第二章
第二章
※ ※ ※
幕間
『それ』は学ぶ。力を学ぶ。
刀に始まり銃器にわたり。元来、その家の魔術師には必要の無い力も、身を守る術として学ぶ。
『それ』には才能があった。当主が想像していた以上のものが。その才能が『それ』の負担を余計に増やす。
『それ』はまだそれらしか知らない。歪みはまだ、存在しない。
※ ※ ※
「魔術、ねぇ」
亮はベッドの中で、手にしたルビーを光にすかした。
起きたのは数分前。昨夜は見事、影夢は見なかった。
偶然かもしれない。2日続いたからといって、3日続く確証があったわけではないのだ。謀略かもしれない。全部、亮を騙すための演技だったとしても、さして驚かない。しかし、偶然だろうと謀略だろうと 助けられたのだろうと、どれにしたところで斉藤は賭けに勝った。
その勝利に見合うだけの協力は、してやろうと思う。疑うことは止めないし、敵と見れば迷わず切り捨てるが、それでもあいつは今日から協力者だ。
「やれやれ、面倒くせぇことになってきやがった」
後頭部をかき乱し、亮はベッドから起き上がる。
※ ※ ※
亮は朝を日課通りに済ませると家を出た。
気配を殺して門まで出ると、案の定斉藤が居た。
が、斉藤は腕を組み門に背を預けたまま目を閉じている。
気配を殺してきたためか、亮に気づいていない。それどころか、耳をすませばスゥスゥという呼吸音まで聞こえてくる。
長いまつげが緩やかに上下し、実際に目の当たりにしなければ凄腕の剣術使いなどと信じられないような、きめ細かく白い女性らしい肌。まるで外の世界を知らないお姫様のようだ。朝日を受けて整った顔は輝き、秋を感じさせる風に腰まで伸びる、うなじでまとめただけの長髪が見事にたなびく。
日差しの当たった顔が、「うっ」とうめく。
……寝て、やがるのか?
その顔を見ていると、なんだか腹が立ってきた。
亮は手にしたルビーを斉藤の額めがけて投げつけた。
途端。
激しい音がしてルビーが頭上高く打ち上げられた。ゆうに10メートルは飛んでいる。
斉藤は今までの平和そうな寝顔が嘘のような、あの凍えるような鋭い眼つきをしていた。
亮は驚きで声も出ない。
「? ……貴方か」
斉藤は落ちてきたルビーを見もせずに華麗にキャッチした。
斉藤は、もう普通の表情に戻っていた。
……なるほど。魔術師、ね。
「で、俺はなにをすればいい」
通学路を歩く亮と斉藤。歩き出してさっそく、亮はその話を切り出した。
「と、いうことは私の勝ちね?」
だが2人の距離は話しながら歩いているにしては、遠い。先を歩く亮の、だいたい3メートル後方を斉藤がついてくる。昨日に比べればかなり近いのだが、普通人と人とが話して歩く距離ではない。
そんな距離だったから、斉藤の声に得意を感じた亮はムッとして振り返った。
だが、
「っ…………」
とっさに言葉が出てこなかった。
「なによ」
亮は前へ顔を戻し、
「別に。お前でもそういう人間らしい顔するんだなと思って」
「なによ、それ」
今度は斉藤がむくれた声をだした。
「まるで私がロボットだとでも言いたそうね」
「違うのか?」
亮は正にそのように思っていたし、その認識に差異があることに驚いた。
「……あ、貴方って人間は」しかし斉藤はここでグッ、と何かをこらえるような間を持ち、「貴方は思っていたより人を見る目がないのね」
「ふん、よく言われる」
昨日も言われたばかりだ。
「? まあそれはいいわ。それで本題よ」
亮の脇を長い髪が流れる。
亮は思わず足を止めた。
斉藤は亮の前まで走り去り、そして漆黒の長髪をひるがえす。
瞳には臨戦モードをたずさえて。
何度見ても背筋が凍る。自分とは違う、絶対的に違う生き物であることを認識させられる瞳だ。
魔眼だ、と思う。
こんな目を自在に出し入れできる人間が、どうして機械でないと言えるのだろう。どうしてこんな瞳を 操れるまでに訓練を重ねた人間がロボットと言われることに不快感を示すのだろう。
機械、ロボット。確かに人間に向かって吐くにはあまり良い言葉だとは、亮も思わない。だが、同時に ある面に向けてはこれ以上ないほどの褒め言葉だと思う。
理解できない。ある種自分の完成形にも見えるこの女が、しかし本質的なところでは全く理解できない 。
いらいらはただ募る。
そんな亮へ斉藤は追い討ちをかける。
「なにもしなくていいわ」
「……え?」
一瞬、なんの話をしていたのかを忘れた。
「貴方はなにもしないで」
斉藤はもう一度、ゆっくりと言った。
そんなに間抜けな顔をしていただろうか。
2人は朝の通学路にたたずむ。
秋風が吹きぬける。
「私が貴方に望むのは情報の共有と護衛の容認だけ」
なんだ、それは。
「貴方はもうかなり危険な所まで足を踏み込んでいるの。平均台どころじゃない、綱渡りよりももっと細い、点の集まりの上を歩いているようなものよ?」
協力だのなんだのと体の良いことを言って、その実は女なんかに守られるのを黙って見ていろと、つまりそういうことか。
「あくまで言うわ。貴方の命は私が必ず守る。だから余計なことはしないで。足を踏み外した先にあるのは死よ」
……俺はそんなに弱くない。
思い、奥歯を噛む。
……くそっ。
「話終わり。さ、行くわよ」
斉藤は歩き始める。
その後ろ姿を睨みつける。昨日以上に毒々しい舞い葉の赤がその背を飾り、亮は軽い頭痛にこめかみを 叩いた。
「……くそっ」
いつもの十字路へついた頃には、多少ではあるが亮は落ち着きを取り戻した。
十字路には今日も楓がいた。
「よっ!」
「ああ」
楓といつも通り、日によりまちまちの簡単な挨拶を交わした。
斉藤は今も前を歩いている。やはり距離にして3メートル前後と、一緒と言うか言わないか微妙な距離 で。
だが斉藤は楓が現れると首をこちらへ向けたまま歩くという、器用かつ滑稽な姿をとっている。ちら見ではなく、ずっとこちらを見ているのだ。
警戒、のつもりなのだろうか、楓という部外者に対しての。
斉藤は知らぬことだし、知っていたところで彼女には関係なさそうだが、その警戒は無駄な行為だと亮は思った。
楓が敵であるはずがない。しかもこいつは高校入学以来と、付き合いもまあまあ長いのだ。斉藤の言によれば、敵は亮の親父を殺した(と、仮定すればではあるが)奴と同一人物であるはずだ。それから亮へ対象を移したとすれば、それは斉藤のように転校、ということになるはず。楓は敵ではありえない。
当の楓は斉藤が気に入らないらしく、彼女へ向けてブサイクな顔であっかんべーをしている。
斉藤の態度は冷めたものだ。完全にスルーである。
それを見た亮は思わず吹き出した。
横を見るとつられたようで、楓も笑っている。
斉藤はなぜか突然前を向き出した。
久々に笑った。
もやもややいらいらは、取り合えず消えていた。様子を見なければいけないもの事実。周囲の闇が晴れるまで、余計なことをしないのは当然のことだ。それが見えてからでも遅くはあるまい。ただただ、
今はこれでいいのだと、亮は思った。
「ところで神崎。夢はどうだった?」
「良いお守りをもらってな。今日の夢見は、良かったぜ?」
亮はそう言っておいた。
それを聞いた楓は、
「ふ〜ん。そっかそっか」
含みのあるいやらしい笑みで頷いて見せた。
「なんだその笑い方は」
「べっつに〜」
2人と1人は学校へ向かう。
※ ※ ※
登校時のやり取りがあってからしばらく。
校内へ入り、二年生のフロアへ着いた時雨は自分のクラスへ向かう。
と、その前にやっておくことがある。
足を止め、振り向く。廊下の喧騒はまだない。
振り向いた先には神崎亮と小泉楓。
小泉楓は相変わらず不機嫌そうな顔をしている。
神崎亮はしばらく何事かと目をしばたかせ、そして、
「じゃあな、斉藤」
どきりとした。
人から別れの挨拶なんてものを貰ったのは、初めてだった。
それだけ言ってクラスの方へ去ってゆく。小泉楓もそれにならう。
他意はないのだろう。
だけど、自分には彼が理解できない。自分に似ているようでいて、どこかなにかが決定的に違う彼が、なにを考えているのか理解できない。
どこかのなにかが欠けている。解らない。
それがとてももどかしい。
神崎亮の背が、彼のクラスに消えようとしていた。
そこで用事があったことに思い至る。
「待って!」
神崎亮が振り向く。
その額へ向けて、時雨はルビーを投げた。
……気休めかもしれない。でも、そのハッタリで少しでも魔術の進行が止められるのなら。
神崎亮は華麗にそれをキャッチした。
さすが。
「あげる。それは貴方のよ」
神崎亮は薄く微笑み、片手をこちらへ向けて上げ、扉の奥へ消えていった。
小泉楓は、さっき以上に不機嫌な顔をして、まだこちらを睨みつけていた。
神崎亮がルビーを受け取るのを邪魔するのではと勘ぐっていたが、どうやらそういうことでもないらしい。
だが、時雨は彼女への態度を八割方固めていた。
時雨は、『神無月時雨として』小泉楓を睨み返した。
※ ※ ※
亮が教室の席で時計を見やると、針はすでに午後の4時を回っていた。
じきに七時間目も終わる。
教壇に立っているのは倫理の成見影司だ。成見は今年度からの新任教師だが、面倒見が良くて教えるのが上手く、まるで若手には見えない。口調は砕けていて親しみやすく、しかもバカではないらしい。教師なのに毎日私服で登校しておりしかもセンスが良い。佐藤が確かミカ高(御門高校の生徒間での略称)のファッションリーダーだとか言っていた気がする。相変わらずあの口調で。個人的にはどうしても成見の態度に作り物めいたものを感じてしまい、あまり好きにはなれない。だが、教師という嫌いな人種の中に 在りながら、好きにはなれずとも尊敬はできる人物だとは感じる。自分の中の位置づけとしては、親父に最も近しい。
そういえば成見がこの学校に来たのは親父が死ぬ少し前で、少しばかり神崎グループとは縁があると、 始業式の日に話しかけられた。親父によろしく言っておいてくれ、と。確か親父の葬式にも居た筈だ。御門高校へは神崎の関係者のコネで来たというところか。御門高校で神崎のコネというと、慎吾さんあたりだろう。
亮は黒板を見るが、文字が書かれているのは解っても書いてある意味が認識できない。集中していない 証拠だ。意識の焦点がピントズレを起こしていて、まるで意味のない無秩序な子供の落書きを見ているようだ。正直、あまり見ていたくない。
焦点をズラして空間を見つめる。
余計なものに一切のピントが合わず、視界の全てが薄くぼやける。
亮は右のポケットへ手を突っ込んだ。
中を転がるお守りを手で弄ぶ。掴み、転がし、握り、擦る。
頭の中で、思考も転がる。
初めて影夢を見たのが恐らく親父の葬式の晩。その時はどうとも思っていなかったが、今思い返してみ れば恐らくそうだ。そこから稀に似たような終わり方をする夢を見るようになり、その頻度はだんだんと増えていったように思う。脅迫状など、明らかにおかしなことが始まったのはだいたい2週間前。そうし て斉藤が現れ、それと同時に初めて二晩続けて影夢を見た。
敵は誰だろうか。やはり容疑者第一候補は斉藤であることは否定できない。だが彼女でない可能性だっ て同じくらいには否定できない。敵は校内にいるのか、いないのか。夢の正体はなんなのだろう。その魔術とやらは近くにいなければいけないのか、そうでないのか。物語の中でしか魔術を知らない、魔術の仕組みを知らない自分は推理どころか推測すらままならない。
放課後、チャンスがあれば斉藤へ聞いてみようと思う。
そんな時、外界の音を耳が認識した。
「"影"というのは昔から、不安や恐れの象徴とされてきたんだ」
成見だった。どうやら授業は一段落し、雑談の時間となっているらしい。
どういう流れでこんな話になったかは分からない。
ただ成見の発した"影"という概念の定義に、不吉を感じた。
「さらに、"影"は自己の陰性をも象徴する。まあ、簡単に言やあ自分の悪い部分とか、嫌いだと思って いる部分だな」
成見はどうやら民俗学やオカルトの知識に詳しいフシがある。こういう話になると、後は成見影司の独 壇場だ。わりに面白い話は多いので生徒も基本的には静かに聞いていることがほとんどで、人によっては 寝ていたり本を読んでいたりと自由にしている。こういった雑談の時間になる場合は授業自体は終わって いるので、度を越して騒ぎさえしなければ成見も注意はしない。
「黄昏時の"影"は時間の経過と共に肥大する。そして"影"の実像を照らす光が強ければ強いほど、" 影"の闇は深くなる」
今日の成見の話は妙なカンジだった。間に挟む小話が少なく、核心部ばかりを語っていた。
「夜が近づけば近づくほど"闇"はより大きく、より深く、より強く、自己を浮かび上がらせる」
ドクンッ。
血管が不整脈を起こしたように大きく震えた。
ドクンッ。
血が頭へ上り、
「夜がくれば自己を投影していた"影"は世界へ埋れ、無に還る」
ドクンッ。
もはや明確な形で"影"がフラッシュバックした。切り裂かれた胴体が、突き刺された胸が、吹き飛ばされた手足が、割られた頭部が、やり過ごし、認めずにいた感情――恐怖――が、その全てがフラッシュ バックした。
気が遠くなりかける。右手を握る。手の平の中には斉藤のルビー。魔術師のルビー。握り締める。力の 限り強く。空間を、そうして今だ姿の見えない敵を、睨みつける。自分の歯が軋む音が聞こえる。
亮は独り、一見通常の光景の中で異常と戦っていた。
粘りつく汗が背を徘徊し、鈍く、それ故しつこい痛みが頭と心臓を支配する。
亮は独り、椅子の上で身を硬くする。
意識を手放せと本能が訴え、負けてたまるかと理性がせめぎあう。
亮は独り。
独り、独り、独り。
だが、昨日とは違う。
右手を握る。力を入れているという感覚さえ喪失してしまいそうな、刹那にして永遠の間。でも、今日は大丈夫だ。
本当の意味で視界は霞み、痛みとも疼きとも取れる、自分を蝕む"影"は進行を続ける。だが、意識は 手元にある。
「……が……となっ…………るんだ。だからお前ら、夜の繁華街出歩いてっと自分のドッペルゲンガーに食われちまうぞ?」
ひゅう、と。
呼吸が通り、今まで息をしていなかったことに気がついた。それと同時に"影"はなりを潜め、亮は解放される。
クラスには成見のおどけた声が響き、クラスが小さく笑った。全く聞こえてこなかったが、話は続いていたらしい。
「んだよナルミー、そんなこと言われたら夜外出らんねーじゃねぇかっ!」
「ハイ。じゃあ今夜はちゃんとベッドで震えてろよ、田村」
「ちぇ、ただのていの良い生徒指導じゃんかっ!」
クラス中が笑う。
冗談のように振舞っているが、田村はあれで大の怖がりだ。しかもそれはクラスの中では周知(主な功労者はやはりというか佐藤だ)。知らぬは本人だけという段になっている。
亮も、同じように笑っておいた。それで日常が戻ってくるならと。
「じゃ、これで今日は終わり」
成見がそう言うと、ちょうど終業のチャイムが鳴った。
礼省略でこのままHR始めんぞーと、成見は連絡事項を伝え始めた。
ワイシャツの背が、汗で冷たかった。
※ ※ ※
放課後になった。
亮は今日はゲームセンターへ寄っていくという鈴木・田村・佐藤の3人と別れ、ひとりで帰り支度を終わらせて席に座っていた。3人には例のごとく誘われたが、やはり断った。
教室からは、だいたい3分の2ほどの人間が居なくなっていた。用事のある者、遊びへ繰り出す者、部活動のある者を吐き出し、残りの、時間を持て余している者たちの雑談に教室は包まれていた。浮ついているわけでもなく、でも決して暗い雰囲気ではない。例えるならそれは、黄昏時の名残惜しさを残した空気。
亮はこの雰囲気をとても良いと感じていた。いつも急いで帰っているわけではないが、無駄が嫌いな性格ゆえにこんなことにでもならなければ一生知らずに終わっただろう。
そんなことを考えていると、長い何かを肩に掛けたシルエットが席へ近づいてきた。
「待たせてごめんなさい。さ、行きましょう」
顔を持ち上げ瞳を見れば、そこには冷たさと鋭さ。
仕事モード、というわけか。ふん、律儀な奴め。
「ああ」
亮は軽く頷き、席を立った。
寄りたい所がある、と斉藤は切り出した。
そんなわけで、今日は正門を出た道を左へ。いつもとは逆の、駅前へ続く道を歩いている。
亮は学校指定のカバンを適当に肩へ引っ掛けて。斉藤は肩へ掛けたカバンを脇へ挟み、逆の肩へはその 内容を知っているものとしてはかなり物騒なものを、相変わらず堂々と引っ掛けて、道を先導している。
左の道へ行くと紅葉はすぐに途切れる。しばらく進めば住宅地の一角を横切り、だんだんと有名なチェーン店が数を増やしていく。それを道なりに進んでいけば駅へ着く。だが、今日用事があるのはそんな表通りの道を外れた所にあるらしい。
斉藤は黙々と歩く。
亮はそれとなくタイミングを計り、並木道の途切れた辺りで話しかけた。
「なあ、そもそも魔術ってのはどういう仕組みなんだ?」
「え?」
斉藤が振り向き、互いの足が止まる。
亮は斉藤の横に並び、2人はまた歩き始める。
「いや、なんだ。……その、興味本位、というかだな…………」
余計なことはするなと釘を刺されている以上、従う気が無いとはいえ正直には言いづらい。自然口調は しどろもどろになり、亮は自分のらしくなさに頭をかきむしる。
そんな亮の内情を知ってか知らずか、斉藤はきっぱりとした口調で答える。
「魔術の仕組みは、貴方は知らない方がいい。それは、貴方にとっても、もちろん我々にとっても」
「どういうことだ?」
斉藤は少しだけ素振りを見せ、その問いに答えた。
「少しだけ。貴方へ教えられる範囲で答えるわ」
住宅街が近づいたからだろうか。はしゃぎまわる小さな子供の集団とすれ違った。
「本来、我々旧暦十二家に属さない人間は魔術なんてものの存在は知らないし信じない。これは魔術の性 質上、魔術が効きづらいってことなの。それでも小さな抜け道は無数にあるし、そこを通すのが魔術師な んだけど、貴方はすでに魔術の存在を『認識してしまっている』」
買い物帰りだと思われるおばさん2人組みとすれ違った。
「本当は、私――つまり魔術師の事だけど、それが貴方に接触すること自体、危険な事なの。私が現れな ければ貴方は魔術の存在を『認識』しなかった。『認識』さえしなければ、夢の症状はここまで急速に進行しなかった」
つまり、斉藤が亮の前へ現れたことと、二晩続けての影夢の間にはちゃんと因果関係がある、ということか。
おしゃべりに花を咲かせている女子中学生のグループを追い抜いた。
「今の貴方はとても危険な状態なの。魔術の存在は知っているのにその仕組みは知らない、つまり対処法 を知らない。でもそれを教えてしまえばさらに敵の魔術を進行させてしまう」
自転車の3人組に抜かされた。
「でも静観を続ければ状況はジリ貧。そこで私がやってきたの」
信号に引っかかる。目の前で止まっていた車がエンジンをかけ、発進する。
止まったついでに横を見ると、斉藤が理解したかと目で問うてくる。
亮はひとまず頷いて見せ、そして自分の疑問を口にした。
「でもそれってなんかおかしくないか? 矛盾しているというか、上手く言えんが」
「なにが?」
青になった。歩き出す。
「魔術を理解することが相手の魔術の効果を上げるんだろ? でもって相手は魔術を理解している。ってことは……えーっと、なんだ? ……」
「うん。たぶん貴方が言おうとしている事は正しい。魔術を学ぶって事は諸刃の剣なのよ」
「そう、なのか」
「でも、本来魔術って言うのはその体系を作り上げた十二の家系に口伝で伝わる秘技。その家の出身の者の中にだって親の意向で魔術を学ばない者も多いの。だから貴方は例外中の例外。普通、魔術を学ぶ者は 生まれたときから魔術の存在を知っているし、学ばない者は一生知る由も無いはずなのよ」
「……なるほど」
住宅街を抜ける。
信号や人の往来が激しくなる。その中を亮と斉藤は並んで歩いてゆく。
よく考えてみれば、斉藤とまともに会話したのはこれが初めてだ。今までは言葉は交わすことはあっても2、3言で必ず終わっていたし、なによりどんなことよりもまず敵意が先に走っていた。
亮はもう少し、斉藤と話してみたいと思った。
適当に話題を探す。
「なあ、この護衛は事が解決するまで続くのか?」
「いいえ。敵がどこの家の魔術師か解るまでで構わないわ」
向かい側から勢いよく歩いてくるサラリーマンを避ける。
「家?」
「そう、家。さっきも言ったけど、魔術師っていうのは十二個の家系の人間の総称なの。私が『神無月』 であるように、それぞれ旧暦の名を冠している」
「ふぅん。なんか面白いな」
「そう? ま、手口の回りくどさ、夢の扱えそうな魔術特性を考えれば、『心操医』か『暗示式』。線は薄いけど状況証拠的には『傀儡師』あたりなんだろうけど。でももし『狂戦士』が絡んでいた時のリスクは負いたくないしね」
斉藤はそう言って、
「もうしばらく、我慢してもらうわよ」
ギクリ、と。その言葉に心臓が嫌な唸り声を上げた。
「べ、べつに、我慢しなきゃなんねぇようなことでも、ないし……」
自分は何を言っているのだろう。我慢しているに決まっている。神崎亮が自分の居場所に他人を許容す るはずがない。
「ならいいんだけど。だけど、他人と居るのは息苦しいんじゃないかしら?」
ああ、息苦しいさ。今だって息が詰まりそうだ。これまでさんざん一匹狼だとか言われてきたが、むし ろこんな思いをしてまで集団で群れていられる連中の気が知れない。ああ、全く理解できない。
ファーストフード店の前を通過する。
斉藤がこちらをうかがうような気配を感じる。
顔を横にすれば、きっと目が合ってしまうだろう。それはきっと、今の自分には耐えられない。
だから勤めて前を向く。横を見てはならない。
しばらくの間、沈黙が続く。
再び信号に捕まった。
「………………」
「………………」
横目で、本当に一瞬だけ、顔は前へ向けたまま、斉藤の顔を盗み見た。
先程よりも大きく、心臓が高鳴った。
斉藤はどうやら、沈黙を否定と取ったようだった。そして、その顔を見て、亮は保健室の時の斉藤の笑 みを思い出していた。
斉藤自身、今の自分の表情には気づいていまい。気づいていたなら、こんなにもあらゆる意味で油断し きった顔を、魔術師が他人へ見せるはずがない。
歩き出した斉藤に、慌てて亮は並んだ。信号は青だった。
行く先にケーキ屋が見えてきた。デコレーションケーキや、シンプルでそれゆえに品格の漂うチーズケ ーキなど、さまざまなケーキがガラスの奥へ並べられていた。
亮は一方的に気まずい今の状況を一瞬忘れて、思わずそれを目で追ってしまう。
と、その前というか横、ガラスケースと亮の間に存在する顔が、自分と全く同じ動きをしていることに 気が付いた。本当に、全く一緒だった。
体はケーキからどんどん離れているのに、目線だけが釘付けになっている。その、この瞬間まで亮と斉 藤の視線を奪っていたものは、方向だけでなく個体としても同一のようだ。気づいた亮は大丈夫だが、斉 藤は今にも体から首が落っこちそうだ。
……チーズケーキ、好き、なのか、な?
というか間違いなく大好きなのだろう。
自分がそれを食べている未来を夢想しているのか、前へ向き直った斉藤の顔はどことなく幸せそうに見 える。
そこで、
「な、なによ」
少しだけ顔を赤らめて、斉藤はむくれた声を出した。ケーキを見ていた自分が無防備だった自覚は、あ るらしい。
しかし亮は、今度は自分が斉藤の顔を見詰ていたことに思い至った。
「べ、べつに」
ぼそぼそと言う。
道はそろそろ駅前と言ってもよさそうな所になっていた。
「……こほんっ…………」
「……んっ、…………」
互いの気まずさを両方が胸に抱く。
またしばらくの沈黙。
だがやがて、
「こっちよ」
斉藤は表通りを外れる路地を指した。
今度こそ斉藤は道を先導して歩く。決して複雑な道ではない。どこにでもあるような、表通りに光を取 られたさびれ道だ。だが、駅前のビル街に本当の意味での太陽も取られ、湿気で溢れ返り、闇に塗れた不 快感をもよおす道だ。
それでも普段であれば、ただの道にここまで酷い印象は抱かなかっただろう。それは道を先導している 者の生業が、寄りたい所という言葉に不気味さを加味させているのは間違いない。
その道の奥に、どう経営を成り立たせているのかも解らないような喫茶店があった。
斉藤はその店の前で足を止めた。振り返り、目で着いて来いと合図する。
亮は頷き、斉藤へ従った。
扉の鈴が、カラカラと不気味に笑い声を立てた。
店内へ足を踏み入れる。
コーヒー豆の苦い香りが鼻孔をくすぐる。
中は落ち着いた感じの、渋めだが割りに普通の店だった。だが人が極端に少ない。こんな場所に店があ るのだから当たり前なのかもしれないが、店に入った段階では店員はどこにも見られず、客が1人コーヒ ーを飲んでいるだけだった。
斉藤は道中の雰囲気の一切を捨て、屋上の時よりも冷たく、保健室の時よりも激しい緊張を持ってその 客を見据えていた。
亮は直感した。あの客は魔術師だ。
斉藤は胃の焼け付くような緊張感は亮をも飲み込み、心臓は耳元まで昇ってきた。
斉藤が客へ近づく。亮もそれにならう。
「おや、お早い到着ですね」客は高そうな腕時計を見ると、「まだ約束の時間まで30分以上ありますよ 」おどけた調子で肩をすくめた。
丁寧な口調だった。だが、人を食った野郎だ。
斉藤が30分以上前に約束の場所へ現れた事を驚くのであれば、自分はいったいなんなのか。
客は席を立ち、こちらに深く礼をした。
「お久しぶりです、【時雨ル玉座】。またお会いできて光栄です」
亮は客を上から下まで観察する。
性別は男。パッと見は青年実業家といった風。ワイシャツにネクタイ、背広といたって普通の格好だ。 雰囲気もまるで一般人。斉藤と相対した時のような鋭さは感じられない。普通だった。つまり『普通すぎ る』。今の状態の斉藤を前に、普通でいられる事がすでに普通ではないのだ。持ち物は2つ。ボックス席 の奥に置かれた、頑丈そうなジェラルミンケースと、斉藤の肩に今も掛かっている竹刀袋もどきによく似 た細長い何かだ。それから連想されるものはやはり、どうしても日本刀になってしまう。刀、つまり武器 だ。
「面倒な挨拶は抜きにしましょう、【情報屋】」
「そうですね。おっと、彼が財界に名立たる神崎の末裔ですか」
男はそう言うと、一枚の名刺を取り出し、亮へ差し出した。
「私は序列一番目の魔術師・『弁論者』、【情報屋】睦月 源です」
刺し、出された。
「斉藤」
亮は斉藤を見る。学校を出る時の約束だった。場所へ着いたら決して喋らないこと、斉藤の判断無しに 余計な動きをしないこと。癪な約束だが、事の危険性は理解しているつもりだ。約束は守る。
斉藤は頷く。
亮は名刺を受け取った。
「情報が必要な時はぜひ」
男は営業スマイルで爽やかに哂った。
亮は名刺へ顔を落とした。
そこには先程男の口にした自己紹介と全く同じことが書いてあり、その下には携帯の番号があった。
斉藤を見ていればすぐに解ることだが、魔術師とはその存在をかなり徹底して隠匿するものらしい。そ の同種でありながら、この男は堂々と(一般人へ見せた所で頭を疑われるだけではあるが)職業・魔術師 と名刺に印刷するのだ。やはり、食えない奴だ。
亮が顔を上げると、斉藤はすでに席へ座るところだった。
男は目で亮へも席へと促す。
が、亮はそれを静かに首を振ることで拒否した。
それは何も話すな、何もするな、と釘を刺された亮に出来る、何もしない事による唯一の抵抗だった。
座っていたのでは男がもし牙を向いた時に何も対処できない。斉藤は男が何もしないことを信じている ようだが、それはそのまま亮が男を信じる理由にはならない。
……そうさ、自分の身は自分で守るんだ。
それに、万が一があった時にこいつを守れない。こいつは今、自分の協力者なのだ。協力というからに は自分だけが一方的に守られているだけでは駄目だ。出来る方が出来る事をやって、初めての協力だ。
だから亮は、己にしかできないことをする。
だが斉藤は、いつまでたっても座らない亮へ何かを言おうと口を開き、
「……貴方は、」
「結構。なるほど、確かに私のような胡散臭い輩は初対面で気を許していいような相手ではないでしょう 」
男に制された。
「気に入りましたよ、神崎亮さん。実に興味深い」
男は亮の顔を見ながら、では私は失礼させていただきます、と座席へ着いた。
亮はその一瞬の瞳に射すくめられ、思わず唾を飲み込んだ。
唾を嚥下する信じられないほど大きな音に紛れて、男がなにかを呟いたように聞こえた。
「さて、早速本題へ入りましょう」
当事者以外誰も居ない喫茶店の中、背広を着た20代前半を思わせる青年と、それに相対する制服姿の 女子高生。その傍らに立つ男子高校生という不可思議な図式のまま、この会合は幕を開けた。
※ ※ ※
時雨はオリジンに気づかれないように、内心でため息をついた。
神崎亮の態度は魔術師としてはとても正しい。だが、彼は一般人なのだ。今回の件が終われば彼はもう 二度と魔術師とは関わらないだろう。それが魔術師と一般人の接点関係なのだ。なのに、彼はあまりに魔 術師という人外の生き方に近すぎる。
それと、信用うんぬんは抜きにしても目の前の男が自分たちに手を出すことはありえない。
【情報屋】。旧暦十二家間の情報を一手に引き受ける情報屋。魔術体系を作り上げた権威 でありながら、それ以後発展しなかった最弱の旧家・睦月の魔術師だ。二つ名持ちの極端に少ない家系の 魔術師でありながら、魔術師の中に知らぬ者はいないとまで言われる超有名人で、しかし誰もオリジン自 身に関しては知らない。分かっていることは2つだけ。情報を売り、買い、交換して回っていること。会 うたびに外見と雰囲気が変わっていて、事前に連絡が着く当てがある場合かあちらから接触があった場合 でしかオリジンに出会う事はできないということだ。数少ないオリジンの噂の中には、自家以外は魔術名 しか知りえないはずの十二の魔術、その全てを理解しているなんてのや、実はオリジンと呼ばれる魔術師 は、少数からなる魔術師社会に仇名す秘密組織だとか、とんでもないものがある。実際、どれもありえな い話ではあるが、そんな噂が立つこと自体が驚愕に値する。魔術師社会で最も有名な魔術師のひとりだ。
そしてオリジンは、特定の誰とも対立せずにここまで有名になった事でも知られている。大抵の有名所は他の有名人を倒す事で名を轟かせる。それは本当の意味で殺しあった場合もそうだし、敵対した相 手の計画を挫かせたりした戦略的な意味など、広い意味で色々と含む。自動的に名が広く知られることと なる十二家の各当主でさえ、家内での勢力争いの勝者のことだ。つまり敵を蹴落として有名になった。特 に、組織力は十二家最大と謳われる神無月はそれ故に世代交代の時はとんでもないこととなった。(時雨 の名が裏社会に知られるようになったのもこの時の事だ)だからそこ、オリジンは偉大だとされている。
だからこの、今日の緊張は少し毛色の違ったものも含まれているのだ。
とはいえ、相手が魔術師であることには代わりは無い。しかも情報を扱う魔術師だ。誰とも敵対しない ということは、裏を返せば誰の味方でもないということ。中立の魔術師は今回の敵にだって、こちらの情 報を売る可能性だってあるのだ。だから、オリジンへ与えてしまう情報は最低限で留めたい。この魔術師 は五感の全てから情報を収集するとさえ言われるのだ。
「まず最初に、これを貴女へ渡すのが筋でしょう」
オリジンは時雨が脇へ置いている日本刀の収納袋と同種の、彼の持ち物の内の片方へ手をかけた。
それを見た神崎亮が思わず身構えていた。
……まったく。この男は。
これでは自分がついている意味が無いではないか。心配されているのでは、と少しは嬉しく思うが、そ れをこれとは別問題だし、なにより今はそれを味わっている余裕は無い。
オリジンはそれらに全く取り合わず、袋を横に構えて机の上へ置くとそれをスライドさせて、こちらへ 押し出した。
時雨はそれに頷き、袋を受け取る。
紐で閉じられた口を開き、中をあらためる。
中から出てきたのは柄を鮮やかな藍染めにした日本刀だった。
神崎亮が「あっ」と声を漏らす。
時雨はその半身を鞘から抜いた。そこに現れたのは禍々しさと美しさを両立した、両刃造り の剣身。峯の無い、諸刃の剣。銘は『時雨』。やっと出会えた、神無月時雨の剣だ。
時雨は初めて見る己の剣に、しばらく言葉も出なかった。
ただ、目の前の名刀を見詰る。
「『遅れてすまなかった。【狂信者】は必ずこちらで処理すから心配するな』、 と」
時雨はオリジンの静かな声で顔を上げた。
「【逆説真理】からの言付けです」
【逆説真理】。オリジンの正逆とさえ言われる、全ての魔術師と敵対 したことのある鍛冶師の名だ。
「おばさまの?」
「ははっ。その呼び方、本人が聞いたら怒り狂いますよ」
「すみません、つい」その言葉にもオリジンは笑った。「ただ、師走 狂が相手では仕方の無いことかと 」
「そうですね。彼には私も手を焼いているんです。いえ、【逆説真理】へ運び屋を紹介した私の面子も丸 潰れでしてね」
オリジンは本当に困ったような声を出していった。
「それと、『クソおやじは極上の酒を用意しておくように。近々17年も依頼の品が遅れた謝罪へ出向く 』だそうですよ。ああ、クソおやじとはつまり【神有月】のことですよ? 解るとは 思いますが、まあ念のため」
「わかりました。ただ、おばさま大丈夫なんでしょうか? 我が当主は【逆説真理】のことを心底嫌って いますが……」
実際、お父さんの口からは直接、数え切れないほどの呪詛の言葉を聞かされた。
「それは大丈夫ですよ。【神有月】は【逆説真理】が苦手なのであって嫌いなわけではありません。本当 はとても仲が良いんですよ? もし殺し合いが始まったとしても、まあものの数時間後には杯を交してま すよ。旧い仲ですしね」
「………………」
それって本当に仲が良いのだろうか? いや、それよりもし、おばさまとお父さんがお酒なんて飲んで るのをお母さんに見つかったら、生死の心配をしなきゃいけないのはお父さんの方だ。おばさま美人だか ら。
「ともかく、日本刀『時雨』は確かに正当な持主の元へ届けましたよ」
「はい。確かに受け取りました」
時雨は刀を鞘へ戻し、厳粛に頷いた。
「これで【神有月】も一安心でしょう。自分の世継ぎがいつまで経っても未完成とあっては、ここ数年な ど特に生きた心地がしなかったでしょうしね」
「そう、ですね」
時雨の剣術はこの『時雨』があることを前提にしている。本来、この刀は時雨が生まれた時に【神有月 】が【逆説真理】へ製作を依頼した物だ。その完成品を【狂信者】に盗まれ、行方知れずを経て今へ至っ ている。オリジンが取り返していなければ、時雨の剣術は永遠に完成しなかったのだ。
時雨は心の中でオリジンへ深く礼を言った。
口には出さない。オリジンは依頼を遂行したにすぎず、善意で動いたわけではない。対価は支払ってい るのだ。口には出せない。それが魔術師という生き方にして生き物。口に出す事はオリジンという魔術師 を侮辱することにさえ、なりえる。だから口にしない。礼などという人として当たり前の行為を飲み込み 、消し去り、無かったことにする。たまに、それがとても口惜しい。
代わりに時雨は奥歯を噛み、あごを引き締めて姿勢を正す。拳を握る。
オリジンはそんな時雨の全てを見抜いているかのような、透明な瞳でこちらを見ていた。
「さて、次です」
オリジンは机の上へひじを突き、組んだ手へあごを乗せた。
口元を隠し、見定めるようにこちらを上目遣いに見て、
「なにか、私へ聞きたい事があるとか」
時雨は自己へ念じる。
……私は魔術師だ。
時雨という人間から、神無月という魔術師へ。
わずかな揺らぎもあってはならない。わずかな隙も存在してはならない。それには人間という器は邪魔 になる。時雨が人間を捨てきれないのなら、せめて神無月という魔術師を創る。成る。代わる。
どちらも同じ自分であるなどということは解っている。二重人格ですらない半端な区別。偽りで構わな い。それでも己へ暗示をかける。
……Empty throne where blood falls(我は神無月の魔術師である)
瞳を閉じる。
魔法ではなく論理。それこそが魔術。
どこまでもクールに、どこまでも鋭利に、相手を射る。
さあ、魔術戦と行こうか。
「ええ、まず単刀直入にお聞きします。今、私たちが直面してる事件の犯人をご存知ですね?」
斉藤の雰囲気はさらに変わる。
直立不動を守っている亮は、斉藤を見て思った。特に何が変わったわけではないのだが、緊張の色が一 気に反転した。そんな気がする。
「はて、聞かれている意味を計りかねますが」
周囲を満たしている空気が男と斉藤を二分し、中央で反発しあう。
「とぼけるのは止めてください。先程貴方が神崎亮のことを知っていた時点で、今回のことを知らないは ずがない」
「神崎グループの大株主ですよ? いくら自家の管轄界では無いとは言え、情報屋がそれくらい知ってい てもおかしくないでしょう」
時雨はいい加減にしろとばかりに投げやりなため息をついた。
この行為に、短い間だが彼女と行動した亮は違和感を覚えた。
時雨は男を睨みつける。
「それでは貴方が最初から本名を名乗った理由にはならないでしょう」
男はそんな時雨を楽しそうに眺めている。
確かに斉藤は亮にいきなり名乗らなかった。本名だという神無月を名乗ったのは協力を申請する直前だ った。多少、魔術師のことを知った今なら解るが、名乗ることはつまり己の所属を示す事。また多少なり とも能力を明かす事だ。総じて名乗る事は相手への信頼の証ともなるのだろう。そして同類を見分ける隠語にもなる。
だから斉藤は、亮に対していきなり旧暦で名乗ったこの男が、今回の事に対してのある程度以上の情報 を持っていると踏んだのだろう。斉藤と他の魔術師が争っていて、かつ斉藤と亮が協力関係にあること以 上のことは知っていると。
「ははは、まあ化かしあいはここまでにしておきましょうか。話が前へ進まないことですしね」
男は本当に楽しそうに笑う。
……こいつ、斉藤のことを舐めてんのか。
「ふふ。ぎりぎり合格点といった所でしょうか、【時雨ル玉座】。ただ、私は 偽名を使わないたちでして、旧暦関係者以外にも本名でしか名乗ったことはありません。まあそれをここ で証明することは出来ませんので構いませんが」
哂う。
「あまりに予定調和。あまり私を退屈させないでくださいよ?」
男の余りに毒々しい笑みに、しかし斉藤は眉ひとつ動かさない。
「思っていたよりずっと小悪党くさい男ですね、【情報屋】。証明できないことをわざわざ 持ち出すあたりが、特に」
「これでも【逆説真理(大悪党)】の正逆をやらせて頂いてる身でしてね」
男はやはりひとりで、自分の皮肉に和やかに笑う。
店内でまともなリアクションをしているのはさっきからこの男だけだ。ここまで来ると、もはやその普 通さそのものが異様だった。
「いいでしょう。問いには答えますよ、情報屋として」
男はそう前置きして、
「答えはNo。犯人は残念ながら知りません」
ひどく真面目な顔で言った。
「本当ですか?」
「本当です」
片や射殺さんばかりの顔で、片や和やかな顔で、しかし両者互角に睨みあう。
それから数秒間睨み合いが続く。
「では犯人以外のことは?」
やがて斉藤が先にしかけた。
「犯人以外、と言われましても、これでも情報屋でして。もっと具体的に指して頂かないと分かりかねま すね」
「…………。十二家中、本家が動いている所を教えていただきたい」
「対価は?」
「刀が奪われたのは貴方にも責任があると、さっき自分でもおっしゃってたじゃありませんか」
「なるほど。それを持ち出すんですか」
斉藤は無表情を貫く。
「……本家が動いているのは貴女の家である神無月。つい最近まで文月が活動していたようですが、現在は沈静化。そして、それに反比例する形で弥生が活動を強めているようです」
「御門高校へ潜伏している魔術師は私を含めて何人?」
「答える義理が見当たりませんね」
男はさて、と言うがいなやジェラルミンケースを手に取り席を立った。
「ここいらで打ち止めでしょう。ご健闘をお祈りしていますよ? それでは」
男は唖然としている亮の目の前をどこまでもにこやかに、どこまでも優雅に踵を返した。
亮は焦って斉藤を見た。
そこには、腕を組み不敵に笑う彼女の姿があった。
「私と神崎亮に会うこと」
斉藤の凛とした、よく通る声に男は足を止めた。
「これが今のオリジンにとって、何よりも代え難い最上の情報だったはず」
完全に、硬直する。
「そうでなければ説明がつかない。貴方のようにいつも忙しく動き回る魔術師が、わざわざそちらから連 絡を取ってきて、しかも本職から外れる運び屋紛いの事をするなど他に目的があるとしか思えないわ。何 を嗅ぎ回っているのか、何をしたいのかなんてことは知らないし興味はないけど、」
どこまでもクールに、どこまでも鋭利で、どこまでも凛と張り詰めた、聞き心地の良い声。澄み渡り、 響き渡り、行き届く。論理廻しに終わりを告げる。
「その対価。払ってもらおうじゃない」
男は足を止めたままだ。
「くくっ」
男はこちらへ背を向けたまま、肩を震わせた。
「あっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっ」
長く、一息に男は哂った。
「はーっはははははははははっははははははっはははははははははははははははははは」
不気味な、異常なワラいだった。体中の毛穴という毛穴が全て開いたように感じた。冷たくさえない嫌 な汗が――むしろ生暖かい――背中から溢れ出す。
「ひーっひッひっひっひっひっひっひひひひひいひひひヒヒヒヒひひひひひひひひひひひっひいひ」
もはや男は普通では在り得なかった。明らかな異常、明らかな異物。明らかな敵意。明らかな悪意。明 らかな憎悪。明らか、明らか、明らか、…………、
紛うこと無くこれこそが男の本質。これだけのモノを、隠し持っていたのだ。こんなモノを目の前に、 今まであんなにも無防備に自分は突っ立っていたのだ。
「いーっひひひ、ククくくククククくくくくククくくっくっくっくっクックッくっくっくっくっくっクッ クっ!」
自分のカン違いに気が遠くなった。
自分は今、あの男に生かされていたに過ぎない。
「気に入った、気に入ったよ【時雨ル玉座】。そうだな、潜伏している生徒は2人。君を入れて2人だ。いいか? よく聞け。そして憶えておけ。情報はとても重要だ。『もう1人いるぞ』。そう、魔術師は君らの他に『もう1人』いる。さあ、しっかり憶えろ。解釈を間違えるな。お前 が裏付けだと思っているのは本物か? この偽りばかりで作り代えられた魔術の世界で真実を見つけ出せ 。安心しろ、間違えて死ぬのはお前らだ。誰にも迷惑はかからん」
男は背を向けたまま、一気に捲し立てた。
亮は動かない。動けない。呼吸すらままならない。
「やはり、貴方は犯人を知っているのではありませんか?」
斉藤は変わらず、あんなモノとの会話を続ける。
「さあ、知ってるかもな? しかし知らんかもしれん。それをここで証明することは出来ない。よってこ こでその話をすることは無益だ。貴様が言ったのだぞ、神無月」
「そうでしたね」
「では俺はここいらで失礼しよう」
つかつかと歩き方さえ変わった男は扉へ向かって行った。扉へ手がかかり、鈴が鳴った。
去り際、
「しかし斉藤、ですか。パートナーに偽名を呼ばせるとは、その歳で神無月の二つ名を襲名したとは言え ……はは、【姫】もまだまだ若い」
元の、と表現することすらおこがましい、姿通りの最初の口調、穏やかな笑みで、男は言葉を残して去 っていった。
横で斉藤が奥歯が鳴った気がした。
その顔を確認することは、今の亮には到底無理だった。
※ ※ ※
チーン。
聴きようによっては間抜けにさえ聞こえる音を鳴らして、座禅姿の亮は仏壇へ手を合わせた。
斉藤とは家の前で別れ、今は少し遅めの日課をこなしている最中だった。
黙祷を捧げ、そして目を開く。
「よしっ」
ちょっとした思い付きを実行するべく、亮は立ち上がった。
神崎邸の二階。亮は自室からベランダへ出て、そこへ取り付けられた作業用のハシゴから頭を出した。
……やっぱり。
残りを登り、亮は緩やかな斜面を描く屋根の上へ降り立った。
屋根は黒を少し薄くしたような素材で出来ていた。壁や安全柵のような類はもちろんどこにも無いが、 足場の素材は別段滑りやすいわけでもなさそうだし、斜面も緩やかなので落ちるような間抜けは犯さない だろう。
一歩、二歩。足元を確かめながら歩いてみる。
大丈夫。
亮は歩き出した。
「……はい。…………はい。そうです。どうやら傀儡師が動いているようで。……はい。間違いありませ ん。オリジンの情報です。では明日の朝までに調査をお願いいたします。それでは」
こちらの存在を視界の端で確認したのだろう。斉藤は携帯を切った。
「まさかとは思ってたが、本当にこんな所にいるなんてな」
亮はスウェットのポケットへ手を突っ込みながら近づいた。
斉藤は分かれた時と同じ制服姿で、夜闇に長髪をたなびかせていた。
斉藤はその制服のブレザーの内ポケットへ携帯を仕舞い込んだ。
「こんな所に何の用?」
「おいおいおい、そりゃこっちのセリフだぜ」
亮はそう言って、
「……ほれ」
ポケットから缶コーヒーを一本、下手で投げた。
「冷蔵庫のだから冷たいのしかなかったけどな」
斉藤はそれを、らしくもなく両手で、実に女の子らしく受け取った。
亮は斉藤に背を向け、腰を屋根の上へ下ろした。プルを空け、一口だけ口をつける。
「ん? 遠慮せずに飲めよ。俺が人にもの奢るなんて珍しいんだぜ?」
実際は人にものを奢るなんて場面に出くわした事がないだけではあるが。
さらに一口すする。
横目で見やると、斉藤はポカンと、本当に間抜けな顔をしていた。
「えっと、そのー……うん。あー、あの、その。あ、あり、ありが、とう」
斉藤が顔を真っ赤にして言った。
「……………………」
「……………………」
壮絶な黙り合い。
互いに硬直。
「……………………」
「……ありがとうございま、す?」
や、聞いてどうする。
ぎしぎじと音のする腕を持ち上げて、亮は何も考えられない頭でコーヒーを口に含んだ。飲みこむ。そして、
むせた。
「げほ、げほ、げほっ。かはっ、……ふぅ…………」
その咳き込みに石化を解かれた斉藤は、真っ赤な顔をさらに赤らめる。
「わ、笑わないでよっ! 人にお礼なんて言うの生まれて初めてで、どう言えばいいのかよく分からなか っただけなんだからっ」
なんだか良く分からない言い訳を口走っていた。
それを見ていたら、なんだか無性に可笑しくなってきた。
「くく、」
笑った。
「あは、あははははははは!」
「ちょっと、笑わないでってばっ!」
そうすると斉藤がさらに赤くなる。
それがなんだか楽しくて、初めての感覚で、戸惑ったけどそれ以上に居心地が良くて。
「はははははははははは」
「…………もうっ」
涙が出るくらい、笑い続けた。
腹筋がよじれた。息が苦しくなった。呼吸がつらい。涙が出てくる。
笑いすぎると涙が出てくるなんてことを、亮は生まれて初めて知った。
しばらくすると、笑いはしぼむように収まった。
斉藤も大人しくなっていた。
盗み見ると、顔はまだほんのりと赤かった。
缶に口をつけたが、もう空だった。
沈黙。
夜風が流れ、少しだけ肌寒い。
それでも、もうしばらくはこうしていても良いかもしれない、と亮は思った。
斉藤も特になにも話さない。
時間だけがのろく、しかし光速で過ぎ去っていく。
「さっきな、線香を上げてきたんだ」
斉藤と同じ方角を見詰ながら、亮は静かに言った。
「あそこの道場に仏壇があってな。2年前に死んだじじいのなんだけどよ」
ケツの下に、確かな屋根の存在を感じながら言う。
「俺に剣術を教えたのはそいつでね。これがとんでもねぇエロじじいなんだよ。毎日毎日、あんな老いぼ れなっても変な本読みふけってさ。口も悪りいし、頭も悪い。ただこれが信じられないくらい強くてね 」
見えぬ先、あるいは後ろを見詰て言う。
「一回も勝てなかったよ。アイツが死ぬまでに、一回も。最近、よく考えるんだ。なんでなんだろうって な。技術では大差なかったはずなんだ。弟子が言うのはどうかとは思うが、それでもそう思う。魔術を抜 きにしたって、間違いなくお前の方がじじいより腕前は上だ」
「神崎 刀夜、ね」
「はは、やっぱ知ってんだな」
「貴方の親類だから、ということもあるけど、彼の場合は神崎流剣術の継承者ということで以前から知っ てたわ」
「何? 有名なのか?」
「ええ、神崎流は明治の頃に最も栄えた古い流派だけど、我々の世界にもその亜流を使う者は多数存在す るの。もちろん、正式なのは貴方の家のものだし継承者はもはや貴方だけだけれど」
「残念。俺、免許皆伝じゃないんだ。神崎流はじじいの代で途絶えたさ」
「…………そう」
「だから、さ。勝ちたかったなって。一回くらい、あのクソじじいの鼻を明かしてやりたかった」
「ふふ、意外ね。貴方、おじいちゃん子だったんだ」
「じょーだん」
鼻で笑う。
「誰があんな奴」
「ふーん」
お互い、目も合わさずに話し続ける。
斉藤は立ち続けるし、亮は座り続ける。姿勢をずらすことも無いから視線が合うことも無い。
ただ、同じ方向のみを見詰続ける。
それからも、さらに詮無い会話を続けた。
共通の話題は少なかったが、それでも話し続けるのは苦痛ではなかった。
剣術の鍛錬に関する話。学校の存在意義について。勉強はしているのか。現文が苦手だ。国語は大好き 。貴様は頭が悪い。貴方がおかしいの。食べ物はチーズケーキが好きだろ? ぐ、なぜそれを。首が落っこちそうだったぜ。//////っ。
喋った。
まるで普通の友人のように。
決して友人にはなり得ない二人が。秋の夜空で喋り続けていた。
だが、やがで空気は名残惜しさを香らせつつも、終わりを感じ始めてた。
「へっ、くしゅんっ!」
亮はくしゃみをした。
鼻をこする。
どうやら、体がかなり冷えてしまったらしい。
「どうやら、そろそろお開きね」
「そうだな」
「それじゃあ、また明日」
「ん、あ、ああ。じゃあな、斉藤」
と、立ち上がった瞬間。
斉藤が思い出だした、といか、いつ切り出そうか迷っていて良いキッカケを得た、というか。なんとも 一言では説明しきれない顔をしていた。
「ん? なんだよ」
斉藤は迷って、しかし切り出した。
「……時雨」
「え?」
「名前」
「ああ、まあ知ってるけど」
「違うわよバカ。呼び方! 今後私を呼ぶ時は名前で呼んで」
そこで亮は、オリジンが去っていく寸前の言葉を思い出した。
「魔術師は名を大切にするの。でも私は表向き斉藤だし、神無月じゃなにかと不便でしょ、呼びづらいし 。だから、これからは名前で呼んで」
ようするにこの女は、他の魔術師に馬鹿にされた事を気にしているのだ。
……はは、大人っぽいんだか、子供っぽいんだか。ま、いいけど。
「そうか。じゃあ俺も亮でいいぞ」
斉藤、いや時雨が呆けた顔をする。
「りょ、りょうっ!?」
声は裏返っていた。
「そろそろ貴方ってのだけじゃなくて名前で呼んでくれよな、時雨」
早速使ってみた。
見れば時雨はう〜、と唸りながら再び真っ赤になっていた。
なんなんだ、こいつ。
でも、それを見ているとなんだか笑えてきた。
「はは、今夜は星が綺麗だな」
実際は排気ガスに塗れた東京の空なわけだが。意味も無くそう呟きたかった。
時雨も、同じように空を見上げて微笑んでいた。なんとなく、これで解散のムードだった。
そんな時、時雨の口から小さく音が漏れた。
「ヘクション」
それを聞いた亮は、ひとつの提案を思いついたのだった。
※ ※ ※
……え〜っと、なんでこんな事になっちゃったのかしら?
目の前では神崎亮がテキパキと部屋の説明をしている。
「……ベッドは後で新しいシーツを持ってくるからそれを使ってくれ。テレビは無いが、まあ勘弁してく れよ。それでトイレだけど……」
部屋の中をあっちこっちと指差しながら動き回る。
ここは神崎邸の中。二階にある彼の隣室だ。
客間なのだろう。それでも優に10畳以上ある豪華な造りで、家具は人が宿泊するのに必要最低限だと 思われるものがちらほら設置されている。それでも数少ない家具はどれも高そうな物で、風格漂う見事な 洋室だった。
事の発端は数分前。
「そうだ。俺を守るのが任務なんだろ? だったら中に入れよ。部屋だったら結構空いてるからよ」
強引に連行された。
そして一室あてがわれてしまった今に至る。
時雨は左のこめかみを強く抑えて頭痛をこらえる。
薄く目を閉じて思う。
全く、この男はなんなのか、と。
そして思う。
全く、自分は何をしているのか、と。
任務の対象と必要以上の馴れ合いは魔術師間では是とされない。そもそも感情さえも持たないことを最 上の美徳と考える。それは恋愛感情などもっての他だし、逆に怨みや憎しみなどの負の感情、交友関係な どいたって普通の感情でさえも含む。
それは魔術師と一般人の関係などすぐに終わってしまい、しかも永遠に再会は叶わないから。また、最 悪本家の意向次第では、今日まで守っていた相手を手に掛けなきゃいけない場合だって結構ざらにある話 だからだ。正も負も、感情は必ずヒトの行動を鈍らせる。その感情が強ければ強いほど。
無感情に無感動に、与えられた任務を遂行する。これが最も魔術師では美しい在り方だ。
神無月で時雨は、基本的に実戦闘における殲滅戦の切り札だった。今回のような護衛任務などというの は初体験だ。
それなのに何故時雨なのか、と言えば、オリジンとの約束や神無月の管轄界が神崎隆司の死によって多 少バタついていたこと(他には事の決着には恐らく戦闘が予想されること)など、多数の事が折り重な ってお鉢が回ってきたのだった。
だからと言って、失敗の言い訳にはならない。もう時雨は見習いではないのだ。この作戦に失敗は許さ れない。そんなに安い仕事ではない。必ず、必ず成功させる。させてみせる。
でも、と。
思わずにはいられない。
神無月のニンゲン以外の人間と、これだけの多くの時を過ごしたのはいつ以来かと。
亮は、いつのまにか部屋から居なくなり、部屋にはその体温だけが残っていた。
※ ※ ※
それは抽象的なイメージの塊。負の感情の結集。歪の粋。
認めない……迫り来る影……決して……自分、自己の陰性……認められない……刀/避ける……破綻す る……矛盾を許容できない……認めないぞ……血が出る……"俺"は弱くなんか無い……正しいのは"俺 "だ。
串刺し。切り裂き。繰り返し。
同じこと。何度やっても同じこと。繰り返す繰り返す繰り返す。リピートアゲインヤリナオシ。何度や っても結果は同じ。もう嫌だ。
永遠の一夜をひたすら繰り返す。結末は代えられない。対価が足りない。何かが不足している。
繰り返しては忘れ、やり直しては後悔に沈む。じきにそれも忘れ、再びメビウスの輪は回転を始める。 忘れる。消える。無くなる。でも虚無に帰るわけではない。それらは意識の底に沈殿し、無意識を刺激す る。有意識へ、鎌首をもたげて俺を責めるのを待ち続ける。もう嫌だ。
この苦しみから逃れるには死ぬしかない。
もう嫌だ。
死にたい、死にたい、死にたい。
………………。
…………。
……。
そうして"俺"は、俺を殺害する。
そうして"神崎亮"は、架空の死を認識し続ける。
※ ※ ※
幕間
当主の魔術師は理解し始める。
言われた事が、頭の中でピースとなって嵌っていく。
それ以外が欠落していく。底なしの奈落へ堕ちていく。
感情ってなんだ、楽しいってなんだ、悲しいってなんだ、憎いってなんだ。
魔術は論理だ。武術は盾だ。知識は刃だ。全ては力だ。
笑わぬ子供は破綻を知らない。矛盾を許容する懐は狭まる所を知らない。
※ ※ ※
おぞましい衝撃、あるいは衝動に、亮は掛け布団を跳ね飛ばした。
バサリ、と空虚な手ごたえに布団が絡み、そのままずり落ちて掛け布団はベッドから落ちた。
呼吸は荒い。毛穴が痛い。背筋が冷たい。頭は重い。
また何か見た。また影を見た。また死んだ。
もう嫌だ。
その言葉が脳裏にせり上がり、胃液が喉を焼いて思わず吐いてしまいそうになる。
亮は口元をふさぐ。
飲み込む。言葉ごと、苦みごと、考えごと。全てを否定する。
矛盾などしていない。歪みなど無い。積み重ねは壊れていない。まだ手遅れなんかじゃない。
飲み込み砕いて封をする。
……俺は誰にも負けない。
……俺は誰にも膝を屈しない。
……泣かない。弱音を吐かない。敗北しない。勝って勝って勝って、勝ち続ける。上に立つ。
そうさ、お前は誰だ?
「神崎亮だ、くそったれ」
ベッドを後にする。
立ち上がり、右手を見る。
そこにあるのは時雨のルビー。
手はしっとりと濡れていた。気づかぬうちによほど強く握っていたらしい。
逃げるように、助けを請うように、普通の人間のように。自分以外を頼っていたのだ。
「………………ッ!」
そのルビーを握ったままの右手を壁に。思いっきり、全力で、否定する。叩き付けた。
ガンッ。
壁が拳に震える。手が痛みに震える。空気が力に震える。それでも心は何も無い。動かない。震えない 。
「クッ…………」
激情に任せて窓を力いっぱい開け放つ。破壊音。躊躇わない。右手を窓へ向かって振り切った。ルビー を、投げた。
ルビーは壁を跳ねて亮の足元へ転がっただけだった。
「クソッ…………」
外すような距離ではない。
100%だ。本当に狙ったのなら間違いなく例外なく狂いなく、ルビーは外へ消えた。消せた。消せた のだ。
そのルビーが残った。
足元へ転がった。
拾い、上げた。
ルビーの輝きは昨日よりも曇って見えた。
亮はさっさと制服へ着替え、昨夜の内にそろえた荷物を持つと部屋を出た。
そして、出た先の廊下には、不思議な物体が設置されていた。
「はあ?」
その物体は神無月時雨の形をしていた。肩からあの後持って行った毛布だけを掛け、座禅を組んでいる 。例の袋を左肩へ立てかけ、床には一本の日本刀。(昨日の『時雨』ではない。戦った時に使っていた刀 でも、ないようだ)時雨本人はつい先ごろまで通話していたのか、はたまたメールを打っているのか、澄 ました顔で携帯を操作している。
時雨が顔を上げた。
なんだかすでに仕事モードだった。
「な、なにしてんだお前」
気配に気圧されてたじろぎながら言った。
時雨はこちらをじー、と見詰ている。
「夢は?」
酷く醒めた声で言った。
予測していただけに、この質問には簡潔に答えられた。
「見た。今までに比べるとひどく抽象的だった。お守りの御陰なんだろうけど、なんだか力が弱ってる感じ」
それを聞いた時雨の眼光がさらに厳しくなった。
「そう、了解よ。今日は色々と忙しくなりそうだわ」
携帯を小気味よい音と共に半分に閉じながら言った。
どうやら通話だったらしい。
※ ※ ※
時雨は歩く。
学校鞄を肩に、その逆の肩には『止水』と『時雨』を掛けて。いつも通り、いままで通り、紅葉の道を歩く。
神崎亮も歩いている。
学校鞄を肩に掛け、時雨の斜め前を。振り返ることなく威風堂々と。恐らくいつも通り、恐らく今まで 通り、紅葉の道を歩いている。
2人の歩く速さは同じ。歩幅も変わらない。神崎亮は時雨の斜め前、一歩前を歩いていく。時雨も神埼 亮の斜め後ろ、一歩後ろを歩く。その距離は決して縮まる事も伸びる事もしない。片方が相手を待てば、 片方が相手へ近づけば、共に並ぶことのできる『意思』の距離。その距離は決して変わらない。あるいは 変われない。あるいは変わりたくない。距離。
息苦しく居心地が悪い。
その理由は自分がずっと『魔術師でいるから』だと、時雨は理解しているし、その上で意図してやって いるのだが、それでも居心地が悪い。
本当は、居心地が悪いと感じる時点で魔術師に成りきれていないのだが、こればかりは致し方無い。
朝起きて、神崎亮と顔を合わせてからずっと、朝食の席でもずっとこれだ。朝食は一階で食べた。何度 断っても無視強行で作ってしまうものだから、これも致し方無く。しかし、てっきり雇い人の中に料理を する人間でもいるのかと思っていたが、朝食(ひいては弁当も)は2人分、神崎亮が作っていた。決して アマチュアの域は出ないが、それでも並みの高校生、特に男子の腕前ではなかった。改めてこの男の万能 性を見せ付けられた。
そして通学。会話は無い。
黙々と歩き続ける。
時雨は朝交した数少ない会話を思い出す。
神崎亮はルビーの力が弱っているように感じる、と言った。やはり多少の抑止力にはなっても、論証も 裏付けもなにも無いただの魔術では2日は持たなかったようだ。こうなってはもう抑止力に でさえ、あと1日持つかも怪しい。なにより、神崎亮がルビーの力を疑い始めた時点でもうほとんど効力 はない。この魔術は(たとえそれがハッタリだったとしても)自分以外の力に守られている、という主観 ――思い込み――が必要なのだ。
信じる者は救われる、とはよく言ったものだ。
ただ、現状はこれで十分だとも思う。
本家からの指示は『これ以上経済界を荒らさない事』、『神無月のメンツを守る事』。この二つだけ。 やり方は時雨に一任されている。選択肢だけならそれこそ山のようにあるのだ。神無月として大局を見れ ば、神崎亮の生死など実はどうでもいいのだ。その前に彼の持つ神崎グループの株は、どうにかしなくてはな らないだろうが。
「好きなようにやれ、か」
神崎亮に、ひいては自分自身にも聞こえない小さな小さな声で、時雨は呟いた。
……それが一番難しいよ、お父さん。
こんな娘の姿を見たら、父は何と言うだろうか。怒るだろうか。慰めるだろうか。呆れるだろうか。
いや、たぶん何も言ってくれないのだろう。そういう人だ。
とにかく、
出会って間もない相手のために、家の、神無月の明日を無くすわけにはいかないのは紛れも無い事実だ 。
時雨がそんなことを考えていた時、騒々しい足音と共に後方から1人の女子生徒が2人を追い抜いた。
「オース、神崎!」
亮が振り向こうとした時にはすでに、足音は目の前まで通り過ぎていた。
「……ん、」
楓だった。
立ち止まって、こちらを待つ。足並みをそろえる。並ぶ。時雨の逆側、亮の真横に。
「おろ? いつになくローテンションだな。どうしたよ」
「別に。お前こそどうした、最近妙が朝が慌しいじゃないか」
「なはは。実家の用入りでね。参っちまうよ」
楓は困った風、というよりは引きつったように笑った。
「それより、そいつは? ていうかテンション低いのそこの自縛霊のせい?」
楓は時雨を睨みつける。本当に解り易い奴。楓の方こそ不機嫌がありありと見えている。
時雨も時雨で、今日は挑戦的な視線をガチでぶつけ合っている。
あの目の状態の時雨に一歩も引かなず、見事に亮の辺りで火花を散らしあっている楓もなかなかのやり 手だ。
「あー違う違う。ちょっと考えごとしてただけだ。そう手当たり次第に噛み付くな」
楓の襟首を掴んで睨みあいから引っぺがす。
「こらっ! んなとこ掴むんじゃねぇ」
そうして取り合えず楓と時雨の睨みあいを中断させる。
暴れる楓をいなしながら歩く並木道。
1人増えてはいるが、それでもいつも通りの通学の光景だ。こうしていると、自分が今命のやり取りを しているのを忘れてしまいそうになる。あの夢さえなければ。そう、あの夢さえなければ、この今がずっ と続けばいいとさえ思う。
やがて校門が見えてくる。
だが、変化は強要されている。亮自身、受け入れることも停滞することも許容できない。
だから、今という時間は結果という変化への助走。
学校には恐らく、また脅迫状などの類があるのだろう。
オリジンとかいう男は言っていた。もう1人居ると。だからもう学校は敵のテリトリー。戦場だ。
気合を入れていこう。
「行くぞ、『時雨』」
楓が現れてさらに広がった距離を、協力者という括りで縛りなおす。
時雨を振り返ると、熱湯と氷水の両方を同時に丸呑みしたような、奇妙な顔をしていた。
楓は不機嫌な顔をさらにブサイクにしていた。
……なんだ? こいつら。
※ ※ ※
それから約4時間後。
長い昼休みは終わりに近づいていた。
亮は屋上に居た。初めて時雨と相対した、あの給水塔の前だ。
アスファルトに腰を下ろし、広げた弁当を片付けている。
「ほら、それよこせ」
時雨は給水塔の膝元、段差になっているところに座っている。空になった弁当箱を持ったまま、ぼけっ としていた。
時雨は今朝も昼も、食事を亮が用意することを頑なに拒んだが、それでも強引に席へ座らせた。実際、 メシを作るのに一食分も二食分も労力はさして変わらないのだ。そういうことではない、と時雨は最後ま でうじうじと言っていたが。
亮は時雨から受け取った弁当箱もまとめてふろしきへ包み込んだ。
「さて、今後の話だったな」
「ええ」
そもそも、ここへはそう言って時雨へ連れてこられたのだ。
「まずは、今日貴方にあった関係のありそうなものを話して」
時雨は姿勢を正し、意識をこちらへ向けて言った。
亮はポケットを探り、目的の物を3つ取り出した。
それを下手で時雨へ放り投げる。
時雨は3つを一挙動で受け取る。
小さな金属音が鳴る。時雨は受け取った物に目を向けた。
「……空薬莢」
「だな。どうやら、『そういうブツ』があるのを見せ付けたいらしい。朝来たら机の端に3つ穴が開いてた」
拳銃。しかも奴は学校でそれを堂々とブッ放せるらしい。まあ、外国は知らんが日本の学校なんてセキュリティは甘々だからな。平和ボケで銃なんて持ってるイカれた野郎は想定外も想定外だろう。
時雨はそれを聞いて考え込む。
亮はその空薬莢を見たときにまた気持ち悪くなったのだが、この前ほど酷くはなかったし、話さなくても平気だろう。わざわざ自分の弱さを他人へさらす必要は無い。
時雨がまたこちらを向いた。
「他にもある?」
今時雨に報告するべきは2つあった。だが、どうにももうひとつは言い出しにくい。
意を決し、
「これだ」
胸ポケットからハンカチで包んだ物を取り出す。
「……?」
首をかしげる時雨を視界の端に置き、包みを解いた。
中にあるのは砕かれたルビーだ。
赤々とした光の粒が、ハンカチの上にばら撒かれていた。
4時間目の体育の時間、帰ってきたら机の下に散らばっていた。必死に集めたが、全ては集まりきらなかった。
御守りは、敵にすればやはり邪魔だったということだろう。
これでもう、守りは無い。またあの夢と真正面から付き合わなくてはならない。
「…………すまん」
なにより、こうして謝ることが情けない。
自ら決着させたわけではない。
他人によって己が左右された。
しかも、それを受け入れた次の瞬間だ。受け入れた瞬間奪われた。
情けない。
情けなさすぎる。
「授業中にやられた。うかつだった。本来なら肌身離さず持つべきだった」
時雨はそれを、黙って聞いていた。
無表情で聞いていた。
だが、その無表情が優しい微笑みに見えてしまうのは願望のなせるわざだろうか。
「謝られても困るわ」
時雨は静かに言った。
「それはもう貴方の物。言ったでしょ、あげるって。気にしなくていいわよ」
素っ気無い言葉が耳を優しく撫でて行った。
肩の力が抜けた。
角ばった肩が、斜辺を取り戻した。
長く、本当に長い、ため息を吐き出した。
「うん。そうか」
「ええ、そうよ」
時雨はただ相槌を打つ。
それを見て、亮はもう一度自分自身へ頷いて見せた。
そうして左ポケットへハンカチごとルビーを仕舞い込んだ。
さて、これでこちらの報告は終わった。
「こっちはこれだけだ。そっちは?」
と、時雨の表情が厳しいものになった気がした。いや、実際はずっと無表情なわけだが。
その時雨と視線が合う。
威圧感を伴った、鋭く切れる瞳。極寒の冷たさ、だがそれと気づけば分かるその奥にある熱さ。熱き氷。極寒を保つための灼熱だ。
それを真正面から受け止める。もう一歩も引かない。引けない。敵前逃亡など死罪に値する。もはや思わず、ではない。こいつの瞳はもう知っている。覚悟はある。
睨むように、挑むように、対等で在るように、視線を定める。
瞳の奥に自分が映る。
その顔が、
「今日から貴方の登下校は1人でしてもらう。敵は分かった。私も決心はついた。私は私の成すべきを成す」
歪んだ。
※ ※ ※
……なにしてんだ、俺は。
なるたけ他のミカ高生の集団に紛れるようにして時雨の後を追う。
あれから二つの授業をこなし、ホームルームが終わり、成見を追い越すように隣の教室に駆け込むと、 そこにはすでに時雨の姿は無かった。急いで校門まで駆けていけば、そこには消えかけた時雨の後ろ姿があった。方向は住宅街、駅前方面。昨日と同じ道だった。
とにかく何も考えずにその後を追った。
話しかける話題はなく、そのタイミングもない。
それから尾行するような形になってしまった今に至っている。
時雨とは距離にして200m以上。消えそうな視界の端を保っている。
彼女には半端な尾行は通用しないだろう。方法論も実践も持ち合わせていない亮のつたない尾行では話 にもならないはずだ。だから距離を開ける。人間が気配を察知しきれない所まで。幸い、この先の住宅街 には連続した曲がり道も複雑な道も無い。これだけの距離ならぎりぎり、追いきれないということはない だろう。
そうしてもう、話しかけるには不自然で、尾行を続けるには都合がよすぎる状況へ陥った。
そうやって時雨を追いながら、亮はもう一度自問する。
なにをしているのだ、と。
今更彼女のことを敵のスパイだなどと疑っているわけではない。これでもそれなりに時雨のことは信用 している。だからこれは亮にとってその信用を裏切る行為だ。
だが、それでも亮は尾行を止めることはできない。
それはできない。
彼女が自分を置いていったということはそれなりに理由があるのだとは思う。なにせ、昨日のオリジン との会合では他の魔術師と自分が出会うことよりも自分を常に護衛することを優先させた。オリジンには こちらへ手を出さないというなにかしらの確信があったのだろうし、逆に言えば今日はなにかしらの危険 がある可能性が高い。
だが、それでも止められない。
危険があるのならなおのこと。その事実を把握していたい。そのことを知っていたい。そしてもし時雨 に危険が迫るのなら助けたい。守りたい。他でもない、この自分が。ただ守られるだけなんて、自分が負けているようで、他の誰かに劣っていることを認めているようで、それがどうにも居心地が悪い。自分が知らない所で自分に関する決 定的な何かが決まってしまうのが恐ろしい。迫られた結果に、自分の意思が介入していないことがこの世 にあるのかと思うと怖気が走る。もう、あんな思いはしたくない。
だから追う。
だから当事者を望む。
だから物語の主人公であることに固執する。
だから全てを捨て(ひろっ)てきた。
素質はあった。故にそれはそれほど難しいことでは無かった。ただ妥協しないこと。弱音を吐かないこ と。敗北を認めないこと。それだけを身に刻んで、傷つけ、焼き付け走り続けてきた。そのために楽し み、喜び、慈しみ、人との馴れ合い、他にもこの両手を少しでも埋めてしまうものを拒絶し続けてきた。余計なものを手にする隙間はなかった。全てを選ぶためには全てを捨てる必要があった。だが、言ってしまえばただそれだけのことだ。決しては難しくは、なかった。
後をつける。
神崎亮は強い。誰にも負けることはない。時雨にだって魔術がなければ、あの突然の加速がなければ勝 てた。あれは負けではない。魔術なんて違法だ。だから負けてなどいない。魔術なんて普通では ありえない。そんな例外は負けとは認めない。魔術なんてない。負けじゃない。違う。認めない、認めな い、認めない。
守られているだけなんて認めない。
そんなのは神崎亮ではない。
尾行する。
魔術師の後を、追い続ける。
追尾者と魔術師はやがて住宅街を抜ける。
駅前へ差し掛かった。
人が増え紛れる対象が増えたのに対し、もうここで見失えば発見は不可能だ。
亮は距離をぐっと詰め、なるたけ真後ろを選んで道を進む。
道の端から端へと挙動不審に動けば、きっとすぐにバレてしまう。ならばむしろ堂々と、距離を測りつ つ対象を、時雨を見詰る。
駅前をどんどん進んでいる。
昨日の裏道への入り口を素通りする。
『神崎(駅と、ひいてはこの地域名だ)』駅も通り過ぎる。
2つ3つ道を折れて、ビル街を抜ける。
あたりは住宅街というほどではないにしろ、マンションなどが増えてきた。
時雨の足取りは確かだ。
しかし一方で、亮にとってはこれ以上先に進まれるとさすがに土地勘がなくなってくる。
人が減ったからといって、先ほどのように長い距離を取る事はできない。
また道を曲がる。
時雨が気づいたような素振りを見せた風はない。
だが、それなのに迷いない足取りも追跡者を手繰り寄せているようにも感じてしまう。それはやましい気持ちからくる疑心暗鬼なのか、あるいは引き際なのか。亮には計りかねる。
それと同時に、ここで引く事も考慮している自分に少し驚く。だからもう一度自分に言い聞かす。
引く事はできない、と。
オフィスビルやマンションの隙間からは、白く濁った雲が沈殿しているのが見える。
その方向へ向かい、歩いていく。
道の右手には階数20を越える豪華なマンションがある。その前、そこには公園があった。
広く、しかし遊具などが極端に少ない公園だった。小学生などがサッカーや野球をしていそうな、球技に向いた公園だ。周囲を胸程度の高さの塀で囲んでいて、出入り口は端と端、それと中央辺りにと3つ。内側には膝下くらいしかない柵と等間隔に植えられた木、それらが堀と並んで公園を囲っていた。その他にもそこかしこに手入れのされた茂みが目立つ。緑の多い公園だった。
時雨はその公園へ、入っていった。
亮はそれを確認しながら、一瞬そこへ立ち尽くした。
安易に公園へ入ればバレてしまう。しかしここで迷っていては見失う。
葛藤は激しかったが、決着は一瞬でついた。
亮は塀を静かに、低く飛び越え暗緑色の誘いに乗った。
そして、
その先で見たものは、公園のど真ん中で突っ立つ時雨の後姿だった。
心臓が軋んだ。
まずい、と叫び声をあげた。
身動きは取れない。茂みの裏で、時雨に見えないよう小さくなって、そして固まった。まさに金縛りだ。呼吸すらもままならない。
ヒュウ、と。正常でない呼吸音が耳に届いた。
「出てきなさい」
時雨がよく通る声で、静かに、しかし厳しく言った。
亮はさらに身を固くする。
まだだ、まだ完全にバレたと決まったわけじゃない。カマをかけているのかもしれない。ここで根負けしては駄目だ。シラを切り通せ。
通すんだ。
通せ……、
「私は貴方と、こんな事を許容するほどするほど、馴れ合ったつもりはないわ」
ゆっくりとした、鋭い拒絶の言葉。それは本来、亮の持ち物だ。
その凶器はその鋭さと遅さを持って、亮の胸に突き刺ささる。
思ってたよりずっと――いや想像なんて遥かに越えて。想像したことなんてなかった。――痛みは強かった。
だが、譲ることが出来なかったとはいえ、悪いのは一方的に間違いなく絶望的なまでに論理を挟む余地すらなく、亮の方だった。
譲れないのは自分の事情。
裏切ったのは自分の判断。
流されたのは自分の甘さ。
どれも言い訳の材料にすらならない。
そのことが更に惨めで、勝手に自分のライフを削り込む。
「…………すまん」
亮は大人しくその場で立ち上がり、公園の出口へすごすごと歩いていった。
体が動き出したのに呼吸はまだ苦しくて。馬鹿なことをした自分が余りに悔しくて。下唇に深く歯を突き刺した。
鉄の味はむしろ望んで味わった。
帰り道で独り、亮は自分の『失敗』を認めた。
※ ※ ※
「さて、邪魔者は帰したわよ。貴女もさっさと出てきたらどう?」
神崎亮が帰るのを見届けてから数分後。時雨は無人の公園でひとり、中央に陣取って腕を組んだ。
「あちゃー、バレてたか。あははははは、やっぱヤルヤル。あたしの尾行術は結構定評があるんだけどね。やっぱあんたは生粋の戦士だよ、【時雨ル玉座】」
だから潜入捜査とかは向かないんじゃない? と声は言った。
時雨が声を追って視線を上げれば、正面の木の、一番低い枝に腰掛ける小泉楓の姿があった。
「いつからだ? 【時雨ル玉座】。あたしに気づいたのはさ」
「始めからよ、弥生。貴女も神崎亮も、私の後ろについた瞬間気が付いたわ」
「違う違う。あたしが魔術師だって気が付いた時期」
「……わざわざ親切に教えると思う?」
「んーん。まあクセみたいなもんだしな。気にすんな。……よっと」
小泉楓は両手で枝を押しやって、木から飛び降りる。膝をクッションにして見事な着地を決めると、時雨へ近寄ってきた。
小泉楓はそのまま話をするには近すぎる距離までやってくる。目と鼻の先、ゼロ距離。顔と顔を近づけてくる。チンピラがやる様に、ガンをつけてくる。
時雨は動かない。腕を組んだまま直立不動を守る。
小泉楓は時雨のあごを指先で撫でながら、艶かしくとろけるように微笑する。
「うちのダーリンにちょっかいかけてるようだけど、あんまり勝手な事すんなよ? ん?」
「勝手なことをしているのはそっちでしょう。神崎亮への過干渉は明らかに管轄界侵犯だ」
「言いがかりだな。あたしが手を出しているのは神崎個人であって『経済界』じゃない。そんなものに興味はないんだ。そんなことより、『学校』は我々の管轄だ。むしろここで責められるべきはあんたであってこそあたしではありえない。【天の声】のおっさんが許可してっから仕方なくちょろちょろしてんのを見逃してやってんだぜ?」
「………………」
時雨はそれらの言葉を無言で返す。
2人はそれからしばらく至近距離で睨みあう。片や毒々しく。片や寒々しく。
やがて、
「まあいい。いつまでこうしていても埒が明かないからな」
そう言って小泉楓は時雨から離れた。
一般的な距離まで離れた。
そうして時雨へ向かう。相対する。
口元を手の平で隠し、その奥に微笑を絶やさず、言った。
「で? 聞こうじゃんか。名乗る名も無き魔術師風情に、恐れ多くも【時雨ル玉座】様が何用だい?」
時雨は一拍の間を持って、少しだけ表情を変化させた。
そして、
「取引がある」
………………。
…………。
……。