14/絶望のファーストセッション
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果たしてそれから五日が過ぎ、創設祭舞台有志のオーディションは明日に迫っていた。
五日の間に俺が鈴童の引き込みに成功したのかというと答えは勿論否である。結局は今日まであの調子で生徒会の雑用に従事していた(主な業務は全部鈴童がやってしまうので、俺には出る幕がない)。しかしそれも無駄ではない。下準備としては既に十分過ぎるほどだ。蒔いておいた種は芽を出し、鈴童の中で燻っていた蟠りを煽ることは出来ている。
その準備が爆発寸前までに膨れ上がっているのはわかっていたが、最後の仕上げだけが空白のまま取り残されている現状だった。
――均衡状態を破ったのは意外なことに鈴童の方である。
その日いつものように生徒会室に行った俺は無言の鈴童に首根っこを引っ掴まれ引き摺られるようにしてそこへ連行された。どこあろう、それは互いに因縁の場所とも言える件の旧館音楽室だ。鈴童は無造作に扉を開くと、中の楽器を見回す。練習はあれからも続けていた。理紗の作曲も無事に一曲目を終えて俺も何とかそれを演奏出来るレベルに達したと思っている。
鈴童がなんの目的でこんなことをしたのかは、彼女の姿を見れば少なからず理解に至ることが可能だった。なぜなら俺を拉致してきた生徒会長様の肩には黒いギターケース(中身は多分ベースだろう)が掛かっていたのだから。棚から牡丹餅とはこのことか。こちらから手を出しあぐねているところに自分からフラグを立ててくれると言うのだ。
……と、浮かれることは出来ない。
何故かって。相手が鈴童静歌だからだ。
少なくとも俺はもう二週間ほども鈴童の近くにいたことになる。性格の似た、他の誰かとは十年以上もの付き合いだってあるのだ。だから知っている。わかってしまう。
鈴童がこんな素直に、こちらの式を成立させてくれる訳がない。
ケースを近くの机に寝かせて催促してくる。突き出した手は無造作に、視線は窓の外の遥か彼方果ての空へ向けられていてこちらを振り向く気配もなかった。
「楽譜、見せて」
「……なんのだよ」
「惚けてるつもり? 貴方達がここで練習してる曲のよ」
その発言だとまだどうやら盗聴は継続中らしい。もはやそれを隠そうともせず、俺から窺える横顔には一切の感情が浮かんでいなかった。昨日までとはまるで別人で、こんなことになる前の優等生でも揺さぶりに従順な意地っ張りでもない。今の鈴童はただひたすらに静謐だ。波紋がぴたりと消えた水面みたいに無情な静かさだけを湛えている。だからこそわかった。鈴童は、これで決着をつける気なのだと。いつまでも現状を終わらせられない俺に痺れを切らして返り討ちにしてやろう、と。
生徒会室からここまで、俺は下校スタイルもそのままに連れてこられた為マフラーも鞄も持参している。その中から理紗に貰ったルーズリーフを取り出し鈴童に手渡す。さらりと紙面を流すように眺めた鈴童は表情を少しだけ曇らせて愚痴るみたいに呟いた。
「ベースだけ、書かれてない」
ベースの居場所がない譜面をぼんやり眺めてから、今度は間違いなく俺に宛てて言葉を紡ぐ。
「少しだけ時間ちょうだい。貴方はその間にアップでもしておいて」
「あのさ、それってつまり」
「はあ。わかってるんでしょ。勝負よ。負けたらもうわたしは諦めて。……というより、諦めたくなる負け方をさせてあげるから。貴方に、自分からわたしを遠ざけさせる」
「……鈴童、なんでそうなんだ。そんな、自分から周りを寄せ付けないようなこと――」
きっ、と横目に睨まれる。
「うるさい」
本気、だ。
ようやく状況が読み込めてきた。俺が思っているほど現状は甘くはない。鈴童は掛け根無しで本気らしい。どこまでも。俺は勘違いしていたのだ。こいつが俺や理紗を拒絶するのは意地でも強がりでもましてや照れ隠しなんて可愛い理由じゃなかった。もっと別の感情から本気で突き放してくる。鈴童は本気の本気で孤高であることを望んでいた。
……だったら、こっちだって受けてやる。挑発してきたのは今まで俺だったわけだし、この結果はいつか実現させないといけないものだったのだ。万事解決じゃないか。いくら鈴童が抜群のセンスを持っていたって、本気でベースに打ち込んでいる訳ではない。さらに曲はこっちが二週間も練習してきた曲なんだ。
ブランク、土俵ともに俺に有利なこの勝負なら勝ち目はある。
「もういいわよ。これ、ありがとう」
ブレザーを脱ぎ、軽くスティックを振った。頃合いでルーズリーフを返却される。ちょっと待てよ。おまえこれ、なんの為に見せろって言ったんだ。見たところ他の紙に写した様子もない。そもそもこれにはベースのコードは書かれていないのだ。こいつは、部屋の外から聴いていた俺と理紗のセッションと、それから一度楽譜をさらっただけで自分のパートを組み立てて暗記までしたってのか。
「意外そうね。もっと時間を掛けた方がよかった?」
「いや、そっちがいいんなら俺は別に」
「そう、じゃあ始めましょ」
そりゃあ。
俺がタイミングを預けたのだが流石にそんなに直ぐ様始めることはないんじゃないだろうか。鈴童はまだケースからベースを取り出してもいない。ピックに触れてもいないしチューニングも、コードの確認もしていないはずなのに。そこまで自信があるのか。勝つ自信が。
大したプライドを持っている訳じゃない。俺がドラムを、バンドをやっているのは一時的なことだ。けれどこれまでの練習を全部無意味だと嘲笑されているような態度には少なからず腹が立つ。こうなれば実力行使しかない、勝って認めさせてやる。自分の張ってる意地が、どんなに馬鹿らしいものかを――
鈴童がベースをアンプに繋ぐ。
「どうぞ。これ、入りはドラムのソロからでしょ。好きなタイミングで始めていいわよ」
言われなくてもと、スティックの握りを確かめる。平常心だ。ここで乱れてはいけない。一度意識を綺麗にしてからの深呼吸で、これまでに浮かんできたあれこれを排除していく。
静かな室内で自分の鼓動を聴く。スタートの合図を心臓が刻む。両サイドのシンバルを力の限り高鳴らせた。出発の合図だ。そこから次に繋ぐのは細かな連打。二本の腕で一気に音の波を生み出す。
理紗が一曲目に製作したこの曲はその名を『Siren』とされている。何曲ほど演奏するつもりなのか知らないが、ライヴの定石として一曲目に持ってこられるアップテンポの疾走を思わせる曲だった。それ故に初めて演奏するのは難しい。ましてや鈴童が譜面を見たのは五分にも満たない間だけだ。おまけにベース用のコードはそこに記されていない。こちらが勝つ為の材料は十分揃っていた。
畳み掛ける。序盤は何度も繰り返し、理紗についていけるくらいに成長した。俺が鈴童を突き放すならここしかない。細かい連打の嵐を容赦なく限界速度で叩き付ける、その向こうから――
――低く、唸るような重厚感を持つ音が追走してくる。
はっ、として顔を上げた。自分の手元を見るのに必死だった俺はそこでようやく鈴童の姿を見た。俺が必死になって走らせる曲調を抑え込んで纏めるように、完璧なベースの演奏が紡がれていく。曲の輪郭を完全に描いている。ギターはいないのにベースだけでそれを果たしているみたいだ。完全な縁取り。あちこちを浮遊する俺の音を集束して行き先を示すような演奏が、記憶の中にあるギターの音さえ引き出していた。
それだけのことをやって、涼しい顔で鈴童はピックを踊らせている。手が止まりそうだった。こんな速度でドラムを叩いたことなんてない。手首に掛かる負担がいつもの数倍になっていることにやっと気が付く。こんなペースは保っていられない。一度速度を落とさないと。
「――――っ!」
驚愕は刹那を待って戦慄に変わった。落とせない。自分の意思なのに自分の体なのに言うことをきかない。疲労で少しずつペースは落ちてきているが、それでも無理な稼働を両手が続けている。頭の中が真っ白になって鈴童を見る。そこで目が合った。
鈴童はちらりと横目を合わせて。
不敵に、小さく口元を歪めた。
叫びたくなった。純粋に怖かったからだ。挑発のような笑みには敗北感と絶望しか起こらない。煽られることももうなくて、ついていけないと、こいつには敵わないという諦めだけが心を満たしていた。
完全に旋律を支配している。全ての音を纏め上げて曲としての確固とした形に仕上げる境界役のベースは、その域を完全に越えていた。こちらが誘導されてさえいる。動くのなら、物理的に可能なら背中を押され続ける。いずれ破綻するとわかっているのに。そうして思ってしまった――敵わない、こいつは、そもそも住む世界が違う。だから間違っているのは俺ではなく――ぷつり、と思考が断絶された。
怖かったのは鈴童の演奏じゃない。それについて行こうとしている自分と、彼女が誘導しようとしている音の幻聴が自分を追い越していくことだ。確かに聴こえていた。ベースもギターもドラムも完璧な完成した曲が聴こえていたから。もう、自分は必要ないんじゃないかと思ってしまった。
叩いたシンバルは一節を遅らせて、次に移ろうとする運動は呆気なく停止する。痺れが上がってくる。手からとっくにスティックが落ちていた。無情にも、疾走し彼方に消えていく完璧なメロディラインを望遠して、俺は空っぽの胸中で自分の負けを実感した。
圧倒的で、完璧な演奏が終わる。余韻さえ引かずに消えた幻は恐ろしいほどの静寂に溢れた夕刻だけを残して去っていた。これが、鈴童静歌だった。ただ傍から演奏を聴いているだけならどうだか知らない。けれど少なくとも同じ場所で同じ旋律をなぞるなら、こいつは一人で十分過ぎる。あの時生徒会室で感じた感覚に似ている。自分の無力感、疎外感、無意味にそこにある不必要な存在と、あらゆる負の概念が押し寄せてきた。
声さえ直ぐに出なかった俺は、手の痺れだけを噛み締めながら何かを言おうと必死に鈴童を見た。
「わかった? 釣り合わないっていうのはそういうこと。わたしはね、貴方とはいっしょにいられない生き物なの。だから諦めて」
アンプの接続を切り離し、ベースを仕舞う。何事もなかったように平然として鈴童は部屋を出ていく。こんな結果はやる前からわかり切っていたと言う背中はけれどどこか寂し気も含んでいた。
我に帰って気付く。
この瞬間俺の中での鈴童静歌は既に、同じ場所にいる同じものではなかった。
「オーディションは明日だから、明日の放課後。飛び入りは認めてないけど、足掻くとしたらそれまでよ。それじゃあ頑張ってね。わたし、貴方を応援してるから」
バンド自体は諦めないで、と、初めて話した日のあの笑顔でそう言った鈴童はもうここにいなかった。