26/これから始まる
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プロローグ。
という名の、これまで分の後日談である。長編番組のコマーシャル前に入る「ここまでの放送は」的な意味のあれであり、そういった意味でこれは後日談であり序章なのだ。全てが終わって、そして全てが始まったその日の話をしよう。あの河原での一件後、酷い筋肉痛に顔を歪めながら向ったいつもの朝錬を終えて、疲労のピークを授業中に超えた俺の記憶は一気に放課後まで跳躍する。
いつもと同じ光景に異色のそれは当たり前みたいに溶け込んでいた。
俺と、理紗と、鈴童の三人がそこに集まる。
鈴童は自分のベースを持って、それをアンプに繋ぎ、チューニングの最中である。理紗はなにやらノートを広げて忙しくペンを走らせている。どうやら新曲の製作中らしい。
これは普段とは違う光景だが、約束された光景でもある。
鈴童との勝負に、ともあれ俺は勝ったのだ。
だから約束通りもう一度勝負をしなければならない。自分で取り付けた約束を、鈴童が破る訳なんてなかった。ごく当然みたいにベースを背にして、自分が認めない、引き払えと言い渡した旧音楽室に姿を現したのだ。理紗も俺も何も言わない。不自然ではあったが、違和感は微塵もなかったからだ。まるで初めから、この様子がここにあることが定められていたみたいに。
やっと形にしたスリーピースがここに揃って、音を紡ぐ。
その瞬間がすぐ目の前に迫っていた。
「さて、と。始めますか」
ぱたん、とノートを閉じた理紗が宣言する。
静かに、誰も否定せずに準備する。鈴童は依然として、ここに入ってからまだ一言も口にしない。
聞くまでもなくこの勝負において理紗は全力を出してくるだろう。前回と同じ様に、いや、あの昼休みよりも一層本気に拍車を掛けてくる。勝負となるだけでこいつのモチベーションは爆発的に増加するだろうからな。
始まりの合図はドラムから。
スティックを鳴らして鼓動を刻む。
雷鳴染みたシンバルの音でスタートを告げる。
走り出した音は誰も歯止めを利かせることが出来なかった。俺は二人について行くのに必死だし、二人は二人でより自分が前に出ることに必死なのだ。他人を気にする余裕などない。全力で併走しながら息を切らし、二人は遠く遠く駆け抜けていく。
一歩、二歩、と引き離されていく自分がいた。
歌詞が後半に到達した時点で限界が見えてくる。過酷なレースに膝を折りそうになっていた、その時だった。世界を満たしていた圧倒的なメロディが突如として厚みを失う。刹那の間に切り替わる景色は大人しく、制動距離を滑る車窓のように緩やかに速度を落としていった。
何があったのかは考えるまでもない。
鈴童が手を止めたのだ。
ぴたり、とピックを持ったまま立ち尽くし、どうして止まってしまったのか自分でもわからないとばかりに表情は驚愕に満ちている。だがその表情を確認できたのはわずかな間だけだ。鈴童はベースを支えにするように、それでもするすると萎れて最後には膝までついてしまう。
「……なんだ」
震える声が潤んでいた。
幸せそうに泣きながら笑っているその声は自嘲染みて聞こえた。
「こんなに、簡単なことだったんだ……」
やっと見つけた、クラスで自分だけが答えのわからない謎々の回答を得たみたいに、それを大切にして噛み締める。今はただ、それだけで、そう言っているようにベースギターをきつく抱きしめて顔を腕に埋めていた。
これが後日談。
鈴童が俺達に屈した決定的瞬間である。
これにより、事実上全ての問題は取り払われたことになる。メンバーも揃ったし、抑止力になる生徒会も排除した。そしてこの旧音楽室も手に入れたし――創設祭の出演も確定的になった。そのことを鈴童はしかしまだ不思議に思うようで、
「それとこれとは話が別でしょ。オーディションは終わったんだし。部でない以上、これ以上の活動は出来ないわよ」
堅物は健在だということを顕著にそんな言葉で示してくれた。
ふふん、と鼻を鳴らしたのは理紗である。よくぞ訊いてくれました、とでも言いたげだ。俺にそうなるよう会話の誘導を指示したのはどこのどいつだよ。おまえだよおまえ。そこのドヤ顔。
「生徒会執行部は、一つの部活動扱いってのは知ってるわよね?」
「……それは、まあ。でもそれとこれとは――」
「生徒会の前舞台。知らないわけじゃないでしょ? 毎年有志の舞台発表前に生徒会で行う、前座みたいなものよ。これに今回はバンドを組み込む。それだけの話で全部解決よ」
「あ……」
失念していたわけだ。
実際、俺と理紗が生徒会に入った最大の理由はそれなのだ。鈴童の獲得ももちろんあるが。
幸いにも鈴童はその思惑に気付くことが最後までなかった。目論み大成功で理紗は大満足している。
「でも、その書類の提出期限」
「出したわよ。とっくに、あたしが全部プランニングしておいた」
この式に残された最大の問題点、ネックだった書類上の処理もまた幸運なことに解決していた。
良くも悪くも鈴童が一日でも生徒会室を空けてしまったのは俺が原因なのだ。なので本来ならもっとスマートな方法で書類を調達するべきだったのだが、今回は半ば強行手段みたいになってしまった。それも百パーセント運である。こればっかりはどうしようもない。
幸いなことはこの件について実行委員がそれほど深く絡んでこなかったことだろう。
書類には生徒会承認の判も必要にされなかったし、持って行ったのが俺と理紗にも関わらずあっさり審査を通ってしまうのだから。あの会長のやることだから、と苦笑いしていた実行委員の顔を思い出す。鈴童の絶対性がいい風に作用した結果だ。
要するに俺達は初めからオーディションを受けるつもりなどなかった。鈴童の勘違いはそこで、そもそも見ている方向が違うのだからそれが上手い目晦ましになっていたとも言える。鈴童が万全のコンディションだったならどうなっていたかは知らないが。
「……でもよく思いついたわね、そんな方法」
鈴童が怪訝そうに言う。
ベースを弄りながらなので、俺か理紗のどちらに言ったのかは定かでない。
ここは俺の口から説明しておこう。
「偶然見つけたんだよ、図書室で。生徒会の活動記録……とかそんなの」
遡ることそれはそれなりに前の話である。
確か理紗がオリジナルでバンドをするとか言い出したときだったと思う。本来の目的はスコアの読み方についての読み物を探しに行ったのだが、そのついでに俺も理紗が言うところの情報収集とやらを行っておいたのだ。創設祭のことを知ったのはその時である。
この式の核となる部分については実はまったくの偶然によって見出され、以上のことを理紗に話してみたところ今度の式が組み上げられたのだ。表立って動いたのは今回も俺だけだったわけですが。しかし式を立てたのは理紗で、あいつがいなかったら今頃こんな結末にはなっていなかっただろう。
俺一人なら。
とっくに、心が折れていた。
「いいじゃない。結果よければ全てよしなんだから。支払った代償も、失われたものも、結局手に入れたものの価値には敵わないわよ。歓迎するわよ、えっと、静歌。これからよろしくねっ」
弾むような声で言って手を出す。
鈴童はその様子にぽかんと口を開けて僅かな間硬直していた。会う度に口論していたような二人だ。鈴童の反応が当然である。しかしそれでも、この場合は理紗の反応が的確でなくても適当と言えた。これから三人でバンドを組むわけだ。これが終わりじゃない。ここからが始まりなのだと、改めて気を引き締めなければならない。
だったらほら、いがみ合ってる場合じゃないだろ。
鈴童は少し迷ったような、困ったような顔をして理紗の手を握る。
「よし、それじゃあ今日から気合入れて練習してくわよっ。ほら二人とも準備して!」