僕の奥さんはタヌキかもしれない
僕ら夫婦は、村から離れた山奥に住んでいる。結婚してすぐに、この家に二人で引っ越した。
妻の花はこの村に越して来る前、山の中で暮らしていたそうで、村で人と接して過ごすより、自然の中で静かにゆっくりしている方が落ち着くのだとか。
畑で野菜を育て、山菜やキノコを採集したり、木を切って加工して村に売りにいったり。全部、自給自足の生活。もちろん大変なこともあるし、慣れないこともある。けど花がいるから、なんでも楽しく思える。
そんな新婚生活が始まって数か月が経ったある日の事だった。
「花?どこだ?」
昼頃、一緒に昼食を食べようと花を呼んだが、畑にも居間にもいない。一体どこに行ったんだ。どうしても見当たらず、先に昼食の準備をしようと台所へ向かうと、そこには、一匹のタヌキがいた。
「……」
突然のタヌキの登場に、呆然と立ちつくしてしまう。なんで台所にタヌキがいるんだ。
タヌキは黒くつぶらな瞳で、こちらをジッと見ている。置物かと勘違いするほどピクリとも動かない。
「どこから入って来たんだ?」
とりあえず目線を下げて話しかけてみるが、返事は返って来ない。
「僕の奥さんを見なかったか?」
もちろん返事は返って来ず、きょとんと首を傾げる始末。
埒が明かないので、タヌキを外へ連れ出そうとしたとき、グオーッと巨大な音が鳴った。タヌキの腹だ。
「お前、お腹空いてるのか?」
僕の言葉にタヌキの耳がピクッと反応した。そして体を僕の足に摺り寄せてきた。お腹が空いた。何かおくれ。とでもいうように。
タヌキって、野菜も食べるかな。
畑に行って赤くて大きいトマトを一つもぎ取ってきた。タヌキの目の前に差し出すと、すぐさまかぶりつき、目にも止まらぬ速さで平らげた。
その後タヌキは口の周りをトマトまみれにして、満足そうに山へ帰っていった。
一体何だったんだろう。
「翔さん」
声のする方には妻の花がいた。
「花。どこに行ってたんだ?」
「ちょっと、お散歩に」
「そっか。心配するから、出掛ける時は一声かけて」
「はい」
無邪気に笑う妻の頬にあるものがついていることに気付いた。
「花、トマト食べた?」
花の口の周りには、トマトの食べかすや果汁がべったりとついていたのだ。
「あ、うん。ちょっとお腹が空いて」
花はいつも食事を綺麗に食べるのに、余程空腹だったのだろうか。ほんの少しだけ感じた違和感。けれどあまり深く考えなかった。
「はぁ……」
本日何度目の溜息か分からない。ここ最近、木の加工品を作っても、思うようにいかず失敗ばかり。また大切な材料を無駄にしてしまう。この間村に売りに行った時も、この出来で、この値段は高すぎると言われてしまった。このままでは、収入が減ってしまう。
花には大丈夫だとは言っているが、正直大丈夫じゃない。心配をかけてしまって、情けない。どうすればいいんだ。
頭を抱えた時。足元にふと温かいものが触れた。茶色の、もふもふとした。
「あ、お前。この前の」
そう、この間トマトを食べていった、あのタヌキだ。前よりもスリスリと体を寄せて来る。
「悪いけど、今はお前に構ってあげられないんだ。向こうで遊んでおいで」
言い聞かせて作業に戻ろうとしたが、タヌキはするりと僕の膝の上に乗って来た。
それだけでは飽き足らず、横になって狸寝入りをし出した。これでは作業などできっこない。
「あ、こら! 花! 花!」
花に頼んで、タヌキをどこかにどかしてもらおうと思ったのだが、生憎、花はまた留守にしていた。
一方のタヌキは僕の膝の上でくつろいで、呑気なものだ。仕方がない、少し休憩にしよう。
ぼんやりと空を眺める。今日の空は雲が少ない。こんなにも青かったんだな。
「実は最近、あんまり上手くいってなくて」
気がつけばタヌキ相手に、どうしようもない愚痴をこぼしていた。自分でも何を言っているんだろうと思う。けど、何故かタヌキになら、なんでも話せるような気がした。
誰かに悩みを聞いてもらうと、何故だかすっきりする。まあ、タヌキだけど。今度、花にも聞いてもらおうかな。聞いてくれるかな。
風に流れていく雲が形を変え、また新しい形を作っている。その形がなんだか、あれに似ている。
「久しぶりに山菜の天ぷらが食べたいなぁ」
花の作る天ぷらは本当に美味しい。そういえば、最近食べていなかったな。今度話して作ってもらおうかな。
そんなことを考えていると、タヌキがもぞもぞ動き出し、膝から飛び降りて、一目散に走り去っていった。のんびりしていると思ったら急に駆け出したり。忙しくて、賑やかで。なんだか、花と重なるに感じた。そんなことを言ったら、花に怒られてしまうな。
さて、そろそろ作業に戻るかな。不思議とさっきよりも気持ちも手先も軽く感じる。これなら、きっといいものが出来上がる。
夕方、作業も一段落した頃、花が帰って来た。両手いっぱいに、山菜を抱えて。
「山菜が沢山採れたんです! 今夜はてんぷらにしましょう!」
「あぁ、うん。そうだね」
これは、何かの偶然だろうか。それとも、花もあの話を聞いていたのだろうか。
いや、確かにあの場には僕とタヌキしかいなかったはずだ。どんなに考えても答えは出ないまま。
今日はお互いに仕事が早く片付いた。昼食を終えて、食後のお茶をすする。何もすることが無い。暇だ。横目で妻を見れば、目を細めてあくびをしている。その姿が何とも愛おしい。
「少し昼寝でもしようか」
「いいですね、そうしましょう」
湯吞みと急須を片づけて、ちゃぶ台も寄せて、畳の上に布団を敷いて二人して横になる。
さほど時間も経たない内に、花の寝息が聞こえてきた。どんな夢を見ているのか。きっと何か食べている夢かな。そんなことを考えながら、僕もそっと目を閉じた。
あれ、まだ外が明るい。
眠りから覚めたが、外はまだ日が出ている。なら、もう少し眠ろうかな。まだ眠たいし、花もまだ寝ているようだし。
花の方へ頭をやると、布団の中にいたのは花ではなく、タヌキ。我が物顔で寝息を立てている。毎度毎度、一体どこから入って来るんだか。
布団からはみ出している尻尾を撫でると、ビクッと飛び起きて、こちらをじーっと睨みつけてくる。
「はは、ごめんよ」
昼時の温かい日差しに、また瞼が下りて来る。もうちょっとだけ、眠ろうかな。
もう一度布団に潜ると、タヌキが僕の腹の上に乗って、見下ろしてくる。顔のひげが頬に当たってくすぐったい。
改めてタヌキの顔を見つめる。綺麗な茶色の毛並み、ふわふわの尻尾。そして特徴的な黒くてまん丸な目。このタヌキ、目元が花にそっくりだ。花の瞳もまん丸で、真っ黒で。星空みたいに輝いているんだよな。
とうとう睡魔が僕を襲い、もう瞼が開かなくなってきた。
「……花、君は、タヌキなのか?」
頭が回らず、訳の分からないことを口走った。腹部にタヌキの温もりと重みを感じながら、僕は睡魔に身を任せ、目を閉じた。
『翔さん、翔さん』
優しい声。花が呼んでいる。どのくらい寝ていたのだろうか。
目をこすって見てみると、そこにいるのは、花ではなく、一匹のタヌキ。
いつものタヌキが、少し距離を取って座っている。さっき確かに花の声が聞こえたはずなのに。花はどこに行ったんだろうか。
『翔さん、私よ、花よ』
「……え?」
それは紛れもなくタヌキから聞こえた。タヌキが話している。しかも自分の妻の声で。
待ってくれ、理解できない。
「は、花? 本当に花なのか?」
情けなく声も手も震えている。そんな僕に反して、タヌキは冷静に頷いて僕の目を真っ直ぐに見て来る。
『今まで黙っていて、ごめんなさい。私ね、実はタヌキなの』
どういうことだ。全く信じられない。どこの誰が、自分の妻から私はタヌキだと言われて、「あぁ、そうですか」と納得出来るだろう。まるで頭が追いついていない。
『あのね、翔さん。私ね、山に帰らないといけないの。あなたとは、もうお別れなの』
タヌキの花は、俯いて丸い目に涙を浮かべている。
「山に帰る」?「もうお別れ」? 何を言っているんだ、花。
『翔さん、気付いちゃったでしょ? 私がタヌキだってこと。人間じゃないことがばれたら、その人の記憶を消して、山に帰らないといけないの。それが化け狸の掟なの』
タヌキ姿の花は、僕の体をよじ登って、僕の鼻と自分の鼻をくっつけた。
『でも私、翔さんに忘れて欲しくない。私のこと、覚えていて欲しいの』
僕を見つめる瞳は、星空のように澄んでいて、吸い込まれそうな程に綺麗で。
その全てが僕の愛する妻なのだと訴えて来る。
『だから、誰にも言わないで。私のこと喋らないで。約束してね、さよなら……』
「ま、待ってくれっ! 行かないでっ! 花っ!」
止めても時すでに遅し。花の背はもうあんなに小さくなってしまった。
花、どうして。どうしてこんなことに。
花のいない人生なんて、これからどうやって生きて行けばいいんだ。
「翔さん! 翔さん! 大丈夫ですか?」
目の前に広がる、居間の天井。そして僕の顔を覗き込む、花。
空は橙色に染まり、カラスが山に帰ってきている。夕方まで眠っていたのか。
「随分、うなされていましたよ。待っていて下さい、今お水を……」
立ち上がろうとする花を引き寄せて、力強く抱きしめた。温かい。確かにここにいる。
あれは、夢だったのか。よかった。
例え彼女がタヌキでも、どんな姿であっても、僕には花しかいない。僕の一番、大切な人。
「花、僕の傍にいてくれてありがとう」
「え、あ、こちらこそ、ありがとうございます……。もうっ、何ですか、いきなり!」
真っ赤な顔をして腕から逃げられてしまった。
「晩御飯出来てますよ、食べましょう」
「うん」
微笑んで台所へ向かう花に、タヌキの耳と尻尾が見えたような気がした。