十五話 黒い雨
二話連続投稿。最新話から飛んできた人は注意
物心ついた時から精霊殿で暮らしていたレインにとって、世界は普通の子供よりずっと狭かった。
精霊殿に子供は少ない。中でもレインと歳が近い子供は大司教の孫のアリアーニャだけで、自然といつも一緒にいるようになった。控えめなアリアーニャに、押しの強いレイン。そのままいけば恋人に、やがては夫婦になったに違いない。
二人の関係に一石が投じられたのは突然の事だった。
ある日、二人で遊んでいると、アリアーニャが呼び出された。いつも悪戯やサボリを咎められて呼び出されるのはレインだったので、珍しいなあと思いつつも深くは考えず、レインはしばらく一人で遊んでいた。
しかしいつまで待ってもアリアーニャが帰ってこないので、探しに行った。アリアーニャはすぐに見つかった。話し声がした部屋をそっと覗くと、知らない少年と仲が良さそうに話していた。
レインはなぜだかカッとなってドアを思いっきり開け、アリアーニャを引っ張って少年から離した。その時なぜ自分が怒ったのか、数年経っておぼろげに自覚した。遊んでいた自分を放置して別の人と楽しそうにしていたアリアーニャに怒ったのと、幼心に感じたほのかな嫉妬。
つまり、レインはアリアーニャが好きだった。この時点ではほとんど友達としてだったが、段々と異性としての好きに変わって行った。
好意を自覚する切っ掛けになった少年こそ、異世界からの来訪者、ゼルクラッドだった。
レインにとってゼルクラッドは友であり、兄であり、ライバルであり、目標であった。
ゼルクラッドは物知りで、頭が良く、優しく、時に厳しく、真面目で、強かった。
一緒に遊んで楽しく、一緒に挑戦して頼れて、一緒に目指して励まされ、一緒に暮らして憧れる。
新しく来た「すごいやつ」に無邪気に喜びながら、アリアーニャと仲良くしているのにちょっと嫉妬して。最初は本当に、心から仲良くしていた。
それがいつからだろうか。言葉にするのも苦しい、何か黒いドロドロしたものがレインの心の底に溜まりはじめたのは。
嫉妬ではなかった。いや、違うとは言い難い。嫉妬も確かにあった。しかし大部分を占めていたのは別のものだ。人はそれを「劣等感」や「自己嫌悪」と呼ぶだろう。
レインはゼルクラッドよりも物を知らない。頭が悪い。意地が悪い。弱い。ズルをして、サボって、叱られる。
ゼルクラッドは出会ってから常にレインの上にいて、いつも正しく、何をやっても勝てなかった。
無邪気にすごいすごいと褒める年齢から成長すると、勝ってやろう、負かしてやろうという思いがわいてきた。
しかし勝てない。
何をやっても勝てない。
頑張っても知恵を絞っても勝てない。
そして拙いながらも手を尽くして勝とうとするレインを、ゼルクラッドは裏表なく褒めた。
屈辱だった。運よくギリギリ勝てそうなところまで追いすがっても、ゼルクラッドは焦りもしない。少なくとも、レインの目にはそう見えた。普通にやっても絶対勝てない。そう思った。
そこで卑怯な手を使って勝ちに行こうとするほど自分を曲げられなかった真っ直ぐな心が、かえってレインを苦しめた。
おやつを我慢して、昼寝を我慢して、一日中一つの事に打ち込んでいても、ゼルクラッドには届かなかった。
悔しかった。とても、悔しかった。理不尽だとさえ思い、世界に愛されたゼルクラッドを妬んだ。
やがて世の中の色々な事が見えてくる年齢になると、ゼルクラッドが今まで自分にしてきた事の意味や、細かい気遣いがよく分かるようになった。
レインは打ちのめされた。何かを知り、身に着け、成長するほど、かえってゼルクラッドの凄さが良くわかり、その背中はどんどん遠くなっていった。
レインは日に日にやる気が失せていくのを感じた。どうせ勝てない。勝てないなら、死にもの狂いで頑張る事もない。てきとうに、手を抜いてほどほどにやっても、誰も怒らない――――そう思う萎えた心とは裏腹に、レインの体は相変わらず元気よくゼルクラッドに挑み続けていた。
頑張らないのは「悪い事」だ。ゼルクラッドはいつも何かを頑張っている。
妬むのは「悪い事」だ。ゼルクラッドは誰も妬まない。
今まで通りの自分を取り繕い、レインはゼルクラッドに挑み続けた。挑戦を続けるレインを、ゼルクラッドはやはり褒めた。俺がお前ぐらいの時は、そんなに真面目じゃなかったし、頑張らなかった、だから凄いと思う、立派だ、と言った。
嘘だと思った。
ゼルクラッドは本当は前世とやらの頃からずっと凄くて、お世辞や謙遜で言っているだけなんだ、と思った。
ゼルクラッドに褒められると、憧れの人からエールを貰ったようで、嬉しかった。やる気が湧いてきた。
同時に、上から見下しやがって、俺が凄くてもお前はもっと上にいるんだろ、と怒りが湧いた。やる気が失せた。
そしてゼルクラッドに嫌悪を抱く自分を嫌悪した。ゼルクラッドの優しさや正しさを素直に受け取れない自分は、なんて汚い嫌な奴なんだろう、と思った。
もしゼルクラッドがわざと手を抜けば、きっと勝てるんだろうな、と何度も何度も空想した。
そうしたら手を抜いた事を指摘して、どうして手を抜いたんだ、となじってやろう、と想像して、あわてて謝るゼルクラッドの姿まで妄想した。それはとても愉快だった。ゼルクラッドに勝って、間違いを糾弾して、謝らせる。一度に二度おいしい。
そしてそんな空想をするたびに決まって自己嫌悪に苦しんだ。自分はとても汚れた考えにとり付かれた下種だと思った。
ゼルクラッドはレインとの全ての勝負で決して手を抜かず、空想が現実になる事はなかった。
アリアーニャがゼルクラッドに惹かれていくのはよく分かった。レインはずっとアリアーニャの事が好きだったので、取られてたまるかという気持ちこそあったが、やっぱりこれも勝てないんだろうな、という諦観も常にあった。ゼルクラッドが真正面からアリアーニャの恋心を拒否しているのを見れば、それは信念があって凄い事だと思い、こんなに可愛い娘を突き放すなんて酷い奴だと憤慨し。そしてアリアーニャを勝ち負けの道具として考えている自分はゴミクズだ、と沈み込んだ。
レインはあまりにも真っ直ぐで。曲がる事を知らなかった。頼る事を弱さだと思った。自分で解決できて当たり前だと思った。そんな人間が傍にいたから。
もう、何を考えても苦痛だった。
内面と外面の剥離が進み、「良い奴」を取り繕うのが常態化した。二重人格にはならず、二つの相反する心がレインの中で終わりなく衝突し削り合い続け、摩耗していった。
魔王城攻城戦に参加したのは、自分が何者なのかもあやふやになり始めた頃だった。
崩壊する魔王城の下。崖の近くに、ゼルクラッドの姿が見えた。ちょうど自分が逃げていく先にいて、体がぐらついていて上手く走れないようだった。
レインはゼルクラッドに気付いていないフリをした。目線を外し、慌てて逃げる演技をして、肩を貸してもらおうと思ったのか近づいてきたゼルクラッドを突き飛ばした。
突き飛ばしてから、愕然とした。自分の中であまりにも違和感がなく、一連の行動がほとんど無意識に行われた事に呆然とした。かといって、なぜそんな事をしてしまったのか、と自問するほど心当たりが無くはなかった。
魔王城から精霊殿に逃げかえる道中、レインは毎晩悪夢にうなされた。ゼルクラッドを殺してしまったと思った。夜中に悲鳴を上げては飛び起きて、胃の中が空っぽになるまで吐いた。周りの者はそれを苛烈な戦場を体験した後遺症だと思ったようで、他にも同じように精神が不安定になっている者が多かったので、レインの本心はそれに埋没して誰にも気付かれなかった。
今まで使っていた「自分の心が汚くても表には出してないから大丈夫」という理論武装が使えなくなった。やってしまった。もう後戻りはできない。
自ら罪を告白し、裁きを受なければならないという正義感は、誰にも気付かれていないんだから黙っていれば分かりはしない、という打算とぶつかり合い、結論が出なかった。
否、結論を先送りにした。先送りにしている間は裁かれずに済み、自分の汚さを告白せずに済む。今も自分の心の中で善と悪が戦っているんだ、葛藤しているんだ、だから俺は人の不幸を嗤う悪党とは違う、と自分の心を誤魔化し。そう誤魔化している時点で悪が勝っているのだという惨めな真実は分かっていても直視できなかった。
精霊殿に戻り、レインはアリアーニャに会う。レインが伝えたゼルクラッドの訃報を聞き、アリアーニャは泣き崩れた。
憔悴したアリアーニャを見て、ここでアリアーニャを慰めればゼルからアリアーニャを奪えるのではないか、という邪な考えが浮かんだ。
アリアーニャの心をゼルクラッドから奪えば、それは「勝ち」だ。ゼルクラッドはもういないから、これは勝ちが確定した出来レース。相手がゼルクラッド以外なら負ける気がしなかったし、時間をかければアリアーニャを立ち直らせる自信があった
しかし人の死につけこむそれはあまりに邪悪で、惨めで、卑怯だった。例え勝って、アリアーニャの愛を手に入れたとしても、自分は一生誰にも明かせない罪の負い目を背負って苦しみながら生きていくのだと容易に想像できた。
それでも一度思いついてしまったら、ゼルクラッドに勝てる最後の機会を逃す事はできなかった。
レインは罪を受け入れる事にした。アリアーニャを籠絡した後は、一生罪を償って生きて行こうと決意した。罪になると分かっていて罪を犯す自分こそ最も罪深いと、レインは空しく自嘲した。
レインはアリアーニャの傍に寄り添い、まだ死体は見つかっていない、ゼルは生きているかも知れない、と心にもない慰めを口にした。
このままアリアーニャを放っておけばきっと自殺してしまう、慰めるのは正しい事なんだ、という正当化もした。
罪を重ねる決意をしてもなお、何が何でも勝ちたい気持ちと正しさや誠実さを求める心の間に挟まれる苦しみは消えなかった。
ずるずるとアリアーニャの籠絡を進めてしまい、ああ、結局自分はこういう奴なんだ、という絶望とに蝕まれる一方で、レインは厚く塗りたくった化粧を拭い去るような開放感を感じ始めていた。
しかしゼルクラッドが帰ってきた。
疲れ切ってはいたが、五体満足で、その眩しいばかりに輝かしい精神にも一片の曇りはなかった。
開放の予感は消え去り、絶望は底なしの恐怖に変わった。断罪の予感に体が震える。逃げ出したかったが、動けなかった。
自分の罪の重さは自分が一番よく自覚していた。罪には罰を。償いに生きるなどと都合の良い言い訳に逃げようとした自分に裁きが下るのだと感じた。
斬首を待つ罪人の心境だった。すぐにでも罪を告白したいが、この一瞬が永遠に続き、いつまでも罪が伏せられたままであって欲しいとも思った。
口をついて出たのは誤魔化すような言い方だった。真実を語ろうとする口と、ゼルクラッドがどこまで悟っているのか探ろうとする巧妙な口が同時に動いているようだった。どこまでも卑怯な自分に更に自己嫌悪が募る。
そしてゼルクラッドはレインを赦した。ずっとゼルクラッドを見本にし、観察してきたレインには、ゼルクラッドが全てに気付いてなお赦しを与えてくれたのが分かった。
ゼルクラッドの器の大きさに打ち据えられた、レインの心には大きなヒビが入った。途轍もない罪を犯した挙句、ゼルクラッドの聖者のような寛容さに縋って、罪を無かった事にする事を受け入れてしまった自分の卑小さが浮き彫りになった。ゼルクラッドがもっと嫌な奴だったら良かった、と心の中で吐き捨て、そんな考えが浮かぶ自分をやはり嫌悪した。
精霊殿にサフカナがやって来た。彼女はゼルクラッドに好意的で、高く評価していて、ああやっぱりゼルクラッドはすごいな、と思った。
サフカナに武術大会に誘われて、優勝してみようと思った。外道に墜ちてまで勝とうとして、挫かれて。ここで諦めたら何も残らない。多少卑怯でも勝ちを拾わないと、今までの人生と苦しみは一体なんだったのか。
レインはサフカナを唆し、ゼルクラッドを本戦登録させた。皇帝を決める本戦登録者は一般に同時に登録できない。ゼルクラッドさえいなければ、一般大会で自分が優勝する可能性はある、と考えた。何度も一緒に訓練をして、サフカナがゼルクラッド相手に手を抜く性格ではないと分かっている。ゼルクラッドはサフカナに勝てないから、本戦では優勝できない。そこで自分が一般大会で優勝すれば、行っても準優勝までのゼルクラッドの上に立っている、という考え方もできる。間接的な勝利でも、首を傾げる勝利でも良かった。もう正面からゼルクラッドと勝負するのは辛すぎた。
しかし登録は変更され、自己嫌悪と罪悪感だけが残った。
レインの心は自分でも把握できないほど大きく膨れ上がった、深く暗い感情ではちきれそうだった。
そして武術大会、二回戦開始直前。不安定で今にも破裂しそうな心に、ゼルクラッドがトドメを刺した。
「全力で来い!」
ふっと、ああ、もういいか、と思った。
今まで全力じゃなかった事はない。しかしゼルクラッドは全力で来いと言っている。
これ以上の全力は余すところなく自分の穢れた部分を出す事になる。
しかしここまで来て、それの何が悪いのか。
よし、殺そう、と自然に思った。
肩の力が抜け、心が驚くほど静かに澄み渡った。今までの苦しさが嘘のようだった。
ゼルクラッドを殺せばきっと全てが上手く回り始める。だから全てを賭けて、殺そう。
ゼルクラッドは絶対に自分を殺しに来ないという確信があった。彼は自分を殺すぐらいなら降参する。なら「殺さない」攻撃しかとれないゼルクラッドより、「殺しても良い」攻撃ができる自分の方が圧倒的に有利。自分が降参しなければ自分の勝ちしかない。殺して勝つのが最善、もし殺せなくても絶対に勝てる。最高で最低の勝利だ。
しかも武術大会では殺人が許される。自分が自分を赦せるなら、誰も責める者はいない。最後のチャンスだ。
レインは言った。
「ああ、分かった。今ここで、全てを賭ける」




