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神無月の姫  作者: ガルド
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第三章


 ※ ※ ※




 第三章






 ※ ※ ※




 神崎邸の一階。調理場。

 亮はそこに立ち、夕飯を2食分作る。包丁を動かしコンロに火をつけ食材を取り出し、よどみなく調理を行う。だが、その頭は全く別のこと考える。

 何がいけなかったのか、と。

 見つかったのがいけなかったのか。引き返さなかったのがいけなかったのか。尾行したのがいけなかっ たのか。時雨を信用したのがいけなかったのか。時雨と関わったのがいけなかったのか。神崎であることがいけなかったのか。人生がいけなかったのか。

 自分は常に最善を選んできたつもりだった。己が価値観の元、理と筋を通してきたはずだった。迷ったことはあっても後悔したことはなかったはずだった。

 何処で間違ったのか。

 あるいは全て間違いだったのか。

 ……それは違う。

 違うはずだ。間違ってなどいない。

 ……そんなことは、認められない。

 だが、その否定でさえいつもの力強さは無い。

 『否定もしないが受け入れもしない』。

 正にその通りではないか。

 優柔不断。

 いつから自分はこんなになってしまった。

 なにが悪い?

 なにも悪くない。

 なにが原因だ?

 そんなものはない。

 亮は薄明かりの中で独り、目をつぶった。

「なにが、矛盾している……?」

 片手で数えるほどしかない他人のための食事を、作る。



 時雨が帰ってきたのはそれからさらに2時間後だった。

「……食えよ」

 すでに自分の分を食べ終わった亮は、食堂へ入ってきた時雨へ机の上の食事を指していった。

 言い方はもっと他にあっただろうが、口をついて出たのはそんな言葉だった。

 時雨はこちらをちらりとも見ずに、完全に亮を無視して脇を通り過ぎる。それでも食事の席には座った。これで食事まで無視されたら惨めすぎた。

 振り返った視線の先で、時雨がこちらに背を向けるようにして座っているのが見える。

 亮はその背へ向けた視線ですら、直視できずに目を逸らした。

 互いに背を向けたままで時間がすぎる。

 亮は動かない。動けない。時雨が食事を取っているのが音と気配で伝わってくるのみ。

 ひどく、のどが渇く。

 考えがまとまらない。

 ぐちゃぐちゃぐるぐるまとまらない。

 頭の中がマーブリングした模様を描き、そもそも自分が何を考えたいのか、考えていたのかも分からな くなってくる。

 汗が止まらない。拭う手がせわしなく動く。

 動悸が止まらない。緊張とも興奮とも違う未知のビートに焦りが走る。

 情けない気持ちが湧き上がる。

 なんだこれ。

 なんなんだこれは。

 この感情が分からない。

 自分の考えが分からない。

 このままでは壊れてしまう。

 心臓が今にも胸を突き破りそうだ。

 だってそうだろう。そうでなければこの胸の痛みは説明できない。

 混乱した頭で思う。

 なにか、何か言わなくては。

 何か別のことをしていなければ壊れてしまう。

「勝手に後をつけたのは、悪いと思ってる」

 搾り出すように、のどの奥から声を吐く。

 時雨にリアクションの気配は無い。

 そのことにさらに焦る。言葉が口を突く。

「……でも、…………でも、」

 言葉が続かない。

 頭も言葉も視界も、全てが捻れ曲って歪んで廻る。

 子供のように、口も思考もひたすら「でも」を繰り返す。

 それでも何か言わなくては。

 沈黙にはなおのこと耐えられない。

「何かしなくちゃって、何か動かなくちゃって、そう思って」

 まとまらない思考をそのまま垂れ流す。

 何も考えられない。

 胸の真ん中にぽっかりと、真っ白いブラックホールが渦巻く。

 そいつが全てを巻き込み、吸い込み、"神崎亮"を危うくする。

「守られているだけなんて出来なくて、だから俺も力にならなくちゃって……。それで……だから! ……その」

 と、そこで時雨が席を立った。

 完全に亮を無視したまま、再び亮を抜いて食堂の出口へ向かう。

…………、斉藤ッ!」

 その後姿に、その肩に、思わず手を差し出しかけてその手はそのまま宙を彷徨う。

 時雨は3歩前で止まった。

 その背が語る。

「つまり貴方は、守られることが、いえ、それだけじゃない。自分が誰かの下にいることが、どうしても、 どうあっても許せないのね」

「え?」

 時雨が語る。

「今まで、どうしても疑問だった。貴方はその年齢にしてとても完成している。どこに付け入られる隙が あったのか、それがとても不思議だった。でも、今、解った」

「…………」

 息を呑む。

 何も言えない。

 ただ聞き入る。

 魔術師が語る。


「それが貴方の"歪み"なのね」


 何も、言えない。

 言葉が出てこない。

 時雨は淡々と続ける。

「敵は解った。もう護衛は必要ないわ」

 淡々と、淡々と。

「敵は『暗示式』、文月の魔術師よ。暗示の埋め込みを繰り返すことによって対象を精神死させる、暗殺の魔術使い。だから、貴方が直接襲われる可能性はもうゼロになった」

 時雨は背を向けたままそれだけ言うと、再び歩き出す。

「今日は帰るわ」

 しばらく別行動にしましょう、と。

 時雨はそのまま出入り口の奥へ消えていく。

「……あ、」

 静かに遠ざかっていく足音。

 見慣れた我が家に漂う孤独の香りが、鼻の奥によくしみた。




 ※ ※ ※




 ……。

 …………。

 ………………。

 また視点が飛んだ。

 今度は小五の頃のようだ。亮の周囲にはランドセルを背負った連中がぞろぞろとどこかへ向かって歩い ている。亮も歩いている。亮もランドセルを背負い、似たような背格好となって。

「今日は休み時間なにする?」生徒Aが言った。

「今日もサッカーにしようぜー」生徒Bが応じる。

「げー、またかよ。今日は缶蹴りにしようぜ」生徒Cが反論する。

 ガヤガヤガヤガヤガヤ。

 騒がしく話しあうガキども。本当に楽しそうに騒ぐ。うるさい。朝ぐらいもうちょっと静かに出来ないのか 。うざい。だまれ。よるな。

「なぁ神崎、お前もたまには入れよ。入れてやるからよ」生徒Aが戯言をぬかした。

 亮はそちらを睨んだ。

 どれも同じに見える顔が、いちように引きつる。睨まれた程度で情けない。

「群れてんじゃねーよ。キモいんだよ、お前ら。話しかけんな」

 群れが亮から距離を取る。

 声が聞こえる。ヒソヒソ、ヒソヒソと。

 ウザイ。イライラする。文句があるなら正面から言えばいいものを。

 ヒソヒソ、ヒソヒソ、ヒソヒソ。

 その声に嫌気が差して、

 勢いよく後ろを振り返ると、


 再び視点が飛んだ。


 今度は中三だ。体には防具がついている。手には竹刀。目の前には大学生大の男。

 あの時か、と亮は思う。

 戯れでやっていた剣道部。OBだとかでやってきた大学生が試合ケンカを吹っかけてきたのだ。 生意気だから揉んでやる、なんて思い上がったカン違いを吐いて。

 眼前の相手には面の隙間から余裕の笑みが見える。

 亮は竹刀を振るった。



 試合は竹刀2振り、秒単位で決着した。

 雑魚だった。少なくとも、大学レベルなんてこの程度かと亮を失望させるくらいには弱かった。

 面を取ると、部の連中が近寄ってきて周囲を囲む。

「やっぱ神崎はスゲェな。ま、オレは最初から勝つって信じてたけどな」部員Aが言う。

「うそつけ。さっき大学生相手じゃ、流石の神崎も分が悪いとか言ってたじゃねぇか」部員Bが突っ込む 。

「すごいすごい。やっぱり神崎君はすごい人だ。大学生かぁ。僕、なんか尊敬しちゃうなー」部員Cが賞 賛する。

 ウザイ五月蝿い群れるな黙れ。俺がこいつに勝つなんてのはごくごく当たり前の事だ。そんなことでい ちいち騒ぐな恥ずかしい。

 群がる周囲に軽く一礼してその場を立ち去る。

 道すがら、片ひざを突いていかにもな体勢で悔しがっている男と目が合った。あまりにもその姿が滑稽 で、思わず鼻から笑いがこぼれた。

 歩き出す。

 群れから離れる。

 群れから声がする。

 ヒソヒソ。ヒソヒソ。

「んだよあいつ。強くてもやっぱ感じ悪いよな」部員Aの声が悪態をつく。

「昔に比べればずいぶん大人しくなったんだがな。ほら、あいつのじいさんが死んでから。ま、それでも やっぱり根本的なところでは変んねぇみたいだが」部員Dがクソじじいのことを口にする。

「うん。確かに神崎君て怖いよね。尊敬はするけど、やっぱり好きにはなれないなぁ、僕」部員Cが頼ん でもないことを弱々しく呟く。

 他にも、たくさんの人とその声がする。

 ヒソヒソ。ヒソヒソ。ヒソヒソ。

 ヒソヒソ。ヒソヒソヒソヒソ。ヒソヒソヒソヒソヒソヒソヒソ、ヒソヒソヒソヒソヒソヒ。ソヒソヒソ 。ヒ。ソヒソ。ヒソヒソ、ヒソヒヒソヒソ、ヒソヒソ、ヒソヒソ。ソヒソヒソヒソヒソヒ、ソヒソヒソヒ ソヒソヒソヒソ、ヒソヒソ、ヒソヒソ。ヒソヒソヒソヒソヒソ、ヒソヒソヒソ。ヒソヒソ。ヒソヒソ。ヒ ソヒソ。ヒソヒソ。ヒソヒソ。ヒソヒソ。ヒソヒソ。ヒソヒソ。ヒソヒソ。ヒソヒソ。ヒソヒソ。ヒソヒ ソ、ヒソヒソ、ヒソヒソ。ヒソヒソ、ヒソヒソ、ヒソヒソ。

 やめろ。ヤメロ。止めろッ!

 五月蝿い、気持ち悪い、鬱陶しい。ほっとけよ。勝手に寄ってきて勝手に失望なんてすんじゃねえ。他 ヒトは俺を自分勝手だ自己中だとわめく。それはお前らの方だ。俺は俺の思うようにやっているだ け。それだって他人をまきこまないように最大限の努力をした上でだ。実質、誰かに迷惑をかけたことな んて一度だってない。

 ヒソヒソ。ヒソヒソ。ヒソヒソ。

 やめろ。俺を見るな、俺を語るな、俺を削るな。だいたい手前ら全員勝手なんだよ。人の気も知らない で、人のこと知りもしないで、知ったような口をきくんじゃねぇよ。皆ほっとけよ。独りにさせろよ。群 れてんなよ。キモチワルイ。弱さを数でごまかしてんじゃねぇよ。

 群れるのは弱いからだ。

 本当に強い狼は群れない。知ってるんだ、本能で。本当に強い奴は群れる必要なんてないんだ。群れる のは自分の弱さの証明だ。

 統率者は群れない。大勢の中に在りながら常に独りだ。それが求められた姿なんだ。トップが自分の弱 さを示したら組織は立ち行かない。

 群れるのは弱いからだ。

 声に出す。

「そう、俺は独りでも大丈夫だ。お前など……」

 眼前の鏡が、"神崎亮"が、

「お前など必要ない!」

 叫ぶ。

 その声に、体がすくんだように動かない。

 金縛り。

 鏡の奥から手が伸びる。

 動けない。

 "自分の手"が自分の首へ絡みつく。

 どんなに力を入れても、どんなに足掻いても、内臓以外は動かない。

 その"手"に力がこもる。

 思考が廻らない。

 体が動かない。

 首を持ち上げられる。

 来る。

 力が。

 逝く。

 闇へ。

 死ぬ。

 いやだ。

 意識が、

 くるしい、

 だれか、

 おれが、

 たすけ、

 じりきで、

 こえが、

 くるな、

 たすけて、

 いかないで、

 呼んでる。

 おねがい、

 誰?

 おかあ、さま。

 くる、しい、

 呼んでるのは、


 呼んでるのは、誰?


 こうして、虚像は実像を喰い潰す。


 そうして、架空は事実とその認識を挿げ替える。






 ※ ※ ※




 幕間


 『それ』はひとりの人間と出会った。その人間は暗殺対象の子だったが、対象とは不仲だった。にも拘らず、その人間は対象の死を悲しんでいた。『それ』にはその人間の感情が理解できなかった。実感できないまでも、表社会に紛れ込んだり、暗殺に利用できる程度には感情を解していた『それ』には、しかしその人間の感情は全く解せないものだった。

 だから『それ』は任務とは関係なくその人間に話しかけた。その行為は決して『家』の命に反するものではなかった。幸い、『それ』の殺し方は同類以外に犯人を特定することは間違いなく不可能なものだった。一般的に言われる、『仲良く』なるのは容易いことだった。親が死んだことでその人間は無意識に精神の安定を求めていたし、相手望んだ言葉を吐くことのできる『それ』は誰とでも『仲良く』なることができた。

 その人間との会話は『それ』にとって興味の尽きないものだった。決して数は多くないが、それでもたくさんのことを『それ』と人間は話した。そのひと時は『それ』にとって不思議な感覚をもたらした。『それ』はそれを理解できなかった。知識と、実感を、結び付けられなかった。そうした心地よい戸惑いを胸に、『それ』は時を消化して行った。

 だが、その不思議な感覚を知らなかったが故に成立してた『それ』の生活は、確実に破綻し始めていた。






 ※ ※ ※




「…………き」

 だれだ。

「…………ん崎ッ!」

 体を揺すられている。

「…………神崎ッ!!」

 誰かが亮の名を呼びながら体を揺すっている。

 駄目だ。頭がもうろうとして返事を返す事が出来ない。

 もう、だいぶ前からずっと呼ばれている気がする。

 何度も、何度も。

「……神崎ッ!!」

 何度でも、何度でも。

 名を、亮の名を呼ぶ。

 切迫した声で呼ぶ。戻って来い、とでも言うように。悲哀のこもった声で呼ぶ。懇願でもするように。戻って来て、とでも言うように。

 あいつの声が自分を呼んでいる。

 返事をしなくては。俺は大丈夫だと、言ってやらなくては。

 お前のそんな声は聞きたくない。お前は俺の前でしゃんと背筋を伸ばして立っていればいい。目標物のくせにちょろちょろと動きやがって。振り返られて、その上手など差し伸ばされては俺が惨めなだけだ。

 言ってやらなくてはならない。

 しかし、それなのに体は動かない。

 目は開かず、呼吸は荒く、息は苦しい。指先がギリギリ動く程度だ。

 それでもさっきよりは徐々に力が戻りつつある。

 必死に指先へ力を込める。

 するとどこかから息を呑む音が聞こえた。

「神崎?」

 ひんやりと手が首筋のけい動脈に当てられる。

 手のつめたさが自分のあたたかさを思い出させた。

 誰かが、確かに、そこへいる。

 そいつに、返事をしなくてはいけない。


 ドクン、と。


 ひとつ。大きな鼓動が亮の体に血を通わせた。

「う、あ」

 声が出た。

「神崎! 起きて、お願い!」

 指が、そして手が動いた。

 体を起こす。

 まぶたが光に怯む。

 しかしそれも一瞬のこと。ゆっくりと、辺りを探るように、まぶたを開けた。

 その先に見たのは、至近距離に迫る時雨の顔だった。

 動き始めていた頭が、再び一度に停止した。

 固まってしまった亮を見て、安心しかけた時雨が再び情けない顔になる。

 至近距離のまま、亮の頬をぺしぺしと優しく叩いてくる。

「大丈夫? 意識ははっきりしてる? 私が分かる? それで、あの、大丈夫?」

 ぐっと迫って、そんなことを言ってくる。

 そして今更、時雨って綺麗な顔してんだな、と思った。

 生まれて初めて、人間にそんな感想を持った。

 復活したばかりの心臓は今度は激しく脈を刻む。顔は熱く、燃えるような痛みさえ伴う。止まった頭は変な方向へ暴走を続ける。

 ……大丈夫? えっと、その……なんか大丈夫じゃないな、これ。なんだ? 時雨の顔が近くて、それが綺麗で、それでなんか顔が熱くて、心臓がヤバくて。それで、えっと、その、だから……、

「だ、大丈夫。うん大丈夫。だいじょうぶだいじょうぶ」

 大丈夫じゃない、と。思っていたことがそのまま口を突きそうになって慌てて「大丈夫」を連呼する。そして、

「うん、大丈夫だから。その、……顔。ちょっと近いから」

 そう言って時雨の顔を手で奥へ押し返す。

「え!? あ、ごめん。そうだよね。あはは、変だよね。うん」

 そう言って時雨はベッドへ乗り出すのを止め、脇へ立った。

 それでも亮の心臓はドキドキいったままで、まるで落ち着かない。

 恥ずかしいとも、こそばゆいとも違い、居心地が悪く、心地よいとも言える不思議な感覚。この感覚がわからない。

 知識と実感が結び付けられない。

 そんな中、少し落ち着いた時雨が話しかけてくる。

「それで、本当に大丈夫? 意識ははっきりしてる? 痛む所、ある?」

「あ、ああ。大丈夫だ。それより、なんでここに時雨、が……ぐ、」

 起き上がろうとした瞬間、首筋に激痛が走った。

 脊髄を折られたような、即死を喚起させる痛みさえも超越した痛み。

 首から下が麻痺し、力が入らない。ベッドから立ち上がりかけた体が支えを失い、浮遊感を得る。

 その落下する感覚に火照ったからだが急速に凍える。寒さは走った背筋を中心に全身を駆け巡り、全身麻痺と共に意識を蝕む。

 一瞬のことだった。

 なんのことが、理解が追いつかない。

 その間も痛みは手を休めることはない。全身麻痺でさえ、この痛みを奪ってはくれない。

 視覚に暗闇がちらつく。意識がもうろうとする。いつの間にか体は床へ。そんなことでさえ認識している余裕が無い。どこかで呼ばれる声がする。返事を、返事をしなくてはいけない。

 ……でも、とても眠い。

 痛みも、麻痺も、寒気も、どれも未だに体を蝕み続けるのに、精神が睡眠を要求している。永い眠りを要求している。

 ……眠、い。

 雪山で危なくなると眠くなるって本当なんだな、と。頼みの綱はどうでもいいことを考える。

 ……いたい。

 痛い。

 ……さむい。

 寒い。

 ……ねむい。

 眠い。

 眠れば、寝てしまえばこの痛みから永遠に開放される。

 なら寝てしまえばいい。こんなのばかり。こんなのはもうイヤだ。俺はよく耐えた。俺だからここまで持った。もういいじゃないか。俺が死んだからって、誰も困りやしない。悲しむべき人は、もう何処にも居ない。

 虚しいもんだな、と亮は呟く。あれだけ精一杯生きて、苦しい思いをしても、死ぬ間際には思い出すべきものも無い。

「……、…………ッ!」

 何処からか声がする。

 時雨には悪いことをした。だがまあ、あいつなら何とかするだろう。惜しむらくは、こんな事になるのだったらもっとちゃんと謝っていけば良かった、と。思い残すことがあることだ。どうせならきっぱりすっぱり未練なく、虚しく儚く美しく、散っていきたかった。

 声がする。

「……! ……神崎、神崎寝ちゃダメ!!」

 必死な声だった。

 ……誰も悲しまない、か。

 時雨は、時雨は悲しんでくれるだろうか。この、第一印象と壮絶に矛盾する中身を持った魔術師とか言う変な生き物は。この、『あの時』以来初めて本気で付き合った人間は。この、ひとりの綺麗な少女は。少しでも自分の死に心を動かしてくれるだろうか。

 目覚めた瞬間の、時雨の顔がフラッシュバックした。

 …………。

 先ほどの不思議な感覚が、再び痛みにさいなまれる亮を支配した。

 胸が熱い。


 心臓が、鼓動を刻む音を聞いた。


 ……『熱い』。

 そうか。

 ドクン、と。

 熱い。

 ドクン、ドクン。

 胸が、熱い。

 そうか。そうか。そうか。

 了解したよ、神崎亮。

 ……俺の墓場はこんな所じゃない。

 痛み?

 我慢すればいい。

 麻痺?

 気持ちの問題だ。

 寒さ?

 もう寒くない。

 精神論?

 魔術師とはもともとそういう相手だったはず。

 全てこれまで通り。

 なにを恐れることがある。

 神崎亮、お前にはまだまだやるべき事が残っているだろう。

 こんな所で寝ている場合などではない。

 まぶたの裏側、虚無の暗黒。その中心で、

 大声で叫ぶ。

「起きろ! 神崎亮ッ!!」

 その声が、心の鼓膜を振るわせた。






 ※ ※ ※




 そっと目を開けると、時雨に上半身を抱きかかえられていた。

「…………っ」

 時雨がはっ、と息を呑む。

 体の痛みは引き、意識も思考もはっきりとしている。

 それに答えるように、亮は言う。

「大丈夫。今度こそ、本当に大丈夫だ」

 自然と、本当に何気なく笑みをこぼした。

 その笑みに、時雨は安堵のため息をこぼした。

 その吐息が顔にかかる。

 なぜか、胸がドキドキした。例の不思議な感覚、亮を助けたあの感覚だった。

 途端に顔は火照り、とても居心地が悪く、はないのだがとてもじゃないがこのままの体勢ではいられなくなった。言葉にすれば、恥ずかしい、というのが最も近い。

「時雨、そろそろ放してもらってもいいか?」

 頭上の時雨へ、あくまで冷静を勤めて言う。

「え? あ、そうよね。いつまでもなんなじゃ変、だよね」

 時雨が慌てて亮から飛びのく。

 開放された亮は起き上がった。

 体に異常がないかを確かめながら、ゆっくりと。

 そして、

「よし」

 異常が無いのを確認すると、時雨へ向き直る。

 ベッドの脇に腰掛けながら、脇へ立つ時雨へ向かい、

「それで、なんでこんなことに? いや、その前になんで時雨が……」

 今のごたごたでつい一瞬前まで忘れていたが、そういえば時雨は家へ帰っていたはずだ。

 時雨は立ったまま片足重心を取って手を後ろに組み、言いづらそうに気まずい表情を取った。

「時間」

「え?」

「今の時間。今、何時だか分かる?」

「そんなもん、とうぜん……」

 朝、亮の意識が目覚めるのは決まって6時。それでその後のごたごたを含めれば6時半、いやもう少しかかったか。だとしても7時ま、え……?

「あれ? おいおいおい」

 それにしては体がずいぶん重い。影夢の影響などではなく、この感覚は寝すぎた時に感じる特有のダルさだ。

 意識と身体感覚がかみ合わない。

 体内時計が狂っている。

 焦り部屋の掛け時計を見やる。

 時計の針は、1時44分を指し示していた。

「な、っ」

 確認するまでも無く、見る必要さえなく窓からは正午過ぎの太陽の光。

 つまり、これらが意味することは、

「貴方が学校に来ていない事に、私も最初は気づかなかったの。やることがあったから、学校へは行っていたけど授業には出てなかった。でも、2時間目が終わって、まだ貴方が来てない事に気が付いた。だから、」

 過去、亮は学校を欠席はおろか遅刻もしたことはない。偶然にしては出来すぎていた、ということか。相変わらず勘がいいと言うかなんと言うか。

 しかし、何にした所で亮のすべき事はひとつだ。

「そうか。ありがとな、時雨。御陰で助かった」

 当然のこととして、その言葉が口からこぼれた。

 だというのに、時雨は弱々しく首を振る。

「違う。そうじゃない。お礼を言われるような事なんかしてない」

 弱々しく、言う。

「完全に、私の読み違い。貴方は、私のせいで危ない目にあった。協力者、失格よ」

 あの時雨が、こちらの目も見ずに視線を下げて呟いた。

 それを見ていたら、無性に腹が立ってきた。

 それがたとえ不意打ち紛いの戦闘だったとは言え、亮に自分と互角以上を見せ付けた相手の姿かと思うと、腹が立たずにはいられなかった。それ以外の感情は無いはずだ。それ以外など、亮には思いつかない。

 感情のままに呟く。

「……困るぜ」

「え?」

「そんなんじゃ困る」

「…………」

「あんた、俺を守るんだろ? ならもっとしゃきっとしろよ。この俺を守るなんて大見得切ったんだ。相応のものを見せてみろ」

 時雨は呆然と、亮の言葉を聞いている。

「有言実行、言ったからには守れよな。魔術師は言葉を大切にするんだろ?」

 座ったまま、右手を時雨へ差し出した。

「ええ、……そうね」

 時雨はその手を取った。



「よっ、と」

 握手を交した手を引っ張ってもらい、亮はベッドから立ち上がる。

「さて」

 時雨の前を横切り、タンスから制服のワイシャツを取り出す。

 それを見た時雨が素っ頓狂な声を上げた。

「なに、してるの?」

「なにって、見りゃ分かるだろ」

 というか他になにがある。

 亮はワイシャツを広げて見せて言う。

「遅刻だ遅刻。急いで学校行かなくちゃな」

「な、……」

 絶句する時雨

 しかし呆然としたかと思うと、すぐさま亮へ近寄ってきた。

 そして、

「ごふぅ!?」

 腹を殴られた。

 胸倉を掴まれる。

 締め上げられ、鋭い眼光で突き刺す。

「神崎、あんた自分の置かれてる状況、理解してる?」

 恐ろしい形相だった。

 だが、その時の時雨の瞳に映る顔はとても静かな顔をしていた。

「ああ、しているつもりだ」

「それでも、学校へ行くの?」

「ああ、それでもだ」

 一拍の間があって、少し手の力が緩んだ。

「なんでか、聞いていい?」

「……。お前は、俺を歪んでいると言った。他の奴にも、似たようなことを言われた事がある。だけど、俺にとってはそれこそが俺なんだ」

 これまでの、激情に任せての反発ではない。神崎亮を、神崎亮として見た冷静な答えだった。

「俺は誰にも負けないし負けられない」

 時雨の手はすでに、胸倉を掴むだけになっていた。締め上げるような力はもう無い。

「敵に背は向けられない。ここで休めば敵の思うツボだ。虚勢で構わない。神崎亮はここに居ると、まだ膝を屈していないと、示さなければならない」

 しっかりと、瞳を見据えて言う。

「これから学校へ行く」

 すると時雨は胸倉を掴んでいた手をぱっと放し、

「……時雨」

 安堵のため息をついた亮の腹へ、再び拳を叩き込んだ。

「うぐぅ!?」

 時雨は何事も無かったかのように穏やかな声で言う。

「貴方がそこまで言うのなら、いいわ」

 そうしてどこか投げやりな感じに勢いよくベッドの脇へ腰掛ける。

「予定は少し狂うけど、誤差の範囲だしね」

 足を組み、つっかえ棒にした腕に体重を預けて「う〜ん」と伸びをする。

 どうやら今の一発(二発?)で学校へ行くのは承諾したらしい。

 亮は腹の痛みを我慢しながら勉強机へ向かった。必要なものを取り出し、不必要なものを仕舞う。

 いつもなら夜のうちに済ませておくことだが、昨日はとてもそんなことをしている気分ではなかった。

 学校鞄が用意し終わると、次にクローゼットを開ける。

 すると、後方でベッドに腰掛けたままの時雨が驚きの声を上げた。

「どうした?」

「どうしたって、どうかするわよ。それ」

 時雨を振り向くと、時雨はクローゼットの中を指差していた。

「ああ、これか」

 取り出す。

「だってそれ、防弾チョッキよね?」

 ズバリ、だ。

 だけど、

「別にお前にとっては珍しくも無いだろう」

 命のやり取りを日常にする連中だ。しかも時雨はどう見ても暗殺などの類ではなく戦闘用。むしろ今現在コレを装備していても不思議ではないが。

「いえ、ちょっとした事情で神無月にとってはむしろそういったものは珍しいの」

「ふ〜ん」

 ……ちょっとした事情、ね。

 どうせ突っ込んでも教えてもらえないのだろう。時雨が話をぼかす時は大体そうだ。疑問に思ったほうが負け、といったところか。

 当の時雨はというと、そうか、防弾チョッキか。と、なにやらひとりで頷いている。

 そして、

「ていうかなんでここに防弾チョッキ?」

「ん? ああ、高校にあがるときに叔父がな」思わず肩をすくめる。「そういう危険のある身分だということを自覚しろってことらしい」

 亮は防弾チョッキをクローゼットへ戻す。

「さすがに実際着た事はないがな。それとも着といた方がいいか?」

「いえ、敵は貴方にあくまで『偶然』突然死してもらわなければいけないはずだから、そういうのは別に……」

「そうだったな」

 今度こそブレザーを取り出し机の前へ戻る。

「す、素敵な贈り物ね」

「激しく同意する。送り主も野心家でファンキーなおっさんと、なかなか素敵な人だぞ」

「……あ、あはは」

 渇き気味の笑い声。

 まああのおっさん――慎吾さん――のことを言葉で伝える事は、永遠に人類では叶うまい。

 と、やるべき事が残りひとつになってしまった。

「さて」

「え?」

 制服の長ズボンを片手に扉を指差す。

「ん」

「ん?」

 座ったままの時雨。

 やっぱこっちのすっ呆けた方が地なのか? と飽きれつつ亮は言った。

「着替えるから出てってもらえるか?」

 時雨は顔を真っ赤にして部屋を飛び出していった。






 ※ ※ ※




 亮は時雨と共に歩く。

 朝夕の傾いた日ではなく、完全に昇った包み込むような光。その光に照られてた白い紅葉を視界の端に、2人は学校を目指す。穏やかな秋風が頬をさらい、落ちる葉同士が鳴き声を鳴らす。

 その声をBGMに、2人は言葉を交すこともなくのんびり歩いていく。

 亮は時折痛む首筋を庇いつつ、落ち葉の声に耳を傾ける。

 時雨の脇を歩く。

 突然、時雨が静かに口を開いた。

「肉体と精神は互いに連動しあい干渉しあう。肉体の負った傷は精神を傷つけ、精神の負った傷は肉体を傷つける」

 視線が合う。

「精神の死は肉体の死を意味するわ。憶えておいて、神崎。目に見えない以上に不確かな存在モノだけど、魔術は確かに存在する。侮っては、駄目」

 亮は口でへの字を書いて頭をかきむしる。

 何もかも、お見通しってことらしい。

 今度は隠さずに、堂々と肩をもむ。

 ため息に笑みを混ぜて言う。

「いいのか? それ、魔術の仕組みだろうに」

「これくらいならね。それに……」

「それに?」

「……いえ、なんでもないわ」

 再び沈黙が降りる。

 風が吹き、赤と黄が舞う。時雨の長髪が揺れている。

 首は前を向いたまま、横目で彼女の顔を盗み見る。

 艶やかな黒髪がなびいている。凛とした顔はただ前を見据えている。それを見て、ただ美しいと思う。

 胸がまた、首とは全く違う痛みをもたらす。

「時雨」

 外気は張り詰めた寒さをもたらすのに、背筋には冷や汗にも似たものでじっとりと濡れている。

「ん?」

「……え、あ、いや」

 無意識に呼んでしまったらしい。

 慌てて話題を探す。

「あ、いや、名前。そういややっとフルネーム以外で呼んだなって」

「? どうだっけ?」

「じ、自覚症状は無いのか?」

「いえ、まあ、……そう言われてみれば、そうかも」

 ……無いらしい。

「く、くくく」

 なんだか無性に笑えて来た。

 拳で口元を押さえるも、笑いは止まらない。

「あははははは」

「な、なによ。バカにしてるの?」

 時雨が少し怒ったように言う。

「いや、別にバカにはしてないって。ただ、ただ少しだけ愉快に思っただけだ」

 そう言って亮は、腹の中で笑いの余韻を転がす。

「なによそれ」

 時雨はとうとうふくれっ面になってしまった。

 亮はふと、真面目な顔に戻って言う。

「だいたいな、お前のその『神崎亮』ってやつ、気にいらねぇんだよ。お前は俺を見ていない。お前は俺という肉体を介して"神崎亮"という存在しか見ていなかった。人を概念でしか捉えないんだ、お前は。そいつは俺であり、しかし俺はそいつじゃない。必要条件であって十分条件じゃないんだよ。意識的にしろ、無意識的にしろ、お前にはそう言った側面があった。そんな奴に俺は"俺"を認めさせた。俺はお前の中で"神崎亮"という記号から神崎という人になった」

 笑う。

「こんな愉快な事があるか」

 横を見れば時雨がぼけっとしていた。

 その表情からは思い当たる節があるのか無いのか、判断は出来ない。

 思い浮かんだ言葉を特に吟味することなく口にする。

「今はまだ神崎と言う一族の総称だが、いつか必ず、お前に俺自身――亮――を認識させてやる」

 特に何も考えずに口にしたが、言ってみると思った以上にスッとした。

 見れば時雨はうつむいてしまっている。

 微妙に、顔が赤くなっているような気がした。

 それに気が付いた瞬間、今度は亮の顔も火照ってくる。

 ……俺、なんか変なこと言ったか?

 亮が沸騰した頭でぐるぐると考えること数分。

 例の奇妙な雰囲気が亮を包んでいた。

 お互い、何を言うでもない時間。

 それでいて相手の存在を確かに感じ取れる不思議な矛盾。

 居心地がよく、それていて気まずい。

 紅葉の赤のせいか、冬も目前のこの時分にもかかわらず、亮はこの空間をとても暖かだと感じた。

 落葉を踏む2人の足音が静かに耳へ響く。

 ふぅ、と意味もなきため息をひとつ。

 学校が見えてきた。

 休み時間らしく遠くから賑やかな喧騒が聞こえてくる。

 この静寂とも、もう少しでお別れだ。

 少し寂しく思うのに、口元からは笑みが漏れた。

「あの、さ」

「なに?」

 時雨が答える。

 亮は校舎を見上げ、

「今回の件が終わったら、さ。どっかのケーキ食べ放題でも行かないか?」

「え?」

 時雨がびっくりしたような声を出す。

 よほど驚いたのか声が裏返っている。

「そういうの、やってる所があるんだよ。どこかのホテルなんかのさ、行かないか?」

「…………」

 今度は黙ってしまった。

 特に他意の無い思い付きだったのだが、そこまで驚かれると逆に尻込みしてしまう。

「なんだ、都合悪いか?」

「…………」

 時雨は困ったように眉尻を下げて黙り込むこと数秒。

 時雨は小指を立てて、手を差し出してきた。

 何かと思うぐらい、ひどく固い顔をしていた。

 亮は同じように小指を差し出すと、時雨の指に絡めた。

 ゆびきり。

 その指のしっとりとした感覚に、亮はまたあの感覚に囚われた。

 ドキドキする。

 そんな亮を他所に、

「約束。いつか、いつか必ず行きましょう」

 時雨は幼く笑った。






 ※ ※ ※




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