31/リハーサル前日の約束(嘘)
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ライヴの曲目が発表されたのは翌日になってからだった。
四つの曲名が記されたルーズリーフを放課後になって手渡される。手渡されると言うよりも押し付けられると言った方が的確な様子だが。午後最後の授業が終わるなり椅子を引っ繰り返す勢いで立ち上がった理紗は、そのままずんずんこちらにやってきて令状を叩き付けるドラマの刑事みたいにそれを披露した。
この紋所が目に入らぬか、とでも言い出しそうな姿である。
回覧板でも受け取る気分でルーズリーフを摘み上げた俺はそれを半分に折って鞄に仕舞った。
「今日も練習来ないわけ?」
「悪いな。リハーサルは明日だし、こっちもこっちで忙しいんだよ」
ていうかおまえも生徒会なんだから手伝えよ。
「別に心配してるわけじゃないけど、それで本番大丈夫なのあんた」
「どうにかするさ」
「やる気、あんの?」
「それなりには」
短い受け答えの間も理紗は静かにぴりぴりとした空気を振り撒いていた。目が温厚じゃない。威嚇するみたいに尖ってる。だがいつもなら不満を溜め込むことのないこいつがこんな風に押し黙っているのは何だろう。それが不気味で目が合わせられなかった。
理紗は組んだ腕の上で指を世話しなく動かしている。爪先も連動してかつかつ音を立てていた。
何か言おうとして呑み込んでからたっぷりと五秒の経過を待って、そして口を開く。
「あんたさ、何か冷めちゃったわよね」
「そうか?」
うん、と首を縦に振って言う。批難されてる気分だ。
俺自身はまるでモチベーションに変化を感じていないのだが、理紗からしたらそう見えるのだろうか。だとしたら勘違いだと言っておこう。言わせて貰いたい。
「静歌が入るまでの方が俄然やる気だった」
確かに鈴童が入る前と入った後では俺も熱量に違いがあるとわかる。
しかしそれは鈴童をバンドに引き入れるという過程が煮詰まり、それに対するテンションが上がっていただけで、バンドに対してのそれは今も変わりない。鈴童が加わった今となってはその熱意が消えてしまっても当然じゃないのか。
そんなことを言ったのが悪かったのか、無表情なのに理紗の様相は更に険しくなる。
「バンド自体じゃなくて、必死になってたのは静歌とバンドをすることだったの?」
なんて、こればかりははっきりと苛立ちを窺える口調で訊かれる。
ちょっと待て、何がそんなに気に入らないというのだ。鈴童をバンドに加えることは、自分の式にも必要なことだと言っていたはずだろ。事実、鈴童の存在がなければ今の状況はない。当然、活路を開く為には鈴童を引き入れなければ何も始まらなかったのだ。なら、それに対して必死になるのは当たり前じゃないのか。それを責められる意味が解らない。
舌打ちしたような音が聞こえた。
けれどそれは空耳だろう。
ため息みたいな音が聞こえた。
だけどそれも聞き違いだ。
理紗はいつものように髪を翻し、足音を高らかに憤然と鼻を鳴らした。
「あんたがどこで誰と何をしてても知らないけど、ライヴだけは成功させるわよ」
スライド式の扉を蹴飛ばして開けかねない歩き方だが、理紗は存外に大人しく扉を半分ほど横に流し、
「ちゃんと協力してよね、あたしの彼氏作りに」
感情の感じられない声がそう言った。
そしてそれは、空耳でも聞き間違いでもなく、いつまでも反響して頭の中に蟠る。
ぴしゃり、と戸が閉まる。
教室に残されてしまった俺は拳を作って側頭部を小突きながら考える。なんだろうもやもやとして気分が晴れない。どうにも調子が狂っていけない。ああ、もう。そういえば忘れていた。これがそもそも理紗の彼氏を作る為の活動――式なのだと。
思い出すと途端にそれがリピートされた。思い出さないようにしていたのか知らず忘れていたのかは、もうわからないが、なんだろう、思い出したくなかったということだけは確かにわかる。
霧がかかった思考の中で思う。
鏡がないから確かめられないが、今の自分の表情はおそらく、さっきまで見ていた理紗の表情によく似ているだろう。なんとなく、そんなことを考えて変なところに行き着きかけた思考を誤魔化していた。何をしているんだろうね、俺は。
*
ではお待ちかね。
皆の衆発表しよう、これが我々の記念すべきライヴプログラムである。
……締まりねえな。
『Siren』
『Last season』
『青い鳥』
『窓の向こうの空の果て』
という曲目に決定されたらしい。
五曲中から選曲されるのだから、こんなものが発表されたところでそんな驚きもしないのだが。とはいえ練習メニューが若干でも絞られたのは確かだ。それに順番や曲目がはっきりすることでペース配分も考えられる。どうすれば最後まで走りきれるか。
万全の状態ならそんなことも考えなくて済むのかもしれない。
万全じゃないから、なんとか乗り切る方法を発案しなければならないのだ。
「……意外っていえば、意外だよな」
「そう? わたしはだいたいこんな感じだと思ってたけど」
けろりとした顔で鈴童がルーズリーフを返却してくる。
俺だって少しくらいは予想していたりもした。頭に『Siren』が来ることと、二曲目が『Last season』までは予想通りだ。だが違っていたのは三曲目が『青い鳥』だったことだ。アップテンポの二曲を続けた後に更に同じタイプの曲を続けるのはどうなのだろう。
確かに『青い鳥』はバラードとして扱える曲かもしれない。しかしあからさまなそれとは言えず、四曲中最速のテンポで演奏される『Siren』に引きを取らない疾走感の曲調である。二曲目、あるいは四曲目に本来なら持って来られるべきだろう。
アップテンポ二つの後に曲調の柔らかな『窓の向こうの空の果て』を持ってくるものだとばかり、考えていた。そうなればこちらも少しくらいは負担を軽減出来て助かると思っていたのだが。
「曲のメッセージ性を考えたら、必然的にこうなるのよ。でも確かにきつい順番でもあるわよね。わたしから変更の案でも出してみようか?」
「それは止めといた方がいいだろ」
「どうして……?」
何故かって、そりゃあ。
……何故だろう。というよりも何て言えばいいのだろうか。そうすることが理紗を下手に刺激しかねないというのはわかっているのだが、それを鈴童に言ってしまうことが何となく憚られた。とにかく。
「これで何とかしよう。青い鳥まで乗り切れば、後は何とかなるんだ」
「わたしはそこで燃え尽きるんじゃないのか、って思ってるけど」
全曲中最後に完成したのが『青い鳥』だ。だから練習した回数も他より少なければ、実際の難易度も最大の曲である。そんなものが疲労の溜まった後半で、しかもあの二曲の後となるとそれは――……考えるのも嫌になるな。
難しい難しいと言っていても仕方がないことだ。
少しでもまともにやれるように練習するしかない。それくらいしか今は出来ないんだから。
「とりあえず、これで一回練習してみよっか。実際にやってみないとわからないんだし」
確かにその通りだ。
一度演奏してみたら、あれ、意外となんでもないじゃん、ということも有り得る。その逆もまた然りではあるが。それならそれで対策を考えよう。断る理由もなく頷く。俺の準備はいつでも万全だ。椅子を後ろに引けばいいだけだからな。
そして準備の必要な鈴童は、ベースをアンプに繋ぐと不可解な間を作って止まってしまった。
どうしたのかと訊くより先に、おずおずと顔をこちらに向けた鈴童から逆に問われる。
「歌、あった方がいいかな?」
というと、つまり。
「だから、わたしが歌った方が実践っぽくて練習になるって言ってるのよ」
あれ、疑問から断定に変わってるぞ。
「いやまあ……だったら、頼む」
正直、こっちは歌詞を気にしている余裕もないので好きにしてくれるといい。
気が散るとかいうことはないし、その方が本番に近い感じになるのは確かだ。歌詞に合わせたこちらのテンションというものもあるし。聴いている余裕がなくても耳には入る。無意識的にも演奏は変化してくるはずだ。ならそれにも慣れておかないと、か。
だったら、と立ち上がった鈴童が息を吸い込む。スイッチはそれだけで切り替えられたのか、緩んでいた空気が冷たく張り詰めた。沈黙に体温が引いていく感じだ。ここからは自分達の音で熱を作り出さねばならない。
スティックを合わせて始まりの音を鳴らす。
鈴童の歌声は平生のクールな彼女のイメージと違っていた。録音を一度聴いているので驚きこそしなかったが、生で聴いてみるとそのギャップはより大きい。無邪気というか、なんというのかわからないが、歌声に体温を感じるとでもいうのだろうか。
理紗の声に重ねられているときには気付けない、それが鈴童の作り出す歌声だった。
遠くの空へ駆け抜けて――その道標になる歌だけを胸に響かせて。
ふと思い出す。そういえば俺は今実際にはドラムを叩いていない。意識すると幻聴は遠くへ離れていくが、無意識の間にそれを聴いてしまっていた。この練習の意味であるそれが、却って不安だ。本当に自分がこんな風に音を出せているのか。こんな風に、鈴童の音についていけているのか。考え出すときりがない。
普段通りの練習風景に歌声が加わっただけでここまで違う。漠然としてただ腕を振るのではなくもっと別の意味が見つかった。出来るかじゃない、そうしないとならない。そんな不安やプレッシャーをはね除ける為の練習なのだ。
インターバルを挟んだ昨日と同じ練習の後に、今日はライヴと同じ休憩なしの一巡を加えた。
腕に蓄積する疲労は確実に増えていたし、手首への負担もそれなりに大きくなる。だがこれくらいなら大丈夫だ。……いや、大丈夫なのか。だってこれは実際にドラムを叩いていない。本番ではこの倍以上の衝撃に耐えないといけないのだ。
「――――っ」
頭に浮かんだ弱音を吐息といっしょに逃がす。
ネガティブな未来予想はなしだ。現実にそれと直面すればその時はその時でしかない。そんなまだ不確定な未来に今を潰されていては世話ないだろう。だから今の俺に出来るのはこんなことでしかないけれど、腕を止めないことなんだ。
青い鳥の旋律が駆け巡る。
童話を題材にした、それなのにスピーディーなガールズロックは全曲中最大のテンションだ。
近くにいるから気付けない、結局探していた幸せの青い鳥は直ぐ傍にいたのだという、見落としがちな手の届く幸福を暗示する物語。それを模った歌詞だった。
ふと思う、理紗は何を考えて歌詞を作っているのだろうか。
あいつのことだから意味はないのかもしれない。……きっとそうか。頭の中が四次元ポケットみたいに混沌とした奴なのだ。外側から覗こうとすればこっちが混乱しちまう。
綺麗な色した青い羽。
赤い色の空に飛び立った。
――君がいない日々を映した、あの空――
「ぁ、づ――――ッ」
音に浚われかけていた意識を引き戻したのは皮肉なことに手首の痛みだった。
青い鳥の後半、最後の疾駆を完走できず、咄嗟に走った痛みにスティックを落とす。
そうは問屋が卸さない。そこの店主を殴ってやりたい気分だ。こんなところで。後、一節だろ。
異変に気付いた鈴童が演奏を止めて近寄ってきた。落としてしまったスティックを拾い上げ、手首を押さえる俺へ何か声を掛けようとしている。言わんこっちゃない。というべきか、それともスパルタに、練習の再開を指示するのか。どんな態度を取るべきかわかっていないような顔だ。
「すまん、気、抜いてた」
「……ペース配分を考えろ、とは言わないけど、少し飛ばし過ぎだったのかな。そうだったら、逆に助かるんだけど。今日ももう三順目だし、そういう意味でのこの結果だっていうなら、まだ救いはあるかな」
「おまえそれ、本気で言ってるのか?」
「さあね。でもわたしは医者じゃないから、肉体的な治療は出来ないわよ。貴方がなんて言えば楽になるのかもわからないし――だからわたしがわたしとして、客観的に言えることだけを言ってるまでよ」
だから、とその先の言葉に繋げる。
何を言ってくるのか、それが中途半端な励ましの言葉だとした俺はどのように返せばいいだろう。
しかしそんな言葉は必要なかった。鈴童が俺に言ったのは、
「順当に、流す程度なら一曲ぐらいどうにかなると思うから、明日はそうして」
気休めでもなかったのだから。
酷く冷たい現実を見据えた、感情のないテンプレートに載せた、あるいは鈴童の懇願だったのかもしれない。いい? と迫ってくる鈴童に曖昧な返事を返すと機嫌を損ねてしまったようだ。目を細めて頬が膨らむ。冗談めいているが本当に怒ってるみたいだ。
「約束してください。そうしないと、本番で泣くことになります」
小指を出してくる鈴童は、彼女の姉の面影があった。
ははあ、そういう戦略ですか。
仕方がなく小指を絡める。
でも悪いな、鈴童――俺はけっこう嘘吐きなんだよ。