16/彼女の体温
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久し振りに朝一番で登校した。
理紗には言っていない。多分このことに関してはたっぷりと怒髪が見舞われるだろう。しかしこれも策戦の一貫だ。そう、策戦だ。あの式女が言うとおり、俺のは所詮『式』とはいえない不完全なものだろう。だから成功不成功の明暗は俺自身の器量と気合でわけられる。だったら根気が大事だ。
意地を張っている相手に対して、引いて待っていては埒が明かない。
俺がしようとしていたのは、鈴童を挑発して、挑発して、挑発し続ける。何らかの形で正面対決に持ち込めれば、後はそれに勝ってしまえばいい。気が強いからこそ、強がっているからこそ、そして意地を張っているからこそ何かに負けないと折れてはくれない。俺が知っている意地っ張りな強がりはそういう奴だ。
鈴童がもしもそうなら、いつか機会は廻ってくるはずだった。それが昨日だ。結果として負けはしたけれど、それは俺の推量が正しいことを意味している。まだ機会はあるはずだ。なら諦めないでいるだけ。今は。俺に自分の式を委ねた理紗に繋げなければ俺がいる意味がない。
早朝登校に眠い目を擦りながら門を潜る。前回よりは時間を遅らせたので、予想通り正門は開いていた。誰か教師が既に来ているのか、それともまた鈴童が早くから生徒会の業務に励んでいるのか。……後者の可能性はあるがそうであって欲しくないな。こんな生活を続けていれば体がもたないって。
などと予想しながら生徒会室に向う。
中庭に入って、そして。
……いた。
花壇の傍に座り込んで、隣に工具入れを置いて何かしている赤いコートが目に入った。
まさかとは、思ったけれど。薄っすらと雲の隙間から滲み出す朝日が照らす黒髪は濡れているような艶と光沢を持っていて、流麗で繊細な生糸の一本一本は間違いなく。
「……鈴童、さん?」
思わず言葉遣いが可笑しくなってしまう。
十一月の中間で冬はまだ頭の方だがそれでも気温は低い。鈴童はそれでも額に軽く汗を掻いているようで、それを軽く拭ってから俺を見上げた。眠気など感じさせない凛とした瞳が見上げてくる。鈴童は俺の存在を認めると、信じられないとばかりに目を見開いた。
「ええと、おはよう」
たどたどしく言う俺に、鈴童の仰天眼は殺意を帯びて煌いた。
「貴方……なにしに来たのよ」
「いや、どうせおまえ、創設祭の準備とか企画とか一人でやってるんだろ。手伝おうと思って」
「いい。要らない。要らないってば」
拒まれるのは元から承知だが。
なんとなく、こうしていると俺が鈴童を苛めてるみたいに見えて嫌だった。現実的な人格を考えれば有り得ない話だが、けれど、俺の助力を拒む鈴童の目はどこまでも強い拒絶と何故か悲しい色を含んでいたから。そんな風に錯覚してしまう。
どうやら鈴童は壊れた花壇を直しているらしい。工具とかを見れば直ぐにわかることだ。畳んだ体が覆い隠していて、どの程度修理が出来ているかは窺えない。俺は膝を曲げて、工具入れに手を伸ばした。
その伸ばした手を鈴童の手が遮る。
こちらの手首をがっしりと掴んで、爪が食い込むくらいに強い力に拘束された。
「要らないって、言ってるじゃない」
そう言った目は意地を張っているのでも、強がっているのでもない。今までに見たことがない、怒髪も拒絶も虚勢もない表情にはただ怯えだけがひたすらに震えていた。
俺はそろそろと手を戻す。今もまだ鈴童の体温が染み付いている手首を見て、そこに残留した感情から目を逸らす。手の冷たい人は心が温かいというが、だったら、鈴童は物凄く心の冷たい人間だ。だって、今もまだここに残る彼女の体温は痛々しいくらいに生々しく、皮膚を溶かすような熱を残していたのだから。
「悪い。じゃあ俺、先に生徒会室行ってるから」
反論する気が起きなかったのは何故だろう。どうしてか食い下がることが出来なくて、俺は気付けば鈴童に背を向けて歩き出していた。その背中に鈴童が言う。呟くような小さい声を、張り詰めた冬の冷たい空気は性格に伝播した。
「約束、守ってよ」
「……」
「わたしのことは諦めるって、そういう約束じゃない」
肩越しに鈴童を見て、そこにはやはりあの瞳をした彼女がいる。
鉛色に濁った曇天みたいに渦巻く瞳が弱々しく、懇願するように見詰めてくる。俺は何も言わずに先を急いだ。目を逸らしても、その声が聞こえないなんてことはないとわかっていたのに。
「貴方なんて何一つ出来やしないくせに。――何一つ、わたしに勝てないくせに」
耳を塞いでもそれは、もしかしたら聞くえていたのかもしれない。
……なんだってんだよ、このやろう。
*
「そういえば今日よね、オーディションの日」
「他人事みたいに言うけどさ、おまえも生徒会なんだから審査に加わらないといけないだろ」
「知らないわよ。あたしはそんなこと言われてないし。それをするのはあんたの役目でしょ」
「……それも、そうなのかもしれないんだけどさ。おまえ自身は鈴童と接触ねえけど、いいのかよ」
「いーの。いずれお互いに実力を認め合う日が来るんだからさ」
「そうかい」
「同じ高位の存在は認め合えるものよ。異端同士が理解し合うことはない。でも引き付け合うのは確かよ。そうすることでその誰かが自分の居場所になるかもしれないんだから。もっとも、それだって馴れ合いの真似事でしかないけどね。そうよ。理解は出来なくても認めることは出来る。手を繋ぐことは人に許された権利なんだから。同じ場所に立ってさえいれば、歩み寄る心さえあればいつでも触れ合えるのが人間よ」
「あー……そすか」
どこの新興宗教の勧誘を受けているのだろう。
昼休みの旧音楽室にてそんな会話が繰り広げられていた。もうなんだか昼の陽気は宇宙空間みたいだ。そしてさらりと自分自身の実力を強調する理紗である。確かにこいつが凄い奴である為の周辺事情は用意されているが、俺はその凄さをまだ目にしていない。肌で体感した鈴童の能力に理紗の口にする凄さが匹敵するのかは未知数だ。
だからこその不安がある。
理紗は鈴童を知らない。知っているのは機械を通した偽物だけだ。あれは、体全身で感じる異常だから、聴覚だけでしか認識していない理紗の言うことはここではまるで当てにならないと考えていい。
食後の運動として合わせている今も俺の予感は収まらなかった。
もしもこのままことが上手く進んで、俺が鈴童と理紗の対決をマッチアップ出来たとしても勝てる保障は、
「あたしが信頼出来ないの?」
緩やかな間奏の合間に訊かれる。
音は穏やかな波のようだった。俺でさえ遅いと感じてしまうくらいの速度だ。稲妻染みた疾走もなく、雷鳴染みた突風もない。丁寧で確かに五線譜の上を正確に縫って入るが、それは練習で幾らでも可能な範囲だ。
「……あのねえ。あたしが本気出したら、あんたついてこれやしないし、それじゃあ練習にならないでしょ。あんたが本当にあたしに追いつくことが出来るくらいになったとき、本気出してあげるから。楽しみにしてなさい」
言って、曲調がジャンプする。理紗がピックを大きく振って、間奏の終わりを響かせる。
従って俺もシークエンスを止めて鼓動を速めていく。
シンバルを高鳴らせ、次の音階への口火を切った。
「…………なんの用?」
そこで理紗が演奏を止めた。姿勢が固まったりしたわけじゃない。腕は腰に当てられて、ピックを持った方の手は下がっている。視線は一点へ。音楽室の扉へ向いていた。
奇しくも今度は俺が気付けなかったというわけだ。
理紗の目線を辿っていけばそこには極当然のように鈴童がいてこちらを睨みつけている。
腕には生徒会の腕章をつけて。
……そんなもん、なかったはずだろ。
「ここで何をしているんですか。使用許可は与えていないつもりだけど」
「あたし達は生徒会役員よ。執行部部員。許可なんて自分で降ろすわよ」
「……そう。執行部員、ね」
褪めた視線で鈴童は俺と、理紗とを交互に見やる。
「なら規約のことは知っているでしょう。部室及び一定期間中の教室使用許可は、特別な場合を除き、同好会以上と査定された場合にのみ与えられる。また、行事期間中、同好会未満での放課後下校時間以降、休み時間の使用には顧問の同行を必要とされる。何一つ満たされていないわ」
う、うわ。
すっごい正論持ち出してきやがった! さすがに生徒会長である。ルールを味方に付けて戦われたなら俺達に勝ち目はない。だって校則違反は言うに及ばず、こちとら下手をすれば法律違反二人組みなのだ。最悪の場合通報されればオシマイだ。……どうするんだよ。
理紗は臨戦態勢になって瞳を細くする。
ギターを下ろして、今にも掴みかからんとばかり至近距離まで鈴童に接近する。身長差が二人には意外とあるようだった。理紗はやや自分よりも背の高い鈴童を見上げている。だが張り合いは負けていない。どちらも互いの視線に怯むことなく無言の激情に火花を散らしていた。
……なんか、不味い。
不味いぞ、これは。
十年来の勘である。そういえば中学の時に似たようなことがあったな。反抗期の餓鬼じゃないんだから、理紗だって簡単に爆発しないだろうし、やたら滅多に権力の首元に噛み付くような真似はしないはずだ。匂いで解るだろ。おまえ等似てるんだから、キレたらなにしやがるかわかんねえんだぞ。
「っさいわねこの頑固頭! 赤鬼! 泣いた赤鬼! あんたそんな気張ってばっかだから誰も寄り付かないのよ自分でわかんない訳!? バッカみたい! 正真正銘真性のアホなんじゃないの! 孤高主義なんて寂しさを隠すだけの強がりだって、この歳でわかってないなんてほんっとバカよね!」
おいおい。
状況わかってんのか、理紗。
俺はまだ。
前科は欲しくねえ――!
「止めろって、おまえ!」
罵詈雑言、挙句は暴力行為にすら発展しかねない。なんだこいつ。冷静に式とやらを立てて、表で俺を使役しつつ裏で意図を引いてる黒幕タイプに徹すると思ってたのに。ちょっとは成長したと思ってたのに! 頭の中まるで子供じゃねえかよ。
がっしりと理紗の腕をホールドする。じたばたじたばた。振り解こうと腕を振り回して、その拳は正確に俺の顔面を射抜いてくる。ああこのやろう大人しくしろよ。駄々っ子なんて流行らないぞ。
「離せ痴漢! ちょっと、どこ触ってるのよ! 発情してんじゃないわよ!」
「てめえ、俺に何されても気にしないとか言ってたじゃねえかよ!」
「うるさい! これは忠告だからッ。今物凄い興奮状態なのよ! 間違いを犯すわよッ!」
「ああ、傷害事件を起こしかねないよな!」
なんなのこいつ、何とかしてくれないですか。
力尽くで何とか理紗を抑え込む。その一部始終を鈴童は冷たい目で遠くから見ていた。心なしかさっきよりも離れてないか。しかも無表情を装っているが若干引いてる。隠しきれてない。あの鈴童が内心を隠しきれてない。
「……どうでもいいけど。苦情が出てる訳じゃないわ。とはいえ、以後ここは使用禁止よ。どうせ、今日明日で創設祭のオーディションは終わりなんだから。直ぐにとは言わないわ。三日間、猶予を上げる。それまでにさっさと引き払いなさい。くだらない。生徒会ごっこも終わりよ」
「この、なんであんたは――」
右腕だけ振り解かれる。しまったと思うと同時に左手もするりと抜け出し、俺はその手首を掴んでどうにか動きに抑制を掛ける。理紗は右腕を高く振り上げて、一気に振り下ろした。突き出した人差し指を、鈴童の眉間を射抜くようにぴんと立てて。
「――正面から来なさいよ! 本気で、本音で! あたしと勝負しなさいよ!」
熱血っぽい台詞を、怒声で叩き付けた。
「ここのバカが相手なんじゃ、あたしの実力はわかってないでしょ。なら見てみなさいよ。思い知らせてやるわよ。自分がどれだけお山の大将か。井の中の蛙なのか! 自分で囲って一人しかいない世界で神様やって、そんなので楽しいわけないじゃない!」
左手さえも取り逃がしてしまう。
閃いた左手はそのまま、捩じ上げるように鈴童の胸元を掴んでいた。
額をぶつけて、そして理紗が布告する。
「そのバカみたいな思い上がりの境界を破却してあげるから。一回、出てきなさいよ」
抑えた声は本当の本当に掛け値なしの本音だと、俺は知っていた。
だってこいつがこんなに激情するのはきっと、気付いているからだ。
鈴童はまるで昔の理紗に似ている。一人っきりで意地っ張りだった昔の理紗に。だから許せないんだ。認められないでいるんだ。一人で囲って一人で孤独な、一人だけの一人ぼっちが手に取るように悲しいと解ってしまうから。
感情のままに咆哮した理紗は、それで幾分か気が晴れたのか簡単に鈴童を解放した。
鈴童は乱れた制服の胸元を正している。まだ何も言わない。
大きく息を吐いて、そして、それが最後だった。
「これ以上は時間の無駄ね。これは警告だから。貴方達は従うしかないわよ。じゃないと、校則違反も、今の暴力行為も、貴方達の不純異性交遊も全部使ってここから叩き出します」
熱量が違い過ぎる、そんな言葉が揺れていた空気を停止させた。
理紗は、もう何も言わない。
俺もまた何も言わなかった。ここまでだなんて思っていなかったからだ。鈴童がここまで意地を張っていたなんて知らなかった。……って待てよ。不純異性交遊ってなんだ。おい、ちょっと待った勘違いだろそれは。
「り、鈴童、ちょっと待った!」
慌てて待ったを掛けるが、鈴童はまるで乱れないペースのままゆっくりと口を開いた。
「もう一つ」
流し目に睨んでくるのは俺だけだ。既に理紗とは関わり合いを持ちたくないとか、話が通じないだとか言う風じゃない。煽るような空気もなく今の鈴童の中には俺しかいないようだった。それはきっと、これから言うことが俺にしか意味のないこと、理紗には言う必要さえもないことだと判断したからだろう。
そうして鈴童は迷いのない口調で拒絶の言葉を紡ぐ。形にして、まるで心が冷却されていくみたいだ。そんな他人の心境がわかるくらいに、鈴童の表情の変化はあからさまだった。
「オーディションには私だけで十分だから、貴方は必要ない。こなくてもいいからね」
もう少し、幼馴染み風に顔が赤かったりしたら照れ隠しみたいでよかったのにさ。なんでそう冷たく言うんだよ。それだとおまえの言ってることが、こっちには本気としか思えないだろ。心からのお願いみたいに聞こえて、直ぐに反駁できないじゃないか。
用件は済んだとばかりに鈴童が部屋を後にする。無造作に扉を開けて後ろ手に音もなく閉める。俺は初めに理紗を横目に入れてみた。激情に任せて今から生徒会室を襲撃したりするようならば、なんとかそれだけは阻止しなければならない。そんなことになれば仕込みが台無しだ。
もっとも今のところ。
俺の仕込みは完全に裏目を出し続けているのだが。
ああ、もう畜生。
理紗は心配なさそうだった。だから次に心配な奴をどうにかしておくことにする。他の誰でもない、この俺だ。どうにも気分が晴れない、なにか大切なものに罅が入っているみたいな感覚が気になって仕方ない。朝から全くモチベーションが上がらないのだ。少なくともこれまでは保てていたそれが今は完璧に枯れてしまっている。このまま鈴童を帰らせたりしたら、俺はあいつに言われた通り……
扉を開けて直ぐにでも走り出そうとした。けれど、その必要はなかった。だって鈴童はまだそこにいたのだ。廊下側に窓のない音楽室、その壁に凭れて、少し顔を上向けて鈴童は立ち尽くすように棒立ちしている。
「なにしてんだ、鈴童?」
駆け出しそうな勢いを圧し殺して扉を閉めた。力を入れてそうしたわけではないが、ぴしゃり、とやけに音がでかい。立て付けの問題もあっていつもこんなだ。意識しないと少なからず大きめの音を立ててしまう。
上向いた顔を元に戻して、眉間を指で少し押した鈴童が歩きながら追い越し様に言ってくる。
「なんでも。貴方達が私のいなくなった後にくだらないことを計画していないか、聞き耳を立ててただけよ。邪魔なら直ぐに帰るわ」
階段に向かって角を曲がる。まるで迷いのない足取りは呼び掛けても止まらない。何度か名前を呼んで追いかけて、やっと止まったのが階段の中段辺りだ。あたかも初めて気付いたみたいなリアクションで振り向きやがるが、顔はずいぶんだるそうだ。
「待てって鈴童」
「まだ何か?」
見下ろしているのに、見下されてる気分だ。
「俺も行くからな、オーディション。俺だっておまえと同じ生徒会だ」
今日初めて見た腕章に視線を向けて言う。異常でもなんでも、俺達は同じものなのだとそんなことを言いたくなっただけかもしれない。折れそうな心を鼓舞しただけかもしれない。鈴童はどうかわかっただろうか。それは不明だが、けれど無理矢理な作り笑いを浮かべた鈴童は、
「あの勝負で伝わらなかったなら、はっきり言って上げます。貴方なんて必要じゃない。私は誰も、要らない。一人でいい」
全て粉々に、砕き割ってくれた。
「今までだって、そうしてきたんだもん」