十三話 戦い終わって、逃げ延びて
決死の逃避行を終え無事人里に辿りついたゼルクラッドは、サフカナと別れて精霊殿へ向かった。ただし別れ際に一悶着あった。
年頃の女性に好意を見せられ、キスをされ、好きだとまで言われてトボけられるほどゼルクラッドは鈍感ではない。サフカナが自分をlikeではなくloveの意味で好いている事は普通に察した。普通に察して、普通に断った。下手に気を持たせないよう、あえて歯に衣着せぬ物言いで、キッパリ、ハッキリ、前世の妻以外を愛する事は無いと断言し、サフカナの愛には答えられない、と真顔で言った。
それはそんじょそこらの恋の情熱なら未練ごと一刀両断するほど真摯で、堅い覚悟と信念を感じさせるものだったが、もちろんサフカナは並の女ではない。にっこり笑って、
「そうか。なら略奪愛だな。恋は戦争だ!」
と立場と性格を考えると割と冗談になっていない事を言い放ち、むしろ一段と燃え上がった。
それを聞いたゼルクラッドは一瞬で諦めさせる事を諦めた。経験上、こうなった女性に理屈は一切通用しない。感情のままどこまでも突き進む。ひたすら攻勢に耐え忍ぶ以外、道はない。
ひたすらつれない態度をとっていればいつか熱も冷めるだろう、吊り橋効果も大きかっただろうし、と努めて楽観的に考える。わざと失望されたり、嫌われたり、といった相手の悪感情に訴える方法を取ろうとしないのがゼルクラッドのゼルクラッドである由縁で、甘さでもあった。もっともそれをした所でサフカナに通じるかは甚だ疑わしいが。
「恋に夢中で仕事を放りだす女は嫌いだろう?」
と言って無理に精霊殿まで同行せずいそいそと戦後処理に取り掛かった理解の深さも特筆すべきだ。短くも密度の濃い数日は確実にお互いの理解を深めていた。
金髪碧眼の老練な好青年ゼルクラッド。紫髪黒瞳の大胆不敵な美少女サフカナ。二人は気が合ったし、信頼し合っていたし、立場上の障害も無いと言っていい。十人中九人はお似合いだと言うだろう。実際ゼルクラッドも憎からず思っている。
しかしそれはそれ、前世の嫁に誠実であり続けるクソ真面目なゼルクラッドはほんの少しも靡かない。
とにかくそんなこんながあった後、ゼルクラッドは街道を歩いたり商人の馬車に乗せてもらったりして、エレメン教国首都パルテニアへ南下していった。
魔王へ与えたダメージは確実にアンデッドに現れているらしく、道中の村や街で情報を集めたところ、あからさまに強力なアンデッドの目撃情報が減っていた。突然道端や室内で倒れて死んでしまった人々の噂が多かったが、その突然死の時間帯が魔王城が崩壊した日時と一致する事から、民衆に紛れていたアンデッドが動けなくなったのだと推測された。魔王に強力なアンデッドを維持する力が無くなったのだ。最も下級のアンデッド、アニマルスケルトンですら数が減っている。喜ばしい事だ。
ところがアンデッドの活動が鈍くなった反面、犯罪は増えていた。
街の有力者の不自然な事故死、早すぎる病死。暴行事件、自殺者の増加、強盗、窃盗。この世界で悪の象徴とされるアンデッドが弱まった途端、むしろ悪事は増えていた。
エーリュシオンでの常識として、「悪事を働くとアンデッドになる」というものがある。虐めから殺人まで、程度の差こそあれ、大体全ての悪事は魔王に多かれ少なかれ目を付けられる原因になる。魔王に目をつけられてその邪法に囚われると、身も心も支配され、死ぬまでどころか死後さえも魔王の傀儡となる。大多数の人間は当然それを嫌がり、悪事を控え、善行を心掛ける。例え心からの善行ではなく打算と保身に満ちたものであっても、それで平和は成り立っていた。
そんな訳なので、魔王というある意味での悪行ストッパーが弱まると、これ幸いと悪事に走るものが出てくる。
急増というほどに犯罪が増えなかったのは、悪行を否定する社会道徳が根付いていた結果。単純に魔王は弱っていても滅んではいないからまだ危ない、という警戒心もあるだろうが。
最大の悪者(魔王)を倒すと、悪者が増える。皮肉な話だ。かといって魔王を野放しにすれば悪者云々以前に人類滅亡ENDなので選択の余地はない。魔王に支配されたアンデッドが裏社会にねっとり蔓延るよりも、普通の犯罪者が湧く方がまだ健全といえる。
普段は地下社会に潜む死霊教徒も魔王弱体化に焦って大胆に動き出したようで、一連の犯罪増加の一端を担っている。村や街を結ぶ風属性精霊魔法の通信網が相次ぐ強盗殺人や放火、暗殺、通り魔によって機能しなくなっていて、そのせいで混乱が起き、第三次魔王城攻城戦の結果が正確に広まっていない。ゼルクラッドが聞いた魔王に関するものに限っても、死んだ、弱体化した、次の大侵攻に備えている、精霊と相討ちになった、異界に追放された、など、情報が錯綜している。
ゼルクラッドが精霊殿に辿りついた時、まだ精霊殿にゼルクラッド生存の第一報が届いていなかったのも、そんな理由だった。
門番のいない正門をくぐって精霊殿の中に入ると、精霊使い達が書類や木箱を抱えて忙しく走り回っていた。彼らの精霊達はげんなりと疲れた顔で後ろを憑いて回っている。誰も彼もが目の下に濃い隈を作り、やつれている。一体誰に声をかけたものかと躊躇っていると、横を早足で通り過ぎた眼鏡の強面の精霊使いがふと立ち止まり、振り返った。
「ん? ……ゼルクラッド、か?」
「はい、お久しぶりです、リジットさん。なんとか生きて帰って来られました」
「おお、おお……てっきり流石にもう……いや、よく帰った。本当に、良く帰った」
彼は分厚い書類の束を持ったまま、ゼルクラッドを軽く抱きしめ、背中を叩いた。二人はすぐに離れ、話しはじめる。二人ともいい歳をした大人で、初めて戦争の別れや再会を体験した新兵でもなかった。
「私は治療が必要な怪我はありません。ただ精霊の指輪を失ったので、さしあたっては再契約をしたいのですが。そんな余裕は」
「ああ、無い。余裕が無いというよりもそもそも精霊の指輪と精霊そのものが無い。戦争の死者が多かった所為で、指輪の在庫と精霊の絶対数がな。頭の痛い話だ。ともあれゼルクラッド、詳しく話を聞きたい所だが、見ての通り目の回る忙しさで手が離せない。とりあえず生存者名簿を更新――――いや広報の準備、違うすぐに事後処理の手伝いもとい治安維持……あああ、駄目だ、もういい、後で話をしよう。今はしたい事をすると良い。……いや、やはりできるだけ部屋にいてくれると助かる。時間が空いたらこちらから行く。大変な思いをして帰ってきたところにこの扱いは我ながらどうかと思うが」
「いえ、大丈夫です」
「すまないな。ああ忙しい忙しい忙しい」
ばたばたと去って行った彼を見送り、ゼルクラッドは自室に向かった。服はボロボロで血の跡や土埃で汚れ酷い有様だったし、ろくに休みもとらず帰還したため、流石のゼルクラッドも心身ともに限界が近かった。精霊殿に帰って気が抜けたのか、歩きながら時々意識が飛びかけるほどに疲れは深い。すぐにでもしっかりした睡眠と食事、休養が必要だ。
自室への道すがら、ゼルクラッドは誰かの泣き声を聞いた。音の出どころを探ると、どうやら近くの部屋から聞こえているらしい事が分かる。すぐにそこがアリアーニャの部屋だという事を思い出した。
アリアーニャが泣いている。それを慰めるレインの声もくぐもって聞こえてきた。レインもあれから無事に帰還できたようだった。
どんなに体が休養を求めていても、親友とも息子・娘とも思っている二人に素知らぬ顔をして休む事は心が許さない。体の底から活力を絞りだし、休む前に声だけでもかけておこうと、部屋のドアをノックした。
しばらく待っても返事は無い。返事ができる状況でもないのだろう。ゼルクラッドは許可をとらずにドアを開けた。
部屋の中では、ベッドの上でシーツに顔をうずめ、アリアーニャが泣いていた。声は老婆のように枯れ、艶やかだった金髪は乱れてくすみ、シーツには涙の染みが大きくついている。見ている方が辛い悲しみようだった。
ベッドの傍に座り込み、アリアーニャの手を握っていたレインはドアの開く音に振り返り、口を半開きにして目を見開き、そのまま固まった。
「……あ、ゼル?」
「ただいま」
ぎこちなく微笑んで言うと、アリアーニャがパッと顔を上げた。焦点の定まらない死人のような目でゼルクラッドを見て、ずるずるとベッドの端に寄る。
ベッドから落ちそうになったアリアーニャの痩せた肩をゼルクラッドが支えると、異様な力で手を掴まれた。
「ゼル、ゼル、アンデッド、に、なった、の?」
「いいや、俺は生きてる。ほら」
掴まれた手を心臓に当てる。確かな鼓動と暖かさがアリアーニャに伝わると、さきほどとは同じに見えて全く違う涙を流し始めた。何かを話そうと口を動かすが、言葉にならない。強張った表情を歪めるようにして作った笑顔は、今までゼルクラッドが見てきた中で一番心に迫るものがあった。ゼルクラッドは優しくアリアーニャを抱きかかえ、ベッドに寝かせ、毛布をかけた。手は放してくれなかったし、放そうとも思わなかった。恐ろしい噂話が飛び交う中、ずっと精霊殿で待つのは、想像を絶する辛さだっただろう。
「二人とも、本当に心配をかけた。すまない」
「なんで、お前が謝るんだよ、馬鹿野郎……!」
絞り出すように言ったレインの顔色はアリアーニャに負けず劣らず悪かった。死人のように真っ青で、一気に三十も老けたように深い皺が刻まれている。手足は真冬に裸で外に放り出されたように震え、今にも吐き出しそうだった。背後のシルフが心配そうにレインの背中をさすっている。
「謝らなきゃならねぇのは、赦してもらわなきゃなれねぇのは、俺の方だってのに!」
「? 何の話だ?」
「俺は、魔王城が崩れた時……ゼル、ゼルが……行方不明、に、なった時……た、助け、に、行こうとも、しなかった……!」
「ああ……いや、あの時は引いて正解だった。無理に残れば崩落に巻き込まれただろうし、探しに行っても何か罠が残っていたかも知れない。誰もレインを責めはしないさ」
ゼルクラッドは自分がレインに突き飛ばされて崖下に落ちた事は言わなかった。予想通り突き飛ばしてしまった事に気付いていないようだったし、ただでさえ自己嫌悪に苦しむレインにそれを言ったら自殺してしまいそうだと思ったのだ。むしろ、何かの拍子に誰か他の目撃者の口からレインに伝わってしまう事を恐れた。世の中、真実が良い結果を導くとは限らない。
何も妙な事は言っていないはずだったが、レインは言い募った。
「でも、だけど、俺は、お前に」
「ふむ。なら、赦す。今レインが罪だと思っている全てを、俺が赦す。それでも自分が赦せないなら……そうだな。もし俺が何か罪を犯しそうになった時、お前がそれを正してくれ」
赦すも何も、そもそも罪になるような事をレインがしたとは微塵も思っていなかったが、何か罰が無ければ納得できないだろうという事は分かったので、形式だけの代償を要求した。ゼルクラッドは、こんな代償で縛らなくても、レインには友人と衝突してでもその間違いを正すだけの度量があると信じている。
「……分かった」
気遣いを察したのか、レインは消え入るような細い声で言い、ふらふらと部屋を出て行った。ゼルクラッドはそれを黙って見送る。下手に声をかけても追い打ちにしかならない。頭を整理する時間が必要だ。
それに、寝息を立て始めたアリアーニャの手を離す訳にもいかない。元々心の弱いアリアーニャに今回の件は相当堪えたに違いない。自分が帰ってこなければ精神が崩壊していたのではないかと思えるほどの衰弱ぶりだ。そう思うと、確かに自分が生きている事が誰かの喜びになっているという実感が湧いて、不謹慎ながら嬉しくなった。
第三次魔王城攻城戦は、人々の心に多くの傷を残した。これからは戦いが減るといいが、と世界の未来を案じつつ、ゼルクラッドはリジットが部屋に迎えに来るまでの短い間、浅い眠りについた。
ゼルクラッドが精霊殿に戻って一週間も経つと、一連の混乱は大体収まっていた。そもそもこうした混乱を予想して備えはしてあったのだ。討伐隊の敗北すら視野に入れて備えていたのだから、引き分けで終わった現状程度なら、例え死霊教徒が引っ掻き回しにきても事態の収拾は難しくない。
寸断された通信網が回復し、被害確認と応急処置的な人員の再配置が終わると、ゼルクラッドの元にも情報が入ってきた。
討伐隊六千五百人の内、死者二千三百人、重軽症者三千八百人。無事な者は全体の一割に満たない。よく撤退できたものだと感心するほどの甚大な被害だ。精霊も数を大きく減らし、Lv3スペルの使用に必要な精霊の指輪も不足している。しかしなんとか治安悪化を防げる程度には精霊使い達の力は保たれている。
対してアンデッド側の被害は正確には分からない。が、攻城戦以降に確認されたアンデッドは、アニマルゾンビ、アニマルスケルトン、スケルトンといった判別しやすく脅威度も低いアンデッドのみ。ゾンビはもちろん、リッチ、デュラハン、リビングアーマー、デイウォーカーといった脅威度の高いアンデッドは目撃情報すらない。討伐隊の生き残りの証言も合わせ、魔王は魔王城崩落で大きなダメージを負い、高位のアンデッドを操る事ができなくなっているという説が有力だ。もう一、二回追撃を加えれば、低位のアンデッドすら操れなくなり、討伐できると考えられている。
とはいえ慌てて急造の討伐隊を組んで差し向け、返り討ちに遭ってアンデッドにされてしまったら、敵に塩を送るようなものだ。弱っている内に叩くべきだ、という急進的な主張もなくはなかったが、大多数の有力者達はこんな時こそ隙を見せずにじっくり建て直すべきだ、という慎重論を唱えた。魔王には何度も煮え湯を飲ませられているだけに、弱っていても油断はできない。
ナルガザン帝国は手負いの獣の恐ろしさを知っていたし、エレメン教国は魔王討伐という栄誉に目が眩んで焦るような気性ではなかったし、ノーヴァー連合国は早く戦争が終わるより長引いた方が儲けられると踏んで二国に追従した。
結局再攻撃は二年後と決められ、各国はそれまで手綱が緩んで表立って暴れはじめた死霊教徒の鎮圧や、軍の再編などに費やす事になる。
……と、いう情報をゼルクラッドに持ってきたのは、精霊殿に押しかけて来たサフカナだった。
曰く、帝国では武官と文官がはっきりしていて、皇帝は武官筆頭でもあり、求められるのはほとんど強さだけ。方針だけ指示すればあとは文官が良きに計らう、という。
それで正常に回る国はナルガザン帝国ぐらいだろう。
過去二度の敗北と違い引き分けに持ち込んだ皇帝サフカナは彼女が予想した以上に国民の支持を受けていて、帝国の国情は安定している。元々政治能力を期待されていないという特殊な立場もあり、皇帝が数ヶ月国外に出ていても特に問題は起こらないのだ。
先触れも護衛もなく、まるでただの旅行者のようにふらりと精霊殿を訪ねてきたサフカナは、泡を喰って国賓に歓迎の準備をしようとする精霊使い達に一般人と同じ扱いをするように告げた。そしてゼルクラッドの隣の部屋で客人の待遇を受けて暮らし始めた。同室にならなかったのはゼルクラッドが急展開に目を白黒させながらもなんとか理性を取り戻して断ったのと、一瞬でサフカナの気持ちを察したアリアーニャがあの手この手で阻止した結果だ。
サフカナは時間が合えばゼルクラッドと手合せや共同訓練をして、その他の時間は武具の手入れをしたり、座禅を組んでいたり、精霊使いに稽古をつけていたり、走り込みをしていたり、本を読んでいたり、と脳筋九割の過ごし方をしている。強引に迫って来るような事はないのでゼルクラッドはホッとしていたが、暇になった時間を野性的勘で察知してどこからともなく現れるので、一日を仕事か睡眠かサフカナと一緒か、という三分割で区切られて混乱し始めていた。
精霊殿に帰還して一ヵ月。すっかり傷も癒えたゼルクラッドは、今日も中庭の一角でサフカナと剣を合わせる。
嵐のように四方八方から猛然と襲い掛かるサフカナの剣は、力強く、正確無比で、巧みだった。連携のとれた三人の剣士に同時に斬りかかられている錯覚に陥る。神速を使っているゼルクラッドでさえ防御に徹して反撃の隙を伺うのに精いっぱいだ。
サフカナはナルガザンが生んだ武術の結晶とも言える驚異的な才能を発揮し、精霊殿にやってきて数日で神速を完全習得していた。壊力と神速を同時に発動する壊力嵐迅(命名:サフカナ)を操るサフカナの強さはほとんど人間の限界に達している。立って歩くより剣を振る方が早かった、と嘯くサフカナは経験も豊富で、ゼルクラッドが勝てる要素は古代魔法を使った身体強化チートぐらいだろう。ただしそれを使ってもサフカナが身体強化が切れるまで防御に徹すると勝率は五分止まりだ。
早い話が、人類最強。勝てる相手は一部の人外のみ。
今回もいつものようにゼルクラッドが剣を捌ききれなくなり、首筋に刃を当てられて勝負がついた。完勝したサフカナは上機嫌で剣を鞘に納めたが、ゼルクラッドの首についた赤い跡を見つけて心配そうに顔を寄せた。
「ん、寸止めし損ねたか。大丈夫か? 痛みはひどいか? 結婚するか?」
「しません!」
ゼルクラッドの傷を舐めようとしたサフカナを押しのけて、そばで見ていたアリアーニャが割って入る。サフカナは笑ってアリアーニャに場所を譲り、渋い顔で三人を見ていたレインに声をかけて稽古をつけ始めた。たちまち剣がぶつかり合う鋭い音が響きだす。
「本当にもうあの人は! いきなり来てゼルにべたべたべたべたして、気安いったら!」
アリアーニャがぶつぶつ言いながら手際よく治療する。と言っても傷口を水で洗った後、エタノールを染み込ませた綿で優しく叩くだけ。
ヒーリングを使えば一瞬で治るが、ヒーリングは正確には治療ではなく「傷を負う前の状態に戻す」魔法である。体の成長や免疫機能を考えると乱用は禁物だ。軽い怪我なら自然治癒に任せた方が良い。
「はい、できました」
「ああ、いつもありがとう」
「私はこれぐらいしかできないから」
アリアーニャはそう言って儚げに微笑んだ。心労で弱った体はまだ少し痩せ過ぎなぐらいだったが、彼女が医務室の当直をしている時は、普段よりも目に見えて男の患者が多い。
元々素質は高かったものの、急に色気づいてきたのはサフカナの登場が無関係ではないだろう。そのサフカナは必死に致命傷を防ぐレインから猛獣のように盾をもぎとって天高く蹴り上げているが、容姿は凛々しく見目麗しい。しなやかに鍛えられた理想的な筋肉と、生まれ持っての治癒力のお陰で激しい訓練と実戦にも関わらず傷跡一つない肌。精霊殿の一部の女性達が最近彼女にアツい視線を向けているのにゼルクラッドは気付いていた。
これでその気が無いのに美女二人に迫られて困っている、などと誰かに相談すれば拳が飛んでくる。それ以外に表現のしようもないのだが。
治療器具を医療鞄にしまったアリアーニャはそのままゼルクラッドの隣に座り、頭を肩にもたせかけてぼんやりと訓練を眺めた。視線の先ではフル装備のレインがサフカナに素手であしらわれている。こうして見ると前世で言うオリンピック級の実力があるはずのレインが弱く見える。
やがてレインの足腰が立たなくなるまで叩きのめしたサフカナは、薄ら浮いた汗を拭いながら二人の方に来た。アリアーニャは少し迷ってから立ち上がり、サフカナを睨みながらすれ違ってレインの治療に行く。サフカナはアリアーニャの代わりにゼルクラッドの隣に座った。
「レインはなかなか有望だな。あれなら武術大会でも良いところまで行くだろう」
「ああ、あいつも参加するって話はしてたなあ。開催まであと三週間だったか?」
「うむ。そろそろ旅の準備はしておいた方が良い。ゼルクラッドは少し遅くてもいいな」
「ん? なぜ?」
「本戦参加者は一般大会が終わった時にいればいい決まりになっている」
「え?」
「え?」
二人は顔を見合わせた。何かおかしい。
「本戦は帝都の闘技場で開催されるから、いくらゼルクラッドでも遅刻は不戦敗になる」
「それは知ってる。本戦は皇帝を決めるトーナメントじゃなかったか」
「その通りだが、何かおかしなところでも? ああ、もう参加登録は私の方で済ませてある」
「本戦参加で?」
「本戦参加で」
「いやいやいや待て待て待て」
サフカナは何を慌てているのかさっぱり分からない、という風に困惑している。
ゼルクラッドには寝耳に水だった。確かに武術大会には参加するつもりでいたが、それは誰でも参加でき、勝ち上がって得られるのは栄誉とそれなりの賞品、という一般大会だ。間違ってもナルガザン帝国の次代皇帝を決める本戦ではない。
「武術大会に参加すると言っていただろう?」
「本戦には出ない、というかそもそも資格がないだろう。皇族と血縁関係がない」
「問題無い。私と結婚すれば資格は取れる」
「あ、いや、資格云々は前提の話であって、というより、サフカナと結婚するつもりはないし、皇帝になるつもりもない」
「ええっ!?」
結婚拒否と皇帝拒否のどちらに驚いたのか、サフカナは大声を上げて驚いた。サフカナが驚いた事にゼルクラッドも驚く。一体彼女の中でどこまで話が進んでいたのか。
サフカナはその後言葉を変えて何度も聞きなおしたが、本当にゼルクラッドにその気が無いと知ると、しょぼんと肩を落とした。
「……一般の方に登録を変えておく」
「まあ、その、なんだ……すまん」
という事で、レインとゼルクラッドは帝国の武術大会(一般大会)に出場する事になった。
本作一番のラブコメ回(真顔)。作者の経験が知れるね! ごめんね!




