19/鍵の一枚
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預かった、というより半ば強奪してきた物を生徒会室まで運んでからのことだ。
鈴童が残したらしき業務を少しでも減らしておこうと四苦八苦してみるが、何一つ、どこからどう手をつけていいのかもわからなかった。自分が名前だけの生徒会役員だということを今ほど思い知った日もない。せめて普段から鈴童の手伝いをしていればここまでではなかったのだろうが、そんなこともしてこなかったからな。
時計を確認する。オーディションの後だ、下校時間は既に十分ほどオーバーしている。
生徒会執行部という名目の活動ならば、まだこの先一時間と少しぐらい校内に残っていても問題ないが、それになんの意味があるだろういやない。だから大人しく下校しよう。
書類を適当に机の端っこに纏めて置いて、腰を上げた。
背後の扉が開いたのはちょうどそのタイミングだ。初め俺は鈴童が戻ってきたのかと思った。あの会長様なら有り得ない話ではない。その日の課題をその日の内に片付けられないことを嫌いそうな性格をしているからな。しかし現実、そこにいたのは赤いコートの生徒会長などではない。
俺の良く知る幼馴染みの式っ娘が、冬の空みたいな瞳でそこにいた。
理紗は無言で室内を見渡す。誰かを探しているようにも見えるが、ここには俺しかいない。
そのことを悟ったのか、
「驚いた。生徒会長、本当に帰ったんだ」
「なんだおまえ、知ってたのか」
「校舎の中から見えたのよ、あいつが出て行くの」
ばたり、扉が閉まる。
今から帰ろうとする俺を尻目に、理紗はコートを脱いで椅子に掛け、鞄を机に置いた。
「で、あんたは何してたわけ? まあ、見ればわかるけどね。この山積みの書類。……って何よ、これだけしか片付いてないの? あーあ、無能ねー。ホントに使えないなー」
「……悪かったな」
「本当よ。悪いも悪い、最悪よ」
「……」
なにもそこまで言わなくてもいいだろ。
「だから、あたしが手伝ってあげる。曲作りは大方終わったし。暇なのよ。一人じゃ練習にならないしね。なに? 何か文句ある? 別にあんたがいらないっていうなら、放っておいて帰るけど。それでもいい?」
「待て待て。手伝ってくれるなら大歓迎だ」
助力があるのはいい。一人より二人だ。
だが理紗が加わったことだけでどれだけの意味があるだろう。こいつは俺以上に生徒会業務に携わっていない。生徒会室に訪れたのだってこれで三回目くらいじゃないか。そんな奴が一人増えたくらいでは狼狽するお仲間が増えただけに変わりない。
理紗は書類を手前に引き寄せると、ぺらぺらと捲って――目が左右に動いている。内容は速読しているらしい――握ったペンをさらさらと走らせ始めた。驚くほど行動がスムーズだ。
「おまえ、なんでそんな簡単に書類処理できるんだ?」
「適当よ。適当。ていうか、ほとんど終わってるようなものじゃない。……これなんてほら、会計の書類。これさ、後は経費の総合を計算するだけで終わりだし。クラスからの徴収と生徒会予算なんかの面倒な部分は綺麗に纏められてる」
言われてみて適当に一束を手に取って見る。
確かに付箋が貼られたり蛍光ペンやラインマーカー、シャーペンの走り書きや要点のメモなんかも書き施されている。だが俺ではこれだけでこの書類が何の書類で、ここからどのような結論を導き出して整理すればいいのかなんてわからない。
鈴童ほどではないのだろうけれど。
それでも理紗もまた、こういう能力には長けているのだ。
昔から何でも一人よりこなす。負けず嫌いが生んだ平均以上の結果をはじき出す潜在スキルが理紗には備わっていた。多芸な兄とか、その辺の環境も影響しているのだろうし。こいつもまた一人で何事も解決してくる人生を送って来たのだ。
「なに突っ立ってんのよ。面倒なのはあたしが済ませるから、あんたもほら、座って」
檄が飛ぶ。
奇しくも理紗が腰を下ろしているのは鈴童の指定席だ。なんだろう。そこに座った奴はみんなそういう態度に変容するのか。などと思いつつも素直に従って、俺も俺の指定席に着く。ここ二週間ばかり使っただけなので、指定席というほどでもないが。そこは鈴童の対面、今は理紗の対面だった。
「ちょっと、判子ってどこにあるの? 生徒会承認の判子」
「知らん。たぶん鈴童が持ち歩いてるんじゃないのか?」
「あ、そう。じゃあここは保留ね。ほら、これならあんたでも出来るでしょ」
さらり、と流される書類に目を通す。
ふむ。
何となくだが出来る気がしないでもない。物凄く時間が掛かるだろうけど。
予想通り、俺がその一つを仕上げる間に理紗は四倍ほどの仕事量をこなしていた。化物なのかこいつは。ていうか何で急に手伝う気になったのだろう。もちろん助かるのだが、理紗が鈴童の為に尽力する理由が見当たらない。理紗自身はそこまで鈴童に固執していなかったはずだ。
「だって、早く済ませないとあんたと練習出来ないじゃない」
「そりゃそうか」
「結構楽しいからさ、下手だけど、あんたといっしょに歌ったり、ギター弾いたりするの。最終的な目的は別にあっても、でも今は今が好き。今が楽しいから、こんなことに時間を取られるのが嫌なだけよ。さっさとベーシストも加入しないといけないし。ここまできたらやっぱり、あの生徒会長を引き入れないと負けた気分でしょ。そんなのはあたしの式に反するのよ。あたしの存在式にね」
存在式って何だ。
そう思って中学時代のことを思い出した。そういえばこれについては一度説明を受けたことがあったと思う。個人を成り立たせて、世界と他の個人から自分を確立する為に必要な式、とか言ったか。つまり個性とか理念とか信念とかを文字に例えて、等号で繋いだ右辺(あるいは左辺)が今の自分なのだとかなんだとか。人間でないにしろ、個々の存在は全てその式の上に成り立って現存している、らしい。
……しかし、確かにそうだ。
負けっぱなしで引き下がるようなら、それは理紗ではない。
どこまでも意地っ張りで強がりで負けず嫌いでなければ、俺の幼馴染みの理紗じゃない。
格段に嵩の減った山の上から一枚を拾い上げ、山札から引いたカードが好カードだった時のギャンブラーみたいに、理紗は不敵に口元を吊り上げて俺を見た。自慢げに、心なし胸を張っているようにも見える。手にした書類を俺の鼻先に押し付けて、
「それと、これ。もう一つの目的、よく見てみなさい」
見えん。もう少し離せ。
要求通り書類を引き下げる。俺はその文字を上から丁寧に読み上げてみた。
「創設祭、舞台有志進行に基づくプログラム製作と――」
そこまで読んで理解した。
そういうことか。
本当に抜け目のない奴だ。
「――最後の詰めって奴ね。これが最後の問題だったんだけど、思ったよりあっさりクリア出来て良かったわ」
確かに、この過程を省いていては何事も為し得る事がなかった。
今日帰ったのは鈴童に取って大きな失態になったな。
考えても見ろ。生徒会はあくまで生徒会執行部だ。創設祭についての最大権力を保有している機関は、期間限定で発足する創設祭執行委員会である。だからこそ、有志舞台のプログラム案をこそ生徒会から提出はするが最終決定は執行委員が行うのだ。
その際に一つだけ、こちらでその存在の有無を決定出来る事項がある。
鈴童なら間違いなく、その欄を空白にして提出していたはずだ。
「さて、目的は果たせたし、これ、片付けちゃいましょ」
にっ、と微笑んでその一枚を拝借し――今更その程度の不正行為を咎めようとは思わない。というか、これを提出する権利は俺たちにだってあるだろう――残った書類の平積みを布団のように叩く。最終下校まで残り三十分余り。これなら十分済ませられる。
かちかち、とシャーペンの芯を押し出す音がする。
理紗は書面に目を落としつつ、しかしその顔はやけに怪訝な面持ちをしていた。
「ねえ、何か気にならない?」
「何かって、何がだよ」
「……上手く行き過ぎって言うか。張り合いがないって言うか。…………ううん。なんでもない。そうよね。その為にあんたを動かしてるわけだし。それが功を奏しているってことかしら。自分で立てた式とはいえ、ちょっと、この程度で解けるっていうのがちょっと興醒めだっただけだから、気にしないで」
そう言われると逆に気に掛かるのだが。
可笑しなことを言う。自分の式に絶対の自信を持っているはずの理紗が、こんなすっきりしない顔を見せるなんて。完成寸前の式を目前にして不安ではなく違和感を湛えた表情をしている。――とはいえ、それも本人が何でもないというなら、やはりそうなのだろう。数学でもそうだ。ある定理を使えば、思ってたよりあっさり証明が出来てしまったり、変数を求める方程式が思いの外単純だったりすることはよくある。だから俺は理紗の式を疑うことはしなかった。だって何もかも上手く行っているのだから、何を疑えというのだ。
だが。
これは現実であって、数学ではない。
嫌な予感はそう、当たってしまうものなのだ。
けれどこの時俺達がそれに気付けなかったことも仕方のないことだろう。なぜなら理紗の式は何一つ間違えていない。完璧だったのだ。見直す必要など何もなかった。ただし、ある一点を除いて。だがそれは正直こちらの関与することではなくて――結論は変わらなくても、そこに至る過程の一部が変わっていた。それに誰が気付けるだろう。
或いは。
鈴童本人でさえ、そのことには気付いていなかったかもしれないのに。