32/青い夢の先
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かくしてリハーサルの当日とその瞬間がやってきた。
舞台の上に控えるスリーピース(正式なバンド名は決まっていなかったりする)の各々はそれぞれに最終調整を行っていた。本番のプログラムと同じ順番で行われるリハーサルにおいて、トップバッターは生徒会つまり俺たちである。
なので我々は審査員である実行委員の視線に晒されながら、幕の上がった壇上で待機していた。
三人の配置はこれまた判で押したみたいなテンプレだ。
ドラムを中央後方に配置し、ギターを正面から向ってやや左よりの中央、ベースは右端といった具合。三人を頂点にして三角形を描けば少し歪な形になる。実行委員がいそいそと準備を進めている間に、そろそろ三十分ほどが経過しようとしていた。
どうにも、こういう状況を見ると鈴童の存在がどれだけ大きかったのかを考えてしまう。タイムテーブル一つまともに回せていない現状に、鈴童の不在が一因として存在しているのは目に見えているからな。そうして遅れること半時、ようやく全ての準備が整ったらしい。実行委員が折りたたみ椅子に腰掛け、オッケーサインをこちらに送った。
理紗が一度ステージを振り返る。アイコンタクトというほどたいしたものはない。
ただ、始まりの合図を任される俺に自分はいつでもいい、ということを示しただけだろう。
次の発言はあくまでそのついでのようなものだと思う。
「手、それ何よ」
「ああ、これな……」
オリジナルティーシャツなんて洒落たものは用意していない。衣装は普通に制服で、照明の当たる舞台の上ではブレザーを脱いだ上にカッターシャツの袖を捲くっている状態だった。必然、患部である手首が露出する。その部位に俺はリストバンドを装着していたのだ。
「気合入れようと思って、かっこつけてみた」
「ふうん」
無論、テーピングとか包帯だとかあれやこれやを隠す為に他ならないのだが。
「あっそ。あんま似合ってないわよ、そういうの」
「うるせえよ」
嫌味だけ言って理紗はそれ以上何も言わなかった。
本当に何気ない、最後の会話があっさり終わる。
演奏が始まればそれぞれは孤独な旅に出る。誰も助けてくれない。誰も救ってくれない。同じ場所にいて同じ物を作り上げていても、決して、誰も誰かの代わりは出来ないのだ。だから、信じられるのは自分だけ。自分の技量と熱量だけだ。
鈴童と視線を交わす。それが最後だった。
確認するまでもなく全員が準備万端。
よし。それじゃあ、行くか――――
頭上で木で出来た二対の腕を交差させる。
三拍子で呼吸を合わせ、深海のような沈黙に火花を散らした。
そしてそれが始まりの合図。
シンバルの音は駆け出すときを待つ馬の嘶きで、
加速する十六ビートは蹄鉄が大地を打ち鳴らす響きだった。
手首の状態がどのようなものなのかは正直自分でもわからない。
試しに指でぐっ、と押してみた。普通に痛かった。夢じゃない。……そんな検証をしていたのではないが。朝目覚めて最初にしたことはそんなことで、ぼんやりと、他人事みたいにそれと向き合う。驚くほど自分は落ち着いていた。不安がなければ、けれど自信もない。
あるいは怪我なんかよりももっと、いっしょに演奏する二人の存在がプレッシャーだったもかもしれない。なにせ脚を引っ張っているのはいつも俺だからな。はい。ネガティブ終わり。
さらりと思考を切り替えて登校し、漫然と短縮授業をこなす。テストが終わったのになんで授業があるんだよ、とか思ってる間に放課後になるのだからやっぱり休みでいいだろう。今日に限ってはもっとこの時間が長くてもよかったように思えた。
「大丈夫なんでしょうね」
「なにがだよ」
手首のことがばれてるんじゃないかと一瞬不安になる。
放課後の教室、生徒会でありながらも一応は出演者とみなされる俺たちも今日ばかりは準備の免除が言い渡されている。鈴童は無視して体育館に向ってしまったが。俺も手伝うと言ったのだが、怪我のこともあり拒否された。無意味に悲しい。
行く当てもないので旧音楽室に脚を運んだのだが、後から理紗は俺を見つけるなりそのように訊いてきた。
「練習、してないんでしょ。ついてこれるの?」
「ああ、その話な」
俺はドラムセットを移動させながら空返事で答える。
「心配いらねえよ。俺だって何もしてなかったわけじゃない」
「どういう意味よ」
「聞いて驚け、俺は今日の為に秘密の特訓を積んできたんだよ」
「それ、秘密にする必要あるの?」
ごもっとも。
身内同士で秘密の特訓なんて、こんな事情がなければなんの意味もない。
「いいけど。それでちゃんとやってくれるなら、あたしは文句ないわよ」
手伝うから、と頼んでもいないのに殊勝なことを言ってくる。
スネアドラムを抱えた理紗が、
「あんた、何考えてるかわかんない」
おまえにだけは言われたくねえよ。
「わかんないけど、最後には絶対裏切らない」
不意に、その視線が俺の手首に向いた気がした。そして。
「信じてるから、裏切らないで。最後まで、ついてきてよね」
そんなことを言ってくるなんて、間違っても俺の知ってる式少女じゃない。
もしかしたら本当にこいつは全部知っているのだろうか。その上で、こんなやり切れない顔をして呟くのだろうか。考え過ぎだ。こいつに怪我のことが知れてるなら黙っていないはずだ。
いつもと違う雰囲気だった。
けれど笑えるほどこいつが普段どおりに見せようと努めているから、
「任せとけ。やるときゃやるところ見せてやるよ」
俺もそんな風に軽口で返したのだった。
理不尽な痛みで右手が遅れた。
バスドラムの音が一つ欠ける。
気を抜いた一瞬の隙を衝かれたらしい。まだ気になるほどの痛みということはないが、意識していなかった分の驚きみたいなものが大きかった。小さな取りこぼしでミスといえばそうだが声を荒げて責められるほどのものではない。だから理紗は全くの無関心でその先を続けていくが、鈴童は僅かにこちらへ流し目を送っていた。
しかし彼女の視線は心配だとかそんな優しいものではない。
――なにをやってるのよ。
と、批難されている気分だ。
演奏のことではなく、そもそも俺の行動を根本から批難している。
――流すだけでいいって、言ったのに。
言いたいことは手に取るようにわかるさ。まるで乱れない演奏に乗せた感情が続けて促してくる。
もういいから、ペースを落とせ。と。
確かに鈴童が正しい。このままのペースでいけば明後日の本番に影響を及ぼすかもしれない。ここは所詮リハーサルだ。適当にやってこなしておけばいい。鈴童の演奏でそれを誘導してくれれば、上手く理紗も誤魔化せるかもしれないし。
曲ももう終盤だ。最後の二三節くらい手を抜いても構わないだろう。
落ち着いた心でそう思う。理性的に考えて正統な判断だ。こんなものは本番の前哨戦でもなんでもないのだから、得られる自己満足なんて無視してさっさと次に備えよう。
一層高く――
――シンバルを鳴らした。
折れ掛けた心をその音と意識的に生み出した痛みで鼓舞する。
「――――!?」
鈴童は信じられない、と目を見開いている。明らかにこちらに視線を送っていた。理紗にばれんだろ、こっち見てる場合かよ。俺はといえば、それを横目に映すくらいの余裕しかないというのに。
精神は鈴童の考えを受け入れていた。
それでも体はまだ止まらないと叫んでいる。
雨上がりの空を駆け抜ける。
遠い夢の果てに歌よ響け。
後二三節、だからこそ手は抜けないんだろ。
最後まで、裏切らないって言ったんだろ。
昔からそうだ。そろそろ自分でも自覚してる。俺はどうしようもないくらいバカなお人好しなのだ。この幼馴染み限定で。だから一度約束してしまったのなら、それは破ることが出来ない。それが鈴童や理紗とは別の、俺が張り続けているくだらない意地だ。
*
祝勝会と称された集まりがその後旧音楽室で開かれたが、一体俺たちが何に勝利したのかは不明なままである。つまり気分の問題なのだろう。なにせこれを企画したのがあの式少女なのだ。ネーミングセンスに口出しとか、時間の無駄も甚だしい。
リハーサルでの演奏が予想以上に上出来だったのだろうか、理紗はそれなりに機嫌を直していた。本当に俺が秘密の特訓を積んできたのだとこれで信用してしまい、賛美の言葉を頂いてしまった。あんま嬉しくねえ。
「やるときはやるのね、あんたも。あたしが喝入れてやった甲斐があったってもんよ」
自販機で大量に買ってきた缶ジュースをあおりながら上機嫌にはしゃいでいる。
舞台が高校だということを考慮してフォローを入れておこう。決してアルコール飲料はない。が、理紗の様子は正しく酔っ払いのそれであり、俺の肩をばんばん叩いた後は、片付けを終えてやってきた鈴童に空中ラリアットをかますなどやりたい放題だ。どんだけ浮かれてんだよ。
本番前だというのに記念撮影を強制してくる理紗に逆らえず、俺たちは黒板の前に並ばされた。
三人しかいないのだ。携帯の自動シャッター機能を設定したりアングルとかピントとかを合わせるのに必死な理紗に気付かれないように、鈴童が小声で話しかけてくる。
「怪我は、どんな感じなの?」
「取り合えず、冷やしてテーピングしてる」
フラッシュが瞬く。
試し撮りというわけではなく、謝って撮影ボタンに触れてしまったらしい。
場違いなほど明るいかしゃりという音と、ごめんごめん、という謝罪の意思ゼロな理紗の声を聞く。無論鈴童も俺も完全に無視を決め込んでいた。この場にあって三人のテンションは完全に不等号で横並びである。
「痛みは、今はない。三十分くらいで治まったよ」
「そう……本番は、最後まで行けそうなの?」
「さあな。でもリハーサルで感覚はわかったから、ペース配分すれば大丈夫じゃないか」
「ねえ」
「なんだよ」
「怖くない?」
「どうだろうな」
何が怖いものか。痛みはあっても恐怖はない。
鈴童の意図しているところがわからない俺はそんな風に曖昧な返事をして、鈴童は、
「まいっか。貴方ならなんとかするって、わたしも知ってるし」
背中に紅葉を焼き付けるほどの張り手をお見舞いしてきた。
「何とか、なってたのかよ」
今日だって途中で躓いた。あれは完璧な演奏じゃなかった。それをどうにかしたと言ってくれるのは彼女なりの気遣いなのだろうか。
「何とかしたじゃない。だって、わたしがここにいるんだから」
言っている意味がよくわからない。
ますます頭上を旋回する星が増えた俺を鈴童はくすくす笑っていた。
なんだってんだ。
「おっけーっ。じゃあ撮るわよ! ほら、ちゃんと変顔準備して!」
俺を指差して言っているが、俺への指令なのか?
「当たり前じゃない。ほら、もう時間ないわよ!」
そう言って、
「きゃッ」
「ぅおッ」
三人の真ん中に立った理紗が肩に腕を回し、ぐっ、と体を引き寄せる。
数秒後、フラッシュと拍子抜けなシャッターの音が響いた。言うまでもなく変顔なんて作っている暇はない。三人の内二人は意表を衝かれて驚きの様相だが、約一名ほど満面に笑みを浮かべている女がいた。それが誰かなど言うまでもないだろう。
一つだけ、この辺りで落とし所として付け加えておく。
そんな記念撮影だったが、あれだけ念入りにセッティングしたにも関わらず三人の姿は半分ほどフレームの外に出てしまっていましたとさ。そりゃそうだ。誰かがいきなり後ろから飛びつくものだから、こうなって当然だろ。
*
この辺りで本日の成果を振り返ってみよう。
俗に言うフィードバックである。全て自己評価だが。
感覚については思っていたよりも洗練されていた感じだ。序盤こそ遅れかけたものの、どうにかついていけないまでではなかった。鈴童のリードの効果もあったのだろう。イメージ上での練習は自分の音が聴こえず、そして実際にスティックがドラムを叩く感触が感じられない。この二つの点が最大の難点だ。
音の感触と、衝撃の感覚。
こればかりはどうしても養うことが出来なかった。
とはいえ結果は最後まで置いてけ堀を喰らう事はなかったのだ。こればっかりは評価してもいいと思う。それにそれら二つについては本番前に一度体感している。それが幸いだ。ぶっつけよりも何倍もましだろう。兎にも角にもこの点においては想像以上に上出来だ。マイナスの結果も有り得る中でなら、プラスの結果は評価に値する。
問題はむしろ。
やはりというか、ネックだとばかり思っていた手首の怪我だ。これに関しては練習でどうこうなるものではない。時間の経過で治すしかないのだ。それでもぼんやり療養している暇もない。テーピングで固めているので痛覚だけならどうにか腕の力でカバーできる。問題は握力と、それから痛みでそもそも腕が機能しなくなる可能性だ。
今日も一瞬遅れたのは突然走った痛みに意識が裂かれ、予定していた動作に移れなかった。
もしもこれが、この結果がスティックの落下などに繋がってしまったらと考えればぞっとしない。ワンテンポ遅れるだけならまだ追いつける。だがそればかり、そのただ一つが演奏を全て崩壊させることになる。まさか、ここまでテーピングなんてする訳にはいかない。
根性でどうにか出来るなら助かるのだが。
さて。
フィードバック終了。
過去を振り返るのはここまでだ。
後ろ向きではなく前向きに思考を切り替えよう。
終わった物語を語るのはおしまいにして、ここからは先の物語を語ろうと思う。