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スリーピース  作者: 双色
6/『There be』
35/36

34/約束の歌

 /5




 祭りは始まる前が一番楽しいというが、果たして本当にそうなのだろうか。

 むしろ始まる前の独特の緊張感は精神を病ませるダウナー系のドラック染みている気がする。

 などという独白で緊張を誤魔化していた。自分が案外上がり性だということを思い知った気分だ。昨日までの俺は膝が笑うという言葉の意味を正しく理解していなかったらしい。俺は体育館の舞台袖で密かに振動する体を抱えていた。

 鈴童はさすがの風格である。もともと生徒会長をやっていることもあり、人の前で何かをするのは慣れているのだろう。それにこいつはライヴの経験もある。学校の出し物程度ではびくともしない精神を獲得していて不思議はない。

 余裕で弦を弄っている姿に肖りたいものだ。

 理紗は理紗で、緊張とは別の次元に生きているような生命体だ。そもそもそんな感情を持ち合わせているのかこいつは。考えるだけ無駄である。図太さでは日本でも指折りだろうからな。少しでも俺にその成分を分けてくれ。

 血が冷たくなる感じがする。喉の奥が震えていた。心臓は普段よりゆっくりと脈を打っている。そんな風に錯覚するのは時間の流れもまた、同じように緩やかに感じられるからだろうか。この、ライヴの始まる前の数秒が途轍もなく長い悠久みたいだ。

 それは、さすがに言い過ぎか。

 実行委員の呼ぶ声がして、理紗が立ち上がった。

「よっし、じゃあ行きましょ。最高のライヴにしてやるんだからねッ」

 突き上げた右腕には、誰かのものによく似た黒いリストバンドが窺えた。

 単純だよな、こいつも。

 幕が上がった舞台にゆっくりと歩み出る。体育館ってこんなに広かったっけ、というのが最初の感想だ。我々の注目度は俺の予想を遥かに超えていたらしい。そんなに高さも距離もないところから見ているというのに集まった生徒たちが点のように犇いて見える。

 しかしそれもそうか。

 よく考えれば、こちらの面子は天下無双の生徒会長と式奇人の二枚看板だ。おまけにどちらも美少女ときている。知名度抜群の鈴童だけで話題になっておかしくないのだ。付属効果で理紗に衆目が集まっても不思議はない。

 こんこん、とギターを小突く音。

 ざわめいていた場内が、その一音だけで静まった。

 別に音が全員に届いたとか、そんなことではないだろう。ただ、それだけの動作で空気を変えたのだ。参ったな。この場でまだ役に入り込めていないのは、どうやら俺だけらしい。

 ここから先、三人を繋ぐ言葉はない。あるのはただ、紡ぎ出すメロディラインだけだ。

 そこから交わされる意思もあるだろう。だが、確かなものは何一つない。自分を信じられなくなればそこで脱落だ。そう――この手首の怪我が悪化しても誰も助けてくれないし同情もくれやしない。自分でこうすると決めたのだから。

 たとえどれだけの苦痛でも、そうすると、その先にあるものはそれと引き換えにしても手に入れたいものだと思うから。

 理紗が振り返る。リハーサルと三人の立ち位置は変わっていない。中央から残った二人、俺と鈴童にアイコンタクトを図ってくる。大丈夫かと、準備はいいかと。果たして、苦笑した俺の返答を理紗はどう捉えたのか。長い髪を翻して、そしてここに集まった人の群れへと向かった。

 彼女の背中を見据えて。

 頭の上に持ち上げたスティックで始まりを刻む。

 走り出せ。

 ――――さあ、行こう。

「“目覚ましの音で目を覚ます――生憎の雨が欠伸を溜息に換えた”」

 物凄く前向きで、自分を擁護するように考えるなら、さっきまでの震えは俗に言う武者震いだったのかもしれない。だってそうだ。さっきまでの緊張感が今はむしろ心地がいい。押さえ込んでいた感情を爆発させて、叫びに変えて、音に変えて走らせる。この瞬間が待ち切れなかったのだ。

 心音は早く。

 体と心を置き去りにして先走る。

 遠くへ影を残して消えていく。遠く遠くずっと先まで。爆音に似た歓声に包まれて、それでもまだこの感情の高ぶりは収まらなかった。喉が焼き切れるくらいに叫びたい。それでもまだ足りないだろう。血はどんどん熱を帯びていく。全身を駆け巡って運動の促進を続ける。

 遠くの空へ駆け抜けて、

 青く青く果てない色の夢に声よ届け、

 キミの歩む道、

 その道標になる歌だけを胸に響かせて。

 自分の心が折れかけていたいつかの昼休みに初めて聴いた歌詞が後押しする。ペース配分なんて考えていられそうにない。この瞬間の歓喜の為に、今日までの練習があったのだろう。そう思うと堪らない。

 いやいや落ち着け。

 まだ一曲目だろ。少しばかりはしゃぎ過ぎだ。こう、全体のバランスを考えないと。

 無心になって振り続けていた腕をわずかにその勢いに歯止めを利かせる。まだまだ序盤だ。下積みはもっと静かでないと。そう言っても、会場のボルテージは今をして既に最高潮のようなのだが。無理もない。一曲目にこんな曲を持ってきた誰かが悪いのだ。

 激しい疾駆が風を巻くように過ぎ去る。

 早くも歓声の爆発を生み出した、入りは上出来といえるだろう。

 そして息を吐く間だけを挟んで二曲目に移る。

 さっきよりも抑え目のテンポとボリュームだが、何分やはり余韻が残留している。盛り上がりは留まることを知らない。天井知らずとはこのことだ。体育館の外までこの音が届いているんじゃないか。

 いつかほら、覚えてる?

 放課後のトラック。

 泥だらけになって繋いだバトン。

 理紗の歌声とそれに呼応するような演奏の振幅を肌で感じた。三人の内一番後ろで、そして中央に位置する俺の居場所からは体育館の中が一望できた。突き上げる拳も、誰かがメロディに乗せて叫ぶ声も敏感に感じ取れる。

 雨の日も。

 君がいない日も。

 普段より感性が尖っている。

 むしろそれは、この場にあるあらゆる音を拾ってきて耳が痛いくらいだ。混沌として渦巻いていく。それに飲み込まれないように自分の音を見失わないようにとひたすら腕を動かした。なんだろう。それでも、逃走している気分ではなかった。

 泣きたくないよ。だから笑うよ。

 ほらまた擦り剥いた膝を見て笑顔を零して。

 そんな日々も終わりなんだねって。

 やっぱり君は笑うから――

 気付けば熱い息を吐き出す自分がいた。二曲目を終えてまた少し間隔が開く。楽器はすべて鳴り止んでいるはずなのに。頭の中に流れていく旋律のイメージが消えてくれない。また些細な音が聴こえた。衣擦れの音や、風が天井を擦る音、それだけじゃない。漣みたいな人の囁きその声が、ひどく、鋭敏に感じ取れる。

 ほんのわずかな音がうるさい。鼓膜が掻き毟られる。聴覚がびりびりと痺れて痛い。

 なのにどうしてか、それが心地いい。この場で音に飲まれてしまいそうな自分がいるのに、その途方もない渦に溺れてしまいそうな自分がいるのに恐怖はない。そんなものよりも今は、もっと――。

 ギターが稲妻の疾駆で吹き荒れる。

 あれこれ考えている内に三曲目『青い鳥』が始まっていた。忘れていたわけではない。しかし確かに失念していたのだろう。今日演奏する四曲の中で『青い鳥』だけがギターから始まる。他とは逆の順序で、ギターのソロから入り、それに一瞬遅れてベースが重なるのだ。ドラムは一番最後にスタートする。

 気を抜いていた所為で下手をすれば入り損ねるところだった。

 ――“真っ青な羽を広げて歌声を上げる”

 歌声が、遠い。

 聴覚があまりに膨大な量の刺激にどうかしてしまったのだろうか。理紗の声がここじゃないどこかから聴こえてくるみたいに感じられる。なのに依然として、狂ったみたいに歓声は止まない。まるで、世界を満たしている音の全てがここに集まっているみたいだ。

 その、中で。

 ――“ここにいるよと叫んでいた”

 輝いて見えた旋律があった。

 ――“届けと歌って声を枯らす”

 ――“それはまるで誰かの慟哭のようで”

 どくん、と心臓が脈を打つ。流れ出す血潮とそこに停滞する熱を感じる。また一層高く跳ね上がる心臓。そして揺れる世界。鼓動が共鳴していた。一体何に? 決まっている。この世界の全てに。

 ギターの走る音と奏でるメロディラインが、虹のように色として見えた。

 ベースの追走する音と生み出す旋律の輪郭が、空のように広がっていた。

 その中で、負けじと声を張り上げる、止まることなく稼動し続ける四肢にエールを送るようなドラムの音を聴いた。自分で叩いている。自分で張り上げている。なのになんで、こんなにも遠いのだろう。どくん、と鳴ったのは果たして誰の心臓か。この拍動は心音か、それともドラムなのか。

 顔を上げて見渡す。

 さざめく人の波と押し寄せる音はまるで夜空にさんざめく星だ。

 圧倒的なこの光景の全貌を、思えば初めて演奏中に見た気がする。

 そうしてようやく悟った。

 ――嗚呼そうか、と理解する。晴れやかな気持ちには雲一つない。

 これが、ここにあるこの景色こそが目指していたものだ。

 三つの欠片で作り出す、一つの巨大な世界。ギター、ベース、ドラム――それだけじゃない。ここにある全てがピースだ。誰かの息遣いも、心音も、衣擦れの音も、全てが相俟って一つになって絵を描いている。だから今は、はっきりとわかる。鋭敏な神経は、もう、自分が絵の一部になっていたことを表していたのだと。

 ――“イヤだってこのままじゃ”

 ――“ずっと二人でいるだけじゃ”

 既に体には意識が通っていなかった。そもそもここに、今この場所に誰かの独立した意思などない。旋律が描くメロディラインを、その上をひたすらに走り続けていく。遠くまで、もっと遠くまでと。終わりなんて今は見ていない。目の前の一本の道をどこまでも。

 行く先は夢の果てか。

 それともその先か――。

 ――“不安だから、だからもうどこにもいかないでって”

 ――“ここにいるから、いるからね”

 幸せの青い鳥は傍にいて、飛び立つ瞬間を待っている。だけど誰も気付いてくれない。だから、やっと飛び立った幸せを人は実感できないのだと、そんな教訓がある。自分の幸せに気付けることが、ただそれだけのことが本当の幸福なのだと。

 例えばこの光景だ。

 この、何百人もの人が一つの何かを作り上げているこの瞬間に気付けたことだけで俺にとっては幸福だったのだろう。それは本当に些細でちっぽけかもしれない。だが永遠に色褪せることのない宝物になるはずだ。

 天まで届けと、大袈裟に振り上げた右腕とスティックを力の限り振り下ろしシンバルを鳴らす。

 雷鳴のような嘶きが歓声を割って空に消え去り――

「ぁ――――ッが…………ッ!」

 忘れていた激痛が、牙を向いて神経を陵辱した。

 リハーサルの時とは比較にならない。痛覚を司る神経が束なら、それを一本ずつ引き裂かれているようだ。悲鳴を上げようにもそれどころではない。そんな余裕すらない。神経は痛みを感じることだけに精一杯で他のことを許してくれなかった。

 体はまだ動いている。だから、激痛に耐えれば演奏だけは崩さず続けられる。

「か……ッはぁ……」

 喉が焼ける。肺が擦り切れる。

 手首だけじゃなかった体の至るところが痛みに軋んでいる。

 もうとっくに限界だったんだ。ドーピング染みた意識の昂揚がこれまで痛みを忘れさせていた。だがもうそれも限界にきていたらしい。動きを強制終了させる、既に警告の域を超えた痛覚の悲鳴が容赦なく意識を引き裂く。

 これまで自分のいた場所が離れて行った。

 もうさっきまでの音のラインには乗ることが出来ない。今から追いつくことなんて出来ないのだから、膝を曲げてリタイヤすればいい。二人には悪いが限界なのだから仕方がないだろう。体はもう動いてくれそうになかった。手を伸ばせばそれだけで走る痛みが邪魔をした。

 おしまいだ。これで、何もかも。

 ――“失くした後でわかる、君の大きさを”

「…………んな」

 弱々しく消えていくドラムの音に呟いた。

 その言葉で自らを鼓舞する。

 ――“綺麗な色した青い羽、赤い色の空に飛び立った”

 痛みに負けそうになっていた意識を、沸騰しかけていた熱意を言葉で押さえつける。

「……ふざけんな、この」

 痺れて感覚もなくなってきているのに、痛みだけが際限なくリアルだ。

 だがそんなことは知らない。

 叶えてやると約束した。

 俺自身もまた、この式の結末が見てみたい。

 立ち止まりたくなかったのは、ただ一度輝いていたその――

 ――“君がいない日々を映した、誰かの涙を溜めたあの空”

「……終われるわけねえだろ、こんちくしょう――!」

 ――大切な少女の笑顔がまだ、残留していたから。

 きっと声にはなっていなかっただろう。聴こえていたのは俺だけだ。それぐらいに吐き出す息は弱々しく、なのに内側から体の節々を痛み漬けにしていった。痛みを生む為に擦り切れて、満足に体の外へと出て行かない。今、自分がまともに呼吸できているかもわからないくらいだ。

 でも構わない。

 もう一度、あの場所にいけるならそんなことは些細な問題だ。

 脚を止めることは絶対にしない――ここを走りきって最後に笑えるまで、絶対に立ち止まらない。

 痛みは戒めだ。意識が飛ぶくらいに激しいものもあった。だがその度に決意で繋ぎ止め、感覚だけで腕を奮った。猛り狂う。こんなところでは終われないのだ。最後まで、この二人について行きたい。付いていくと、約束した。

 ――“いつかずっと傍にあって”

 ギターの疾走が風になる。

 ベースの追走が空を生む。

 ドラムの心音が世界を動かす。

 星を廻せ、立ち止まるな、息さえ惜しんで走り続けろ。

 ――“近くにあったから気付かなかった”

 ラストスパートで残る全てを叩き込む。そうでもしないともう、ついていけそうになかった。今度引き離されればそれで終わりだ。留まることを知らない音の波。旋律が色を点滅させて駆け巡る。集束して爆発する、終焉に向う最後の一節。

 ――“大切なものは、もうずっとずっとここにあったから”

 シンバルの連続で途切れそうな意識を引き戻し、痛みの中で顔を上げた。

 燦然と輝いて見えたのは、有象無象の広がった巨大な景色なんかではなく。

 見慣れた小さな、その、彼女の後姿だった。

 音が彗星のように尾を引いて消えていく。世界を満たしていた無数の色が薄れ、星の瞬きみたいな細かい音が途切れないまま続いた。それは最後に一度再び燃え上がる、最後の灯火への導だった。

 ――“君は、鳴いた”

 青い鳥が飛び立つように、三つの音が溶け合って螺旋を描く。

 音の名残は蹈鞴を踏んでいるみたいだ。振り絞った力でドラムを叩く。最後の一打を終え、そして後は幕を引くギターとベースのメロディを聴いた。

 ようやく呼吸が出来た、ずいぶんと久し振りな気がする。

 思わず笑ってしまいそうだ。全身が脱力して、肩が項垂れている。ここを乗り切ればなんとかなる。『窓の向こうの空の果て』はそこまでドラムの負担が大きい曲ではない。クールダウンだ。熱に焼かれた関節を落ち着けるための制動距離と思えばいい。

 最後だ。

 俺がシンバルを鳴らせば最後のメロディが始まる。

 ほら早くしろ。煮詰まった会場は最後の一曲を待っている。おまえが始めないと、何も始まらないだろ。だから早く、腕を振って、音を、鳴らせ――

 ――――限界だとは、気付いていた。

 けれど俺は、刹那に気を抜き生まれた笑みのまま硬直してしまう。痛みが邪魔をするだとか、そんなもんじゃない。微動だにしないとはこのことだ。肩から下の部位が動かせなかった。感覚はある。痛覚がはっきりと。なのに感覚神経だけが研ぎ澄まされ、運動神経は、まるで機能していない。

 嘘だろ、おい。

 後一曲でいいんだよ。だから動けよ。動いてくれよ。

 そもそも、始めることさえ出来ないだろ……ッ。

 不審に気付いて鈴童がこちらを振り向く。不安が的中した、とその目が言っていた。責めるような視線ではなく何故か泣きそうになっている。ふざけんなよ、泣きたいのは俺の方だ。鈴童は俺の異変に気付いてもまだ何もしようとしない。

 何とかしろ。今ならまだ間に合うだろ。

 何事もなかったみたいに演奏を再開するんだよ。こんなところで、とまんなよ――! 

 けれど、どんな言葉で自分を罵倒しても、罵っても、鼓舞してもそれでも、腕はわずかな痙攣を起こすだけでしか応えてくれなかった。完全なゲームオーバーだ。燃料切れなんてものじゃない。腕が腕として機能する為の回路が壊れている。

 鈴童が目を閉じた。ベースに添えた手が弛緩したように見える。


 よくやった。


 誰が言ったのだろう。

 誰も言っていない。

 でも、確かに聴こえた。

 それが、終わりの合図。

 途中で折れ掛けた時には感じなかった悔しさが急に湧き上がってくる。

 駄目だった。最後まで、走りきれなかった。

 鈴童が理紗に体を向ける。何と声を掛けるのか。これ以上のライヴ続行は不可能だと、その理由を説明するのだろうか。やめろ、と止めたい。やめてくれ、と懇願したいけれど――でも、それでももう限界なのだ。どうしようもないくらいに、どうしようもない。

 そっと、目を閉じて、


「――木漏れ日の下で呟いた言葉、今も覚えてる」


 理紗の、声を聴く。

 場内がざわめいた。メロディがないのだ。

 それは弾き語りでさえない。ただの呟きのようだった。

 驚愕は等しく全員のものだ。当事者である理紗だけが冷静で、困惑する全員を取り残してその脚をゆっくりと動かし始める。最後の旅へ踏み出した一歩は、これまでの疾駆からは想像も出来ないくらいに静かな歩みだった。

「ありがとう。同じ場所にいるよって、言ってくれた君が――」

 これまで振り向くことのなかった彼女が、ここで、初めて振り返る。

 体ごとこちらを向いて、感情を隠した、温かい、隠し切れない幸福な笑顔を滲ませて、


「――――大好きでした」


 聴くことのなかった、歌詞の続き。

 或いは今付け加えられたのかもしれない。旋律に乗らない彼女の声は静かに余韻さえ残さず透明に変わる。くすり、と口元が小さく笑った。いつも見せる、自信に満ちた不敵な微笑だ。そして理紗は、それだけを残してまた衆目を仰いだ。

 ギターの演奏が始まる。

 予定していた曲目ではない。これは昨日、俺が旧音楽室で聴いた歌だ。紙飛行機になって空を割った、彼女が見切りを付けた式だ。それが、今、こんな風にこんな場所で。

 戸惑いにざわめいた体育館の中も、直ぐに演奏に呑み込まれた。ギターの弾き語りが静かに続いていく。そして初めは取り残されていた鈴童も遅れてベースのフォローとコーラスを重ね始めた。

 なんだ。

 あいつ、本当は全部知ってたんじゃないか。

 全部俺の想像かもしれないけれど、それでもそう、思わずを得ない。

 知っていたから、こんな場合の為に新たに一曲を書いていたのではないか。それを俺に見つけさせれば、鈴童がその譜面を見れば、こうして演奏に参加することも出来る。全部あいつが知っている情報を組み合わせれば可能な範囲の仮定だ。

 けれど今は、そんなことはどうでもよかった。

 自分でもわからない。どうして、こんなにも悔しいのか。二人の演奏に参加したいと思う。思ってしまう。それが出来ない自分がどうしても悔しい。だから、涙が止まらなかった。心に響く歌詞と、二人の演奏が続いていく。堪えきれずドラムに寄りかかった。

 構わないだろう。 

 今、衆目は前で演奏している二人に向いている。なら、誰もこっちには気付かないはずだ。

 今はまだ、大丈夫。演奏が終わるまでに、流せる涙は流しておこう。

 

 泣かないでいたいよ。大好きだから。

 ここにいて。いつもみたいに歌ってよ。

 もうきっと君は忘れているだろうけど。

 ――二人歌った約束の歌を。


 これが、散々奮闘してその末に得た、式の導き出した結末だった。


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