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スリーピース  作者: 双色
3/『窓の向こうの空の果て』
18/36

17/式少女のメロディライン

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 ――要らない。

 ――一人でいい。

 ――何一つ、勝てないくせに。

 ――貴方なんて必要じゃない――。


 放課後、冷えたアスファルトに寝転がっていると凍り付くような冷え込みが身に刺さった。それがまるで鈴童に言われてきた言葉を再生しているようで落ち着かない。体の芯まで染み込んできて心を凍えさせる冬の午後の外の空気が肺を締め上げる。

 屋上は空に近いから暖かいんじゃないのか。太陽に近いんだから。その理屈だとヒマラヤとかの上には雪なんて積もらない訳だが。若干凍ってるんじゃないのかここ。本当に風邪を引きかねないので起き上がる。体勢を立て直して給水塔に凭れて座った。

 吐く息が世界の一部を白濁させる。体温が奪われているんだ。なけなしの体温が。

 失われていく貴重な温もりを惜しみながらフェンスの外を眺める。遠くに見えるのが体育館で、今その中では創設祭舞台有志のオーディションが開かれている。校内在校生とは今日の部と明日の部との二回、外来のゲスト参加者は明日という日程である。

 聞くところによると創設祭実行委員とかそんなものが一時的に発足しているらしい。審査員はその中から何人かを選出される。生徒会からも二人か三人ほどが代表で審査に加わるのだが、俺は放課後の体育館にどうしても脚を向けられなかった。

 俺が行ってどうなるものじゃないだろ。

 鈴童が一人でいいって言っているんだから。俺が行けば邪魔なだけだ。頭を占めるのはそんな弱気な考えだけだった。強行してしまえばいい。強気になろうとすればしかし、あれが去来する。まだ新しい完全敗北の記録。絶望的な両者の距離を見せ付ける、全く釣り合うことのなかったセッションの光景が戻ってきて意思を打ち砕いた。

 だから行けなかった。怖かったのだろう。また、あんな風に自分が無価値に感じられるのが。

 なるほどそういうことか。

 俺は全くへこんでいなかったわけじゃない。見事に奪われていた。空っぽにされて殺されていたのだ。鈴童静歌に対する感情の全てを殺されて――それが、スイッチになる。寸分も敵わなかった、ただ遠いだけの記憶を呼び起こすスイッチに設定されていたんだ。

 鈴童は演奏でだけ勝った訳じゃない。

 一つの勝利で呪いを残した。昼休みのはトドメを刺されたといっていい。深く深く、鈴童の言葉は心に突き刺さって抜けやしない。やっとわかった。これが鈴童の言っていたことなんだ、と。いずれ自分から遠ざけたくなるとそう言っていた意味が。

 ……あーあ。理紗にどうやって言い訳しよう。

 俺、なんかもう降りたくなって来た。あいつはもう手に負えない。

 けれどそう考えるのも、何だか気分が悪い。だったらどうしろってんだよ。本当にどうなってしまったんだろう。どうなってしまいたいんだろう。そんな二つの感情がぐるぐると廻り続ける中で放課後は進んで行く。

「なーにしてんのよ、このバカ」

 頭上から声が降ってくる。

 心臓を鷲掴みにされたみたいな感覚に思わず反り返った。しかし背中をべったりと付けていたことを一瞬忘れてしまい、なんだか三点ブリッジみたいな体勢になる。……一秒後、後頭部に激痛が生まれたことは言うに及ばず。

 涙目に霞む先に理紗の白い脚が見えた。

「オーディションはどうしたコラ。あんた啖呵切ってたじゃない」

 見られていたのか。

 急に羞恥心が湧き上がる。

 挑発の一貫だったとはいえ選んだ言葉は結構人に聞かれたくないからな。

「悪い、体調が優れない」

「何が足りないの? 注入してあげるから言ってみなさいよ」

「気合」

「オッケー」

 張り倒された。

 しゃがみ込むのが面倒臭かったのだろう。

 右足が旋風を巻き上げて首を刈りに来る――失速せずそれは俺の頬を打ち抜いた。

「な、なにしやがる!」

 三メートルくらい転がった。歯の何本かは覚悟したくらいの激痛だ。

「気合注入。元気出た?」

「出るか。俺は蹴られて喜ぶヘンタイじゃねえッ」

「でも男でしょ? 蹴る時にあたしのパンツ見せて上げたじゃない」

「突然の衝撃に、んなもん見てるだけの反応が出来るか!」

 実は水色のストライプが見えたのだが。たまたまだぜ。

 理紗は軽口を叩いている割に顔は一ミリも笑っていない。近付いてくる姿に追い討ちを幻視する。強い風に目を閉じた。けれど暗転した視界はいつまでだっても静かなままだ。次の一撃が加えられることは、なかった。

 目を開くと理紗の顔が直ぐ近くにあった。

 膝を折って、スカートを折り込んだまま両手を膝裏に挟んでいる。寒いのだろう。俺だって寒い。なのに何故か胸の中は変な熱を帯びていた。理紗の吐き出す息が肌をひりひりと焼く。近くにいるだけで、心拍を共有しているみたいな静寂が流れていた。

「……ごめんな」

 知らず謝ってしまう。

 それしか言えなかった。

 だってまだ俺はその言葉を口にしていなかったのだから。

 そうして気が付く。自分が何を抱えていたのか。鈴童に負けたから。そんなのはどうでもいい。俺の腕が未熟なのは百も承知だ。何度も言うが、傷付いて困るようなプライドなんて持っちゃいない。だから俺が何を気にしていたのかなんて、簡単なことじゃないか。

 俺に任せると言った、理紗の信頼に応えてやれなかったことがずっと、心を締め付けていた。

 鈴童に挑んでいけばまた何度でも、理紗を裏切ることになる。それが嫌だから降りようとしていたんだ。なんで気付かなかったんだろう。本当は今までもそうだったんじゃないのか。何をするかなんてどうでもいい。ただ俺は、理紗の立てた式を、自慢げに、嬉しそうに胸を張って語るその式を形にしてやりたかっただけなんだ。

「ごめん、理紗、俺、負けたよ。で、もう敵う気がしない」

 この先も。

 目の前の問題が解決して、目的どおりバンドを組めたとして。

 今度はそこで俺が脚を引っ張ることになる。二人の実力に俺は置いていかれるだけだ。それは目に見えて明白。そうなればまた。

「バカね。バカよ、あんたは」

「知ってるよ。俺はおまえみたいに、なんでもかんでも式とか言ってられるほどお利巧じゃない」

 だからどうしよう。

 どうすればいいのか、教えて欲しい。

 今は、自分では決められないけれど、頑張れと言ってくれるなら、まだ頑張れる気がした。

「頑張るとか、そんなのはどうでもいいわよ」

 ……て、おい。

 この感じでそんなこと言うのかよ。台無しだ。

「だって、あたしの式はいつでも完璧なんだから。あんたは絶対、それを成立させてくれる。それだけで十分よ。結末は決められた未来一つだけ。大丈夫よ。あんたならね。だってあんた、頑張ってるじゃない」

「……根性論かよ」

「論理式よ」

 どっちだっていい。呼び方なんて。

「前向きに考えなさいよ。鈴童静歌がそれだけ凄いなら、あんたの腕くらいカバーできるわよ。それにあたしもいる。マイナスが一つでプラスが二つなら、プラスが残るんだから。それにあたしは、あんたが必要ないなんて思わない。あんたじゃないと嫌よ。これは絶対。だからさ――」

 黒い瞳の奥に滲んだのは、本音だったのだろうか。

 頬の筋肉をぴくりとも動かさない。目も背けないし顔色一つ変えない。真面目なのかそうでないのかも解らないくらいに極自然に当たり前に単純に端的に――だけど純粋で透明な言葉は、雑然とした心の奥の奥にまで浸透していった。

「あんたが必要ないなんてこと、絶対にないわよ。あたしは、あんたが好きだから」

「……おまえ」

 なんで、こんな。

 あっさり、そんなことが言えるんだろう。こっちが恥ずかしくなってくる。

 それはきっと、こいつにはそんな気なんて全くないからだろうな。

「しっかり協力してよ。あたしの彼氏作りにね」

 幼馴染みは幼馴染みだ。

 そういう意味では俺だって、少なからず理紗のことは好きだと言っていい。

 ん、と喉を鳴らしてじっと覗き込んでくる。猫が遠くからこっちを見ている様に似ていた。違うところといえばなんだろう、その、距離が物凄く近いということか。今までならこんなことなんて気にならなかったのに。

「で、まだ答えを聞いてないんだけど」

「……なんのだよ」

「あんたまだ、頑張れるのかって、訊いてんのよ」

「……」

 発熱しかけた意識が一瞬で冷却されていく。

 本題に戻ると、どうにもまだ、強くなれなかった。なんだよ。頑張れる気がしたって。実際それが仮定だったとはいえ、今はびっくりするほど自信がない。こいつ言わなかったし。冷静になって立ち返れば、俺は始まりと何も変わっちゃいなかった。

 ただ自分が何で落ち込んでいるのか。何に対するモチベーションを剥奪されてしまったのか。自分の中の何が殺されたのかという容態を自覚しただけだ。わかったところでどうしようもないそれを、悟ってしまっただけだった。

 ふん、と理紗が鼻を鳴らす。憤然と立ち上がり、髪が翻った。

 瞳に溢れるのは呆れとか苛立ちとか、けれどそれを形作るのは際限ないほどの自信だ。理紗が一番自分らしい目をしていた。どこか嬉々として、完成した絵を親に見せる子供のように輝いている。見下ろされた俺はただ黙って次の言葉を聞き入れた。

「ついてきなさい。あんたがやる気出るように、とっておきのを見せたげるからっ」




 連れて行かれたのはいつもの、昼休みも訪れた旧音楽室である。

 理紗は部屋に入るなりギターのチューニングを始めて、いつもなら見ることのない楽譜を立てた。それが意味するところはなんだろうと疑問に思っていると、こちらを見ることもない怒声に準備を促される。言われるがままドラムを前にスティックを握った。軽く叩く。寒空の下にいたので、少し体を温めておく。これから演奏するのは明らかだからな。

 理紗はずいぶん早くに準備を整えていたようだが、俺の調子が十分になるまで待っていてくれたらしい。腕組して譜面を眺めている。新譜だろうか。なら俺はついていけないぞ。

「じゃあ始めるわよ。先に言っとくけど、あたし、今回は本気で行くから」

「本気って……」そういや普段は俺に合わせてるんだっけ。「おっけい。わかった」

「ちゃんと付いて来なさいよ。でないと意味ないから」

「善処するよ」

「そういう時はカッコつけるだけでいいから、強気で言ってなさいよ」

「がってんしょうちのすけ」

「よろしい」

 よろしいのか。

 すっ、とピックを持ち上げる。理紗の瞳の色が、深海の色に切り替わる。深く吸い込んだ息を肺一杯に溜め込んで、長い吐息が終わるのがスタートの合図だ。もう掛け声も目配せも要らない。それぐらいに練習は積んできた。

 曲目を考える必要はなかった。

 こんな風に理紗が始める曲は完成している三曲の中で一つしかない。

 そして俺に付いて来いと言った。無茶を言っているようでそうでないのが理紗だとも知っている。理紗は俺にそれが出来ると判断したのだ。一番始めに完成して、最も長く練習した曲目が答え。奇しくもそれはドラムを前にした瞬間に頭を過ぎっていた。

 疾走感を掻き立てる軽快なリズム、その口火を切るのは大気の震動と胸の高鳴りを代弁するようなシンバルだ。始まりの合図を響かせる。

 鈴童に完敗した記憶が旋律と共に蘇る。

 まだ体が覚えていた。あの感覚を、あの途方もなく遠いメロディの疾駆を確かに。

 だから出だしは上手く腕が動かなかった。練習ではどうということもなかったのに、意識だけでここまで変わるものなのか。短いソロが終わってギターの音が重なりだす。理紗の作り出す、一本の太い線が音符の一つ一つを貫き進んでいく。

 いつもと違う点は、理紗の演奏は走っていた。

 隣を歩いていくいつもの音調ではない。こちらを置いて行かんとする、速度も音階も何もかもが桁違いだ。響き渡る、夏空を思わせる爽快なメロディーは鈴童のベースが聴かせてきた架空のものとは違う。本物の重みがあって、本物の鼓動が含まれていた。

 そして加速していくメロディに、

「――――」

 理紗の歌声が重なる。

 ……そういうことか。

 ようやく理解した。

 知らない間に歌詞が出来ていたらしい。理紗はその初舞台を今に決めたのだ。こんなぼろぼろのタイミングで。自分の式が破綻しようとしている今この瞬間に。折れかかっている誰かを鼓舞する為に。


 遠くの空へ駆け抜けて。

 青く青く果てない色の夢に声よ届け。

 キミの歩む道、

 その道標になる歌だけを胸に響かせて。


 サビの一節を歌い上げた理紗は、間奏に入って溌剌とした笑顔をこちらに向けた。

「――なんだ。ついて来れてるじゃない!」

 上がりきったテンションがますます段階を上げていく。

 冗談じゃない。俺は置いていかれないように必死なんだ。涼しい顔をして軽口を返すこともままならない。だけど表情だけなら応えられる。自分がどんな顔をしているかは理解できないけれど――もうさっきまでの情けない顔はしていないだろう。

 不思議とついて行ける気がした。無理矢理引き釣り上げられる鈴童のそれとは違う。手を引かれている感じだ。もっと早く、ほら、もっと早く、と笑顔で急かされているような。手首を掴んで走り出す、迷いのない歩調は減速を知らない。どこかの誰かみたいだ。演奏には人格が出るということだろうかね。

 そうして最後まで駆け抜けた。躓いて転んで、何度か音程を外してしまったがそれでもやりきった。

 歌詞を堪能している余裕なんてなかったが、少しだけ元気を貰うことは出来た気がする。

 応援歌として元々作られた曲だ。気持ちが昂るのも当然だろう。

 ギターを下ろさないまま、理紗は体をこちらに反転させて、

「なんだ。やっぱりやれば出来るじゃん、あんた!」

 無邪気な笑顔だ。何がそんなに楽しいんだよ。こっちはもうへとへとだ。特に精神的な部分で。

 愚痴を口に出すことはしたくなかった。だから俺も、自分に似合わないことは知っていたけれど理紗の真似をしてみる。――掲げた拳の親指だけを立てて、二人、その拳を突き合わせた。

「ね、元気出た?」

 高飛車でない、こんな奴、俺の幼馴染みにはいない。

 俺の知っている式少女はこんな風に素直に笑わないし、優しくものを尋ねたりもしないのだ。

 そこにいる誰かは俺の知らない誰かで、テンションのグラフを定期的に上昇させる要因の擬人なんだと思う。だから素直に答えられる。冬なのに汗が滴る笑顔に向って、

「ああ、ばっちりな」

 言って、聞き入れた理紗はぴょんとステージに上がってくる。

 肩を思いっ切り後ろから叩いて、


「ほらね、大丈夫だよ――頑張ってる誰かを見捨てるほど、この世界は酷くないから」


 或いはそれは、考察中の歌詞の一部だったのかもしれない。

 我ながら単純だと思う。でも確かに、百億の言葉に勝るほどのものを貰った。

 これなら行けそうだ。

 もう少しだけ、頑張ってみよう。

 西陽の差し込む教室に残った余韻を肌で感じつつ、もう一度心が折れてしまわぬよう胸に仕舞い込んだ。


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