29/怪我の功名
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例えば夕暮れの教室で
春のまだ肌寒い風に歌声を乗せた
夏の空は透き通って
きっとずっと世界の果てまで続いているんだね
そんな風に廻っていた季節
一人だったわたしはもう一人じゃなかったよ
泣かないでいたいよ 大好きだから
ここにいて いつもみたいに歌ってよ
もうきっと君は忘れているだろうけど
二人歌った約束の歌を
―――木漏れ日の下で呟いた言葉、今も覚えてる
ありがとう
同じ場所にいるよって、言ってくれた君が―――
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あるいはどちらが不運だったかを想像することで現状が少しましに感じられた。ほら、鈴童が窓ガラスに突っ込んで全身傷だらけになるのと、俺の手首が片方捻挫するのとでは被害の及ぼす影響の重大さが異なるだろ。だからどちらかといえばこれは幸いな結果だったわけだ。
あの瞬間に果たしてそんな思考が潜在していたのかは不明なままにして、しかしようようにして映像的な記憶だけははっきりとしてきた。背中をぶつけて一瞬記憶が飛んでいたらしい。簡単な話だ、鈴童の体が倒れてくる前に壁側に回り込み受け止めた、とそれだけのこと。だがいかんせん体勢の不利と狭い空間が悪く作用したのだ。鈴童の体をキャッチしたはいいが勢いを殺し切れず倒れ込み、変な角度で手をついてしまったようだった。
あらら。
どじったな。
……とか言ってる場合なのだろうか。頭の中がクリアになったのはいいこととして、どうしよう。なにをかって。決まってんだろ。冷え切った目でこちらを見下ろすこの式女をだよ。
「なんだ、仲良く片付けでもしてるかと思ったら。ごめんね空気読めなくて」
昼ドラみたいなのやめて。
「な、なにやってるのよアンタたち! ここここ、ここは、学校なのよ!」
誰だよおまえ。
立場的には鈴童の台詞だろ。
「もう、そういうことするならあたしも呼んでよ」
おまえ手伝いもしねえでギター振り回してたろ。
「ねえ」
「なんだよ」
「汗出てるわよ」
指摘されて気付いた。右手で額を拭――おうとして咄嗟に左でそれをする。確かに。一仕事して爽やかに掻いたのではないだろう汗が滲んでいる。壁に凭れているからわかるが背中も同様だ。
「息も荒いみたいだけど……ひとつ言わせて貰っていい?」
「なんだよ」
「気持ち悪い」
どストレートに言いやがった!
精神面に推定ヒットポイントの七割分くらいのダメージを受ける。肉体面ではちなみにじわりじわりと痛みが染み渡ってきていて笑えない。毒の沼地にいるみたいだ。
「……まあ、いいけど」
なにがいいのだろう。
理紗はむすっとしてそう言うと踵を返してしまった。
「好きにしてれば。あたしには関係ないんだから」
「いや待てよ理紗」
なんだこいつ。
様子が可笑しいだろ明らかに。
「おまえ……なんか怒ってないか?」
訊いてしまった刹那、入口に散乱したスリッパの一つを叩き付けられた。ぺしーんとか、めちゃくちゃいい音が響く。これで潰される黒い連中の気持ちが少しだけわかった気がした。俺はスプレー派だけど。
「怒ってない……、知らない!」
何故か言い残して、怒涛の勢いと天を衝く怒髪を張り上げてプレハブを倒壊させかねない激しさで戸を閉める。それでも直、ふん、と鼻を鳴らしたのが聞き取れたのは誰が凄いのだろうね。
さてと。
そろそろ強がるのもやめていい頃か。
右の手首を左手で触れる。
目玉が飛び出すかと思うくらいの痛みが神経を引き裂いた。
「ッ――て……ぇ」
声にびくりと鈴童が反応する。
「やっぱり、手首――ちょっと見せてッ」
呆然としていただけの鈴童に急に魂が舞い戻ったみたいに思えた。患部を避けて右手を強奪される。直接触れていないのに勢いよく揺らすものだからそれだけで痛い。ていうかよく見たら痣みたいになってないか。
「大変じゃないこれ、早く保健室行かないと!」
言われなくてもそうするさ。
綱引きみたいに鈴童が腕を引く。それでもカブは抜けません、みたいな光景だ。俺は自分が怪我をしたという自覚を持ちながらそれでもこの状況をどうしても客観的にしか見ることが出来ない。これからどうするか。それは怪我云々ではなくもう五日後に迫った創設祭の、どっかの式少女が提案したバンドへの不安や懸案だった。
さてどうするか。
別にどうにでもなるだろう。
俺がいなくてもベースとギターで出来るように曲をアレンジすれば。
*
保健室の先生(今回はそれに扮装した鈴童先生ではない。本物だ)の診断結果を発表しよう。
おおよその予想が付いていた通り捻挫だそうな。全治は早くて一週間。つまり七日間だ。
それを聞いてどこかで安心している自分がいることに気付く。さっきは自分がいなくてもとか考えていたくせに、少しでも希望が見えるとこれだ。どうも俺という人間は状況に流され易い性格をしているらしい。一応紹介状を貰って近くの診療所に向かい診察を受け、今は手首に湿布だとか包帯だとかを巻いた状態だった。
外はすっかりと日が落ちて暗い。
そんな帰り道を一人で歩いていると、隣に並んでくる足音があった。
理紗――ではなくて鈴童だ。
保健室までは同行してくれた鈴童だが、まだ体育館の片付けも途中でありそれ以降は行動を別にしていた。ちなみに鈴童の名誉と情の保障の為に付け加えると、鈴童が残りの仕事を片付けに体育館へ戻ったのは俺がその理由で半ば無理矢理追い返したからである。あまり騒いで大事にするのも嫌だし。特にこんなことが、今のあいつの耳に入った場合を考えるとぞっとする。
保健室に行ってこの場所を聞いたのか、しかしちょうどいいタイミングで鈴童も現れたものだ。
「――まあ、だから……取り合えずどうにかなりそうだ」
「どうにかって?」
「創設祭だよ。他に何があるんだよ」
ぱたりと鈴童が立ち止まる。驚き半分の顔で見上げてくる視線は非難とそれから意味がわからないとでも言っているようだ。
「バカなこと……本気じゃないでしょ? だって後五日しかないのに、そんなのでライヴなんてしたら確実に――」
「大丈夫、迷惑はかけねえから。とりあえず当面の問題は練習ができないことと三日後のリハーサルだ」
「だから違うって! 誤魔化さないでよ」
誤魔化してるつもりはないけれど、鈴童は相当ご立腹な様子なのでその威勢に黙らされてしまう。
「怪我してるのにライヴなんて、そんなの確実にドラマーとしての生命を潰すことになるじゃない。……ううん。別にそれでいい、って貴方は言うかもしれない。だけど違うじゃない。ドラムだけじゃなくても、自分の体のことでしょ。なんで、もっと真剣に考えられないの。可笑しいじゃない、そんなの」
鈴童の言う通り、俺は別にこの先ドラムが叩けなくなっても構わない。そう思ってるのは事実だ。どうせもうバンドなんてやる機会は……まあ、ないだろう。ただの捻挫を甘く見ているわけではないが、後遺症云々もそこまで気にしちゃいない。実際鈴童が大袈裟なところもある。この怪我に負い目を感じているからだろう。ありがたいが、でも素直には聞き入れられなかった。
一つだけ不安なことが残る。
手がどうなるかとかそんなことより、ライヴが成功するかどうかについてだ。今でさえ二人についていけない自分が手負いになっていては余計に話にならない。俺が足を引っ張って台無しにするのはさすがに嫌だ。だから懸念はそれだけだ。そこにどんな苦痛があるか、どれくらい過酷なのかは今はわからないので棚上げにしておいて、むしろそういう観点からメンタル面がもつかが不安なのだ。
そう言うと鈴童は遂に呆れから正真正銘のバカを見る目に眼差しを変容させた。もうこの怪我がどんな風にして出来たかも今は覚えていないんじゃないだろうか。それくらいに心底呆れた顔をしている。
「意味が、わからない。なんでそこまでこだわるのか、わたしにはわからない」
「おまえにわからないことが俺にわかるかよ」
どんな式なら導き出せるんだろうこの感情は。いつから俺がこんな熱血に生まれ変わったのかもついでに求めて欲しい。それこそ叶わないな。俺の隣には現在例の式娘が不在している。
「とにかくさ、わからないなりに今はバカやってることにするよ俺は。答えなんてその後でいい」
「かっこいい……つもりなの?」
あ、つっこまれた。
客観的になったら相当恥ずかしいなおい。鈴童の冷めた口調だと外気の寒さも相俟って余計に。穴があったら落ちていきたい。
「……はあ、止めても無駄なんでしょうね。私のときもそうだったみたいに」
ため息の後居直るように凛として、鈴童が前に出る。こちらの進行を遮って立ち塞がる姿は自棄になっているみたいに見えた。なによりも、自分がどうしてこんなことをしているのかわからない、といった風である。
「練習方法、ひとつだけ案があるんだけど」