二話 彼には二通りの名前があるから
清場和仁が勤める警察庁重犯罪対策局特務執行課は、警察の中でも特に特殊な部署である。警察庁と名はついているが実質的には警察から独立していて、重犯罪対策局特務執行課の所業に対して警察庁は良くも悪くも一切関与しない。にもかかわらず他部署と情報のやりとりは密に行うという奇妙奇天烈な部署だ。
その起源は第三次世界大戦まで遡る。
第三次世界大戦直後の混乱期、日本は他国と比べて奇跡的とも言えるほど暴動や犯罪が少なかったが、それでも平時と比較すれば桁違いに増えた。当然、警察は機能不全に陥る。
そこで活躍したのが絶滅寸前だった任侠系ヤクザである。彼等は一致団結し、独断で暴動や犯罪を取り締まった。組織の規模がそれほど大きくないのでフットワークが軽く、土地勘に優れていた事が幸いし、警察の十倍は活躍した。
もっとも取り締まり方がいささか以上に暴力的であったり、犯罪者に法律的に見ると苛烈に過ぎる罰を与えたり、金や物資を巻き上げたりと決して良い面ばかりではなかったのだが、犯罪率の低下や規律の維持に一役も二役も買ったのは疑うべくも無い。
国民は怯えながらも彼等を歓迎した。次第に無料だが仕事をしてくれない警察よりも、有料だが仕事をしてくれるヤクザに心が傾いていく。
混乱期が収束し、政治経済が復活し警察がまともに動くようになった頃には、既に警察の権威は失墜し、ほとんどヤクザに取って代わられていた。ヤクザの思惑通りである。
犯罪者が犯罪者を取り締まり、しかもそれが民衆に支持されている。大問題だ。
当時の警察は復活したてで人員が少なく、組織編制も不十分で、治安維持能力に不安があった。ヤクザを駆逐し治安維持の主導を取り戻すのは実行能力的にも民衆の心理的にも現実的ではない。しかしそのままにしておく訳にもいかない。
そこで警察はある程度汚れる事にした。ヤクザと交渉し、警察機構に組み込む事を承諾させたのだ。
警察は民衆の支持を得ているヤクザを管理下に置く事で面子を保ち箔付けをして、また、ヤクザのショバ代要求やあまりにも法律から逸脱する行為を禁じる。
ヤクザは警察の傘下に入り行動の制限を受け入れる代わりに、警察から活動資金を受け取る。
共存共栄だ。見方によっては体のいい癒着腐敗だが。
しかし当時の過酷な状況を乗り越えるためにはそうする必要があったのも事実だった。
警察の一部署として組み込まれたヤクザ達は独自の情報網を駆使し、やはり強引な手段で調査・逮捕を繰り返す。令状など知った事かとばかりに犯罪者を捕まえてから恐喝めいた方法で証拠を暴き出したり、正規の警察にはとてもできない非合法な手段で政治犯を追い詰めたり。
法的には問題しかない。法律の守護者が法律を突き破って法律違反者を捕まえる。カオスだ。が、それを許容できるほど、功績も多かった。
いつしか本筋の警察庁とヤクザ上がりの間には不干渉の不文律ができていた。情報は交換するが、お互いの仕事に口出しはせず、本家警察はやり過ぎない限りヤクザ上がりの無法の責任を取らない。
そんな無茶苦茶がまかり通り、やがて折り合いをつけて定着した。それが警察庁重犯罪対策局特務執行課だ。
元ヤクザ組は警察としての自覚が出たのか時代の流れと共にヤンチャも減り、今では「超法規的措置を許された特殊な警察」程度に収まっている。
和仁はそんな組織に十六歳で就職し、現在はベテランとして日々仕事に打ち込んでいる。
署内に入ると、まず受付がある。古びて黒ずんだ木張りの床に来客用の椅子が三脚置いてあり、ひまわりを活けた花瓶が置かれた白く横長のカウンターを挟んで奥に事務机がある。その事務机に厳つい顔をしたガタイの良い男が座って書類に判子を押していた。
硬い髪の毛を後ろに撫でつけていて、顎鬚とモミアゲが繋がって年老いたライオンのような印象を受ける。全身に盛り上がった筋肉がYシャツをピチピチに押し上げ、ボタンは今にも跳びそうだ。
特務執行課札幌派出所最古参の職員、来田である。
「おはよう。早いな」
来田は顔を上げ、重みのある低い声で言った。和仁は軽く会釈して答え、ウエスタンドアを押してカウンター裏に入った。
「おはようございます。今日は増田さんから早く来るように言われていたので」
「ああ、そうだったな。どうせ今夜あたりキナ臭いヤマがある、ってな具合の話だろうよ」
「……それは来田さんの勘ですか?」
和仁は言いながら鞄を事務机の脇に置き、置かれていた書類を数枚とって目を通していく。
「まあなあ。しかし外れんだろ」
「でしょうね。来田さんの勘はよく当たりますから」
今夜は遅くなってしまいそうだと嫁の顔を思い出しながら思ったが、これも仕事だ。表情には出さない。近いうちに何か埋め合わせをしようと心に決める。
「なんにせよ全員揃ったら話がある事ぁ間違いない」
「あと来てないのは誰ですか?」
「上井場と木安田が来とらん。朝司はなにやら来てすぐに出かけたな。すぐ戻るような事を言っとったが」
「下見ですかね」
「今度はどこにカチコミかけるのやら」
「また爆破解体するハメにならないといいんですけどね。あれ火薬代も馬鹿になりませんよ、崩落の計算も手間かかりますし……やっぱり先に着替えてきます」
「おう、行って来い」
話しながら手際よく数枚片付けていた和仁は判子を置いて部屋の奥のドアを開けて更衣室に向かった。
警察官は職場に到着してから置いてある制服に着替える。自宅で保管して盗まれでもしたら洒落にならないからだ。犯罪者に本物の警察の制服で変装されたら厄介な事になる。
だからといって上下スウェットで出勤するのもおかしいが、特務執行課はそういう事が許される部署なのだ。締める所は締め上げるが、緩いところはゆるっゆる。
大昔から変わらない紺のズボンと空色のYシャツに着替え、ベルトを締め大刀と小刀を差した和仁は鏡で乱れをチェックして受付に戻った。
受付には木安田が来ていた。小柄で細身、陰気な顔の男で、瓶底眼鏡のせいで目が大きく見える。初夏だというのに薄汚れた灰色のもこもこのオーバーを着ていた。印象の通り仕事ではネチっこさを発揮し、いやらしい罠の数々で犯罪者をしめやかに半殺しにするのを得意としている。
「おはようございます」
「はよう。なあ清場よう、鉄条網の在庫あったか?」
「前回の作戦で回収した物が少し。血は拭いておいたので錆びてないと思いますよ。というか備品の事は上井場さんに聞いて下さいよ、私の管轄じゃないです」
「いやお前暇見つけちゃあ誰かの手伝いしまくってるから。大体何聞いても答え返ってくるだろ? 無駄知識多いしな」
「……否定はしませんが」
ニマニマ薄ら笑いを浮かべた木安田は、来田に着替えて来いと促されて和仁と入れ違いに更衣室に入っていった。
和仁は来田と向かい合って事務机につき、全員が来るまでの間に少しでも書類整理を進める。特務執行課は正規の警察よりは備品管理も始末書も緩く、書類は少なく済むが、パソコンなどという二十一世紀ハイテクアイテムは本庁ぐらいにしかないので全て手書きで処理する必要があり、それなりに時間を喰う。
二人は黙々と書類を捌いていく。木安田は着替えてそのまま倉庫に備品の在庫チェックに行ったらしく、戻ってこない。
朝の日差しが窓から入り、ひんやりとした夜気が残る室内を少しずつ暖めていく。壁際の柱時計が八時を指したところで朝司と上井場が連れ立って現れた。
朝司は紺色の装束に身を包み、面頬で顔の下半分を隠し、額あて、膝あて、手甲をつけた中肉中背の男だ。装束の胸元には鎖帷子がのぞき、背中には刀を背負っていた。
要するにあからさまにニンジャな格好である。真昼間からこんなふざけた格好で偵察に出向くあたりいい神経している、と言いたいところだが、実際は朝司自身はわざと目立つ事で人目を引く役目を負っていて、実際の偵察は子飼いの手下にやらせている。ピエロに扮したりストリートミュージシャンのフリをして往来で楽器をかき鳴らしたり、変装のバリエーションは多い。
上井場は小柄で人のよさそうな顔をしていて、札幌派出所の面子の中では一番若い十七歳だ。一番特徴の無いメンバーでもある。頭の回転が早く、主に作戦立案、通信を担当している。
職員達は口々に挨拶を交わし、着替えていない上井場は更衣室に消えた。その上井場が戻って数分もすると、壁から飛び出している伝声管から渋い男の声で署内連絡が来た。
「連絡、傾聴。署員は全員会議室に集合。署員は全員会議室に集合。以上」
受付にいたメンバーがそれを聞いてぞろぞろと奥に入っていく。和仁はそれに続こうとしたが、ふと気付いて引き返し、入り口に『巡回中 御用の方は下記までご連絡下さい』の看板を出してから会議室に向かった。
八畳間程度の広さの狭い会議室には中央にでんと四角いテーブルが置かれていて、すでに全員着席していた。各員自前の湯のみに急須からセルフサービスでお茶をついでいる。
部屋の出入り口の反対側正面から時計回りに増田、馬坂、蘭、朝司、来田、上井場、木安田と座っていて、馬坂と蘭の間に空席がある。和仁はそこに座り、自分もお茶を淹れた。
馬坂は長身で、来田に負けず劣らずな筋肉だ。類稀な怪力を持ち、素手でフライパンを丸める事ができる。犯罪者のような凶悪な顔をしており、その戦鬼のような苛烈な戦い方も合間って犯罪者に恐れられている。ただし普段は休日に三人の娘の世話を焼く優しいパパさんだ。
蘭は唯一の女性職員で、スレンダーでしなやかな体格の若手だ。足が速くすばしっこい。ショートカットに糸目のおだやかな顔をしていて、性格も見た目通りなのだが、仕事では容赦ない。専ら見た目で油断させて襲い掛かる撹乱・奇襲要員である。
「さて」
全員の着席を確認した増田は顎を乗せて組んでいた手を解き、窓から差し込む明かりを不気味に反射する眼鏡を押し上げて口火を切った。
「諸君。今夜大捕物がある。昨日の夕方入った情報の裏を先ほど朝司に取ってきてもらった。朝司」
増田に促され、朝司が書類を取り出した。
「はい。えー、現在伏見の廃ビルに大陸から来たマフィアが巣食っています。どうも一時的な仮拠点として使っているだけのようで、移動準備をしているのを確認してきました。準備状況から察するに今晩深夜から遅くとも明日の晩には引き払って移動する見込みです。これを逃がすと地下に潜られるので、今夜中に一網打尽にします」
「令状は?」
一応和仁が聞く。令状があると作戦時の負傷に手当てがつくのだ。逆に言えば令状が無ければ手当てがつかない。令状無しの強行逮捕や捜査中に殉職しても何の補償も昇進も無い。罰則も無いが(度が過ぎない限り)。色々な意味でとんでもない職場である。
朝司は当然だという顔で答えた。
「いつも通りありません。応援もありません。急な作戦ですので。今ここにいる札幌派出所の八名で四十人から五十人程度の制圧を行います。作戦時の暗号名はいつもの通りに」
敵の人数を聞いた馬坂が少ないな、と呟いた。来田はそれに頷き、蘭はほっとしたような顔をしている。
「武装は刃物と鈍器ですね。銃器は無いとは思いますが、あっても骨董品の単発が数丁でしょう。仮拠点なので要塞化はされていないようです。注意すべきは鳴子と見張り程度でしょう。人数は二十三人は目視で確認しました。物資の量からプラス二十から三十人が推測されます。以上です」
増田が頷き、上井場、と呼んだ。上井場は札幌近郊の地図を出してテーブルに広げた。赤いピンを出して南西部の山裾に刺す。
「ターゲットはここですね。基本的に四方を山に囲まれた閉鎖的な場所です。町へ続く道は二本」
ピンが刺さった場所から伸びる二本の道を赤ペンで塗る。
「外国マフィアにこのあたりの土地勘は無いでしょうから、山に逃げ込まれる心配はほとんどありません。逃げたとしても物資までは持って逃げられませんので逃げた先で再起は難しいでしょう。八名で二本とも張り込むのは難しいのでどちらか塞ぐ必要がありますが……できればこちらを塞ぎたいですね。こちらの方が道が細いので楽に封鎖できます」
上井場は片方の道に×印をつけ、顔を上げて木安田を見た。
「木安田さん、ここを日没直前から一時間で簡単な装甲補強をしたトラックで突破できないレベルで封鎖できます? 前回の作戦の余りの鉄条網とトリモチと火薬二キロぐらいしかありませんけど」
「地雷アリならいける」
「あー……増田さん?」
地雷の使用は場合によっては「度が過ぎる」に分類され、本庁から制裁が来る。上井場が顔色を伺うと、増田は少し悩んで首肯した。
「……まあいいだろう。今回はリスクに見合ったヤマだ。ただし仕掛け過ぎるな、作戦後に全て回収できるようにしろ」
「了解」
木安田はにやぁ~と気色悪く笑う。和仁は背筋がすーっと冷えて身震いした。逃げて悪辣木安田トラップにかかるより、突入班に取り押さえられた方が犯罪者も幸せだろう。
上井場は地図に名前が書かれたマーカーを置きながらさくさく説明を続ける。
「来田さんは昼までに道具を乗せた車をこのあたりに移動させておいて下さい。万一包囲を突破された場合に追跡に使用します」
「日没までに時間をばらけさせて所定の位置に移動して下さい。必要な道具と武器は来田さんの車で受け取って下さい。増田さんは車内で待機と指揮をお願いします。私と木安田さんで塞いでいない方の道を張ります」
「馬坂さん、来田さん、清場さん、蘭さん、朝司さんは制圧班です」
「馬坂さんと来田さんは正面突破で陽動。カバーは他に任せて中まで入って問題無いと思いますが、状況を見て建物内に入るか入り口を塞ぐか判断をお願いします」
「正面から派手に攻めれば裏口から逃げるでしょう。清場さんは裏口で待ち構えて潰して下さい」
「蘭さんと朝司さんはこことここに潜伏して山に逃げようとした取りこぼしを狩って下さい」
上井場はそこで一息つき、お茶で口を湿らせた。
「これが大まかな指針ですね。質問は?」
和仁が手を挙げた。
「篭城の可能性は?」
「無いでしょう。人質もいないですから。仮に大人数で立てこもられた場合は流石に八人では落とせないと思いますが、その時は本庁から応援を呼ぶまでです」
立て篭もりを続ければ正式な令状発行が追いつき、警察は本腰を入れた捕縛作戦に移行する。外国マフィアであるが故に日本での援軍は望めず、詰みだ。
続けて蘭が聞いた。
「奇襲を察知されていた場合は?」
「全員すぐに引いて私と木安田さんに合流して下さい。道路を抜けようとした集団を潰せるだけ潰します。他は逃がして構いません。奇襲が露見していた場合、あちらも相応の対策をとっているでしょう。深追いは禁物です」
ぱらぱらと質問が飛び、木安田がすらすらと答えていく。馬坂から出た建物に火をつけた場合の対応を答え、更に数点補足し会議は終了した。
「では解散」
増田の言葉で全員どやどやと退室していく。和仁は最後まで残り、置きっぱなしになっていた急須と湯のみをお盆に乗せて給湯室へ持っていった。ほとんど雑用係である。
昼まで仕事をした和仁は、愛妻弁当を食べて少し休憩してから徒歩で巡回に出た。一端東の豊平川方面へ向かい、時計周りに大きく迂回するようにして伏見へ歩いていく。
途中、学校帰りの子供達がきゃあきゃあ楽しげに笑いながら和仁を追い越していった。おまわりさんこんにちは! と元気よく挨拶していく。自然、挨拶を返す和仁の頬も緩んだ。
第三次世界大戦前と後では、世界のどの国でも就業人口と就学人口の割合が大幅に狂っている。高齢者層が丸ごと消滅し、高齢になる前の働き盛りの年齢で寿命が来る。つまり少ない就業者が就学者の負担を背負っている形になる。これは百年単位で重要な社会問題になっていて、労働基準法や育児支援制度などの改正は頻繁に取り沙汰される。
日本は世界の中でも特に子供に対する保護が厚い国で、未だに中学までの九年間の義務教育を課している。その分大人に負担が行き、馬車馬のように働いてノイローゼになったり過労死したりする者が毎年続出するという点もまた昔と変わらない。そうまでして子供を保護しているのだから、この時代の日本人には子供好きが多いと言えるだろう。和仁もまたその一人だ。
何気ない風を装い伏見の住宅街に入っていく。傾き始めた太陽の西日を浴びながら住宅街を抜けると段々人気がなくなり、道路に引かれた白線も薄れ、砂利道の林道に変わった。
和仁は『熊出没注意!』の看板の手前で後ろを振り返り、ふっと横道にそれた。
横道に入ってすぐの空き地に銀ねず色のバンがとまっていた。タオルを頭に巻いて土方のあんちゃん風に変装した増田が気だるげに運転席で新聞を読んでいる。服装も私服で、土木工事の作業員が日陰で休んでいるようにしか見えない。
増田は和仁に気付くとフロントに置いた目覚まし時計をちらっと見て時間を確認し、新聞を畳んだ。
「お疲れ様です」
「お疲れ。今の所問題は起きていない」
和仁は後部席のドアを開け、警察の制服を脱いで積んであった戦闘用の装備、迷彩服に着替えていく。
服の内側に鎖帷子を着込み、太もものベルトには麻痺薬を塗ったクナイを左右合わせて八本挿す。更に前腕部には棒手裏剣を仕込み、手甲をつける。手首を動かして握り込み、鉤爪が飛び出すのを確認した。脚には脛あてを装備し、砂と灰が詰まった目潰し用の小さな玉を右のベルトポーチに入れる。懐にトランシーバーを入れ、コードを伸ばして耳にイヤホンをひっかける。最後に刀を二本腰に挿し、透明な液体が入った瓶をラベルを確認してから左のベルトポーチにしまった。黙って見ていた増田が尋ねる。
「今日は清酒か?」
「いえ、ジンです」
「ジン? ウイスキーの銘柄だったか」
「ジンは大麦、ライ麦、ジャガイモなどを原料として杜松の実で香りつけをした蒸留酒の事です。一般にカクテルの材料としてよく使われ、日本の酒税法上はスピリッツに分類されていますね。ジンに限らず蒸留酒は醸造酒から造ります。1気圧におけるエタノールの沸点は約78.325℃、水の沸点は約100℃と差があるので、酒を加熱した場合はエタノールの方が気化しやすいことになります。この沸点の差を利用してエタノールを濃縮して、よりアルコール度数の高い酒を得ようとするのが蒸留という操作です。醸造酒を加熱すると沸点の低いエタノールのほうが水よりも多く気化してくるので、この蒸気を集めて冷却することで液体に戻すと、元の醸造酒よりもエタノールが濃縮されているため、アルコール度数の高い酒になります。このアルコール度数の高い酒が蒸留酒です。また、さらに高いアルコール度数を得るために、こうしてできた蒸留酒をさらに蒸留する場合もあり、こちらも蒸留酒に分類されます。蒸留を繰り返すとエタノールが強まり、元の原料の風味が薄くなるのが欠点といえば欠点ですが、蒸留酒はアルコール度数が高く少量で酔えるため携行に有利なので、私が使う酒は」
「清場」
「はい?」
「黙れ」
「……はい」
「作戦開始時刻に変更無し。行け。幸運を祈る」
和仁は頷き、作戦開始地点へ移動していく。
身を低くして木立の間をすり抜けるようにして早足に歩く。落ち葉が舞う音やまばらな下草が踏まれる音は森の木々のざわめきにかき消される程度のごく小さなものだ。鳴子トラップに注意しながら、廃ビルの裏手の茂みに伏せる。腕時計で確認すると作戦開始十分前だった。
自然と一体になるようにして気配を消し、隠れる。じっとビルの様子を伺っていると、木を打ちつけて塞がれた窓ガラスにちらちらと人影が映っているのが見えた。確かにいるらしい。
腕時計が作戦開始五分前を示した時、トランシーバーに通信が入った。
「五分前だ。木陰、問題は?」
「ありません」
「ではそのまま開始する。以上」
「了解」
増田―――暗号名水陰からの通信が切れる。なお、暗号名の割り当ては岩陰=馬坂、木陰=清場、山陰=蘭、草陰=朝司、水陰=増田、ト陰=来田、日陰=上井場、物陰=木安田となっている。
和仁は息と一緒に緊張を吐き出し、ポーチからジンを取り出して二口飲んだ。カッと熱い感覚が食道から胃に落ちていく。この時代でも業務中の飲酒は許されざるが、和仁の場合はれっきとした理由あっての事だ。
酒瓶をしまい、目を閉じる。
和仁は息を細く長く吸い、深く重く吐いた。
地面を向き、両手で頭のツボを押しながら自己暗示をかけていく。
(鋭く、しなやかに、一振りの刀の如く冷厳であれ。早く、速く、疾く。早く速く疾く、早く速く疾く早く速く疾く早く速く疾く早く速く疾く――――)
集中する。
埋没する。
森のざわめきが遠のき、消えていく。
森の香りがゆらいで、消えていく。
二分ほどして和仁が目を開けると、世界は色と音を失っていた。
耳鳴りすらしない、静謐なモノクロの世界。時間が粘性をもったかのようにゆっくりと流れているように感じられる。
俗に言う走馬灯現象である。和仁はそれをアルコールの助けを借りる事で任意に起こす事ができるのだ。
視覚に制限をかけ、聴覚、嗅覚、味覚を封じ、脳の処理能力に空きを持たせる。その空きを使って大量の情報処理を行う事で時間の流れが遅く感じるのだ。
例えば人間が通常一秒間に得る情報量が10、それに対する思考量が100としよう。走馬灯現象中は情報量9、思考量300となる。この場合時間の速度が三分の一になったように感じられる。
人間は大部分の外界情報を視覚から得ており、白黒になったとはいえ走馬灯現象中も視覚が有効である以上、取得情報量は極端に変わる訳ではない。ただし、「考える量」が増えるため、相対的に時間が遅く感じられる。問題にもよるがテスト中に思考速度が三倍になれば解答速度もほとんど三倍になるだろう。それと大体同じ理屈だ。
もっとも実際に時間の流れが変化しているのではなく、取得情報量自体は変わっていないため、通常時に見えないものには反応できない。弾丸を見切って回避などという漫画的な芸当は不可能だ。クロスボウの十字砲火ならば全弾回避迎撃した実績があるが。
和仁は息を整え立ち上がり、中腰になった。そのまま微動だにせず待機する。
時計の長針が12の位置を指した時、和仁の肌が大気の震えを感じ取った。音は聞こえないが、よほど大きな音が響いたのだろう。岩陰とト陰が派手に攻撃を開始したらしい。
たちまちビルの窓に映る人影が右往左往しはじめ、和仁の正面、十数メートル離れた裏口のドアが蹴り破るようにして勢いよく開いた。取る物も取り敢えず逃げ出した、といった様子のマフィア数人が雪崩れ出てくる。
和仁は棒手裏剣を二連続で投擲して駆け出した。手裏剣は真っ先に出てきた二人のマフィアの肩に深々と突き刺さる。瞬きする間に距離を詰めた和仁は蹲り痛みに苦しむマフィアを容赦なく蹴り転がして主戦闘領域からどかし、後続のマフィア一人に居合い斬りを喰らわせた。驚愕からほとんど無防備だったマフィアはもろに受け、崩れ落ちる。峰打ちのため肋骨が折れる程度で済んでいるだろう。
襲撃者ショックから我に帰った残りのマフィアが何やら後ろに合図しながら裏口のドアを閉めようとする。和仁はそうはさせじと地面に足型がめり込むほどの踏み込みをし、閉じかかったドアに強烈な回し蹴りを放った。凄まじい手ごたえがあり、元々整備もされず錆びていたドアの蝶番が千切れ飛び、ひしゃげたドアが転がっていく。これでもう閉める事はできない。場当たり的に立てこもろうとしていたマフィアは恐怖に引きつった顔で恐れおののいた。
和仁は出入り口から数歩離れた位置で刀を正眼に構え、待ちに入った。
廃ビル内部に潜入すると挟み撃ちを受けかねない。出入り口を塞いでいれば、一度に相手にする数は一人、多くても二人。それも正面のみで済む。あとは……
和仁は頭上から降ってきた矢弾を見て取り、冷静に斬り払った。一瞬斜め上を見上げて確認すると、やはり窓からボウガンを構えたマフィアがこちらに狙いをつけている。流石は鉄火場を潜ってきたマフィア、奇襲からの持ち直しが早い。しかし想定していた事であるし、この程度ならば和仁にとってなんの脅威にもならない。
表から攻めているのが二人、裏に一人。対してマフィアは四十人以上。状況を把握したマフィアは突破できない方がおかしいと考え、すぐさま行動に移すだろう。あまりの人数差に罠を警戒するかも知れないが、警戒して立てこもれば詰む事もまた自明だ。罠であろうとなかろうと、マフィア達は突破をかけるしかない。
しかし特務執行課の面々は一騎当千とまではいかないが一騎当三十程度のとび抜けた猛者揃いである。ある程度までのカバーも考えてある。余程致命的ミスが重ならない限り作戦の失敗はなく、特務執行課は致命的なミスを連発するほど無能でも経験不足でもない。
四度ほどボウガンの矢を斬り払うと、マフィア達が攻勢をかけてきた。裏口からバールのようなものを持ったマフィアが次々と飛び出してくると同時に、窓から毛布が投げ出される。
和仁は正面から視界を塞ぐようにしていきりたって襲い掛かってくる三人のマフィアを正確無比な峰打ちで戦闘不能にしつつ、逃げようと走り出した後続のマフィア達に棒手裏剣を投げる。腕や太ももに棒手裏剣を受けたマフィア達は激痛に歯を食いしばりながら森に走りこんでいったが、茂みに入った途端何物かに足を引っ張られたかのように転倒したり、側頭部を木の上から振りぬかれた木刀で殴られたりして沈黙した。山陰と草陰の仕業だ。
二人のカバーを抜けて一人森に逃げていったが、背中に棒手裏剣が刺さっている。数分で痺れ薬が体に回って動けなくなるだろう。
物陰の予想通りマフィア達は裏口からの突破に賭けたようで、ぞろぞろと出てくるマフィアが和仁に波状攻撃を仕掛けてきた。即席目潰しらしいトマトをかわし、長物の袈裟斬りを受け流して反撃を叩き込み、二階の窓を突き破って落とした毛布をクッションにして落ちてきたマフィアを着地と同時にクナイを投げて仕留める。
和仁を再び窓からのボウガンが襲う。味方に当たっても構わないとばかりの激しい連射だ。流石に鬱陶しい。和仁は懲りずに襲ってくるマフィアを水面蹴りで転ばせながら石を拾い、指弾を窓に向けて撃ち放った。無理な体勢から放ったため命中はせず窓の桟に当たり、木屑を散らす。指弾に殺傷力は無いが、薄い服の上からでも痣ができる程度の威力はある。威嚇にはなる。
峰打ちとは言え何度も何度も強く人間に打ちつけた(帷子を着込んだ者もいた)刀は曲がりだした。和仁は長刀を後ろに投げ捨て、小刀を抜く。
小刀で降ってきたボウガンの矢を斬り払い、返す刀で側面に回りこんだマフィアのわき腹を突き刺す。その時森からボウガンの矢が飛び、廃ビルの二階の窓にいたボウガン使いの肩に突き刺さった。ボウガン使いは肩を抑えてボウガンを取り落とした。山陰か草陰、どちらかの援護だ。
その時和仁の視界が明滅した。白黒の視界と色付きの視界が交互に切り替わり、耳鳴りがする。チートモードが切れてきた。
和仁の走馬灯現象はアルコール、ツボ押し、極度の集中の合わせ技で起こしているものであり、長続きはしない。体調にもよるが短くて三分、長くて五分。脳に負担をかけているのではなくリソースの割り振りを変えているだけなので、解除後の反動は無いが、再度スイッチを入れるためには呼吸を整え集中しなければならない。とても戦闘中にはできない。
完全に効果が切れるまでの最後の数秒で前方に突進し、三段突きで二人の脇腹を抉った。最後に突きを放ったマフィアは良い装備を着込んでいるようで、刀の刃が通らない。和仁は歪んだ刀を捨てながら反撃に振り下ろされたバールのようなものを半歩前に出て薄皮一枚でかわし、腹に拳を打ち込んだ。特殊な打撃が装備の上から内臓に浸透し、マフィアは白目をむいて崩れ落ちる。
聴力も復活し音が聞こえるようになり、周囲に満ちた阿鼻叫喚が耳を打った。和仁は顔をしかめながらのた打ち回ってもだえ苦しむマフィアを蹴り転がして裏口からどかす。
丁度侵攻が途切れた。正面をひきつけている岩陰とト陰が頑張ったのか、予想より数が少なかったのか、突破作戦を練っているのか。どうであれ聴覚が戻ってやる事は一つだ。裏口から十メートルほど離れ、奇襲を警戒しつつトランシーバーをスイッチを入れて水陰と連絡をとる。
「こちら木陰。切れた。十六人無力化完了、負傷無し」
「十六人無力化負傷無し、了解。正面班が突入している。そのまま待機。以上」
「了解」
短く状況確認を終え、刀代わりに落ちていたバールのようなものを拾い、正眼に構えて待機する。
数分そのまま待機していると、裏口からガタガタとテーブルが走り出してきた。
「!?」
一瞬目を疑ったが、テーブルが走っているわけではなかった。残党が木のテーブルを即席の盾にして突破を図っているのだ。テーブルに隠れていない足元を見るに五人ほどらしい。和仁は背中に回した手を動かし近くに潜んでいる山陰と草陰に援護要請の合図を送り、テーブル部隊の側面に回ろうと走りこんだ。が、テーブルの向きを動かされ対応される。よく観察するとテーブルに小さな覗き穴が開けられていた。正面だけではなく背後にもテーブルを装備しているようで、テーブルにサンドイッチされた形になっている。
「ち!」
舌打ちする。超人状態ならば覗き穴に針の穴に糸を通すような狙撃をしてやれるのだが、素でそんな事ができるほど和仁は人間を辞めていない。テーブルを引き剥がしてやろうと近づくと、スピードを上げて突進してきた。受けるのは論外だ。単純な力勝負で五対一の押し合いには勝てない。押し倒されて転ばされたらそのまま踏み潰され、最悪死亡までいってしまう。
和仁は横にかわし、足に渾身の水面蹴りを放った。しかし硬質な音と鈍い感触が返る。脛あての類を装備しているようだ。
転倒まではいかなかったが、よろめかせる事はできた。速度を緩めたテーブル部隊にすかさず森の中から援護の弓射が飛ぶ。矢はテーブルに突き立ちダメージは与えられなかったものの、心理的な威圧にはなったようで浮き足立つのが分かった。水面蹴りを放って低くしていた体を起こそうとしている和仁を押し潰すか、弓が来た方向に突っ込むか、引き返すか。迷っているのが手に取るように分かる。
「構うなそのまま行け!」
テーブルに挟まれた中から怒声が飛ぶ。しかしテーブル部隊の足並みが戻るよりも、和仁が起き上がりながらテーブルを蹴り上げる方が早かった。一度の蹴りで衝撃を与えテーブルを持つ手を痺れさせ、間髪入れず追撃の本命蹴りでテーブルを引き剥がした。
「シッ!」
「グワーッ!」
殴りかかってきたマフィアの拳を払い、バールのようなものを一閃。マフィアは肩を砕かれ絶叫した。一歩踏み込んで別のマフィアの上段蹴りの威力を殺して受け、鳩尾に肘を入れる。息が詰まって動きを止めたところにクナイを腕に突き刺した。同時にヒュヒュン、と風切り音がして、二人のマフィアの股間と腹部に矢が突き刺さる。
あっという間に一人になったマフィアは、テーブルを力任せに和仁に投げつけて逃亡を図った。それなりに重いテーブルを投げつけられた和仁はよろめいたが、すぐに後を追う。最後のマフィアは成人男性としてはかなり足が早く、矢やクナイ投擲を警戒してか若干蛇行して走って逃げていく。しかし和仁は三秒ほどのタイムロスを九秒で詰め、体当たりし、地面に押し倒して肩にクナイを突き立てた。
「アバッ!」
マフィアは肩を抑えて押し殺した悲鳴を上げ、後ずさりをして和仁から距離をとりながらギラつく目で周囲を見回す。しかし仲間が全員地に伏し、応援も無い事を悟ると、力を失ってすすり泣きはじめた。
和仁は立ち上がってバールのようなものを構え直す。戦場から戦闘音が消えていた。うめき声とすすり泣き、痺れて上手く回らない口で悪態をつく声だけが辺りに満ちている。死屍累々だ。痺れ薬が回っているか激痛に悶えるかで全員まともに動けないはずだが、不意打ちを警戒して裏口前の広場に倒れたマフィア全員が視界に入る位置まで下がる。
そのまま五分ほど。廃ビルにいたマフィア全員に痺れ薬が回ったのか、声一つなく風の音しかない。和仁に水陰から通信が入った。
「こちら木陰」
「全員の捕縛に成功。作戦は終了した。負傷は?」
「これといってありません」
「よし。では撤収作業に入る。全員武装解除して拘束するまで警戒は続けろ」
「了解」
和仁はふっと小さく息を吐き、マフィアの服をクナイで裂いて紐を作り、茂みから出てきた蘭と朝司と手分けしてテキパキ拘束を始めた。
これが特務執行課の珍しくもない仕事内容である。
問1.特務執行課のメンバーの名前の共通点を答えよ(30cp)
問2.間章は五話まである。二話までのサブタイトルを参考に、五話のサブタイトルを推測して答えよ(20cp)
警察関連の下調べはあんまりしていないので妙な部分が多いと思います。き、きっと四百年以上経ってるから今の警察とは色々変わってるんだよ!