24/彼女の箱庭
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「で、当てはないわけよね」
「お恥ずかしいながら」
「あんたってほんとに考え無しよね、昔っから」
「反論する余地も見当たりません」
「跪きなさい。そして懇願しなさい。そうすれば、あんたが進むべき道を示して上げるわ」
「!? ……は、ははっ、仰せのままに」
「ふふ、よろしい。では、神の言葉を授けましょう――靴を舐めなさい。余すとこなく、しっかりと」
「ありがたき幸せです!」
「あら? もう、あんたが舐めるから、その汚い唾液で靴が汚れちゃったじゃない。これは罰を与えるに値するわね。ほら、そこで懺悔の意思を示しなさい。そう、いい子いい子。ちょっと、なに手で隠してるのよ。ちゃんと見せなさい。あは、縮こまっちゃって、情けない。仰向けになって――あたしが、優しく踏んであげるから。あんたが汚したこの靴でね……あはは」
…………。
「――という経緯を経た後では、断ろうにも断れないわよね。仕方ない、協力してあげるからその汚いものを仕舞いなさい」
「てめえは何で、一人芝居で過去を捏造しようとしてんだよ!?」
「む。口が悪いわんちゃんね。もう、なによ。気分出しただけじゃない。それとも不満あるの?」
「大有りだッ」
「じゃあ逆バージョンにしておいて上げるわ」
「要らねえよ!」
「んっ…………んぁ。……あっ……ん。んん……! ……え? ねえ、なんで止めるの? お願い、なんでも言うこと聞くから、こんなところで止めないで……ご主人様」
「だから止めろと言っている!」
緊迫した状況はのっけからふざけまくる理紗により、台無しにされてしまった。人生におけるシリアスとコメディの比率があっていない、とか言う理紗の調整であるらしい。が、俺にとってはこの上なくシリアスな場面でしかない。この幼馴染みは十数年間、俺をどんな目で見てきたと言うのだろう。
下手をすれば自分自身を見失ってしまいそうな気分である。
理紗はこんな感じのやり取り(八割は理紗の自作自演だ)を展開して、空気を切り替えるように咳払いを一つ寒空の下に落とした。こほん、という小さな声が見事なまでに場の雰囲気をリセットした。何だかんだで、双方が現状の深刻さを理解しているからこそなのだろう。
肩の力は抜けた? と理紗の悪戯な笑みを見る。
力が抜けるどころか、力尽きた感じだ。
「あたしは満更でもないけどね」
「冗談だろ?」
「どうだか」
何で楽しそうなんだろう。
保健室を出た時点で、実は理紗には既に事情が筒抜けになっていた。何せ保健室に入ったのは俺だけだが、保健室までは二人で行ったのだ。つまりこいつは部屋の外から全ての会話を盗聴していたのである。だから鈴童が失踪したことも知っているのだが、どうも緊張感がない。
学校サイドで現状を知っているのは鈴童先生……いや、恐らくは保健室発信で職員室辺りには知れ渡っているかもしれない。詳細はわからないところであるが。放っておいても家に帰れば案外普通に紅茶でも飲んでるじゃないだろうかと、実は思わなくもないのだ。
とはいえ。
捜さないわけにもいかなかった。
もしものっぴきならない事情で鈴童が学校を抜け出していて――あるいはまだ学校の中にいるのかもしれないが、生徒会室は既にチェック済みである。無論、いなかった――また倒れるようなことがあれば取り返しが付かなくなる。
今度は助け起こすことの出来る誰かがいないかもしれないのだ。
こうして冷静に思考を切り替えて現状を把握し直すと、解けた緊張感が再来してきた。
校門なんかで蟠っていないで、早く飛び出して捜索に向うべきだろう。
逸り出した心を長年の勘で察したか、理紗が呆れるような溜息を吐いて俺の前に立ち塞がった。
右手を突き出して、
「ストップ。あたしまだ、話し終わってないんだから」
「まだ……って、なんか更に話すのか」
十分だろ、もう。
出来ればこの状況を脱するまで口を開かないで欲しい。
「聞く気がないなら好きにすればいいじゃない。ただしその時は、あたしを倒してからね」
突き出した右手を握りこんで拳を作る。
こつん、と胸板を売った衝撃が腹の底まで落ちて行って、不思議とそれだけで焦っていた気持ちが少しだけ落ち着いた気がした。理紗に取ってはそれも計算済みだったのか、にこり、と不敵に口元を吊り上げる。
「落ち着け、ばーか。焦ってもいいことないわよ」
「……わかったよ。とりあえず、ちょっと落ち着く」
促されて深呼吸する。肺の中が冷え切った。
「あんたはさ、自分のしてきたことが間違いだと思う?」
「俺がしてきたことって、なんだ」
「鈴童静歌は一人で幸福だったのに、それを壊してまで箱庭から連れ出すことに意味なんてあるのか、って訊いてるのよ。その結果、こうして彼女が倒れることになっても。それでもあんたは自分が正しいって胸を張れるのか。そうまでしなくちゃいけないことなのか、ってさ」
「……それは」
自己完結したはずのそれを、やはり他人の口から聞くのとでは意味が違ってくる。さっきはあんなにも固い決意に見えたのに、今は脆い、砂上の楼閣みたいだ。理紗の言葉だけで揺らいでいる自分がいる。それが自分の正しさを間違いだと批難しているようだった。
「もう止めにしようよ。イイコトなんて何もないんだから」
理紗は、諭す口調で俺に語りかけた。
「誰かの世界に勝手に干渉する権利なんて誰も持ってない。それはその誰かの生涯を否定してるのと同じなのよ。こんなことして誰が幸せになるのかって、あんたは考えた? 鈴童静歌から何もかもを奪ってでも、それでも前に進む理由はあるのかって、考えたことはあるの?」
こんなことをして誰が幸せになるのかって、それは、わからない。
わからないなりに進むと決めたつもりだった。それを決めるのは鈴童だから、と。
俺は理紗を見る。理紗の無垢なまでに真っ直ぐな目を見る。
ああそうか。
試されているのか、俺は。いつもこうだ。勝手に見下してきやがる。心にもない正論を吐いて、相手を試してる。それが俺の幼馴染みだった。きっとこいつは、こんな半端な気持ちでそうするならさっさと家に帰った方がいい、と言いたいのだと思う。鈴童と理紗は似ている、と幾度も俺は思った。似ているからこそその境遇に理解し合えるのだろう。
鈴童が守ってきた箱庭を、理紗は良くも悪くも認めている。
だから覚悟もなく奪ってはならない、とそういうことだ。
果たして俺はそれくらいの何かを持って、彼女を引っ張り出そうとしているだろうか。
考えるまでも、ないだろ。
「正しいかどうかはわからない。でも、間違いだって認めたくもない」
認めてしまえば、今までが嘘になる。
今朝、鈴童が話した言葉も全て。きっと、これまで話したどの言葉よりも本音に近いはずの言葉さえ嘘になる。それがただ嫌だった。
「だってあいつも言ってたんだよ。一人は寂しいって」
昔のおまえみたいに。と付け加えようとして止めた。
これ以上理紗と鈴童を重ねたって意味がないからだ。二人はやっぱり別人だから。
理紗は腰に手を運んだ。そして、仁王立ちから微笑を浮かべる。
「合格。そんだけはっきりしてるなら、あたしは何も言わない。あんたなら上手くやるだろうしね。そのことはあたしが一番良く知ってるわけだし、まあ、心配はしてないわ」
自覚があった訳だ。
こいつは意外な事実が発覚した。
「じゃあ行きましょうか」
「行くってどこに?」
「……あのね、あんた自分の目的を忘れちゃったの? 鈴童静歌のところに決まってるじゃない」
「いや、だから……」
ちょっと待て、と。
なんでこいつ、こんなまるで鈴童が今どこにいるのかを知っているみたいな口振りなんだろう。明確な目的地なんて決まっているはずもないのに。これから街中を駆け回って、やっとの思いで発見できる、というのが小説とかのセオリーだろ。
その過程を省略して結果に辿り着けるなら、しかし現実ならそれに越したことはない。
何せもう日も沈みそうだ。冬の日没は早い。
「言ったじゃない。敵を知って、己を知れば百戦危うからず。孫子の言葉で、宮本武蔵は巌流島でそれを実践して見せたわ。戦いって言うのは始まる前からほとんど決着が着いてるのよ。実力差とか、コンディションもそうだけど、なにより事前の情報収集。それを怠った者に勝ちはない。だからね、今回のことだって初めから勝てるって決まってたのよ。心配ないって」
黒髪が薄く橙に染まり始めた灰色の空に翻る。
そしていつものように胸を張り、誇らしげに彼女はそれを宣言した。
「この程度の式は、とっくに解いちゃったんだからっ」




