30/イメージの秘策
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朝練をサボってしまったことに罪悪感こそなくても焦りだけは生まれていた。
そんな今朝八時二十五分のことである。
最近ではいろいろあってこの時間に登校することもなかったので妙に慣れない感じだ。本来ならば生徒会の業務もあるのでもっと早く到着しておくべきだったのだがそれさえ忘れていた。たまにはこういう日があってもいいだろう。いいのかな。
灰色の曇り空が割れ目を作る。十二月の空に晴れ目が見え始めるのを不意に見上げた。
ふわり、と。
視界を横切るように飛び去って行った影に気付いたのはその時だ。
咄嗟に振り返ってその影を目で追う。風に乗って悠々と飛来するそれはスタンダードな形をした紙飛行機だった。他の生徒は気付いている者もいればそうでない様子の者もいる。しかし立ち止まって眺めているのは俺だけだ。さぞ他の生徒にしてみれば邪魔なことだろう。
時間はまだ少しだけ、本当に少しだけだが残っている。しかしそんなことは頭になく、気付けば俺はその紙飛行機を追いかけていた。飛行機が校門横の木に引っ掛かって落ちてくる。これがなければもっと遠くまで飛んで行ったかもしれない。
拾い上げて見ると案の定、紙面には文字と線と音符の羅列が踊っていた。
なるほど。なんだこりゃ。
悟ったようなそうでないような、確信を一つと疑問を一つ手に入れて俺は屋上へと顔を向ける。
予鈴が鳴ったのは丁度そのときで、同時に目に入ってきた時計の針は既に八時半を回っていた。
*
教室では理紗が頬杖をついて窓の外に広がる下界を見下ろしていた。
表情は髪で隠れて窺うことが出来ない。ショートホームルームが終わると俺は空席になっていた理紗の隣に腰を下ろした。反応してこちらを振り向く。他に誰がいるってんだよ、と先につっこもうと思うほどこいつの吐く言葉は予想が付く。
「なんだあんたか」
ほらやっぱり。
辛辣な目付きで一瞥されておまけにため息も貰った。なぜか物憂げなご様子である。
「なんで朝練来なかったのよ」
「悪い、寝坊した」
さて、ここからが問題だ。
理紗に何と切り出そう。
もちろん手首を捻挫したことを素直に伝えることも出来るが、それは上手い方法ではない。懸案事項を増やすことに意味はないはずだ。こいつなら上手いこと自分の式を弄って対処するのかもしれないが、それが必ずしも有益な結果になるとは思えない。
平気でギターとベースだけでやろう、なんて言い出しかねないからな。
そうなっては俺の苦労も水の泡になる。……いや、それだけか。
取り合えず今はいいか、そんなこと。
問題はここからなのだ。
こんな状態だと当然練習にも参加できやしない。しかし昨日の今日だ。突然正当な理由もなく練習に出ない、なんて言えるはずもなかった。だってこいつ、正当な理由があったとしてもそんなこと認めないだろうしな。
ならばどうするか。
考えろ、それを考える為に寝坊するほど遅くまでいろいろ考えてきたんだろうが。
何も思いつかなかったけど……。
「はあ」
理紗が大きなため息を吐いて沈黙を終わらせる。
依然として俺を見ないまま窓に語りかける。思えばその横顔をまともに見たのはこれが最初だ。
「あんた、やる気あんの?」
「なんのことだよ」
「バンド」
「……」
見透かされたみたいなことを言われる。
「引いてはあたしの彼氏作りも」
「どうだろうな。おまえにはどう見えるんだ?」
「やる気なし。これっぽっちも」
ちょっと酷くないか。
「練習してても何か機械的っていうか、熱意を感じないのよね」
「おまえの主観だろ」
「あたしの主観が全てでしょ」
久し振りに出た、唯我独尊発言!
「だかね――」
故意に言葉を切って理紗が振り向く。
窓は開いていないのに柔らかな髪は風にそよぐように流れていた。
大きな黒い瞳が二つ、こちらをじっと観察するみたいに見据える。遠目に様子を窺う猫みたいだ。近くにいるのに遠くを見ているみたいな眼差しがそれを思わせた。
そうして少しだけ間を置いて理紗が言う。普段ならこんな風にためを作ることのない式少女が空白を置いたのは、もしかしたら迷いがあったからかもしれない。果たしてそれは俺の懸案を払拭する救いの言葉に等しかった。
なの、だけど。
「――今日から練習、自由参加にするから」
どこか気持ちが悪い。気分がよくない。
だってそうだろ。
本番まで後四日しかなくて、リハーサルまでは二日しかないんだぜ。
なのにこいつがこんなことを言うなんて、どう考えても可笑しいだろ。
しかし気の利いた切り返しは思いつかなかった。どうあっても最終的にはこの形に持っていかなければならなかったのだから、これが最善だったはずだ。言い聞かせるようにそれにあやかり、後は始業の鐘に従って席に戻った。
なんなんだこんちくしょう。
何かが気に喰わない。何かが。
*
とはいえ、本気で本番まで一切練習しないつもりだって毛頭なかった。
今日から当日まで療養して怪我の状態を回復したとしても、技術が追いつかなければ意味がない。本来なら俺は他の二人よりも三倍は練習しないといけない身なのだ。……いやこれは理紗の言い様なのだが。事実なのだから仕方ない。そんな風に自分でも受け入れているからじっとしていられるはずなんてなかったのだ。
そうはいっても、手首の捻挫も事実だし根性だけでどうこうなる話でもない。ドラムがどれだけの負担を患部に与えるかは自分でもわかっている。練習で容態を悪化させたのではそれも問題だ。
ならばどうすればいいのか。
手首に負担を掛けずに練習するしかない。
そんな魔法みたいな方法があるはずがない――のだが。
「鈴童、マジでそんな方法で練習するのか?」
「他に方法がないんだから仕方ないでしょ。なにもしないよりもましよ」
アンプにベースを繋ぐ。鈴童はささっ、とチューニングを終わらせると自分の準備はそれで終わりだと言うように俺に目配せを送ってくる。いつぞやの対決シーンを思い出さないでもない。今回は敵対ではなく共同しているわけだが。
場所はいつもの旧音楽室ではなかった。従ってここには理紗がいない。俺と鈴童の二人だけである。これを秘密特訓と呼ばずしてなんという。少年漫画みたいな熱い展開を期待してもいいだろう。……しかし実際に見てみると甚だしく地味な光景になるのだろうけれど。
俺はスティックを握って軽く腕を振った。強く振れば多少痛むがそれでも気にならない程度だ。
息を深く吸い込んで、
「わかったよ……」
こうなりゃ自棄だ。
スティック同士を重ね合わせる。負担の少ない始まりの合図は音を鳴らして――ここだけは音を出して――鈴童の演奏が走り出した。相変わらずの絶大な演奏力は一旦弾ければ手の付けようがない。だが今は以前とは違う。何度も言うが今は対決ではなくただのセッションだ。鈴童の演奏はこちらの進む道への導となり、そして踏み外した音の修正を行う。
それを頼りにして――俺は自分の奏でる音を幻聴した。
ドラムは叩かない。一切それに触れずただただ動きだけを再現する。空を切るスティックの数メートル先にドラムセットを置いたこの配置こそが鈴童の出した提案だ。手首の安静と練習による経験値の獲得が必要ならば、どちらも叶えるにはこれしかない。一人だけでセッションを架空に生み出す鈴童の並外れた実力がなければ本来成り立つはずもない練習方法だった。それに当然のことながら、この方法で自分がイメージする、させられる演奏と現実とでは誤差が生じるだろう。いくら鈴童のリードが常軌を逸していてもそれは当たり前だ。
けれどなにもしないよりは断然いい。今は藁にもすがらないといけない状態だ。後本番までは四日、リハーサルまでは二日しか残っていない。絶対にどうにかしないと。
一曲目を終えたところで鈴童が一度演奏を切った。
「どう、一応イメージくらいはできた?」
「十分過ぎるくらいにな。これなら何とかなるかもしれない」
「そっか」
本心から安堵して喜んでいる顔をして鈴童が笑った。
「よかった。じゃあ次に移りましょう」
次の曲は、と曲目を思い返しているようだ。
鈴童は指先で弦を弄りながら目だけを軽く上方へ向ける。
ライヴで演奏する曲目は全部で四曲。そして現在完成しているのが五曲。リハーサルは一曲目に完成して歌詞も付いた「Siren」と決まっている。残りの三曲は他の四曲の内から選曲されるので一曲は丸々練習する必要がなくなるわけだ。
だからといってどれかに山を張って練習することもないと思うが。
というかこの時期に至ってまだそれが決定していない時点でいろいろ問題だ。
そこでふと今朝のことを思い出す。それはあの紙飛行機で、もっと言えば飛行機を解体して浮かび上がったあのスコアだった。どうやらギターのもののようだが、それを眺めただけで旋律が思い浮かぶ俺ではない。
しかし鈴童ならば、と出来心が口を動かし手を動かした。
鞄の中から引っ張り出した紙面を鈴童に見せてみる。
「これ、彼女が?」
「ああ、多分」
「なんだか変な折り目がついているみたいだけど」
「飛行機だったんだよ、それ」
理紗の昔からの習性で、奴は破綻した式(と本人は言っている)を紙面に落として飛ばすのだ。今日も多分屋上辺りから飛ばしたのだろう。場所は選ばなかったと記憶しているが、角度とか方角的には思い当たる場所がそこしかない。教室の窓から飛ばさなかったのはなんでだろう。
鈴童は譜面に視線を落としながらベースを弄っている。
初めて鈴童の演奏を聴いたときは、あの時は本当に五分もしない内にスコアを組み上げてしまった鈴童だったがこれには苦労するらしい。聴いたこともないギターの旋律を譜面だけでベースに変換するのだ。どれほどの至難かは俺にもわかる。
だがそこはさすがに鈴童だ。
一通り目を通した後には既にメロディを口ずさみ始めていた。聴き取り辛く、本人は指の寂しさを紛らわせている程度の意識なのだろうがベースの音も聴こえ始める。
そんな状況が十分ほど続いた気がする。
熱心に暗号を解読しているみたいな鈴童が思い出したみたいに顔を上げた。
「て、そうじゃない。そうじゃなくて練習でしょ」
ごもっとも。
これにかまけてサボろうと思っていたわけではないのだが、鈴童はどうやらそのように勘違いしてしまったらしい。教師から説教される気分だ。俺は初めて行動から鈴童とその姉の血縁関係を感じ取った。妹の方が教師向きだと思う。
知りたかったことは一つだけだった。
あの譜面が今まで演奏したことのある曲なのかどうかという、それだけが知りたかったのだ。鈴童の反応を見る限りではどうやら完全に新曲らしいことがわかったのでそれで十分である。むしろ待ち惚けをくらっていた気分だ。言わないけど。
まだ曲のレパートリーを増やすつもりなのか。
「でも、一つだけ気になるかな」
「なにが」
「このスコア、前半から後半にかけてだいぶ雰囲気が違うのよ。徐々に変化してるんじゃなくて、ずいぶん急に。簡単な言い方をすると、スリーピース用のスコアからソロのスコアに変わって行ってるみたいな。初めはバンドスコアの体だけど、後半はほとんど弾き語りみたいな感じなのよ」
「言ってることはわかるんだが、意味がわからん」
「書いてる内に気分が変わったとか、そんなのかな。一応、これで完成してるみたいだけど」
だったら、これは落書きみたいなものだったということだろう。
理紗自身も没にした曲は何曲かあると言っていた。これもその内の一つとみて問題ないと思う。どっちにしろあいつの手を離れた時点で、紙飛行機という形になった時点でこれは用済みだ。俺には何の関係もない。
「さて、もういいでしょ。手は大丈夫?」
慣らすように手首を捻り、まわす。
さっきの演奏後に比べれば違和感もない。少し話している間に回復したみたいだ。これくらいのインターバルがあるならライヴも乗り切れる気がするが、そうもいかないんだよな。四曲をほとんど間隔なしでやり切らないといけない。そうなればどこまでもつかはまだ不明だ。
「大丈夫だよ」
「それじゃあ再開しましょ。えっと次は――」
その後は完成した順番に練習を繰り返した。
一曲ごとのインターバルはおよそ十分。五曲のシークエンスを三回廻して今日の練習を終えた。手首の状態は二順目の後半から軽く痺れが出始め、三順目には二曲目から軽い痛みを伴うことがわかった。これで実際には本来の負担の半分もないというのだ。さすがに焦る。
残り三日でどこまで回復するのかはわからない。
そもそもリハーサルの一曲さえまともに演奏出来るかわからないのだ。
どうしたものか。
どうにもなりやしないのだが。
それでも。
「まあ……どうにかするしかないんだよな」
帰り道、星に手を翳して呟いた。
これがロープレとかだったら月の光で急速に傷が治ったりするものなんだろうけど。世界はラブコメでもなければファンタジーでもないということは知っている。なんだっていいさ。最悪、ホラーにだけならなければどうにでも。
しかしよくよく考えてみれば序盤から『式』とか連呼してやがる女がいる時点で、ジャンルはSFになってしまうのではないだろうか。