢の件など、時雨の言うところの暗示の埋め込みには自宅を狙ったものだけでなく、学校でも平然と行われていた。つまり、敵は学校を出入りしていても不自然でない人物である可能性は高い。
留め金を外された憎しみが、相手を求めて体中をめちゃくちゃにしていく。
あるいは顔見知りかもしれない。
親父を殺し、そして自分をも葬り去ろうとしている人物が、もしかしたら自分の隣に居たかもしれないのだ。
「まだ解らない」
時雨が、冷静な声で言った。
その落ち着きに、苛立ちを覚えた。
……コイツ、ナニヲ、コンナニ、オチツイテヤガルンダ?
「まだ? どういうことだ。明日には戦う事になる相手なんだろ!?」
「…………」
時雨はそれでも、鉄仮面を落とさない。
それが更に、亮の頭へ血を上らせる。
「おいっ! 聞いてんのかよ!!」
ガタンっ。
時雨の日本刀が床に落ちて大きな音を立てた。
そこで、亮はやっと席から立ち上がっている自分に気が付いた。
少ない、といっても貸切ではない。周囲からの奇異の視線が痛い。
「う、く……」
とたんに頭が冷えた。
まさに、冷水をぶっ掛けられたような感じだ。
日本刀を元あったように立て掛け、席に着く。
少し、落ち着くために制服のネクタイを緩めた。
「すまん」
「落ち着いた?」
「ああ」
「じゃあ、説明するわね。学校に、ひとつ魔術を張るの。といっても私の魔術じゃないのだけれど」
亮は頷く。
「ようするにトラップ。明日、学校に居た私達以外の人間が、敵よ」
「……なるほど」
落ち着いて聞けば、時雨の話は道理が通っている。
あの程度で平静を失った自分が恥ずかしい。
平時ではありえない自分の精神状態。自分は、いったい何を焦っているんだ。
「さて」
時雨はパン、と手を軽く叩いた。
ひとつ、区切りでもつけるように。
彼女は浅く目を閉じ、そして開く。
その瞳には鋭い光。ただでさえ鋭利な雰囲気を持つ彼女がより一層厳しさを増す。おそらくは彼女自身が自らに引いた線引き。その一線の先。魔術師としての神無月時雨。
その魔術師が口を開いた。
「それじゃ、魔術講義といきましょう」
「まず最初に大前提を教えるわ。まず間違いなく神崎は誤解している、というより誤解させるように私たちが振舞っている魔術の本質を」
「?」
「始めに断っておくことはひとつ。我々魔術師にはファンタジー用語で言う所の『魔力』のようなものは存在しないってこと」
「言ってる意味が、よく解らんが……」
「つまり、『術』だとか『術式』だとか『魔法』だとか、一般に人が認識している超常的な力なんてものは、一切無いってこと」
「超常現象じゃ、ない?」
「そう。もっと噛み砕くなら、私は貴方と何の変わりも無い、カテゴリで言うなら全く同一の人間、ということ。……そうね、魔術魔術と呼んでいるけれど、これらは『術』と呼ぶより『術』と呼んだ方が本質的な意味でのニュアンスに近いわ」
ガタン、と座席が揺れた。
「『魔術』、と我々が魔術を呼ぶ由来、というよりは意味はね。『魔術』という言葉が持っているニュアンスや意味、そしてなにより人が抱く認識を利用するため。魔術の本質は虚偽。魔術を『魔術』と呼ぶ事自体が、すでに魔術なのよ」
「まて、少し整理する」
時雨は魔術は超常的な力の行使ではないといった。そして魔術師である神無月時雨と一般人である神崎亮は、魔術という考え(学問?)上では、全く同一の『人間』である、と。
魔術は術であり嘘であると言った。
魔術は魔術であるという嘘を使って超常的な力の行使であるかのように振舞っている。その行為自体がすでに、魔術と言う行為であると。
段々と言っている事が形作られていく。バラバラだったピースが徐々に埋まっていく。そこに描かれた絵の形が、意味が、理由が、その姿を現していく。
こういった言葉遊びのようなものは嫌いじゃない。
しかし、そうなってくると時雨の行った、あの屋上での加速が不可解だ。
疑問を口にする。
「つまり、本当に細かいことを気にせず一言で言えば、嘘をつくことが魔術なんだな?」
「そういうことになるわね」
「じゃあ、お前のあの加速はなんだ? いや、敵の夢だって十分不可解だ。なぜ嘘をつくだけで、あんな事が出来る?」
それは、と時雨が待ってましたとばかりに受け答える。
「魔術の根本は嘘をつくことだ、というのを前提にこれからの説明を聞いて」
時雨は亮の問いへは直接答えず、そう前置きしてから説明を始めた。
亮もそれにちゃちゃを入れずに素直に耳を傾ける。
「魔術の行使における工程は大きく分けて3つ。
『意思』、『概念』、『認識』。この3つよ。
第一工程の『意思』は言葉のまま。魔術っていうのは案外、一般人でも無意識に使っているものなの。でもそれはあくまで無意識だから魔術とは呼ばない。つまり、魔術を行う第一工程は魔術を使おうとする積極的な思いや考えの事。
第二工程が『概念』。例えば神崎は私の『枷解術』を【加速】と『認識』したように、魔術を行使する対象へ認識させるモノ。
そして第三工程の『認識』。この工程こそが魔術を魔術たらしめているもの。嘘を虚構ではなく、現実に侵食させているものの正体。さっきの例を続けるなら、貴方の『認識』した【加速】という『概念』――私はこれを【開放】と『認識』しているのだけれど、……その前に。ここまでは理解した?」
再び、座席が振動した。
「なんとかな。続けてくれ」
時雨は頷き、
「人の体は故障しないように力をセーブしている、という話は有名でしょう? 人間は自分の持てる筋力の半分も出し切れていない。火事場の馬鹿力に言われるように、非常事態の時のみその人はその枷を外す。でも、それだって完全ではない」
つまりあの【加速】の正体は、時雨の『魔術』の本質は、【開放】の意味するところは、
「【開放】の『概念』の自己認識、要するに、自己暗示による肉体の酷使よ。これこそが、我々神無月の『魔術』」
淡々とした時雨の口調。
突飛すぎる説明。
なのに、どことなく筋だけは通った理屈。
亮は、途方も無い目眩を感じた。
手で顔をおおい、こめかみを刺激して幻痛を抑える。
「つまりなんだ? お前ら魔術師はその【開放】って『概念』を『認識』するだけで、全員お前みたいなトンデモ体術が使えちまうわけか?」
時雨はその問いに、整った眉をハの字に歪めて不服そうに答えた。
「そんなに簡単に言わないで。魔術、特に神無月の枷解術は相応の訓練と、それにともなう危険の上にあるの。認識するだけっていうけど、人としての脳の造りに抗うんだから全員が全員出来る訳ではないのよ」
さらに、
「突然あなたは怪我を気にしなければ100メートルを本当は5秒で走る事が出来ます、間違いありません、さあやってください。といわれても出来ないでしょう?」
当たり前だ。
そんなことで100メートルを5秒で走れるのなら世界記録はとっくに書き換わっている。
「つまり、そういうこと。魔術第三工程『認識』、とはそういうことなの。一朝一夕で認識を書き換えられるほど、人間てのは単純にはできていない。地道な訓練と、やっぱり才能が必要なの。……訓練中に下半身が付随になるだとか、腕が動かなくなるだとか、あるいは、死んでしまうとか、そういうことだって決して珍しくも無く起こる。普通の技と違ってリスクが高い代わりに見返りも少しだけ高いだけに過ぎない。あくまでギブ・アンド・テイク」
それに、と時雨は続ける。
「貴方の言うトンデモ体術――つまり枷解術の事だと思うけど、これは神無月の、神無月だけの魔術よ。魔術師全員がこれをできるわけではないわ」
これだ。
いつも魔術に関する話しをするときの違和感。
時雨が執拗にこだわる『神無月の魔術』、という言葉だ。
魔術師がそれぞれ旧暦の名を冠してることは確か以前言っていた。例えば奴。睦月 源。つまり、時雨の言葉に従うのなら、『睦月の魔術』があってしかるべきなのではないだろうか。
疑問を口にする。
「なあ、てことは他にも『睦月の魔術』とかがあったりするのか?」
「え、ええ」
時雨がなんで知ってるの? というような顔をした。
どうやら正解らしい。
と、いうことは旧暦に家の名をなぞらえている以上、魔術師の世界には最低でも十二の魔術があるのだろう。
以前時雨の口から何気なく漏れた【傀儡師】や【狂戦士】(確か他にもあったはずだ)などの言葉がそれらに当たるのかもしれない。確か魔術特性、とも言っていたはず。
「なるほど……」
ひとつ、決定的なピースを与えられればそれだけで今までの霧が晴れていく。
まだ見えない部分も多いが、それにしたってくすぶっていたもやもやはなくなった。
少し、……いや自分に嘘をついてもしかたがない。正直、かなり魔術という存在に自分は魅せられている。
「……、…………」
……自分に嘘をつく、か。
何かが、ささくれのようにちくりと引っかかった。
「……ちょっと、ねぇ、聞いてるの?」
ぬっ、と。視界一杯に時雨のドアップが広がった。
「!!!!」
気づいた瞬間後頭部にとてつもない衝撃。
「っつぅ〜」
突然のことに驚いて身を跳ねた自分の後頭部が、座席の硬い部分にクリーンヒットした。
と、3秒くらい後に気がついた。
亮は不機嫌に表情を歪めながら、後頭部をさすった。
そうしなければ時雨を見る事が出来なかった。
「大丈夫?」
時雨の冷静な声がする。
亮は泳ぎまくる視線を強引に捕まえて、時雨へ視線を戻した。
心臓に冷や汗、とでも言えばいいのか。
もう一度覗き込まれたりされたらたまったもんじゃない。
……何を焦っているんだ、俺は。
「ああ、大丈夫だ。続けてくれ」
強引に思考へ区切りをつけ、話を戻す。
「うん、じゃあ」
そう前置きして、時雨は再び説明を再会した。
「それで、対処法だけど。まず、対魔術師戦の基本中の基本。『魔術師の言葉に耳を貸すな』、よ」
車内アナウンスが流れ、県境を越えた事が解った。
時雨は気にせず説明を続ける。亮も雑音を意識から遮断した。
「神無月の魔術は他家に比べると少し特殊な形をしているの。自己暗示――認識を内へ向けるのは神無月と、あとはもうひとつだけ。他家の魔術は普通外へ向く」
亮は時雨の言葉を頭の中で反すうする。
「一番多い認識媒体は言葉だから、例えば今回の敵である【暗示式】だけど。恐らく『概念』は【死】。それを、何らかの方法で貴方の表層意識を塗りつぶそうとしているの。つまり言葉で、神崎亮は死んでいる、という虚実を、認識させることで事実にしようとしているの。……何が言いたいか解る?」
頭の中を再び整理する。
言葉によって、認識。虚実を、事実へ。そして、『魔術師の言葉に耳を貸すな』、か。
つまり、
「つまり、相手の言っていることを聞きさえしなけりゃ魔術は無効ってわけだな。いや、あんた等の言葉を借りるなら言葉を言葉として『認識』しなければ、って所か。言葉なんてのは突き詰めれば音記号の集まりだからな。俺自身がそれを理解してしまわなければ、敵の魔術は発動しない」
時雨はそれに満足げに頷いた。
そうして、列車は線路を駆けて行く。
向かうは、『神無月の家』。
※ ※ ※
管轄界。
旧暦十二家にそれぞれ与えられた『世界』。永い歴史を持つ魔術師社会が、度重なる戦争を得て取り決められた『領地』。
各家はその『世界』でのみ行動可能であり、その『世界』に置いては絶対の支配権が認められる。
他家の『世界』への干渉はその管轄界を取り仕切る当主の了解が必要であり、それを破るものは『議会』での審判にかけられる。
【魔術師社会】の管轄界を与えられるのは『議会』。力と公平をもって旧暦を裁く権限を有する。
その管轄界が、三財界を含む【経済界】なのが神無月なのだと、時雨は言った。
「だとするとそれらを管理する政治家みたいな連中がその『議会』なわけか」
亮は山道を登る車内でアイマスクを直しながら言った。
あの後、新幹線を降りて聞いたことも無いような駅へたどり着いた。駅の改札を出ると、そこには時雨へ深々と頭を下げる男装の麗人と無骨な大型の四輪駆動車が待ち構えていた。片田舎の駅前に繰り広げられるにしては、余りにシュールな光景だったと思う。
「そうね、そういった魔術師社会の秩序を守ることを使命だと妄信している『家』もあるし、『議会』の主な構成員は各家の当主だし、そういった意味では『議会』は確かに政治家ね。さしずめ妄信一家は警察といったところかしら」
『議会』直属の実行部隊、魔術師殺し、というのが私たちの中での認識だけど、と時雨。
ちなみにアイマスクは今車を運転している女に車へ乗り込む前につけられた。どういう仕組みになっているのか、別にキツイわけではないのに何故か外れない。
車は山道を登っていく。
『家』、というのに向かっているらしい。
車輪が砂利を蹴散らす音が、遠く、重く、亮の耳に響いた。
※ ※ ※
常識という概念に真っ向から喧嘩を売るような速度で山を駆けること30分。目隠しをされた亮は頭をあっちこっちにぶつけつつ、(時雨は助手席だ)車はようやく動きを止めた。
扉の開く音がして、誰かの手が亮の手を掴んだ。
掴まれた瞬間、体がこわばる。
その手につれられて、後部座席からくぐるようにして外へ出た。
手の主が目隠しを外す。相変わらず、一見普通なのにもかかわらず魔術師の使う道具は仕組みがよくわからない。アイマスクはあっさりと外れた。
30分ぶりに光を認識した目が捉えたのは、残念ながら時雨ではなかった。先ほど手を掴んだのもこの女だろう。落胆に体のこわばりが消えていくのを感じ、そんな自分に気づいて再び体がこわばる。
刹那、時雨の声がした。
「神崎、ここが我々の『家』であり、『私の家』よ」
心臓が脈打った。
突然だった、ということと、それ以上の何かに、心臓が震えた。
振り返ると、そこには時雨と『家』――『神無月の家』が、在った。
本家。総本山。
確かに例えとしては悪くない。
家。
それも間違いではない。間違いでないことは、解る。
だが、それでも質の悪い冗談じゃないかと目を疑いたくなる。
目の前に広がった光景。それは、
奥が見渡せないほどの敷地を持った、武家屋敷の『一角』だった。
そう、あくまで一角。家全体ではない。亮の家などではお話しにならない。その程度の大きさレベルの建物など、敷地内に点在している。亮の位置からでは巨大としか言えないような門に阻まれて上手く見えないが、かなりの大きさが予想される建物の瓦屋根があちこちに見られ、その最奥、その十数キロ、あるいは数十キロ先。高さにして高層ビルの三十階を越える。幅にして現代に比類するもの無し。巨大なんて概念を用いる事すらおこがましいような屋敷がそびえたっていた。
家というよりは一大テーマパーク。テーマパークと言うよりは城。
そう、城だ。
そしてこの『家』はまるまる城下町だ。
この山奥には、時代から取り残された現代の城が存在していた。
まさしく現代の城。過去の遺産が残されているわけではない。昔の建築技術でこんなものが造り出せる筈が無い。現代の技術をもって、現代の者が立てた時代遅れの城。
それが、『神無月の家』だった。
時雨が言う。
「さ、行きましょう」
直立不動の無表情女に見送られて、亮は神無月の門をくぐった。
中へ入ると本当に豪邸クラスの建物が点在していた。それ単体ですでに亮の家を凌ぐ建物がばらばらに建っていて、それらを繋ぐ渡り廊下が蜘蛛の巣のように張り巡らされている。まるで攻城戦でも想定しているかのような配置の仕方だ。
右に折れ左に折れ、長く直線を歩いたかと思うと所々で屋敷内をくぐり、ぐるぐると進む。庭には申し訳程度に置石や木が立っていたが、その木でさえも屋敷の上から飛び移れるような位置にある。気の回しすぎかとも思ったが、すでに両の手では数えられないほどの木が全てそのような位置にあっては、もはや疑うまでもあるまい。連中の突飛さはすでに了解ずみだ。
しかし、それ以外にはここには本当に何もない。不安を覚えるような殺風景だ。空気が肌に張り付き毛穴を刺す。澄み過ぎた空気に背へ鳥肌が立つ。
好きな場所だの嫌いな場所だのと思う以前に、亮はここが怖い場所だと思った。
そうこう考えているうちに、ひとつの部屋の前へ通された。障子で仕切られているが、どうやら個人部屋のようだった。
「ちょっと待ってて」
時雨はそう言うと、部屋の中へ消えていった。
待つ事10分。中でなにやらゴソゴソと物を整理する音が止むと、障子が開いた。……何度が積み上げた物が崩れるガラガラという音と悲鳴じみたものが聞こえてきたのは、まあ、聞かなかった事にしよう。
「どうぞ」
その声を合図に亮は部屋の中へ足を踏み入れた。
そうして入った時雨の部屋には、
「?」
何も無かった。
本当に、何も。
6畳半の和室には、私物はおろか生活するための備品でさえも、本当に何もかもなかった。
空っぽ。
殺風景ですらない。これではただの空き部屋だ。
ただ、畳の匂いだけが、そこには漂うだけだった。
と、何も考えられなくなっていた頭にドアの開く音が聞こえた。
見れば、時雨が部屋の奥にあった障子ではない洋式のドアの前で扉を開けていた。
「こっちよ」
奥へ消えていく。
亮もそれを追いかける。
そうして今度こそ、
亮は彼女の部屋へ踏み込んだ。
今度は洋室、といっても亮の部屋のような完璧なものではなく、いたって普通の日本の一般家庭にある様なまともな部屋だ。
そこには机がありベッドがありテレビがあり、クローゼットがある。亮の部屋と同じ位の広さの部屋があった。水玉のカーテンがありピンクのカーペットがあり動物のカレンダーがあり、小物がある。それぞれ女の子らしさのある、『普通』の部屋があった。
……これが、時雨の部屋。
事前に見た殺風景な部屋で真っ白になっていた亮の頭の中に、見事な右ストレートが入った。
彼女の部屋は、亮の想像を大きく逸脱していた。
想像していたもので言えば、まだ先ほどの部屋の方がイメージとしては近い。
しかし、現実にはこうだった。
何か、亮と時雨の間にある決定的な違いが、ここにある様な気がした。
立ち尽くす亮に、時雨は座布団を引き出してきていった。
「どうぞ」
「あ、ああ」
座る。
しかし時雨は立ったままだ。
どうかしたのかと聞こうとすると、時雨は自分の机から何かを取り出した。キー、だろうか。
「私はこれから当主へ報告を済ませてくるから、少し空けるわ。自由にくつろいでいて」
「は?」
……この女、今なんて?
状況が状況だし場所が場所なのだが、それにしたって同年代の男子を自分の部屋に上げといて、しかも自由にくつろいでろとは余りにも配慮に足らなくは無いだろうか。
「じゃあ、ちょっと行ってくるわ」
あっけに取られているうちに、時雨はさっさと行ってしまった。
「はぁ」
なんなんだこの展開は。
……最近ため息が増えたな、俺。
そんなことを考えていると、窓の外からエンジンが排気ガスを吐き出すけたたましい声が聞こえてきた。
窓を開ける。と、
そこには制服で大型バイクに跨る時雨の姿があった。
それも一瞬。
その姿もあっという間に小さくなっていった。
後に残るのは排気ガスの臭いだけ。
そうか、この家、移動手段にはバイクくらい使わなきゃならんのか。
というか、
「……無免運転」
あとノーヘル。
……。
…………。
あ、私有地か。
やがてバイクの音も聞こえなくなると本格的に手持ち無沙汰になった。
なんとなしに部屋を歩き回る。
しかし、思っていた以上に普通で女の子らしい。
神無月時雨。
対峙した時の冷たい瞳を思い出す。
舌を噛んだ時の間抜けなツラが頭に浮かぶ。
ケーキの話をしていた時の無防備な顔が頭をよぎる。
睦月と魔術戦を繰り広げる緊迫した姿を幻視する。
そして、女の子らしいこの部屋が目に入る。
魔術の理論が頭を廻り、あんなものを幼少の頃から本気で実践してきた人間の人生が神崎亮を支配する。
神無月時雨。
そして、
神崎亮。
神崎亮と、神無月時雨の間にある決定的な差異。
それは、
……と、
無意識に手を伸ばした押入れっぽい所から、
「うわわわわわわ」
大量のぬいぐるみが降ってきた。
「おおおおおおお」
ガラガラガラ、と。
それらに埋れながら亮は思う。
さっきの音はこれか、と。
……ていうか、こういうのが好みなのか、あいつ。
目の前に積みあがった山は、デフォルメされた動物のぬいぐるみで出来ていた。
そんな時、
扉がノックされた。
「やべ」
もう帰ってきたのか。
バイクの音はしなかったけど。
慌てて立ち上がる。
「失礼します」
「……え?」
その、透明な声色は時雨のものではなく、
入ってきた人物の前、
亮はデフォルメされたぬいぐるみを腕一杯に抱えた男子高生(ちなみに足元にも山は出来たまま)という、
だいぶ怪しめな格好のまま、
その人物を出迎えた。
※ ※ ※
入ってきたのは車を運転していた女性だった。
一瞬固まっただけで女性の反応は早かった。
「片付けましょう」
完全無欠、徹頭徹尾、天下無双の無表情。
時雨のそれとは違い、冷たさも、もちろん敵意や害意や悪意、またその反対のものも(この場合当たり前だが)、本当に何ひとつ読み取る事の出来ないのっぺりとした無表情だった。
女はそう訓練されていますから、とだけ言った。
そう考えると、時雨の無表情はある意味饒舌ともいえる。同じ顔なのに雰囲気で相手に自分の意思をねじ込んでくるのだ。
制服の高校生と男装の女性が押入れにぬいぐるみを押し戻すのに四苦八苦すること十数分。なんとか部屋は来た時と同じ体裁を整えた。
「このことは姫には御内密に」
このこと、とはつまりぬいぐるみのことだろうか。
「御内密に」
「あ、ああ。解った」
静かに圧力をかけられた。
そして、
女性も自分の出してきた座布団に座り、互いに向き合う。
互いに正座。
女性の横にはいつの間にか一本の柳葉刀(いわゆる青龍刀だ)。
……物騒な。
そういう連中なのだと改めて思い知り、亮は背筋を正す。
そうして目の前で自分を品定めしている女に視線を戻す。
女。
年のころは、正直分からない。一見して20代。だが、もっと上にも見えるし、見ようとすれば同年代に見えなくもない。実際の所、年齢不詳、というのが一番正しい。第一印象は影のある美人。これまた時雨と違い、決して相手と正対しようとしない。常に目の前のものにも斜めに構えた感じのある人間だ。
どうでもいい話だが、睦月源も含めて旧暦関係者は美男美女が多い。遺伝か?
そんな取り止めの無い事を考えていると、女がついに口を開いた。
「神無月 水面と申します」
亮はそれに答える。
「神崎亮だ」
女はそれに薄く頷いた。
まあ、知ってて当たり前か。
「それで、俺に何の用だ」
女は静かで平坦な、そして透き通った声で答える。
「はい。姫様の事で参りました」
「…………」
それは、そうだろう。
この家で神崎亮に係わり合いのあることで、時雨に関係の無い話など無い。
しかし、
「そうではありません。関係ある、ないの話ではなく、姫様個人の話をしに来ました」
女はそう続けた。
「まず最初に窺っておきたいのですが、貴方は一体どういうつもりで旧暦と関わっているのですか?」
「どう、と聞かれてもな。実際の所俺は巻き込まれただけだ」
「確かに。貴方は巻き込まれただけです。そういった意味では、我々にはもっと感謝して欲しい所ですね。一般人が魔術師に狙われて、結果はどうであれ今の今まで状況を拮抗させ得ているのは本来ありえない事態なんですから」
「そうだな。俺は俺の生まれに感謝するとしようか」
まあ、その生まれのせいで狙われてるわけだが。
「なるほど。そうですね」
そう言って女は視線を細めた。
「茶化しあいはここまでにしましょう。その巻き込まれただけの貴方は、一体どういうつもりで旧暦に関わっているのですか?」
「……別に。俺は俺に与えられてしまった状況の中で、俺の思う道を選んでいるだけだ」
女は一拍の間を取った。
「茶化しあい、というよりは自覚が無いだけなのですか? 知能指数のわりに頭が固いというか」
頭が悪くないだけに、一見会話が成立してしまっているのがなおのこと頂けない。と首を振る魔術師。
その物言いに、亮は視線を強くする。
「いえ、聞き方が悪かったでしょうか。では質問を、聞き方を変えましょう」
そう言って、
「貴方は、一体どういうつもりで神無月時雨と――姫様と接しているのですか?」
その質問に、
その意味に、
その回答に、
亮は強く胸を縛られる。
旧暦と関わる事。
それはつまり、時雨に関わる事。
――貴方は、一体どういうつもりで旧暦と関わっているのですか?
よく、解らない。
すでに意味など半分以上解ってしまっているのに、頭が事柄を認識する事を拒んでいる。
思考は廻り、頭は冴え渡っているのに、その奥へあるモノへ目を向ける事が出来ない。
見慣れない明るい色を散りばめられた周囲に場違いを感じる。
「旧暦に関わる危険性は、姫様もさんざん説いたでしょうし、貴方自身が現に直面しているでしょう」
頷くことも出来ない。
「そんな存在と、一般人として生きてきた『貴方程度』が、どう関わる心積もりなのですか?」
否定せねばならない。
貴方程度。
そんなこと、例え誰であっても言わせてはならない。
…………。
……………………。
本当に?
だいたい、どうやって。
いや、それでも。それでも、だ。
どうやってでも否定せねばならない。
それこそが神崎亮のはずだ。
しかし、否定は成される前に神無月水面は二の句を告げる。
「今、姫様は家内で非常に微妙な立ち位置にあります」
「……え?」
自分のことばかりを考えていたところに入ってきた姫様と言う単語に、上手く頭が反応しなかった。
「家外に魔術の秘技を漏らした」
顔がこわばる。
それはつまり、
ここに来るまでの道すがらの話だ。
それが、時雨の立ち位置を微妙にしている?
「こんなことは前代未聞、空前絶後の出来事です。余りに突拍子も無さすぎて、神無月はおろか『議会』にすら取り締まるべきルールを持っていません」
逆に言えば姫様はそこを狙ったわけですが、と。
ルール。
取り締まる。
つまり、時雨は裁かれるような、いや、裁く事さえ想定されていないような大前提、暗黙の了解を破った。
それが、あの時の会話。
「ですが、いかにルールが無かったからとは言え事が事。魔術は秘匿してこそ魔術足り得る。この事は我らの存在意義にすら関わります」
だから微妙、か。
「最悪、姫様は霜月から標的にされる恐れもあります」
霜月、ね。
11月の異名。今だ知りえぬ魔術師の事情。
だが、ここでこの名前が出てきたことでまたひとつ、ピースが嵌った。
霜月。こいつらが時雨の言う妄信一家だろう。魔術師社会の公権力。『議会』直属の実行部隊。魔術師殺し、か。
「神無月の内部状況も余り芳しいものではなく、【神有月】の力があればこそ機能しているような現状です。今のような状態では十二家最大の組織力も完全に裏目に出ています。今回の件が家の責任まで至るようなことがあれば、姫様の神無月追放もありえない話ではありません」
父親としては甘い方ですが、当主としてはどこまでも冷徹なかたですから、と呟く神無月水面。変更不可な絶対の優先順位が彼の中にはあると。そう重々しくいった。
「…………」
どういうことだ。
時雨も最初は亮が魔術に触れることを忌避してしていたはずだ。だから、何かあるとは思っていた。だが、それにしたって大事すぎる。
一体、彼女は何を考えているのか。
解らない。
どれだけ考えても、これだけ考えても、全く解らない。この世にこんなにも解らないことがあったなんて、解らないことだらけだったなんて、知らなかった。知りたくもなかった。
……時雨、お前は一体。
気が付けば亮は、自分の視界がフローリングの床とピンクのカーペットで一杯になっていた。俯いていたのだ。
深呼吸をひとつ。姿勢を正す。
再び上げられた視線に、神無月水面は無表情ながら小さく、なにやら頷いた。
そして、
「ですが、それらはあくまで今回姫様がしたことが他家にばれたら、という前提の話です」
「な、に?」
「今回の事は姫様自身を除いては私と、そして今頃姫様がお話しているであろう我らが当主【神有月】、あとは貴方しか知りません」
それを先に言え! と、叫びそうになってすんでの所でなんとか止めた。
これは恐らく、
眼前の魔術師を改めて見据える。
無表情。
どこまでも、水底は透けて見えそうな透明な無色。
神無月水面という、柳葉刀を常に持ち歩く、話通りならば時雨と同じ【開放】――『枷解術』の使い手。その魔術師を、見据える。
いや間違いなく、
試されている。
他人と言う定規で、神崎亮という器を測られている。
その、えもいわれぬ不快感に背筋に鳥肌が立つ。
「怒鳴るかとも思いましたが、思っていたよりは、まあ、できるようですね。考えがすぐに顔に出るのは頂けませんが」
それは、時雨にも言われたこと。
羞恥心に舌を噛み千切りそうになる。
「私には取れる選択肢がいくつかあります」
こちらを窺うような気配。
だんまりを決め込む。
「私は結果がどうあれ『最終的には』姫様の味方です。あの子に怨まれようと憎まれようと、私はあの子のため、ためだけに行動します」
姫様。
そして、あの子、か。
神無月時雨にとっては、この神無月水面は一体どんな存在なのだろうか。
「今回の件が終わった後、貴方は旧暦との関係の一切を断ち切って下さい。そして、魔術については貴方の頭の中から墓の中まできちんと持って行って下さい。それで貴方の生命は保証しましょう」
脅迫。
この女はこれから一生、亮を監視し続けるといっているのだ。
亮が誰かにその知識を漏らして技術を漏洩すれば命は無い、と。
魔術師としての義務もあるのだろうが、それでもこいつは……。
いや、違う。何を聞いていた。
こいつは時雨のため、と言ったのだ。
全ては時雨のために。
時雨がこの裏社会で居場所を失わないように。
そのためだけに。
こいつはここまで言ってきているのだった。
内容は物騒だったが、真摯な言葉だった。
だが、いや、だからこそ、だろうか。
反発を覚えた。
それでも、反発を覚えてしまった。
取り消すことの出来ない感情を、胸に抱いてしまった。
「それは、できない」
その言葉を発したのはほとんど反射といってよかった。
自然と出た言葉だった。
そこにはある『ゆびきり』があった。
少女の、幼い笑顔があった。
いや、これも後付の合理付けの理屈付けにすぎないのかもしれない。
それでも、とにかくその契約を認めることは出来なかった。
「それはできない」
「…………」
神無月水面は無言で無表情で、神崎亮を見詰た。
睨みあう。
空白が生まれる。
やがて、どこからともなくバイクが排気ガスを吐き出す唸り声が、小さく聞こえてきた。
神無月水面は一度目を伏せると、
「私自身は今、この場で、貴方をバラした方が手っ取り早いと思っていることだけは、忘れないで下さい」
もう一度こちらを睨めつけて、気配を引くようにしてスッと立ち上がった。
踵を返し、扉の前まで移動する。
そうしてこちらへ背を向けたまま、最後に、と。
「どうか、どんなことがあったとしても、最後まで時雨のことを信じて下さい。それだけは、確かにお願いしましたよ」
※ ※ ※
「え、水面がここへ来た?」
帰ってきた時雨に先ほどのことを大雑把に説明すると、途端に素っ頓狂な声を上げた。
そんなにおかしなことを言っただろうか?
「ううん、別におかしいって訳じゃないの。ただ珍しいなって思っただけ」
「珍しい?」
「うん。水面ってあの通り無口じゃない。……私には彼女が何を考えてるのか、解らなくて」
いや、饒舌すぎるくらい饒舌だったと思うが。
本来はそういう人物なのだろうか?
疑問はあえて口に出さない。それが、あの女に対しての最低限の礼儀に思えた。
なにはともあれ、時雨にとってもあの女は大切な人のようだ。
「ねぇ、どんなことを話したの?」
さりげなさを必死に装っている時雨には悪いが、
「個人的な話だ。他人に話すようなことじゃない」
話すことは出来ない。
話は時雨に関するものだったが、あくまで亮自身の話だ。
嘘はついていない。
亮の態度に深入りできないものを感じたのか、時雨は軽く頷くと話を打ち切った。
「ところで、これからどうするんだ?」
時雨は帰ってくるとすぐにキーを元に戻し、また同じような所からガサゴソと物を探している。
亮は場の流れで座布団に座ったままあぐらをかいていた。
目の前には水面が座っていた座布団が置きっぱなしになっていた。誰か来たのか、と慌てる時雨はそうして水面はここに来ていた事を知った。
……あの女としては、ここにきたことは出来ればバレたくなかったのかな。
なんとなく、亮は思った。
まもなく、
「あった」
時雨が机から今度は古風な、いかにもといった感じの鍵を取り出した。
「こっちよ」
時雨は背中越しにこっちへ手招きをし、先の空き部屋へ出て行った。
亮も遅れてその背を追う。
再び畳の香り。
そして何も無い部屋。
空白。
そこに、
「よっ」
時雨はバン、と両手を勢いよくついた。
突き、
そこにあった畳をひっくり返した。
「なっ!?」
その畳の下に現れたのは、ぎっしりと敷き詰められて畳の底と化していた上向きの金庫の群れだった。鍵穴は天上を向いていて、だからもちろん開き口も上を向いている。大きさはまちまち。大小さまざまというだけでなく、見たことも無いような細長い形をした、ロッカーを少しスリムにしたような金庫もある。それらが計算されたとおりにきっちりと嵌っていて、どこにも隙間は無い。完全に部屋の底と化していた。見えないが、十中八九部屋全体が。
そのひとつ、立方体のいたって普通の金庫へ時雨は鍵を通す。
軽い金属音がした。
そして、時雨は金庫の床へ足を踏み入れると、その金庫のふたを開けた。
拳銃、だった。
そこにはおびただしい数の弾丸と、5丁の拳銃が格納されていた。
真剣と並び、
いや、真剣さえも凌駕する人の死の顕現がそこにはあった。
「ここは、いったい……」
別に答えが欲しかったわけではない。
独り言だ。亮の常識が呟かせただけの、意味を持たない音記号。
だが、
ここにはそれに答える人物がいた。
ただそれだけのこと。
「ここは私、【時雨ル玉座】の『私室』」
どこか寒々しい声で。
答える人物がいただけのこと。
「一般的な概念で言えば、さしずめ武器庫といったところね。ここには古今東西あらゆる攻性武器が収められているの」
「攻性、武器?」
聞きなれた造語に聞きなれない組み合わせ。
「ええ、攻性武器。攻撃するための、武器。神無月に必要な武具は、攻撃のためだけの物だから」
それはつまり、防性。防御が必要ない、と。
……そうか、『枷解術』。
「いつか言ったわよね。神無月にはとある事情から防弾チョッキなどは珍しい、と。我々は敵よりも常に速く動ける。上位術者になれば銃の弾丸だって知覚してかわすことが出来る。だから、防御は必要ない。だから、攻性武器」
時雨はそう言いながらテキパキと1丁の動作チェックを始めた。
凄まじい手際で拳銃を操る時雨。
カチャカチャガシャガシャと、動かしては戻し、開いては閉じるを繰り返す。
流石に、亮にはなにをしているのか解らない。
やがて、
「さて、戻りましょう。貴方の家へ。神崎には用意して欲しい物があるの」
グリップの下部へマガジンを差し込む死神の足音と共に、時雨は言った。
※ ※ ※