11/せんせいのちゅうこく
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新館の職員室前にて、鈴童姉、もとい数学の鈴童先生と出くわした。
授業では顔を見ているがこうして休み時間や放課後にばったりというのはあれ以来久し振りだ。前回は意図的な邂逅だったわけであるのだが、今回はどうなのだろう。これが運命というやつの所業ならば有り難いのだけど。
先生は俺を見つけると何やらむすっ、とした顔で、彼女の妹とはまた違った睨眼を向けてくる。立ち止まるにはそれだけで十分だった。相手が俺に用があるらしいことは一目瞭然というやつである。
「ちょっと、片瀬くん、最近生徒会で好き勝手やってるらしいじゃない」
「……はい?」
確かに思い当たる節はあるが、あれは全て生徒会としての職務を全うしているに過ぎない。そのバックにどんな思惑があろうともだ。だからこそ鈴童は俺の行動を咎められないし妨害もできない。――その甲斐あって、鈴童のメンタル面はかなり揺さぶれているのだから。と、まさかだからこそ形振り構わず姉に泣きついたとでもいうのか。
あの鈴童が?
有り得ない話だ。
先生は怒り眉毛を少しだけ垂れ下げて、息を吐くと諭すような口調で、それからどこか哀れむような目をして訥々と言った。
「あのね、生徒会に入っても、静歌をバンドに入れるのは無理だよ。その内生徒会だって辞めたくなるわ。みんなそうだったもん」
今は関係ないが、この人ほど仁王立ちとか腕組とかが似合わない女教師はなかなかいないだろう。生徒に喝を入れる妙齢の美人には、まだ実年齢も風格も足りなさ過ぎる。
「聞いてるの、ねえってば」
言葉遣いまで子供染みてきた。
はいはい聞いてますとも。尖閣諸島とか樺太列島辺りの話でしたか?
「もう。そういうところ、悪い癖だよ。冗談ぶって人の真面目な話を台無しに使用とするところ」
「その心は、先生」
「最低」
「うわ、ぐさっ」
「そんな男の子最っ低」
「なんで繰り返すんですか!?」
「わたしは国語の教諭じゃないの。謎掛けなんて趣味はありません」
国語の教師がみんな謎掛け好きとは限らんだろ。ていうか今のは一切掛かっていないし謎掛けでもない。
こほん、という咳払いの音が場の空気をリセットした。先生は急に真面目な表情になってこちらを見る。そうしていると、早くも先刻の言葉を撤回しなければならなくなるが、そこには迫力というか、なんというか教師の持ち合わせる威圧感が感じられた。
「あの娘が素直じゃないのはわかるでしょ。意地を張ったら、絶対自分からは折れないわよ」
「その言い方だと、本当はバンドしたいみたいに聞こえますよ」
「……どうかな。でもそうかもしれない」
だったら初めからそういえばよかったのに、と俺はいつかの一場面を思い出す。こちらの用件に耳を傾けることもせず、ただの一言で拒絶し一蹴した後でさらに追い撃ちまで掛けてきたあの日を。あの一回だけの出来事が今でも鈴童に意地を張らせているというのなら馬鹿馬鹿しい――――と、待てよ。
ようやく自分の思考が可笑しなことに気付く。待て。初めっていつからだ。俺と理紗がバンド云々の話を持ち出した辺りからか。違うだろ。別に、それならその時点でなら拒否することなんてないじゃないか。あれが本音でないなら、あの完全無欠な優等生の仮面を捨ててまで刺々しく拒絶するメリットなんてない。だから、本音とか意地とか言うならそこだ。咄嗟に出てしまったんだ――今までもずっと張り続けてきた、意地が。
「中学の時にね、あの娘バンド組んでたのよ。でも二ヶ月くらいで解散しちゃった。なんでだか、わかるでしょ。生徒会役員として一週間以上過ごした貴方なら」
言っていることがわからないなんてことは残念ながらなかった。
俺自身も体感したのだ。あの虚無感や虚脱感を。まるで世界中から自分が必要とされていないような孤独に似た感覚を俺は知っている。元より生徒会という組織の業務なんかには興味もないし、何の情熱も信念も持ち合わせていない身だ。俺がしつこく鈴童を追いかけていられるのはそれが理由だろう。喪失する決意もなければ、湾曲する信念もありはしない。
それがどうだろう。もし本当の意味で、俺のような理由以外で真面目に生徒会の一員として在りたいと思った誰かがいたら――もちろん他も同じだ。バンドにせよ一人が秀で過ぎていればバランスが保てない。回りが追い付けないなら待っているのは崩壊だけだ。その、終焉の予感が、あんなにも不安を煽ってなにもしない内から人を落胆させていた。
胸を過るのは静かで空っぽな生徒会室の景色とそこにいる一人だけの姿。彼女は優秀だった、だから、一人になった。彼女といっしょにいる誰かは孤独だったかもしれない、そして彼女自身は孤高だったのだ。だからどちらも孤立してしまう。孤独と孤高は立つ位置が違うのだから。
「……でも、それぐらいで」
「二回あるのよ。少なくともバンドに関してだけ言うなら」
「二回?」
「去年の話よ。ちょうど創設祭の時期だった」
「その時に、解散したんですか?」
先生は頷いてから首を横に振るという矛盾した行動で答えてみせる。それはなんだろう。的を射てはいるが中心を外している、核心を得ずに結論に達したという意味なのだろうか。
不完全だった俺の解答に先生が補足する。
「別のメンバーで出たの。ベースだけ代えて」
「……」
「創設祭の出し物程度の考えだったから、別にプロになりたいわけじゃない。有能過ぎるメンバーは必要じゃなかったのよ」
だから疎外した。
当然だ。
それが自分達の平凡を阻害するものなら。本能的に排他するのは当たり前のことだ。
誰が否定できるだろう。俺だって思ってしまったんだ、居心地が悪いと思ってしまった。鈴童がそうしたこともあるのだろうけど。とはいえそれは自覚的にだ。人為から生じたものは人為で受け止められる。でもそれが無自覚だったならと考えればぞっとする話だ。
「だからあの娘の周りには誰もいないのよ。それでいて意地っ張りだから、開き直って自分から一人になろうとしてる。もちろん不自由はないでしょうけど。必要な『関係』は作れるし、持ってるもの。でもそれ以上はない。大衆に溶け込むことで自分を圧し殺して孤立してる」
「……それで、先生はどう思うんですか。そんな――」
妹のことを。
「――鈴童のことを」
名前で呼んでおきたかったのは、そうすることで自分の中の鈴童静歌を繋ぎ止めておきたかったからかもしれない。
「さあ……こればっかりは本人の問題だから、わたしには何とも」
「でも俺にそんな話をしたってことはそれだと駄目なんだって思ってるんじゃないですか」
それが悲しいことなんだって、本人に言えたら楽なんだろうけれど。
「それも、どうだろう。今までも沢山静歌に言い寄る人はいたけど、貴方はなんだか変わってる。下手に出るんじゃない。高圧するんでもない。ただそこにいて……なんだか挑発してるみたいだなんて」
俺にも俺の考えがある、いや、式があるんだ。
「まあ、静歌があんなになる前から、男の子はみんな玉砕してたんだけど。貴方がどこまで頑張るのかは少し楽しみかな」
……そういうわけじゃないんですが。
「じゃあ先生から忠告。男は立ち振舞い次第よ。態度には気を付けてね。特に静歌は押したって駄目なんだから、たまには引くことも大切だよ」
といって、先生は悪戯っぽく舌を出して笑う。童女のような仕草と表情から僅かに匂っている大人の香りが何となく犯罪染みて感じた。それは、大人としての忠告だったのか、それとも鈴童静歌の姉としての忠告だったのかは定かではない。どちらでもいいことだ。俺は去っていく先生の背中を見ながら思う。
昔の人は言った。押しても駄目なら引いてみな。悪いがそんなもの、知ったことか。近頃の高校生を舐めんな。
押しても駄目なら――押し倒してしまえ。
今はまだ前段階とはいえ、いずれ機会を得て必ず。意地っ張りな強がり女の扱いは不本意ながら心得ている。だから、ここでは引けない。
そうして俺は自分がチラシ貼りの途中だったことを思い出した。同時に。
今の思考が誰かに読まれていたら、俺はとんでもない勘違いをされていたことだろう。と、改まった心で思い至り背筋に冷たいものを感じた。