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神無月の姫  作者: ガルド
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第一章




 第一章






 ※ ※ ※




 そうして、神崎かんざき りょうはその日、最初の影の夢を見た。



 親父が死んだ。

 三財界の一柱、神崎グループなどという、とんでもないものを残して。それは、いつかは継ぐはずだった。そう教育されてきた。覚悟もしていた。だが、親父の死は余りにも唐突だった。なにせ親父はまだ50にもなっていなかった。親父との関係はお世辞にも良かったとは言えなかったが、それでも俺は親父の才能を認めていたし、俺自身、まだまだ学ばなくてはならないと感じていた。

 なのに、死んでしまった。ベッドの中、ある朝唐突に、心臓発作で。俺一人を残して。

 式は父方の伯父である慎吾さんが取り仕切ってくれている。

 やはり三財界のトップの葬式となると、盛大だ。見ず知らずの人間や、テレビなどで誰でも一度見たことのある様な人物など、さまざまな人が出席している。

 三財界のもう二柱のトップ、近藤こんどう たけるさかい しずかも、今回ばかりは表面上は沈痛な面持ちで参列している。

 だが、誰一人として泣いている人物は見当たらない。それは実の息子である自分にした所で同じこと。これは、そういった儀式だった。恐らく、ここに出席している全ての人間の共通認識と共通の価値観の上になりたっている。

 彼らに興味があるのは神崎かんざき 隆司りゅうじなどというコジンなどではなく、彼の遺した神崎グループなのだ。

 跡取りとなるはずだった俺はまだ高校生という身。では誰が神崎グループを継ぐのか。誰に付けば自分が得をするのか。どこを叩けばいいのか。会場にはそんな思惑しかない。まあ、俺自身、そんなことは百も承知だし、別に悲しいわけではない。

 だが俺は神崎隆司のたったひとりの一親等だった。

 そして、神崎隆司は神崎グループの大株主だった。全体の27%もの会社の株。

 相続先は、俺だけ。高校生の、俺だけだ。もちろん手放すつもりは無い。

 他の株主や、次の経営陣にとっては、間違いなく目の上のたんこぶ。もともと、そういった内部関係はこじれにこじれている会社だった。それでも、親父の指揮で混乱せずにやりくりしてきていた。

 これからひと波乱もふた波乱もあるのは間違い無い。

 耳には坊さんの声が響く。

 親族席に座る尻が痛む。

 軽いめまいを覚えて浅く目を閉じる。

 ……認めない。


 ――乖離かいりする意識。


 こめかみを押さえる。

 ……認めない。


 ――乖離する体。


 視界を開く。

 ……認めないっ!


 ――浮遊する視界。


 それは、自己を撮影したビデオを見てるような、

 ……"俺"が席を立った。

 何が起こった?

 ……"俺"が振り向く。

 アレだけ居た人が誰も居ない。

 ……"俺"が右手を水平に振るった。

 そいつの右手には、銀色に鈍く唇を吊り上げる一本の日本刀。

 ……"俺"が一歩こちらへ踏み出した。

 ビデオが急速にアングルを後退させる。それに合わせて背景もブラックアウト。

 ……"俺"が駆けてくる。

 迫り来る死と影。振るわれる銀光、それは、

 ……"俺"の太刀筋。流水の陣。

 日本刀が俺の胴体を捕らえる。水平に振るう、疾走から繰る初断ちの一刀。防御法は知っている。だが体は動かない。


 こうして、"俺(影)"は俺を殺害した。


 そうして、俺は架空の死を認識し続ける。






 ※ ※ ※




 幕間


 『それ』は旧暦十二家のある当主の子として生を受けた。

 『それ』は本人の自由意志など無く、生まれた時にはすでに魔術師となることが決まっていた。

 当主は意気込んでいた。自らの子を、当代最高の魔術師にすると。それは憑かれたように、あるいは病的に、ある時は呪いのごとく、当主はその魔術を実行した。






 ※ ※ ※



 葬式から約半年が過ぎた。


「またか」

 時は八時、暦は十月、季節は秋。

 紅葉の並木道を、珍しくひとりで登校してきた神崎亮は、ため息と共に下駄箱の戸を閉めた。

 ため息の原因は下駄箱の中の封筒だ。

 上履きをすのこの上へほっぽり投げて、革靴を脱ぐ。

 その時落ちた視線で、亮はそのまま封筒を忌々しげに睨みつけた。どう考えても、どうまかり間違っても、ラブレターなどという色っぽいものではない。それはここ数週間で理解した。

 亮は脱いだ外履きを拾い上げ、今度はそいつを下駄箱へ押し込む。

 ……見ないって選択肢は、ないな。

 だいたい、それじゃあ逃げてるみたいじゃないか。

 だったらさっさと開けちまおう、と、亮はその場で封筒の封を切る。

 中から出てきたのはお馴染みのA4紙。そこには新聞の見出し文字を切り取って作られた文面があった。いや、文面というよりは単語の羅列。そして悪意の塊だ。

 数える気にもならないほどの『死ね』の文字。しかし、よく見ると同じ『死ね』という単語の中に、所々『死ぬ』だとか『死にたい』だとか『死す』だとか、少しだけ違った言葉が紛れ込んでいる。そこだけ手を抜いたわけではあるまい。いや、こんな事をすればむしろ手間がかかるはずだ。何が目的なのか、さっぱり分からない。

 それが、逆に気持ち悪い。

 頭が貧血を起こしたようにボウ、となる。

 と、そんな頭に軽い振動。

 どうやら肩を叩かれたらしいと、一瞬遅れて理解する。

 亮が振り返えるとそこには、

 そこには、見知らぬ女子がいた。

 背丈は亮の頭ひとつ低いくらい。もとより亮の身長は百八十を越える長身の身なので、この少女も女子としてはかなり高い。顔は人形のように整っており、髪は吸い込まれそうな漆黒。髪はかなり長く、彼女の腰まで届いている。彼女はその髪をてきとうな感じにうなじの辺りでひとまとめにしていた。そして、両側のもみあげからあご下まで垂れ下がる、まとめ逃した髪が逆に髪型としてのバランスを整えている。瞳には意志の強そうな、しかし凍えるような光を宿していた。全体として凛とした雰囲気を持つ彼女は、亮としては珍しく第一印象で良い印象を抱いた。抜身の鋭さ。話しかけておきながら、亮に対しての関心の低さを隠そうともしない瞳。また、女性の繊細さを残しながらも、見るものが見ればすぐにそうと判る鍛え抜かれた肢体。それが、彼女の姿だった。

 だが、亮の気をもっとも引いたのは容姿ではなく持ち物だった。右肩に紐でひっかけて背負っている竹刀袋のようなもの。多少の心得があるから分かるが、竹刀袋にしてはごつ過ぎる。また、中には双振りの得物が入っているような構造にも見えた。いや、それ以前に、竹刀だろうと、それ以外のものだろうと、この時間にそんなものを背負っているのは明らかに不自然。彼女があまりに平然としているせいで気づくのが遅れたが、部活で使う竹刀かなにかなら普通部室に置いとくだろうし、それ以外の用途があるのなら、その長さのブツはすこし物騒だ。ざっと見た感じ、竹刀にしては服への食い込みが少々大きすぎる気がする、というのは手紙のせいで神経過敏になっているからなのか、違うのか。

「神崎亮。放課後、屋上の給水塔で待ってるわ」

 見た目どおりの澄んだ、耳通りの良い声。だが、それでもなお隠しきれないほどの鋭さを伴った声だった。

 その声に気圧されてしまっていたからだろう。彼女の言った内容に理解が遅れた。

「え? いや、ちょ、君……」

 遅れていた間に、彼女はどこかへ行ってしまっていた。

 放課後に人のいないところへ呼び出される。こちらも、シチュエーションとしてはなんとも色っぽいものだが、

 ……告白、ではないな、これも。

 人付き合いが得意でないといっても、それくらいの空気を読み取ることはできる。

 苦笑をひとつ、誰でもなく漏らす。

 ふう、と亮はため息をひとつ吐き、上履きへ足をつっこんだ。

 亮が片手で前髪をかき上げてどうしたもんかと考えこんだ。その時、

「おい、神崎。そろそろホームルーム始まるぞー」

 流行の洋服に身を包んだ、私立御門高校の我らが頼れるアニキこと成見なるみ 影司えいじがさっそうと目の前を過ぎ去っていた。ちなみに亮のクラス担任である。

 亮の耳にホームルームの開始を告げるチャイムが、まるで狙いすましたようなタイミングで届いた。






 ※ ※ ※




 私立御門高校は生徒数を千を超えるほど抱えるマンモス校だ。制服は男女共に紺のブレザーに、学年別カラーのネクタイ(亮の学年は青だ)。男子は灰色の長ズボンで、女子はチェック柄のプリーツスカートだ。有名なデザイナーに依頼したとかで、この高校の人気の一因となっているとかいないとか。

 六年前に新設されたばかりの学校で、成績がそこそこでも入れる『来る者拒まず』がモットーとも言えるような『入りやすい学校』であることで有名だ。だが、同時に外国の大学のように『出ずらい学校』でもある。教師はシビアで内容もコース別には分かれてはいるが、始まりが違うだけで結局行き付く先は超進学校と大差なく、しかも教師陣、というか経営陣には生徒の切捨てに躊躇がない。校則自体は信じられないくらい緩いが、数少ない校則を破る者や問題を起こした者は容赦なく退学。学期末に成績に1が付く人間は容赦なく留年。この御門高校は、辞めていく者が多い事でも有名だった。

 その学校の二年Bクラスで、神崎亮は、現在四時間目の終了した後の席でひとり考え込んでいた。亮の前には少し前の授業で使われていた現代文のワークが展開されている。

 ここにひとつ、御門高校の七不思議が存在する。天才で名の通った神崎亮は、なぜかテストの成績優秀者の番付に乗った事がない。

 その答えがここにある。

 神崎亮は国語、特に現代文が壊滅的にできない。なんと二十点台と三十点台を右往左往するくらいにできないのだ。……他の教科は九十以下を取った事がないというほどに出来るにもかかわらず。

 亮はひとり、頭を抱え続ける。板書したノートを見、ワークを見て、教科書を凝視して、さらに考えて。やっとの事で、しかし不承不承ワークの解答欄へ答えを書きこんだ。それで、取り敢えずは納得したのだろう。亮は勉強道具類をかたずけ、弁当を広げた。ちなみに自作であるが、誰にも言った事はない。

 そこへ、男子三人組がやってきて、弁当や購買のパンを片手に亮のことを取り囲んだ。



「だからさ、その人がその時どう思ったかなんてことが、何で解かるんだよ」

 小学生の給食時の隊形のように、四つの席を四角にして昼食をとる高校生が四人。その左底辺の座席に座る亮は、目の前の席でカレーパンをかじっているメガネマンこと鈴木に言った。

 鈴木はメガネを軽くかけ直し、あはは、と笑う。それが全然嫌味に見えないのが、この男の素晴らしいところだと亮は思う。他の人間がやれば、ほぼ間違いなく嫌味な行動に見えるだろう。実際、彼は頭が良い。

「神崎はそんなんだから国語関係で点が取れないんだよ。国語なんて、理屈じゃなくて方式でやっちゃえば簡単なのに」

 そういうのは得意だろ? と、鈴木。

 それができれば苦労はしない。亮は諦めのため息を漏らした。

 鈴木はまた、あはは、と笑う。

「なっ! 国語を理屈じゃなくて方式で、ってどういうことだっ?」

 そこで斜め前の席から、田村がコロッケパンを口にくわえながら器用に疑問を挟む。

 疑問は鈴木に投げかけられたものだったが、言っていることを理解はしていることを示すため、亮は自ら説明を買って出る。

「国語系の問題は感情を問う問題が多いだろ。でも本当の意味でその時その人が何を思っているかなんて解らない。でも、そんなことを考えるより、こういうことを聞かれたら、こういうことを答えるっていう公式的に憶えた方が早いって話」

 亮は自分なりに短くまとめて説明した。

 鈴木は、やっぱり笑顔でうんうん頷いている。

 だが、当の田村はさっぱり解っていなかった。

「つまり?」

 しかし、あの説明で「つまり?」と促されても困る。亮がなんと答えるか迷っていると、

「つまり、たっくんがバカ、てこと」

 田村の前、亮の右横で、女の子みたいなこじんまりとした弁当をつついている佐藤が、静か〜に答えた。

 亮は、佐藤の相変わらずさに首を勢いよく落とした。

 ……なんだか、落ち着かないんだよなぁ。

 この三人には、たまにこうやって昼休みに一緒の食事に誘われている。断る理由も無いので、誘われるたびに亮にはこのような昼休みが訪れているのだった。

 そして、言われた田村に気にした様子は全く無い。

「え〜っ? お前は解るのかよっ?」

 それに佐藤がぼそっ、と。

「もち」

 …………。

 言い方が言い方だけに、無表情が非常に気になる。

「と、ところでなんだけどさ、朝ちょっと、知らない女子に話しかけられたんだけど。知ってるか? 髪が長くてさ、腰まであって。んで長身。170越えてんだ。あと特徴って言えば、そう、肩から竹刀袋なんかかけてたんだが」

 とりあえず、なんとなく話題を逸らしてみた。別に答えを期待したわけじゃなかったが、佐藤は学年全体の女子に精通してるっ、とかなんとかの噂を(発信元は田村なので真偽は疑わしいものだが)聞いたことがあったので、ついでとばかりに。

「あ、そいつはあれだっ。Aクラスに転校してきた斉藤さいとう 時雨しぐれだぜっ! なぁ?」

 だが、答えたのは田村だった。

「そう、だね」

 その脇で佐藤も相槌を打つ。

 さらに、鈴木も頷く。周知の事だったらしい。ご丁寧に補足も加える。

「竹刀袋を肩にかけてたのなら、時雨って子で間違いはないよ。有名だから、その子」

「そうなのか?」

「ああ。彼女、かなりの美人だろ? それでいて学校にいる間じゅう、片時もあの袋を手放さないから……」

 鈴木はそこでパック牛乳のストローをズズズズズー、と。

「変人」佐藤がそれを引き継ぎ、「転校初日からなっ、超有名だぜっ?」田村が仕上げた。

 ……どうでもいいが、この凸凹トリプルはよく気が合うよなぁ。

 亮は箸で玉子焼きをつまみ、口へ放り込む。飲み込み、

「ふ〜ん、知らなかった」

 それだけ言って、再び食事を開始した。

「でもさ、あんな有名人を知らないなんて神崎も相変わらずというか、ホント他人に関心がないよな」

 鈴木が言った。

 ドキリとした。何故か、自分の姿をした影が頭をよぎった。

「そんな、ことは、」

 亮は、ごほごほとセキをする。

「いやっ! 絶対そうだぜっ! だってオメェ、友達いねぇだろっ!」

 パンで人のことを指差しながら、田村は失礼なこと吐いた。

「性格も悪くなくて、他人を否定しない。成績も良くて、運動もできる。顔も、良い。なのに、友達はいない。だからきっと、亮クンは他人に関心そのものがない」

 佐藤が上目遣いに追い討ちをかける。

 ……だから、だから嫌なんだ。

「友達が、いないなんていうのは、ほら、ちょっと言いすぎだろ? 今だってお前らとメシ食ってるじゃん」

 感情を押し殺して言う。胸なんて、痛くない。

 こんなのは、これまで通り。今更、そう、今更だ。そう生きてきたはずだ。今まではなんともなっかったじゃないか。だから、これは幻想。

 メガネはやっぱり笑う。あはは、と。いつだったかの鈴木の言葉が甦る。「神崎はさ、きっと否定も、拒否も、受け入れも、しないんだと思うよ」

 口の中の食べもの。味がしない。

 キモチガワルイ。

 確かに、誘われる一方で自分からこいつらを誘ったことはないけど……、ないけど、それは……


 突然、眼球の奥でストロボが発光した。


 遅れて頭部に軽い痛み。

「にしし〜、何してんだー? 神崎ぃ」

 亮が振り返ると、そこにはクラスメイトの小泉こいずみ かえでがガッツポーズで二の腕をさすって不敵に笑っていた。どうやら亮は、こいつにラリアットをかまされたらしい。

「〜〜っ。なにしてんだ小泉」

 今度は頭をはたかれた。

「はい、ペナルティー。あたしのことは名前で呼べって、いつも言ってるだろ」

 小泉――楓は肩へギリギリ届かない、スポーティなショートカットを後頭部からサラッとかき流し、腕を組んだ。勝気な瞳がご満悦に大笑いしていた。

「で? 何の話? あたしも混ぜろよ〜」

 楓はあっというまに椅子を持ってきて――ちゃっかり用意していたのだろう――、亮の隣にポジションを取った。椅子の前後ろが逆で、楓は背もたれにだらっと寄りかかっている。

「んあ、斉藤時雨っていう転校生の話。朝、なんか話しかけられてさ」

 それを聞いた楓の顔が、一瞬厳しくなった。そして舌打ち。

「神崎、あの女はやめとけ」

「いや、そういう話じゃなくて……」

 再び見たときには、楓の顔には嫌悪の色があった。

 しかし、それもまた一瞬のこと。次の瞬間からは意地悪半分の、楓お得意の笑顔だった。

「だろ〜? あんな女、眼中にねぇよな。だからさぁ」楓はそう言って、

「あたしにしとけっ!」

 抱きついてきた。

 公衆の面前で。

 律儀にはやし立ててくる数名のクラスメート。いつものことなんだし、そろそろなれてもいいだろうに。

 亮は肩に楓の手を引っ掛けたまま、大きくため息をついた。

 周りの三人が、いつの間にか、なんだか温かい目をして食事を再開していた。






 ※ ※ ※




 亮は屋上の鉄扉を開いた。手入れが行き届いているらしく、簡単に開く。

 この学校の、主に普通教室をつめこんだ第一校舎の屋上。そこはバスケットコートのある左翼と、食事を取る事ができるようにテラスやベンチ、自動販売機の置いてある右翼、それを繋いでいる部分でコの字型をとっている。給水塔はバスケットコートの奥だ。

 屋上は放課後ということもあって、やはり人気はない。呼び出したはずの斉藤時雨の姿さえも、無い。

 亮はゆっくりと歩いていく。

 バスケットコートを横切り、給水塔の前までたどり着く。

 やはり斉藤の姿はない。

 ただ、二メートルという少し高めのフェンスに、不自然に木刀が立てかけてあるだけだ。

 恐らく、斉藤が立てかけたのだろう。意図が全く読めない。

 取り合えず木刀を手にとってみた。

 瞬間、

 亮はフェンス越しの給水塔から二メートルを超えて切り掛って来る、斉藤時雨の姿を認めた。


 混乱するよりも早く、身の危険が亮を冷静にさせた。

 切り掛って来る斉藤の得物は反りの無い日本刀。しかし、こちらに向かうのは刃ではなく峯だ。あの袋の中身なのだろう。

 そしてこちら得物は木刀。奴がなにを考えているのかは知らないが、

 ……十分だ。

 亮は木刀を片手、右に持ち替えて、一歩、右足を引く。

 身を沈ませ、腰を溜めて回転の力を作りだす。

 なにを気取っているのかは知らないが、相手は上段から飛び跳ねて切り掛って来る様な馬鹿。ならば、

 ……清空の型。

 左足の爪先を外へスライド。脇を閉め、木刀を下から上へ。大振りで振り上げる。狙いは振り下ろされる日本刀の、表面を滑らせる受け流し。

 受ける。

 そのまま大振りの慣性を使い、左足を回転軸に右半身を一回転。体に染み込ませた一連の動作。

 敵は今だ空中。振り下ろした刀を受け流され、体勢が崩れている。

 ……天峰の陣。

 その回転を、直線の力へ変換。たとえ峯だとしても、日本刀を持ち出すような輩に容赦は無用だ。喉元一線。

 奔る切先。

 空を切り裂き、空間を縮める。突く。

 迫りきる圧力。刹那、

「はっ」

 少女は、宙で日本刀を薙いだ。

 点でしか捉えることのできない剣先と、峯の火の出るような接触。

 弾かれる。

 さらに少女は宙で一回転し、後退する。

 足を地へ。慣性に引きずられて距離を取った。


 距離が取れ、少しの余裕ができると亮は今更のように戦慄した。


 二メートルを越える跳躍に始まり、空中での行動、異常動体視力と、たった数秒間の打ち合いで超人じみたことをを三つもしてのけた。

 それは、人が、人であらざらるものに抱く、生理的な恐怖、とでも言えばいいのか。

 敵は日本刀を横に一振り。それは奇しくも夢の中の影にそっくりで。

 少女は日本刀を両手に持ち替え。思わず、

「いざ」

 斉藤はこちらへと駆け出した。本気で『消してしまいたい』、と思ってしまった。



 敵までの距離、約五メートル。接触までは一秒未満。なかなか速い。

 ……静の構え。

 まずは、敵の剣筋を見る。右の木刀をだらりと下げ、無造作な構えを取る。力を抜き、どの動きにも対応できるように。

 敵は両手で握った日本刀を右脇へ。

 刹那。

 接触。

 敵は右脇から日本刀を水平に。亮はあまりの軌道の読みやすい太刀筋にあきれつつ左へ軽くサイドステップ。

 世界がスローモーションに映る。紙一重でかわした剣先が制服をかする。

 亮は反撃のため、下段へ構えた木刀へ力を込める。

 ……隆の、

 亮は勝利を確信した瞬間だった。が、

 敵は地から足を離していた。野球のスイングでもするかのような大振り。その振りの勢いで、宙で回転していた。

 足が地へ。ブレーキが踏まれる。今度は左脇へ刀が構えられている。隙を見せたと思っていた敵は、すでに次弾の転送を済ませていた。

 まずい、と思考する暇さえも無かった。

 敵はともすれば滅茶苦茶とさえ言える、とんでもない大振りで刀を薙いだ。

 危機は光の速さで脳を貫き、反応などしている間はなく、体は思考よりも早く。

 受身も取らず、取る暇も無く、『陣』を解体してうつ伏せに地面へ倒れこんだ。

 頭上を風圧が通過。

 屋上の床へ右肩をぶつける。

 走る痛覚。

 まだだっ。

 ぶつけた反動でまた体が少しだけ浮く。痛む腕を無視してそのまま流れるように前転する。

 起き上がりざま、亮は出鱈目に木刀を振るった。

 神崎流剣術の『陣』にも『型』にも無い動き。苦し紛れの一刀。じいさんが見たらさぞ嘆くだろう。亮は頭の片隅で、師匠たる自分の祖父のことを思い出していた。とたん、頭に冷水がぶっかかったような錯覚に襲われた。

 出鱈目で苦し紛れだったが、それでも射程にあった敵はその攻撃を右手一本での見事な側転でかわしていた。

 ……流水の陣。

 一瞬で距離を詰める。走りながら振るった。左から右へ水平に一閃。

 敵は苦い顔でバックステップをとり、同時に峯をこちらの剣筋に合わせて軌道を逸らす、受け流す。

 ……傾谷の陣。

 次にどうすべきかが頭へ流れ込んでくる。流された木刀を今度は柄を先行させ、両手で持って左上段めがけて切り上げる。そのまま流れに身を任せて飛び跳ねた。

 距離を詰めたことによって左右後方全て、もう敵には逃げる進路は無い。敵は再び剣撃を受け流した。するしかなかった。亮の思うとおりに。

 ……旋空の陣。

 亮は宙で反転。木刀を左へ持ち替え振り下ろした。敵の下段へと叩き込む。

 亮は今度こそ勝利を確信した。そして何より、これで決まらなければ亮の負けだった。亮はまだ、旋空の陣から繋げる『形』を持っていない、これはいわば未完成の技だった。

 それでも、なんとか攻撃だけは防いだのはさすがとしか言いようがない。甲高い音を立てて、敵の日本刀が吹き飛んだ。今までの受け流しとは違い、正面からの激突だった。敵は地面に仰向けで転がっていた。

 長い髪が、うなじのあたりから地面に散らばっている。

 スカートの下から、見せパンが見えた。別に覗いたわけではない。

 そこで、敵が女であったことを思い出した。

 が、だからといってこちらの対応が変わるわけではない。

 仰向けに倒れている敵の喉もとめがけて、木刀の切っ先を突きつけて聞く。

「で、俺に何の用だ。斉藤時雨」

「へぇ、私の名前知ってたの。ちょっと意外だわ」

 亮は黙る。質問に答えろ、と睨みつける。

 斉藤は日本刀で切り掛ったことなど大したことでもないように、事も何気に答えた。

「貴方の力量を知りたくてね、少々手荒くなったのは謝るわ。貴方の力量を甘く見ていたことも」

 さっきのなんて神無月の魔術に届きかけてるじゃない、なんてワケノワカラナイ独り言まで付け加えられた。

「だから、私も少しだけ本気を見せるわ。これが、我々の『魔術』よ」

 斉藤が視界から消え去った。



 すごい、と時雨は思った。

 神埼亮の戦闘能力は予想された値を遥かに上回っていた。

 今も、すでに時雨の戦闘スタイル――円運動を主軸とした、無駄が多く、しかし隙の少ない、一対複数戦を想定、特化した太刀筋――を見抜き、距離を詰めてきている。

 対多人数戦特化、とは言っても時雨は神無月の魔術師だ。本来は二刀流である時雨だが、愛刀の片割れを封じて挑んだとはいえ、まさか一般人に後れを取るとは思ってもみなかった。そう、思ってもみなかった朗報だ。

 神崎が跳んだ。

 体をひねり、木刀が下段へ振り払われる。

 防御が間に合わない。

 脳の『枷』を一瞬だけ外した。

 一瞬の後、止水は弾き飛ばされていた。

 時雨の体もコンクリートの地面へ投げ出される。

 受身も間に合わず、背中を強く打ち付けて肺の空気が吐き出た。

 時雨は痛みに顔をしかめた。

「で、俺に何の用だ。斉藤時雨」

 神崎は木刀を喉元へ突きつけて言った。

 事後処理も素晴らしい。だが、それでもあくまで一般人にしては、だが。

 時雨に言わせればまだまだ隙だらけだ。

「へぇ、私の名前知ってたの。ちょっと意外だわ」

 神崎亮は他人への関心が極端に低い、と事前の調査報告にあった。正直、転校してきたばかりでまるで接点のなかった自分の名を知っているとは、思っていなかった。

 神崎は黙ったまま、こちらを睨みつけている。まるで自分の質問に答えろ、と凄むように。

 時雨はあお向けのまま肩をすくめ、素直に答えた。

「貴方の力量を知りたくてね、少々手荒くなったのは謝るわ。貴方の力量を甘く見ていたことも」

 先程の空中下段払いなど、普通の人間業ではない。目の前の男は、理屈も知らずに神無月の魔術に届きかけているのだ。

 あまりの超人ぶりに、思わずため息が漏れる。

 そして、再び神崎へ向けて続ける。

「だから」頭の中、想像の結晶、脳髄の真ん中に、もう一人の自分を創り出す。

「私も少しだけ」その自分はたくさんの『枷』にがんじがらめにされている。

「本気を見せるわ」その内の三割だけに――慎重に、かつ迅速に、狙った『枷』だけに――出力を絞って。

「これが、我々の『魔術』よ」改変は世界ではなく、己が肉体でもない。我が『意思』を持って、望むは限界という『概念』の突破。『認識』するのは他者ではなく、己れ自身だ。偽りは外部ではなく内部へ向かう。


「Empty throne where blood falls(紅き雨降る王なき玉座)」


 神無月時雨という存在に刻まれた暗示。自己を改変するトリガーを引いた。

 視界が霞む。世界が停滞する。

 鈍い痛みが脳を蝕む。通常ではありえない体の動き、視界の捉える光の情報に、知覚処理が間に合わず一瞬吐き気に襲われる。

 体はすでに神崎の背後。神崎には一体なにが起こったのかすらわかるまい。もしかしたら、こちらが消えたように映ったかも知れない。

 濃縮された時間にじれったさを感じる。

 右足で地面を蹴った。その右足に小さな違和感が走る。筋繊維が数本イったな、と時雨は感じた。

 それと同時に自分の体が前へ、感覚で言えば跳ね飛ばされる。

 神崎の体が何かに気づいたように、背後へ振り向くべく動き出す。

 それよりも早く、もっと速く、脇腹めがけて拳を叩きつけた。

 神崎は痛みに顔をしかめながらも、振り向きざまに木刀を薙ぐ。

 その動きを目で捉えてから回避運動へ入る。十分に間に合う。上体を思いっきり逸らしブリッジの体勢へ。手が地面へ付く。勢いでそのまま足で地面を蹴って、下半身を持ち上げる。狙いは木刀を握る手だ。

 横薙ぎ一閃の、神崎にしてみればミートポイントだった筈の空間で、時雨の足が神崎の手を蹴り上げた。木刀が手から滑り落ちる。

 時雨はそのまま一回転を決め、返す刀で再び地面を弾き飛ばして神崎の元へ。瞬間で背後を取り、左手で首筋を締め、右手で腰の隠しナイフを抜き、

 木刀がコンクリートに跳ねる乾いた音がした。

 引っ込み式のナイフが音を立てて刃を展開。首筋に当てた。



 ふぅ、と安堵のこもったため息をつくと、斉藤は左手の拘束をあっさりといた。

 あまりにあっけなく開放されたため、死さえ覚悟した亮は呆然となった。

 斉藤は出したとき同様に音を立てて刃を仕舞い、素早くナイフを腰元へ戻した。何処に忍ばせているのか、仕舞うところを見ていてもさっぱりわからない。

 今すぐという危険はなくなったものの、油断はできない。ありったけの敵意を込めて、敵と相対する。

「俺に、何の用だ」

 再び同じ問い。何者で、何用で、何の意味があった。ここまでやっておいて、今更あっさりと引く。屈辱だ、と湯だった感情が体中を唸り声を上げて駆け回る。視界の端で木刀と自分の距離を測る。日本刀は遠すぎた。

「安心して。もう害意はないわ」

 斉藤は作り笑いを浮かべて白々しく両手を挙げた。もちろん腰元には隠しナイフがあり、彼女自身も亮がそれを見ていたことは了承済み、だというのに。

 斉藤の顔からは感情の類は見て取れない。口元だけが微笑みを模り、形の良い眉毛、長いまつげ、大きな瞳という、普通ならば愛くるしさを感じさせるはずのパーツからは無機質な冷たさを感じる。無感情、無感動、極寒、虚無。おおよそ、人が――自分と同じ種類の存在が――発する光ではない。ではこいつは、こいつはいったいナニモノなんだ。

 熱は駆け巡った速さの二倍で引いていった。残ったのもは、緊張と冷や汗。

「そんなに硬くならないでよ。こっちまで緊張しちゃうじゃない」

 ふふ、と年頃の女の子のように笑って、得体の知れないナニカはこちらに背を向ける。これ以上、外見とマッチしていながら本質的には背筋が凍るほどに似つかない組み合わせは他に在るまい。

 彼女はそのままフェンスの方へゆっくりと歩き出す。

「自己紹介がまだだったわね」

 どう反応したものか判らず、亮はつばを飲み込んだ。今度こそ先制を奪うべきだったのか、返事を返せば良かったのか、逃げ出せば良かったのか。

「私は……」

 やがて彼女は言葉を紡ぐ。何も実行できぬまま、何の決断もせぬ内に。

「序列十番目の魔術師・『枷解士けっかいし』、【時雨ル玉座スゥロウ・ドォウター】・神無月 時雨」

 そして、

「我が当主、【神有月アンニペテンス】の命により、」

 振り返った。

「貴方を守るために来た」

 彼女の長い髪が、夕焼けを背景になびいた。

 世界に、色彩が戻っていた。






 ※ ※ ※




 亮は校門を出て、現在、人気のない紅葉の舞う並木道を一人で歩いていた。

 にもかかわらず、耳に届く足音は二組。亮の背後には斉藤が着かず離れず付いてきている。

 いい加減いらいらが頂点へ達した。亮は振り返り、押し殺した声にありったけの敵意を込めた。

「おい」

「なに?」

 斉藤も止まり、応じた。

「ついてくるな」

 こいつには通用しないと、判ってはいるがそれでもすごんで言い放つ。

「別に貴方の前を歩いても構わないし、他の道を使えっていうのならそうするわよ? 家、知ってるから」

 やはり全く通用しない。しかも開き直っている。

「三丁目十六番地の一軒屋。巨大な洋館で、神崎隆司の遺産のひとつ」

 詳細を言い当てられた。まあ今更、驚きはしない。驚かないだけだが。

 亮は舌打ちしながら吐き捨てた。

「ちっ、勝手にしろ」

「ええ、勝手にするわ」

 先刻と同じやり取りで会話は終了した。

 ……くそっ。本当に、なんなんだこいつは。

 亮はつい数十分前の屋上での会話を思い返した。



「魔術師だぁ?」

「そう、魔術師。まあ、ちょっと特殊なことができて、特殊なことをやってる組織って認識しといてもらえればいいわ」

 そう言って斎藤は不気味な微笑みを止め、真顔へと戻った。

「まだるっこしいの、私は嫌いだし貴方も嫌いそうだから短刀直入に言うけど、神崎亮は命を狙われてる」

 頭をよぎるのは……、

 今日の、昨日の、一昨日の。ここ最近続く脅迫状や不振な気配、

「心当たり、ある?」

 そして自分を殺害し続ける、自分の影。

 斎藤の言う心当たりとは、狙われてる動機か、狙われた兆候か。

 いや、恐らく両方なのだろう。そんなことを聞く以上、どちらにしても……

「愚問だったわね。失礼」

 表情に出たか、とも思ったがそこまでの愚を犯したとも思えない。どうやら神崎亮という人間がどういった人間であるかは、調べがついているらしい。とことん気に入らない。

「さて、では早速本題だけど、貴方には我々の保護下に入って頂きたい」

「我々、ね。どこまでもふざけた連中だな。魔術師だとかいうのもそうだ。お前、自分が相当電波なこと言ってる自覚ちゃんとあるか?」

 侮蔑、さげすみ、哀れみ。おおよその人間が嫌がる感情を視線に込める。

 それも、それでさえも、斎藤は軽く肩をすくめるだけだ。

 まるで、斎藤時雨の頭が狂っているのか、神崎亮の常識が間違っているのか。子供にものを教えるように、正解へ至る道しるべはもう教えてあげたと言わんばかりだ。

「それを言われるとつらいのよね」

 言葉だけは殊勝だ。だが、口調からは余裕がにじみ出ている。

 そう、こいつはひとつ、解となる証明を立ててしまっている。

 なにかを呟いた瞬間、こいつは消えてみせたのだ。いや、消えたと錯覚するほどの瞬間移動を行った、というのがより真実だった。だが、認識を許さないほどの高速は消える事と同義だ。筋力の増強? 身体能力強化? 魔術? なにをしたかは実際の所全くの不明だが、つまり、

 『加速』。

 同年代どころか並の武術使いでは相手にならない、祖父から本当の意味での戦闘術を学んだ亮が、反応することさえ許されない圧倒的な力。

 亮は苦味を口の中に感じた。

 相手は恐らく、そのためにわざわざ勝つ気の無い勝負を仕掛けてきたのだ。力の証明と、そして脅迫のために。こちらにはいつでも貴方を押さえ込める力がある、と。そう言っているのだ。

「そんなに怖い顔しないでよ。ちょっとした冗談。話術は魔術師の基本技巧だし、これも自己紹介の一貫」

 斎藤はそう言うと、再び薄く微笑んだ。先の笑みと違い、ちゃんと血の通った人間の微笑みだった。

 亮はその顔に、不覚にもほっとしてしまった。

「別に貴方を力でどうこうしようという気はないの。そりゃ、多少は威嚇の意味もあったけど」

 その言葉に、再び緊張を取り戻す。

「でも、今回の任務は守護対象である貴方の協力が重要なの」

 言いたいことはつまり、これらしい。それで? つまるところ……

「お前の目的は神崎グループか?」

 斎藤が反論の口火を切ろうとする。亮はそれにさらなる言葉をおっかぶせる。論戦に強いのならば、わさわざ相手の土俵でやることはない。

「生憎、俺には魔術師なんて頭のいかれた連中を相手をしている暇はないんだ。もちろん、神崎グループをやるつもりもない。自分の身は自分で守る。もとよりそのための剣術だ」

 亮はそれだけ一気にまくしたてると、踵を返した。もう、ここに用はない。後は斎藤がなにを言っても無視をすればいい。

 無視すれば……

「相手は他家の魔術師。腕っ節が強くても意味はない。貴方のお父上も、奴等の仕業よ」

 不覚にも、足を止めてしまった。

「親父は心臓発作だ。他殺じゃない」

「真相が知りたくない?」

「寝首をかかれない証明をしてくれればな」

「しょうがない。しばらくは貴方の協力は無しの方向でいくわ」

「勝手にしろ」

「勝手にするわ」

 閉じた扉に、いずれ理解できる、という斎藤の負け惜しみが聞こえたのだった。



 御門高校の正門を東へ300メートル進んだ先、そこに日本有数の巨大な洋館がある。都心から少しだけ距離があるとはいえ、いまだ都内のこの地に、道場などという場違いなものを抱え込んでなお広大な広さを失わない庭。そして時代錯誤の、2階建てで横に平べったいく、無駄に煌びやかな図体を持つ館。極めつけは公道と私有地を仕切る絶壁の柵に有刺鉄線、死角の存在しない監視カメラ、他にも現持主たる亮ですらその全容は把握しきれていない最新の防犯装置の数々だ。

 まあ、神崎隆司存命中のごく最近までは、会議から書類、データなど、神崎グループの重要なものは全てここに集結していたのだから、別に大げさだとも思わない。三財界一柱、というのはつまり、そういうことなのだ。ただ、社長と会社を失ったこの館は、神崎亮という個人にはあまりに無駄の多い持ち物に成り下がった、というだけの話。

 ……それでも、ここ最近の俺の境遇を考えれば感謝しなくてはいけないのかもな。

 館の門までの道すがら、亮は思った。

 門の前には名も知らぬ、神崎邸のハウスキーパーが立っている。老齢の紳士風で、執事というイメージがピッタリの人物だ。

 老紳士はこちらへ気が付くと一礼した。

「今日一日、特に問題はございませんでした。鍵をお返しいたします」

 そう言って鍵の受け渡しをする。彼にはハウスキーパーのリーダーのような役割をしてもらっている。ちなみに、彼等が未だに亮を主人としているのは古臭い義理、などではもちろんなく、単にプロフェッショナルなだけだ。ここいら辺、不覚にも親父の教育が生きている。一般的な高校生は人の雇い方など知らないだろうから。

「ああ、明日のもいつも通り頼む」

 亮はそれだけ言って門をくぐろうとして、珍しく余計な事を言わない彼に呼び止められた。

「大変申し訳にくいのですが、後ろの令嬢はいったい……」

 後ろを振り向くと、斉藤が相変わらず一定の距離を律儀に取って付いて来ていた。今は亮が止まっているので、斉藤も止まっている。ここまでくると、ただの嫌がらせだ。道の真ん中で、腕を組んで、こちらをしげしげと見つめている。どうせなら隠れてやってくれればいいものを。

 亮はため息と共に、

「ほっといて構わない。防犯装置はいつも通りなんだろ?」

 ……どっちにした所、今すぐに何をしようという気は無いようだし。むしろ気がかりなのは物取りの線だ。

「はい。いつも通り、何人たりとも侵入は不可能かと」

「…………なら大丈夫だ。お前も早く帰れ」

 今度こそ亮は門をくぐって行った。

「失礼いたします」

 ハウスキーパーが深々と頭を下げているのが、気配で判った。

 亮は、今の会話を頭の中で繰り返していた。

 …………なら、人外のモノに、この防犯装置は意味を成すんでしょうかね?

 そんな軽口が頭を離れない亮は、自分を恥じた。



 神崎亮の放課後は単調なものだ。

 学校が終わり、家へ帰ってくるとまず着替え。トレーニング用のスウェットへ上下を変える。次に庭をランニングし、道場で剣術の基礎練習。それが終わった後、道場にある祖父の仏壇へ線香を上げる。師範として、今は尊敬している祖父に、己の姿を見てもらうために。それも終わると次は風呂だ。あがった後は調理場へ立つ。ちなみに買い物は全てハウスキーパーに任せている。早めの夕食をすませると、机へ向かう。常に何かしらを独学で学習――今は経済学を――している。これが中間期末の時期になると、……国語になる。あとは寝るまで自由に過ごす。読書をしたりなど適当にやりたいことをやる。基本的にテレビは朝のニュース以外ではつけない。そうして適度に時間をつぶし、夜の10時にはベッドへと入る。

 それは変わる事の無い日常。ただ、今日に限っては寝る前に警備室へ入り、カメラのチェックと装置の作動を確認したという、それだけの差異。


 それは、変わりだした日常。代えることの出来ない通常。戻る事の出来ないあの日。

 満月を臨む神崎邸の屋根、緩やかな斜線の上で、変化の象徴たる少女が神崎亮の就寝を確認した。






 ※ ※ ※




「ふぉふぉふぉ。まだまだよのぉ、亮よ」

 よれよれの道着に白い髭と髪。老齢のクソじじいが、1?はあろう訓練刀を軽々と振るっている。

 値踏みするような細い目に、亮は苛立ちを覚える。が、どうにもならない。

 どうにかしたければこちらも刀を振るうしかない。

 流水の陣。地流の陣。風斜の陣。火車の陣。

 振るう。

 光陰の型。陽闇の型。高凍の型。雷地の型。

 薙ぐ。

「まだまだ振込みが足らんのぅ」

 神崎流剣術。

 剣道ではない。敵を排除することのみに重きを置いた剣術。

 攻性を司る『陣』、防性を司る『型』、その総称を『形』と呼ぶ。神崎流剣術はその『形』だけでできている。構え、足の運び、刀の出方、回避運動、トドメの刺し方。その全てを個に分解し、その個――つまり『形』――だけをひたすら繰り返す。逆に『形』以外は存在しない。何百という選択肢の組み合わせ、繰り返しだけで戦う。臨機応変さに欠く戦い方であるが故に、ひとつの『型』を繰り返す数は何万、何億。ものにした『形』は全自動。必要なのは意思のみ。技への意識を必要とせず、機械のように正確で精密で高速、そう在る様に敵を討つ。それが神崎の流派。

 亮は踏み込み、四連撃を振るう。

 クソじじいはそれを軽くいなし、かわし、反撃する。

 ……清空の型。

 上段を受け流す。

 オートマチック。後は体に全てを任せる。

 ……天峰の陣。

 刺突。

 かわされる。

 再び距離を取り、一呼吸の間が生まれる。

 一瞬後には激突。連撃、回避、弾き、叩きつけ、受け流す。接近戦の中の皮一枚の綱渡り。交えるは必死と余裕。舞い踊る。

「かっかっかっ。女のケツひとつ触ったことの無い小便小僧が、ワシに勝とうなど十年早いわ」

 家宝、『神明』。神崎流継承の証とされる、――受け継げなかった継承者としてじじいと共に墓へ埋めた、神崎の刀――それを模した訓練刀をブン回すじじい。

 その、まもなく70歳を迎えるとは思えない体から横筋一閃が放たれる。

「はっ、……だまれ、はっ、エロじじいッ!」

 上がる息を押さえ込み、柄尻でじじいの刀の腹、その先端を叩いた。

 テコの原理でじじいの刀が吹っ飛ぶ。

 じじいの首筋に、亮は刀を当てた。

「見たか。くそったれ、十年といわず、今、ここで、免許皆伝だ」

 上がる息にそのまま言葉を乗せて言った。

 クソじじい、もといエロじじいは首をすくめる。珍しく神妙な顔で、

「いーや、それは無理じゃて。なぜならお前は弱い」

「はん、その俺に負けておいて、言うに事欠いてそれか? 師範さまよぉ」

「固き脆い。ということを忘れてはならん。神崎流もお前自身も、固きに属するもの。柔らかくなる必要は無い。ないが、固さを自覚できなければその脆さを補う事は出来ん。そしてなにより……」

 視界がひっくり返った。

「ワシはお前より強い」

 いやらしい、勝ち誇った笑い顔が真上に、逆さまに映った。投げ飛ばされたらしい。

 カッカッカッ、と耳障りな笑い声と共にじじいは亮の刀を蹴っ飛ばす。亮の射程圏内から零れ落ちた。

 背筋が寒くなる。

 道場の薄茶の板張りが色彩を薄くする。

 気が遠くなるような屈辱と怒りと、今更だからの反省。

 過去と現在がマーブリングする混乱と矛盾が、亮をぐちゃぐちゃに明確に。二分して。溶け合う。

 いつの間にか笑い声は消えていて、

 右目と左目が全く違う光景を見ているような、

 完全で完璧で、中途半端に矛盾だらけの、

 二重感覚。

 自分を見下ろす自分と自分を見上げる自分と、自分が自分であるという自覚。

「俺は、」

 やがて不可思議は終わる。己の過去の台詞を持って。

「弱くなんか、無いッ!」

 影は刀を振るう。いつの間に。

 神崎流を振るう。当たり前だ。

 対峙するのは神崎亮。抽象はより具体に。

 周囲は明確。得物は神明。敵は自分。

 亮は手にする訓練刀で応戦する。

 何故か出来る。今までは出来なかった。

 2度、3度。なんとか防ぐ。だがそれまで。

 刺された刃は今までよりも生々しく。


 そうして神崎は、亮を殺害する。


 そうして亮は、架空の死を認識し続ける。





 ※ ※ ※




 幕間


 生まれたばかりの『それ』は、聞く。

 曰く、魔術師の言葉に耳を傾けてはいけない。

 曰く、相手よりもより早く、より多く、より強く、言葉を繰れ。

 曰く、暗示を埋め込め。

 曰く、曰く、曰く、……『それ』には何のことか解らない。





 ※ ※ ※




 荒い息に目が覚めた。

 ……またか。

 ここ最近、頻繁に見るようになったあの夢だ。二日続いたのは初めてだ。

 動悸が治まらない。ゼイゼイと、耳障りな音が止まない。

 鈍い痛みが頭にまとわり付いている。

 頭を抱え、そのまま滅茶苦茶に引っ掻き回した。

 指が髪の毛の間を走り回り、こびりついた汗が跳ねる。

 手を止め、深呼吸。

 周囲を見渡す。

 大型のクローゼット、本棚、足元には靴。ひとつひとつ確認していく。その間も深呼吸を続ける。

 テレビ、広くも全体的に物の少ない閑散とした部屋、いつものベッドの感触。大丈夫。いつも通の自分の部屋だ。

 落ち着くと焦っていた自分が恥ずかしくなった。

 さらに、斉藤の言っていた事の裏づけを経験してしまったようで、面白くなかった。

「……クソッ」

 亮は誰にでもなく悪態をつくと、ベッドから跳ね起きた。





 ※ ※ ※




 朝の支度を終え、家の門まで道程を歩いていた亮はふと思う。

 今日の朝の夢は、まさか斉藤のせいだろうか。彼女の言う、魔術とやらで夢へ干渉して自分の命を狙っているのではないか。という妄想だ。

 亮は頭を振った。

 まさか、そんなことが出来るはずが無い。

 が、考え始めると、そんな下らない妄想は止まることを知らない。

 ……親父が死んだのは、そういえばベッドの中だった。しかも原因不明の心臓発作。別に心臓を患っていたわけではない。

 否定する自分がささやく。そんなファンタジーが、この世で成立してたまるか、と。

 ……だが、昨日斉藤が見せた瞬間移動はなんだ。あれが魔術でなくてなんだと? 今までの修行経験が全ての答えを出しているじゃないか。あれは人間の動きではない。

 理性と論理が歯止めをかける。落ち着け、神崎亮。論旨をすり返るな。夢と瞬間移動は完全に別件だ。

 まるでまとまらない。

 何が真実で何が虚構なのか。これまでの確固たる基準が揺らぎつつある。いや、あるいは完全に破壊されてしまったか。

 これじゃ、あの女の思い通りだ。

 亮は後頭部を感情に任せて引っ掻き回した。

 自分でもらしくないと思うため息を吐き、門を曲がろうとした。

 そこに、


 奴がいた。


 斉藤時雨。敵。神崎亮を守るために来たと言う。相変わらず竹刀袋を肩へ掛けている。剣豪。『魔術師』。

「朝、早いのね」

 表情は無い。だが、対峙した時のような凍えるような雰囲気ではなかった。言うなら自然体。別に険悪なものも、敵対心も、逆に媚を売るようなものでもない。

 亮はそれに完全に毒気を抜かれてしまった。

 だが、それでも気を許すつもりはない。敵は敵だ。

 と、彼女の立っている場所に気が付いた。

「中、見たな?」

 郵便受けの前だった。カマかけ、といかもうほとんど確信に近いものだった。

「何も入ってなかったわよ」

「……否定くらいしやがれ。ムカつく野郎だな」

 亮は睨みつけるが、相変わらず肩透かしな反応だった。


 昨日の下校時と同様、一定の距離を保って後をつけてくる斉藤を伴っての登校となった。

 周囲には木々の欠片が、紅い骸ををさらしている。今日の紅葉はいつにも増して毒々しい。

 そんなことを考えながら歩く亮の隣には楓の姿がある。

 数秒前、

「オッス、神崎ー!」

「ああ」

 以上。

 大仰に手を上げて近寄ってくる同級生。亮にとってはトリオに並び、ほとんど存在しない味方のひとりだ。

 毎日毎日、必ずといっていいほど家を出てすぐの十字路で出会う。昨日はかなり珍しい例外だった。

 亮を待っているのは間違いない。そういったものは、正直な所嫌いだった。だが、楓は一緒に登校していてもあれこれ話しかけてこない。いつも隣を歩き、にこにこ笑っている。沈黙が痛くない。それはとても居心地の良い空間だった。

 ショートカットの快活な女の子、といのが小泉楓を一言で言い表したものだろう。男勝りで運動神経がよく、面倒見が良くて大胆かつ繊細。男女共に人気がある。そんな奴だ。

 だが、そんな奴であるが故に、今日は珍しく楓の方から沈黙を破った。

「で、だ。神崎、後ろのはなんだ?」

 これには亮も首をすくめるしかない。

「ストーカー、或いは背後霊ってところか? 本人は守護霊を主張してるがな」

 ……なんであるかは俺が一番知りたいぜ。





 ※ ※ ※




「へぇ、じゃあ神崎は死んだ事があるわけだ。どんな感じ?」

「あのなぁ、夢の話だぞ。そこ、笑うとこだ」

 亮は楓へデコピンを見舞う。

 死んだ感じ、というのを思い出し、その寒気を追い払うために。

 そして、少しこのことを楓へ漏らしたのを後悔した。まるで自分の弱気を自白してしまったようなものだ。らしくない。

 だが、横では楓は大笑いしている。亮のつっこみがよほどお気に召したらしい。

 楽しそうで明るい笑い声を聞くと、まあ悪い気はしなかった。

 今、亮と楓、そしてかなり距離を置いた斉藤の2人+1人は、校舎の階段を登っている。3人は2年生なので目指すのは本館3階だ。

 斉藤との距離は、こちらの会話が聞こえない程度には開いている。亮と楓が2階を通り越した所で、1階の階段を登り始めたところ。まめなチェックは怠っていないので、間違いない。

 あちらも亮から目を離さない。視線を送るたびに目が合う。ついでにそのたび横からは、不機嫌な唸り声や肘鉄なんかが送られてくるわけだが。

 今の話も斉藤には聞こえていないはずだ。できれば聞かせたくない。今だ判断は保留しているとはいえ、影夢は斉藤の言う連中との関係性は否定できない。

「それで? 神崎はその夢、何回くらい見たことあんの?」

 楓の声でふと意識が体へ戻った。

 ……つか、その話題続けるのか。いや、そんなことより、

「楓、なんで影の夢が初めてじゃないって判ったんだ?」

「え? あはは。何言ってんの、神崎このあいだ言ってたじゃん。夢見が悪いって」

 そういえばそんなことも言ったような言ってないような。

 楓があまりに当たり前のように言うので、言ったような気がしてきた。

「そうだったか? まあ、どうでもいいんだけどさ」

「で? 何回くらい見たの?」

「うっ、いつになくしつこいな。でも、何回ってのはホントわかんねぇって」

 歩いていると、なんだかいつになく廊下は人が多い。

「んー、それじゃあ……」

 楓はいつになく真剣な顔になる。

 廊下を進んでいくが、Bクラス――つまり亮と楓のクラス――の前には人だかりがあった。凄い人数だ。クラスの人間はほとんどが居る。他にもかなりの人間、他クラスの奴がいる。なにかの野次馬だろうか。

「連続で、その夢を見た事は?」

 人だかりで前へ進めない、斉藤の居ない安全地帯へ進めない。斉藤の足音が近づく。

 騒がしい。なんなんだ。異常だ。

 足音が近い。

 焦る。

「き、今日と、昨日」

 亮は半分上の空で答える。

 何かがおかしい。

 昨日からおかしい。このままじゃ呑まれる。負ける。認めないっ。

 人だかりを掻き分ける。

 クラスメイトに肩をぶつけ、手で押し分けて、足をもつれさせて。それでも進む。人だかりがそれ以上進むなという警告を鳴らす。だけど進む。その先に、

「…………ぁ……」

 腹部に激痛。今朝、自分に刺された傷が開いたのではと錯覚するような、リアルな痛み。続いて吐き気。平衡感覚を失う。倒れた感触があるのに倒れた実感はない。喧騒は遠い。現実と夢の間を彷徨う。なにが現実で、なにが夢なのか。境界線は曖昧で。定義は不確定。今はただ、


 黒板に描かれたアート。

 悪意の具現化。神崎亮へ。

 その、見慣れたはず脅迫文が。自分のライフポイントを削った気がした。


 意識を手放す事にした。

 そうでもしなければ、このまま死んでしまう気がしたから。





 ※ ※ ※




 昼休みのチャイムが鳴った。

 神無月時雨は、たまったうっぷんをはらすがごとく、盛大にため息をつき教科書を机の中へ放り込んだ。

 そうして時雨は、自分の隣のクラスへと赴く。机の横へかけた双振りの日本刀、『明鏡・止水』とその袋を肩に掛け。

 教室から廊下へ出て、すぐその隣の扉へ入る。とたん、シンナーの臭いが鼻を突いた。

 本来Bクラスであるはずの教室では、小泉楓が黒板を掃除していた。

 今日はBクラスの生徒は他の余った普通教室での授業だ。つまり彼女は、自主的に言い出してこの教室を、というより神崎亮への脅迫文を片付けているわけだ。

 今回はこの女に用がある。

「ずいぶん熱心なのね、小泉楓さん」

 時雨は腕を組む。そして、

「自分がやったわけでもあるまいに」

 睨み付ける。

 彼女は背を向けたまま掃除を続ける。答えるのは声のみ。

「まーね。神崎のためだし」

「…………」

 時雨はどう受け答えたものか思案する。

 しばらく、雑巾が黒板をこする音だけが時を埋めた。

 そして、

 小泉楓がこちらへ振り向いた。

「初めまして、ストーカーさん? 自己紹介は、必要ないみたいだな」

 向き出しの敵意。神崎亮との対峙した時でさえ感じなかった圧迫感だ。

 時雨は息を呑む。名乗るべきか。名乗るなら、『どっちで』名乗るべきか。

 時雨は結局、答えを保留する事にした。

「朝、貴女は神崎亮と話していたけれど、何の話をしていたのか教えてもらえないかしら」

 突っぱねられるのは承知の上。あれだけの敵意だ。わざわざ教えてくれるわけがない。ただでさえ、意味不明な質問なのだし。

 それでも問う。出方を見る。何者なのかを見極める。何者でもない可能性だってかなり高いのだ。駄目で元々だ。

 が、

「影の夢を見たそうだ。回数は数え切れないほど。連続で見たのは今日が初めて」

 彼女はこちらが知りたかった事を、的確すぎるほど適確に教えてくれた。

 改めて、小泉楓という人物を観察する。

 何て事のない、極めて一般的な女子生徒だ。自分のような、魔術師的特徴は無い。隠密行動、主に監視の類では無くて当たり前なのだが。

 握られた拳は爪が皮膚に食い込むほどに強く握られている。小刻みに震えている。顔は真っ赤だ。

「……お前のせいか」

 押し殺した小泉楓の声。

 視線が時雨を貫く。

 神崎亮に近づくな、と。瞳がこれ以上ないほど雄弁に語っていた。

 だが言葉にはしない。いや、できない?

「クソッ」

 こちらに背を向け、振り向きざまに黒板を叩き付けた。

 すざまじい音が教室を満たした。

 パラパラとチョークの粉が周囲を舞う。

 解らない。小泉楓という人物が解らない。

 彼女の取った行動はとても『正しい』。片思いの相手に、訳の分からないことを吹き込むストーカーまがいの人物が現れた、として彼女の行動は正しい。小泉楓の感情も作り物ではない。それは解る。だが、そうすると組み合わない。酷く難解なジグソーパズルに、異なるピースがいくつも混ざりこんでいるような不快感。解らない。

 小泉楓は黒板の清掃に戻った。

 帰れ、ということだろう。

 もはや、何を言っても彼女の癇に障るだけだろう。

 きびすを返す。

 ……とにかく、必要な情報は全て揃った。

 放課後まで作戦を練ることにする。

 状況は一刻を争う。

 時雨は独り、奥歯を噛んだ。





 ※ ※ ※




 気が付くと、正面には天上があった。

 背中には固めのベッドの感触がある。肩までかかる掛け布団は、どことなくひんやりとしていて少し気持ちが良い。

 亮は横になったまま周囲を見回す。周囲には気が滅入るような、白。白。白。

 どうやら、ベッドを隠すようにカーテンが閉まっているらしかった。

 その時、シュッという景気の良い音がしてカーテンが開かれた。

 亮は上半身を起こす。

「あら、もしかして起こしちまったか?」

 カーテンの先には、火のついていないタバコを咥えたうちの担任――成見影司の姿があった。

「いえ、少し前に起きたところです」

 それを聞くと、成見は「そーか、そーか」と人当たりの良い笑みを浮かべてベッドの脇の丸椅子へ腰掛けた。



「いやー、真紀先生にライター取られちまってなぁ」

 笑いながら頭をかく成見は、逆の手でタバコを挟んで言う。

 真紀先生、というのは本館の保健室の先生の事だ。ちなみに、当たり前だが保健室は禁煙だ。

「で、容態はいいのか? 神埼」

 これまでの雰囲気は引っ込め、成見は真剣な調子で聞いてきた。

 聞けばなんと今は放課後で、亮は丸々半日意識が戻らなかった事になるらしい。

 にも関わらず原因は不明。しかも状態だけでいえば寝ているのとほとんど変わりがなかったという。

 実際、起きてみればなんともない。

「はい。大丈夫です」

 それを聞くと、成見は表情を緩めて火のないタバコを再び咥えた。

「例の黒板だがな、小泉が一人で片付けてくれたぞ」

「…………」

「学校側でやるといったんだが聞かなくてなぁ。もう彼にこれを見せたくないから、とか言ってな。はは、お前、イイ友達を持ってるな」

 含みのある言い方。

「あとでお礼、言っときます。教えてくれて有難うございます」

 楓の場合、たとえ大変な作業を一人でやったとしても、それを亮には伝えないのが常だ。教えてもらわねば気づけなかった。自分の与り知れぬところで勝手に借りを作られるのは、なんとも居心地の悪い事だから、なおの事有難い。

 と、そんなことを考えていると成見が暗い顔をしていた。

「……以前から思っていたことなんだがな、神崎」

 成見は咥えタバコを指で弾く。タバコは放物線を描いてゴミ箱へ吸い込まれていく。

「どうしてお前は、そんなにも他人に関心が無いんだ?」

 腹の、胸の、夢の、

 傷が開く。

 生々しく、痛々しく、ぐじぐじと、化膿しきった傷口を、

「まあなんだ、俺も長い、とは言えないまでも教師になってそこそこに日は過ぎた。だけどな、お前みたいな奴は初めてだ」

 えぐる。

「お前の事を好きだと、あれほど人目をはばからずに言ってくれる奴がいるんだぞ? 普通、照れるだとか、恥ずかしがるだとか、喜ぶだとか。いや、その逆でもいい。嫌がるだとか、迷惑だと断るだとか、何故そういったリアクションを示さないんだ?」

 切り刻む。

「余計なお世話であることはわかっているつもりだ。だけどな、お前のあり方は……なんて言うかだな……その、


 『いびつ


なんだ。歪んでるんだよ。何かがおかしいんだ。俺は、このままじゃ遠くない未来にいつかきっと、お前が大切な何かを失うんじゃないか、って。そんな気がするんだ」

 神崎亮という存在を、

「どうしてお前は、他人に関心が無いんだ?」

 削る。

「……そんな、ことは、ない」

 亮が答えたのを見て、成見は問いを続ける。

「じゃあ、他人と居るのは好きか? 楽しいと感じたことはあるか?」

「嫌い、というわけでは……」

「独りは?」

「…………」

 キリキリと、ギリギリと、首が絞まっていく。

「お前は他を否定しない。だが同時に肯定もしない」

 どこかで聞いたような言葉。

「関心が無いからな、是非はどうでもいいんだ」

 やめろ、

「気づいていないのか、気づかないフリをしているのか……」

 …………ヤメロッ……、

「神崎、お前はいったい、な……」

 ガチャン、と。扉が開く音が鼓膜を突き刺した。

 実際には大した音ではなかったが、亮にはとんでもなく大きな音に聞こえた。

 見れば成見も同じようだった。

 扉の方、入ってきた人物を視界に入れたまま固まっている。

 その呪縛もすぐに解ける。

「いや、思いのほか長く話し込んでしまったようだな。すまないね、つい熱くなってしまった。忘れてくれ、余計なお世話だった」

 成見は笑みを取り戻し、席を立った。

 失敗、失敗と独り言を残し、いたずらっ子のような軽い足取りで去っていった。

 亮は改めて、入ってきた人物を見やる。

 見紛うはずも無く、そいつは例の袋を携えた斉藤時雨だった。





 ※ ※ ※




「またお前か」

 退室しようとしている担任に目礼していた時雨を出迎えたのは、神崎亮のそんな言葉だった。

 声にはうんざりした響きの中にも、十二分な致死量の敵意が込められている。

 この男の威圧感だってなかなかのものだと思う。

 やれやれだ。

「また、とはずいぶんなご挨拶ね。これでもお見舞いよ?」

「はん、俺へ不幸でも見舞ってやろう、ってか?」

 そう言いながら、ベッドから這い出てくる。

 そうして神崎亮は腕を組み、ベッドの腹へ腰を下ろす。

 いつでも動けるように、ということなのだろう。

 人の上に立つもの特有の不敵な笑みと、それ以上の警戒も怠っていない。

 それを見て、時雨は今回の任務の難しさを改めて再認識した。

 今回の任務は神崎亮の懐柔が成功しなければ、失敗は必至。その相手にこれだけ警戒されているのだから、簡単なはずが無い。

 だが、初手を誤ったつもりも、ない。少なくとも、時雨はそう信じている。神崎亮の戦闘能力は計っておく必要があった。それを、誰よりも自分自身へ証明するためにも、これからを巧く立ち回らなくてはならない。

 時雨は自分の胸に抱いた作戦に、緊張を拭えなかった。

 いわば、これは賭けだ。

「で? 何の用だよ」

 いつまでも黙っている時雨に痺れを切らしたのだろう。神崎亮が不機嫌に言った。

 時雨にとっては好都合だ。だが、時雨は不規則を刻み続ける自分の心臓を、未だに制御しきれない。

 ……落ち着けっ、私!

 ぎゅっ、と力強く両の目をつぶり、ひとつ深呼吸する。いまのが余裕からくる間に見えればいいな、と。時雨は魔術師らしからぬ希望的観測を抱いた。

 そして、

「私が敵か味方か、魔じゅつ、ひゃっ……」

 盛大に噛んだ。

「………………。」

「………………。」

 舌が痛い。ジンジンする。

 嫌な感じの沈黙が保健室を支配してるし。

 外から部活動の掛け声が入り込んできて、ますます気まずさが増す。

 背筋には嫌な汗がたらたら流れているような気がしてならない。

 小さな咳払いをひとつ。

「わ、私が敵か味方か、魔術師かそうでないかは、ひとまず置いておいても……」

 神崎亮も、何事も無かったかのようにしてくれている。彼は彼で気まずかったのだろう。

 ……私も、いつまでも浮ついた雰囲気では駄目だ。

 声に鋭さを戻す。

「貴方が危険な状態にある、というのは今回の事で理解できてもらえたはず」

 そう、もうそれほど彼にも、自分にも、時間は残されていないのだ。

 タイムリミットは恐らく、1週間を切っているだろう。

「だからここで改めて言う。私に協力してほしい」

 数秒の間。

 彼なりに今回の事を含めて、改めて考えてくれてはいるようだ。意外と律儀。

 だが、

「やはり断る。寝首をかかれない保証は無い」

 やはり同じ。だがそれも想定内だ。

「なら、ひとつ。私と賭けをして欲しい」

 そう、時雨の用意した作戦は賭け。

 神無月時雨と神崎亮。そして神無月時雨が行う魔術技能への、二重の意味を持つ賭けだ。

 さあ、いこう。

 神無月時雨、一世一代の大法螺吹きを。

 根本なる、原初にして最終たる『魔術』を。

「もし、私が貴方の命を狙っている人物なら、今の貴方を弱らせている夢は私の差金なはず」

 神崎亮の顔が疑念に歪む。

 当然だ。話してもいない夢のことをことも何気に会話へ混ぜたのだから。だが、そんなことはどうでもいい。目下、最大の目的は影夢進行の阻止だ。

 まずは『意思』。能動的かつ意図的に。選択する媒体は言葉。操る。

「その夢を、私の『力』で進行を止めてみせる。絶対に」

 言葉と同時に用意した宝石、赤く揺らめく石ころ大のルビーを神崎亮へ投げてよこす。

「私が作った魔除けの石。夢に限定した力を込めたわ」

 次に『概念』。強要する概念は「停滞」。揺ぎ無い自信へ乗せて。最大級の虚実を。

「これで今夜例の夢を見なければ、私には貴方へ危害を加える気がない、っていう私の言い分を信じて欲しいの」

 最後に『認識』。本来は一番厄介な段階だが、これはもう済んでいる。神崎亮はもうすでに『魔術』の存在を認めている。『意思』を持った『概念』は、これで『認識』されたはず。

「どう?」

 神崎亮は手にしたルビーを見て考え込んでいる。

 あとは、相手の出方しだいだ。

 心臓が爆発を繰り返す。

 もう、その音しか聞こえない。

 やがて、

「解った。今夜影の夢を見なければ、ひとまずお前のことは信じよう」

 神崎亮は時雨へ向けて、重々しく言った。

 それは、ひとつの賭けが成功したことを示した。

 自然、表情も緩む。

「そう。よかったわ」

 だが一瞬の後に、他人の前で緊張感を緩めすぎたことに気づき、表情を引き締める。

 後は彼の『認識』しだい。

 ……私の大法螺を、本気にさえしてくれれば、一夜くらいなら。

 そう、一夜くらいならしのげる。

 現実の魔術には魔力なんて都合の良いモノなんて無いし、物理法則だって越えられやしない。人が無意識に使っていることを、意識的に使う。ただそれだけの行為。それが『魔術』。人の認識の裏を突き、超常を振る舞い、奇跡を騙る。そんな不便極まりないものだ。

 だけど、それだって使い方しだいでは、どこかの時代の誰かに魔術、とさえ言わしめるものになるのだ。……「魔術」という名の由来は、本当は別にあるのだけど。

 そうして時雨は簡単な言葉を残し、保健室を去る。

 神崎に背を向けた先で、もう一度だけ、満足げに自分へ向けて微笑んで見せた。






 ※ ※ ※




「で? 何の用だよ」

 朝とは違う、臨戦モードの斉藤。そんなのに何秒間もむっつり黙ったまま睨みつけられた亮は、たまらず先を促した。

 それでも斉藤は焦らすような間を持たせる。

 しかし、よく見ると今朝どころか、昨日の襲いかってきた時よりも表情が硬い。

 その硬い表情のまま睨みつけてくるもんだから、目つきがすごぶる悪い。

 目つきの悪い美人、というのはなかなかに迫力があるものだ。

 その迫力に負けぬよう、亮も顔と心を引き締める。

 と、

 斉藤は突然両目をつぶり、そのまま深呼吸をしだした。

 ……もしかして、緊張、してんのか?

 それで少し落ち着いたのか、斉藤は少しだけ『らしい』雰囲気を取り戻していた。

 そして、

「私が敵か味方か、魔じゅつ、ひゃっ……」

 盛大に噛みやがった。

「………………。」

「………………。」

 口があわあわいっている。痛そうだ。

 とても居た堪れない。

 悪いことなど何一つとしてしていないのに、こうして斉藤を見ているだけでなんだかこう、罪悪感に苛まれる感じ。

 せっかく戻ってきた鋭角な雰囲気も、一瞬で消し飛んだ。

 つーか第一印象と違って、こいつ素の部分ではかなり抜けたヤロウなのではないだろうか。

 小さな、本当に小さな咳払いが聞こえてきた。

「わ、私が敵か味方か、魔術師かそうでないかは、ひとまず置いておいても……」

 取り合えず、さっきのは聞かなかったことにしといてやろう。……まじめな話なんだろうし。

 そうこう考えていると、気を取り直したのか斉藤の声にも鋭さが戻る。それに合わせて亮も背筋を正した。

「貴方が危険な状態にある、というのは今回の事で理解できてもらえたはず」

 ゆっくりと、諭すように、突き刺す。

 事実、斉藤の言っていることは正しい。

 今まで、脅迫状などの類には不快感以上のものを感じたことは無かった。夢に関しても同じこと。嫌な体験ではあるものの、不思議に首を傾げることはあっても身の危険を感じるほどではなかった。

 変わったのは斉藤が現れた昨日から。

 それは単純に斉藤が犯人だからとも考えられる。だが、それだとどうしてもかなり局地的な手際の悪さが目立つ気がする。

「だからここで改めて言う。私に協力してほしい」

 だからあらためて考える。彼女と協力した場合のメリットと、彼女が『嘘』をついていたときのデメリットを、計る。

 正直な所、その割合は50:50(フィフティフィフティ)だと思う。協力しても、別に構わない。本当に本気で、ただ単純に殺すつもりなら、屋上の段階ですでに済ませている。だが、

 ……やはり他人に借りを作るのはいただけない。

 メリットもデメリットも50:50ならなおさらだ。

「やはり断る。寝首をかかれない保証は無い」

 それに、どんなに可能性が低いと読んだからといって、裏切りの可能性は決して0ではない。もしかしたら、協力関係を取り付け家へあがり、完全犯罪を狙っているのかもしれない。神崎グループの情報を狙っているのかもしれない。斉藤の言う所の魔術師なんて連中の組織があるとしたら、そういった可能性はむしろ高い気がしないでもない。

 そんなことを考えている時だった。

「なら、ひとつ。私と賭けをして欲しい」

 斉藤は、もはや隠しようもない緊張と共にそう切り出した。

 斉藤はなにを緊張しているのだろう。

 彼女にとって、自分との協力関係はそんなにも重要なことなのだろうか。口ぶりからしても、たった今思いついたわけではなく、これが本題のようだ。

 斉藤は頭の悪い奴ではない。それは少ない接触の中でも、身のこなしや口ぶりから理解できる。そいつが賭け、というのだ。まあ、聞いてみるだけの価値はあるのかもしれない。

 斉藤は続ける。

「もし、私が貴方の命を狙っている人物なら、今の貴方を弱らせている夢は私の差金なはず」

 心臓が嫌な音を立てた。

 何故、斉藤が夢のことを知っている。

 話はまだ続く。 

「その夢を、私の『力』で進行を止めてみせる。絶対に」

 その言葉はとても真摯なもので、斉藤は自分が知るはずの無いことを喋っている自覚があるのかないのか、疑うべきか疑わざるべきか。疑心暗鬼が頭を満たす。

 斉藤は言葉と共に宝石らしき物を投げてよこしてきた。……ルビーだろうか。

「私が作った魔除けの石。夢に限定した力を込めたわ」

 たしかに石には不思議な輝きが在る様に思える。気のせいだと言われれば、そのまま気のせいな気がするほど微弱なものだが。いや、実際気のせいかもしれない。

「これで今夜例の夢を見なければ、私には貴方へ危害を加える気がない、っていう私の言い分を信じて欲しいの。どう?」

 斉藤の声は揺ぎ無い。

 つまり、亮に害をなしている原因(と思われる)を取り除いてやるから、それを行っているのは自分たちではないと信じてくれ、……いや、ちがうな。取り除いてやるから死にたくなければ自分たちに従え、とそういうことか。

 気に食わない上に賭けになっていない。もし、斉藤が犯人なのだとしたら、原因を取り除くなど造作もないことだろう。いや、だからこそ斉藤が敵でない方への賭け、ということになるのか。

 だが、あるいは賭けてみてもいいかもしれない。

 あの夢から、


 ……あの夢から逃れられるのであれば。


 と、そこまで考えて初めて、自分が想像以上に消耗していることに気が付いた。

 ……くそっ。

 負けてなるものか。それだけを思う。神崎亮は、何者にも負けてはならないのだ、と。

 ……クソっ。

 負けられない。敗北など認めない。完全で完璧。最強にして無敵。それが求められ、求めてきた己の姿だ。

 ……クソッ。

 曲げられない。これだけは。それだけが全てなのだ。それだけが存在価値。それだけが生きる意味だ。こんな所で、こんな訳のワカラナイ連中に。曲げられてたまるか。必要とされるのはこれからなのだ。こんな所で曲がってしまった欠陥品など、そこいらへんに転がっている連中とオンナジだ。

 意を決す。

 このまま、手も足も出せずに終わってなるものか。虎穴に入らば虎児を得ず、だ。斉藤が本当に協力者なら、それもよし。もしも敵ならば、その尻尾を捕まえて、引きずり出し、ズタズタに引き裂いてやる。他者の手を借りねばならない状況は癪だが、もはや贅沢は言っていられない。

 神崎亮は負けを認めない。

「解った。今夜影の夢を見なければ、ひとまずお前のことは信じよう」

 亮は苦々しくそう告げた。

 それを受けた斉藤は、

「そう。よかったわ」

 亮の内心など知らず、本当に自然に頬を緩めた。

 身動きが取れなかった。

 それは、気の張っていた亮でさえハッとするような微笑だった。

 綺麗でありながら、なんとも人間くさい、人を寄せ付けて離さないような笑みだ。鼻孔をくすぐるような暖かみをもった、亮の初めて体験する表情だった。

 亮は完全に魅せられていた。

 だから、亮は斉藤が保健室から出て行くときも上の空だった。

 扉が閉まり、しばらくしても立ち尽くしていた。

 やがて相応の時がすぎた頃、亮は手の平のルビーに目を落とし、睨みつけ、強く握り締めた。


 そうして、それぞれの思惑が交錯した日が過ぎて行く。

 ある者は、死者へ線香の火を手向け、ある者は屋上から作戦の成功を祈り、ある者は携帯をもって当主へ状況を報告し、ある者は計画の進行をダーツを持ってほくそえむ。

 そうして、それぞれの思惑が交錯した日は終わりを告げる。






 ※ ※ ※





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