33/月下の弾き語り
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「あなたたち、最近また学校に忍び込んでるでしょ」
我が校では各教科ごとの準備室というものが設けられている。あくまで教科ごとなので、基本的には一年から三年まで同じ教科を担当する教師たちは相部屋ということになる。主にプリントだとか教材を置いておくだけの倉庫みたいになっているのが常らしい。
が、俺が今呼び出しを受けていた数学準備室は違っていた。恐ろしいほどに整理整頓されている。人が生活できそうなくらいだ。前述の通り通常ならば準備室とはこんな小奇麗な場所ではない。もっと殺伐としている。
ちなみに何故俺がそんなことを知っているかといえば、一年の頃の担任に呼ばれて何度か訪れたことがあるからだ。ノート返却とか、そんなのの手伝いみたいな。
話を戻すと、そんな感じで散らかり放題の準備室には教師たちも寄り付かず、折角このような部屋を設けてもらっていても大抵は職員室に入り浸るらしい。これも前担任からの入れ知恵だ。なので、現在室内には俺と俺を呼び出した鈴童先生の二人だけだった。
部屋が妙に綺麗なのは彼女の妹が整理した結果なのだろう。
ところで気になるのはそんな部屋の様子ではなく、鈴童先生のお言葉だ。
「どういうことですか?」
「惚けないの。知ってるんだから。そりゃあ、練習時間が足りないのは察するけどね」
「いや、ちょっと待ってください」
そりゃあ、前科のある身でこんな否定をしたところで信用してもらえないかもしれないけれど。
しかし今回は正真正銘の濡れ衣だ。下校時間後には鈴童とその知り合いのライヴハウスで例の練習をして、それだけなのだ。わざわざ怪我までしているのに学校に忍び込むような真似はしない。さっさと寝て翌日に備えるさ。
鈴童先生もそれらの事情を知らないわけではない。
怪我のこともライヴハウスのことも知っている。
存外疑いが晴れるのは早かった。先生は苦味の利いた顔をして頭の上にクエスチョンマークを点滅させている。人差し指を唇に当ててなにやら困った顔だ。捜査に行き詰った駆け出し刑事……というには少しあれか。少年探偵団美少女探偵だ。
「確かにね……うん。そっか」
「勘違いですよ、先生」
「んー……でもなぁ……」
まだ腑に落ちない様子だ。
「ギターの音、聴こえるんだよね。空耳なのかな……だったらそれはそれで怖いんだけど」
いつかの噂の再来か。
それはけれど前回流れていたものと微妙に異なっていた。そもそも噂として吹聴されているわけでもない。鈴童先生が個人的に感じている違和感みたいなものだ。だから本人が口にしていないだけなのかもしれないが――そこにはドラムの音が含まれていない。
ちょっと待て、まさかな。
結論から先に言おう。
それから約十二時間後、半日後に時系列はジャンプする。
俺の想像した光景は見事なまでに現実として形になったのである。
一人で夜の校舎に忍び込んだのは初めてだった。いつもは理紗といっしょだったからな。情けなくも一人だと結構心細くて気味が悪い。特に旧校舎に入り、どこからともなくギターの演奏が聴こえてきた瞬間なんて鳥肌が止まらなかった。演奏しているのが誰かを知っていても、それでも。
抜き足差し足で旧音楽室に近づく。
いつか鈴童がそうしたように、扉の前で屈みこんで扉に耳を当てた。
ふむ。確かにこの中からだ。俺は音だけでギターの種類を判別できるほど達者な音楽家の聴覚を持ち合わせているわけではない。この中で誰が演奏しているのかを音だけで判断することは出来ない。音だけでは、だ。状況を考えてみろ。こんな場所で、こんな時間にギターを弾いてる奴がいるとしたらそれは一人だけしかいないじゃねえか。
耳を澄ます。
だがここで俺はある違和感に気付く。
聴こえてくる演奏に覚えがない。理紗が練習のために忍び込んでギターを弾いているなら、それは聴き馴染んだメロディーになるはずなのだが。今までに聴いたことのない旋律が若干の恐怖を煽った。
これはあれだ、世に言う学校の怪談みたいな感じだ。
誰もいない音楽室からバッハとかベートーベンとかの演奏が聴こえてくる感じの――
ふと気が付いた。
まったく聴いたことがないわけではない。
何故か初めて聴くはずの曲なのに耳に覚えがあるような気がしないでもない。何となく次の音が読めるというか、知らぬ間にリズムが頭の中で刻まれていたりだとか、そんな感じの。まるで別の媒体を介して耳にしたことがあるような感覚だ。
例えばそう。
これが、ギターでない別の音で演奏されているのを聴いたことがあるような……
「誰よ、そこにいるの」
ぴたりと音が止まり、鋭い声がドアの向こうから飛んでくる。
「誰かって訊いてるの。答えなさい――よッ」
立ち上がる暇もない。
暴力的にスライドさせられた扉の動きに引っ張られ、体が冷たい廊下に転がされる。
ギターを提げた理紗が怒り眼でこちらを見下ろしていた。が、その目は直ぐに柔らかく丸くなる。尖った眼光を引っ込めると次は驚きにその目を見開いた。やれやれ。こっそり練習している姿を観察しようと思っていたのに。
「よ、理紗」
こうなってしまっては仕方ない。
盗聴の件はなんでもなかったみたいに片手を挙げて暢気に挨拶してみたりした。
「なんで、あんた、えっ、ちょっと、なにしてんのよこんな時間に!」
お互い様だろ。
「てっきり怪しい奴だと思って身構えちゃったじゃない!」
おまえ自分の立場わかってんのかよ。
俺だったからいいものの、もしこれが見回りに来た教師とか警備会社の人間だったらどうなってたか知らんぞ。少なくとも明日のライヴは確実に中止だろうな。それなのにこの尊大な態度は何だろう。まるで俺が罪人みたいじゃないか。
常識で考えろ。
俺たちは二人とも不法侵入の現行犯だ。
「何してんだ、今更夜中に忍び込まなくてもいいだろ」
「別にいいじゃない。あんたに迷惑かけてないんだから」
法律とか校則とか破ってんだよ。
「懐かしくなったのよ。なんとなく、こんな風に練習してた時もあったなって」
照れ臭そうに、あるいは照れ隠しに唇を尖らせてぷいとそっぽを向く。
楽器は既に体育館に運び込んだ後だ。当日に移動させることも出来るが、それでは生徒会の仕事などが差し支えて厄介だという鈴童の予想から今日中に終わらせていた。本当のところ、少しでも明日はライヴ意外で手首に負担を掛けさせたくないといったところだと思う。
空っぽの部屋の中を月明かりだけが照らしている。
雲のない夜だった。だから、灯りはそれだけなのに部屋の中が明るい。
静かで、冬なのに暖かい気がした。
「なあ理紗、今の曲ってさ」
びくり、と肩が跳ねると、音の速さで振り返る。
理紗の髪が螺旋を描くのが僅かに視界に映り、そして横転した。腹部に激痛を感じるところから察するにどうやら蹴りでも入れられたらしい。実に鮮やかな回し蹴りじゃないか。と、客観的になっていないと声を出してしまいそうなくらい痛かった。
「うるさい! 何も訊くな! 何も聴くなあ!」
なんで頬が赤いのだろう。
問いかける第二撃目が、今度は踵落しが見舞われる。落雷染みた一撃をどうにか回避する。こいつ、口封じに俺を殺す気ではないだろうか。どの攻撃からも躊躇いと加減が感じられないぞ。
「あれはね、没にした曲なのよ。没! 出来るのも遅かったし、今更練習しても間に合わないから切り捨てたの! なによ、悪い? 文句あるんだったらいったらどうなのよ」
「別に文句なんてねえよ」
それに没になったということも知っている。
何せ俺は――鞄の中を探ってみる。中身を弄っていないだけに、それは簡単に見付かった――あの紙飛行機を見つけたのだから。取り出したそれを理紗に突きつけるように見せると、それはどうしようもないトドメになったらしい。
肩が萎れて深いため息を吐く。
観念したみたいに弱々しく広げた紙面を掴み取り、理紗が言った。
「なんであんたが持ってるのよ」
「拾った」
「はあ……。なんなのよ。こんなことだったら丸めて捨てればよかった」
その方がエコだしね、などと口にしている。
どっちにしてもゴミになるならエコではないだろ。屋上から飛ばして誰かがゴミ箱に入れるのか、それとも直接自分でゴミ箱に入れるのかという違いでしかない。
「……いいわ、わかった」
何がわかったのだろう。
教室の後ろの方に固められた椅子や机の群れの中から一つ椅子を持ってきて、窓の方を向くようにして設置する。腕を組んで振り返った理紗は復活した眼光を俺へと向けて、窓ガラスでも割るみたいに腕を振った。
「座って。特別に聴かせたげるから」
ほら早く、と促されるまま俺はそれに従い腰を下ろす。
これから何が始まろうとしているのだろう。いや、実際それはわかっているのだ。理紗にしては珍しい。自分が見切りを付けた式にまだ未練でもあるのだろうか。こんな風に一人で弾いていたり、誰かに聴かせようとしたりするなんて。
「言っとくけど、これはその、昨日のご褒美なんだからね。あんたが、思ったよりよくやったから」
「そうかい」
「なによ、その顔」
「いや、なんか、ありがとよ」
「ふん。お礼なんて要らないわよ。だけど感謝だけはしなさい」
どっちなんだろう。
ふう、という吐息の後、理紗は静かにギターを持ち上げた。まるで初めて人前でその楽器を演奏するみたいに、自分を落ち着かせようとしている風な足取りが窓辺に向かう。差し込む月明かりが雲に隠れて影だけが動いて見える。その少しだけの空白は、がたがたと風に鳴る窓の軋みで埋められた。風が雲を流す。舞台の幕が上がるのに似た、月光の再来。
――月を背負った姿が綺麗だった。
見慣れた黒髪がいっそう神々しく見え、金色に照らされる横顔は不思議とそこにいるのが誰かを忘れさせる。うっかり彼女の演奏よりもそちらに気を取られ、これから始まる旋律の行方を見逃してしまいそうだった。
穏やかなメロディが続く。青い夜空と白く透明に融ける金色の月光がそのままラインを描いている。ギターソロのバラードだ。鈴童がベースで弾いてみせたそれとはやはり違う。ギターの為に書かれたスコアをその専門家が演奏しているのだから、違いがあって当然だろう。
一人で作り出す、夕凪の海を渡る波のようなメロディが風に消えてしまいそうなくらい儚かった。
「“例えば夕暮れの教室で――きっとずっと世界の果てまで続いているんだね”」
なんてこった。
もう歌詞までついてたのか。俺が拾った紙飛行機には歌詞なんてついていなかったぞ。興が乗ったのだろう。こんな大人しい曲はイメージに合わない。俺の知ってる理紗のイメージには。だからここにいるのは別の誰かなのだろう。あいつがこんな、静謐で綺麗なはずがないのだ。
――“そんな風に廻っていた季節”
――“泣かないでいたいよ。大好きだから”
――“もうきっと君は忘れているだろうけど”
――“二人歌った約束の歌を”
「“木漏れ日の下で呟いた言葉、今も覚えてる”」
終盤になってほとんど弾き語りみたいになった演奏の中、歌っているというより独白でもしているみたいだ。それでもまだ途切れていないメロディと歌声が紡ぐ言葉はやはり、歌なのだろうと思った。
ずっと見ていると吸い込まれそうな黒い瞳に見入られて、
「“ありがとう。同じ場所にいるよって、言ってくれた君が――”」
最後の言葉を、聞き逃した。
否、言葉ではない。そもそもその先の歌詞が存在していなかったのだ。続いていくのは閉じていくギターの旋律で、理紗は指だけを動かして口は閉じたままだ。月の夜がわずかに翳る。月光が雲に遮られ、あたりが不意に暗転した。
始まりと同じように。
雲が光を閉ざして幕を下ろす。澄んだ音は青い夜空の様に美しい。
月の、空に一人ぼっちの姿が目の前に佇む少女と重なって見えた。
演奏の幕に喝采はない。またいつもの冷たい静寂が戻ってきただけだ。俺はといえば、そんなことさえ忘れて演奏に聴き入り、あるはずもないアンコールに期待してしまいそうな心境で黙り込んでいた。こんなこと、間違っても口に出してはならない。もう一度、歌ってほしいなんて。
「で、何か感想はないの?」
「感想って……んなこと言われても」
綺麗な歌だった、と、それしか言えない。
もちろん口になど出来やしないのだが。褒めてやっては付け上がりやがるのだ。だからこいつの鼻を伸ばすような言動は慎まないといけないのだと、何年も前から俺は知っている。知っていてわざわざそうするほど馬鹿なこともないだろ。
と、言ってもだ。
「ああ――俺の、大好きな音だった」
今夜ばかりは俺も馬鹿になろう。
素直になって、そんなことを口に出してしまう。激しい後悔はまだやってこない。きっと明日の朝に目が覚めてから一気に押し寄せてくるとか、そんなのだろう。けれどそれはもっと後のことだ。今の俺には関係ない。顔が蒸発しそうな思いに耐えなくてはならないのは、明日の俺なのだ。
言い訳みたいに言い聞かせる。
不思議な夜だと我ながら思う。よくもまあ、こんな風にこの式少女を賞賛できたものだ。
こんなに素直にこの幼馴染みを愛しいと思いやがったもんだよ。
理性はこれ以上先を考えるなと叫んでいる。この先に踏み込めば、何か、きっと後でいろいろと困る。が、知ったことではないと押しのけようとする何かが今は強かった。
例えば鈴童のことだってそうだ。
こいつがバンドをやりたいなんて言ったから、俺は何をどうしても鈴童を引き入れようとした。その先にどんな結果があるとしても。夕暮れの河原で投げ込んだ何十球かの白球は、果たして誰の為だったのか。何の為に――そうだ、手首を怪我してまでまだこんなことを続けている意味も、同じじゃないのか。
一つだけはっきりしたことがあった。
鈴童は言った。
手の怪我を理紗に話すべきだと。
それを否定したのは何故か、それがわからなかった――でも今ならわかる。
俺は嫌だったのだ。こんなところで一人リタイアするのが。俺が使い物にならないとわかれば、当然理紗は何かしらの対策を取るだろう。それがドラムを排除したベースとギターだけのバンドだとか、そもそもこのバンド自体なかったことにするのかはわからない。けれどその不確かな未来に俺がここにいる保障はない。それが、不安だった。
無理矢理にでも今を突き通そうとした。
そういうことだよ。わかったか俺。
「よろしいっ」
こいつは、この式娘は、どれくらいの覚悟で俺がそう言ったのかをわかっていない。
だからあっさりこんなことが言えるのだ。
朝焼けみたいに晴れやかないつもの笑顔で、さっきまでの、夜の空に浮かんだ月を連想させる静謐さなど微塵も残さず。どうしたらこんなにも簡単に意識を切り替えられるのだろう。少しこつを教えて欲しいものだ。昨日までの気まずい雰囲気なんて露ほども残っていないじゃないか。
理紗は、そしてまた平生の通り、ぴょんと跳ねるみたいに駆け寄ってきて拳を突き出すのだ。
「あたしの式――明日のライヴ、絶対成功させるわよ!」
満面に無邪気な笑顔を貼り付けた幼馴染みの小さな拳に、俺も同じように拳を重ねた。
明日が、本番だ――――