22/snow’s whisper
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眠るように目を閉じて、荒い呼吸は熱を帯び、冷え切った空気を白濁させていた。
目に見える過呼吸の証として鈴童の肩と胸が上下している。熱があるのは明らかだ。どうして気付けなかったのだろう、そう思うほどに顔色が悪い。額には汗まで滲んでいる。この寒い冬の真ん中で、あのプライドの高い鈴童が廊下に座り込んでいるのだ。
兆候はいくらでも見せていたのに。
自分のことで手一杯だったから何一つ気付くことが出来なかった。それは俺も鈴童も同じだ。互いが互いの抱えているものを見過ごしていた。俺や理紗の思惑を鈴童が見逃していたように、俺もまた、鈴童の不調を発見出来ずにいたのだ。
不自然なことなんてなにもない。むしろこれで当然である。
いくら鈴童が完璧だとか超人だとか怪物染みているだとか言われても、こいつもやはり一人の人間だ。十七歳の、もしくは十六歳の女の子なんだ。どれだけ意地っ張りで強がりでも、体がそれについていかないなら壊れるのは当然といえる。
強固な内面に反して、その体は脆く、オーバーワークに悲鳴を上げ続けていたということだろう。
俺だって自分で体感したんじゃないか。生徒会の業務を、全ての委員会の業務を一点に集められる苦労を。そしてそれを一人で処理し続けてきたのは鈴童だ。今まで平然としていた方が間違っている。絶対に可笑しい。
目の前の現実は否定したくても、そんな論理に結び付く思考が頑固に肯定していた。
こんなときばっかり。
変に頭回してんじゃねえよ。
本能のまま動けていたらどれだけよかっただろう。僅かでも遅れて間に合わなかったら、自分で自分が許せなくなる。俺が鈴童を助け起こしたのは、だってそんな今更理解したって何の意味もない思考の後だったのだから。
「……ぁ」
零れる吐息のような呟きは、きっとサーモグラフィで表したなら真っ赤な色を帯びていたことだろう。手の甲に掛かったそれは皮膚を蒸発させてしまいそうなくらいに熱かった。息だけじゃない。背中で感じる鈴童の体、その全身が熱した鉄のように熱い。人間がまともに活動する為には、これは明らかに加熱され過ぎている。
鈴童の体はびっくりするぐらいに軽かった。
普段の尊大な立ち振る舞いとのギャップもあるのだろう。しかし実際はこうだ。身長も体重も並み、体重に関しては平均よりも軽いかもしれない。なにせ鈴童はスタイルがいい。制服の上からでも見てわかる。彼女を背負った状態でそんなことを考えていると、どこか犯罪性を感じるが。
俺もそんな風に冗談で自分を冷やかしていないと、やっていられない。
「なに……してるのよ」
か細い癖にまだ敵意を孕んでいやがる。いい加減にしろ。
病人なんだから大人しくしてろよ、おまえは。
「……コーヒー買いに行ったんだろ。財布、忘れてたぞ」
「あぁ……そっか、そうなんだ」
遠い声は今がどんな状況かを理解できていないみたいだった。
わからないことはない。自分ではまだまだ行けると思っていても、体はそうでなく、意思に反して強制的に活動を止めてしまうことがある。そうなってしまうと自分では何がどうなっているのかわからなくなるのだ。まるで夢の中にいるような、現実から隔離された気分に陥ってしまう。
鈴童もそうなのだろうか。
彼女は今夢見心地でいるのだろうか。
だとしたら、それはせめて優しい夢であって欲しい。まあ、対立関係の男におぶられてる夢なんてのが、年頃の女子高生的にはどんな夢なのかは知らないし考えたくないのだけど。
「いいや、それ、あげる……」
「いや、要らないし。貰えない」
こいつ。
本気で頭沸いてるんじゃないのか。
鈴童の発言と荒れる呼吸が足取りを焦らせた。
「鈴童、力入るか? ちょっと走るから、しっかりしがみ付いててくれ」
「なにそれ……えっち」
「…………ッ!?」
おいおい待てよ。
こんな時におまえがそんなこというなよ。そこは罵倒してくれていい場面だろ。いつもの覇気が感じられない声で、苦笑混じりな口調で言われたら――しかも素直に抱き付かれたら、どうにかなっちまう! おまえ自分の体型わかってんのかよ。
頭に沸き立つ邪念の一つ一つを、百八を優に超えてしまいそうな煩悩の全てを振り切るようにただ走った。現役の生徒会長様をその背に乗せ、廊下は走ってはいけないなんて小学生でも知っているルールを全霊で無視する。向う先はどこだ。自販機。馬鹿言え保健室に決まってんだろ。
この思惑は思いの外功を奏する結果になった。
普段から人を背中に乗せて走るなんてしないから、結構神経を使うのだ。それに何よりも疲れる。ちょこっと走っただけで息が上がりそうだ。普段使わない脚の筋肉を使っているか、それとも使い方が普段と違うのかはわからない。とにかく大変だ。
そうか知らなかった。
人を、誰かを背負うってことが、こんなにも大変でしんどいことなんだって――。
鈴童は生徒会長として、一人や二人じゃない、この学校の全生徒を背負っている。俺にとっちゃ一人だけでも息が上がるのに、ほんとによくやるよ。信じられない。その上強がって、意地張って、笑ってやがったのか。誰だよ、そんなことも知らないで「バンドしようぜっ」とか気楽に誘ってやがるのは。何で何もわからないんだ。自分のことしか見えてない。そんな奴が間違っても――傍にいるなんていっていい訳ねえだろ。
「背中……おおきいね」
子供みたいなことを言う。別に俺は背筋を鍛えているわけでもないし、体格も標準だ。
「安心する……なんだか、すごく楽」
その言葉を聞いて、何故だろう、少しだけ嬉しかった。
別に自分に宛てられた賛美でないことはわかっていたし、もしそうであっても嬉しくはないだろう。単に、鈴童がわかってくれたことが嬉しかったのだ。誰かに寄り掛かることが楽なことなのだと。今、疲れ切ってこんなになっている今でも、それがわかってくれるのが嬉しい。自然と体が軽くなる。もっと速く、走らないと。
「頼って、よかったのかな、わたしは」
俺は何も言わない。
言えないのだ。
言葉を吐こうとしたらもう、ぜえぜえ言ってまともな人語に変換することが出来ない気がする。こんなことなら日頃からランニングでも筋トレでもしとけばよかった。後悔先に立たずとはこのことだ。
「一人でできることは、えらいことだと思ってた。なんでも、一人でできればほめてもらえたから。でも大人になったら、それが寂しいことなんだって、わかった。でもそう思ったときはもう、わたしは、一人だったんだ。ねえ、わたし、どこで間違えちゃったのかな」
知らねえよ、そんなこと。
「寂しいって、疲れたって、言えばよかったのかな。そうしたらみんな助けてくれた? 一人ぼっちは嫌だって、泣いたら誰かがそばにいてくれた? そんなことないって、決め付けてた。だからせめて強くありたかった。誰にも笑われないように、泣かないって決めた。一人で、全部一人でできるから。わたしは一人でいいんだって、自分に言い聞かせてた」
「……」
「ほんとは寂しくても、そうじゃない振りをした。一人でいるのが好きだって思ったら、少しだけ楽だったんだ。でもそれは楽な以上に、悲しかった。キレイに生きていこうなんて思ってなかったけど、一人で泣くのはみっともなくて、余計に悲しくなるから、泣かないようにって思ってたんだ」
「なんでだよ……おまえ」
「だからほんとはね、嬉しかったんだ。いっしょにいてくれる、誰かが現れて。でもわたし、怖がりだから。怖がりで寂しがりだから。昔ね、いっかいバンド組んでたんだ、わたしも。結局、壊れちゃったけど。……また、一人になるって思ったら、怖いからもう嫌だった。暖かい場所を知ってしまったら、また一人になったときの寒さに耐えられないから」
「だから……、なんで」
「嗚呼、悲しいな。わたし、なんで素直じゃないんだろ」
「――なんでおまえは、もっと早くそれが言えないんだよ!」
一人が寂しいって。
それが悲しいって。
知ってるんだろおまえは。
だったら初めから強がったりするなよ。
「わからねえよ、俺、おまえみたいに頭がいいわけじゃないんだから。言ってくれないと、わからねんだよ!」
切らした息も血を吐くくらいの覚悟で、肺が引き千切れそうな気分で叫んでいた。
「嘘だ。嘘だよ」
それを、鈴童は笑って否定する。
「だって、わたしが何も言わなくても、いっしょにいてくれたじゃない」
そんなこと。
俺が、勝手にしていたことだ。
俺が、理紗の為にしていたことだ。理紗の為で、俺の為だ。自分勝手な理由で近くにいて、それさえ、こいつには重荷にしかなっていなかった。無駄な負荷を増やしていただけなのだ。それをどうしてこいつは、こんなに幸せそうに口にするのだろう。
理紗と似ているとかじゃない。
これが本音なら、鈴童は俺が思っているよりもずっと小さい。小さくて儚い。だからこそ一人でも光っていられるように、綺麗でいられるように強がっていたんだ。そうしていないと消えてしまいそうだったから。何もわかっていなかったのは俺の方だ。勝手に自分ならわかってやれる気になっていた。思い上がりも甚だしい。
「ねえ、一つだけ言わせて」
新館の二階に駆け上がる。保健室はもう直ぐそこだ。
息が上がり切っていたので、これ以上はもう鈴童に返事をしてやれる自信はない。だから最後の一言だけは鈴童からの一方通行になる。俺はそれを聞き逃さないように、走りながらも耳を澄ませた。無言で先を促す。
「ありがとう。こんなわたしと、いっしょにいてくれて」
熱に浮かされて、気がふれていたんだろう。
こんなにも素直な言葉を、鈴童が言うはずがない。
「こんなわたしのこと、嘘でも好きだなんて言ってくれて――ありがとう」




