異初段 千ひろあるかげ
Ⅰ
正月を前にして、芥河の家では大掃除が行われていた。とはいえ芥河は自分の部屋の整理程度しかしていない。
シラツユから空き部屋の箪笥や机の周りを拭くよう命じられたクラトは、一年ぶりにその部屋に入った。箪笥ばかりでなく色々なところに埃が溜まって、かびの匂いさえする。思わず障子という障子を開け、芥河の部屋へ飛んでいった。
「主!」
呼ぶと、芥河は面倒そうに顔を上げる。怠けて読み物をしているところであった。
「一個浄化してほしいとこがあるんだが」
「神がする浄化は物体の話じゃない」
「そんなこと言うなよ。なんかこう、一発できれいにできねえの?」
「疲れるから嫌だ」
気づくとクラトは芥河の襟を掴んでいた。
「できるんじゃねえか!」
芥河は未だ面倒そうにしている。クラトが本気では傷つけてこないの知っているからだ。
動じない芥河をクラトは放した。
「というか、ユウガオさんの部屋って掃除しなきゃだめか? 使わないだろ」
クラトは返事を待たずに部屋を出る。
廊下を歩いていると、芥河は追ってきた。
「使う」
クラトは振り向かず、足を進める。
「使うから、僕も手伝う」
芥河はクラトに追いついて、部屋の戸の前でその肩を掴んだ。
クラトが戸を開ける。
ほこりっぽさが廊下にもあふれてくる。
芥河はその部屋に、懐から出した花を一輪、投げ込んだ。
蓮のような花から芳香が漂って、かびくささを消していく。ほこりも消えていく。
「これでいいかな」
「いや」
クラトは念入りに、部屋の中の調度を裏返したりずらしたりして、何か残っていないか確かめる。
そして床に伏せた。
「板の目が」
「そこまでするんなら君がやりなよ」
「主がやるって言ったんだろ」
「手伝うとしか言ってない」
クラトは舌打ちして、雑巾をかけることにした。
そして、かがめた背で言った。
「じゃあその間、主は畳でも替えててくれ」
この部屋の床は板敷きだが、座るところには畳がある。
湿気で腐るものであるし、染みもつく。
芥河は腰に注意を払いながら畳の座を持ち上げ、部屋を出て行った。
替えろと言われても、新しい畳は買わないとない。
畳はどこが売っていたか、と思い出そうとするが、最近はこういうことをシラツユに任せきりなので分からなくなっていた。
いっそ畳などやめて、柔らかい座布団にするのはどうであろうか。その方が、……
「ユウガオは喜ぶのかな」
そう考えても、彼女がそう不意に戻ってくることなど、ほぼありえない。
しかしあの部屋はユウガオのためにあって、ユウガオがいつ帰ってきてもよいように手入れをしている。
シラツユに打ち明ける勇気はないが、それだと目的もないまま新しいものを買うことになり、そちらこそなかなか理解されないであろう。
悩む間にも、赤と黄色ではどちらが好かれるであろうか、花や毬の模様では派手すぎるであろうか、などと妄想が膨らむ。
座り込む芥河を発見したのは、シラツユであった。
「主?」
何も知らず、ただひたすらに家の中をきれいにしているシラツユは、普段よりつかない小屋に芥河がいることを不思議に思った。
「何かお探しですか」
「いや、畳が古くなっていたからここに避けたんだけれど」
「では、狸など呼んで買取に来させましょう」
「それはそうなんだけど、替えのものをどうしようかと思って」
「主のお好きになさればよいかと」
シラツユは疑うことを知らない。
「座布団なんかでも良いかな。柔らかいし、軽いし」
「ええ」
「どんな柄がいいと思う」
「使えれば何でも構いませんが」
「もし君が……、いや」
芥河は手ぶりで訂正する。
「女性はどういう柄を好むだろう。淡い色が好きだろうけど、服や他のものもそうなのに、座布団までそんな色柄だったら飽きるかな、なんて」
シラツユは目を白黒させて、足をふらつかせながら、走って逃げる。
見たことのない動きだったので芥河は焦った。
間違ったことを聞いてしまった。嫌われた!
怖がられないように、足音を立てないように、しかし急いで追いかける。
なんで今日はこんなに追いかけてばかりなのだ。
追いつくと、シラツユは廊下で雑巾をバケツの中で絞っていたクラトの前で腰を落としていた。
クラトは当然驚いて、手が雑巾から離れない。
「うちに、そんなお金はありませんし、」
シラツユは息を切らしている。
クラトはその後ろに、同じく息を切らしている芥河を見つけて、腐った蛤でも見るような目を向けた。
シラツユはそこから逃げるかのように、四つん這いのままクラトの後ろに回る。
そしてクラトは絞りたての雑巾を力いっぱいに投げつける。
使い込まれた雑巾はきれいな放物線を描いて、見事に芥河の頭に当たる。
「知らねえ奴うちに上げんな!」
言い訳をしたい芥河が顔を上げると、雑巾が床に落ちる。
「いや、そういう売り買いの話じゃなくて、」
「ああ?」
クラトからの視線が痛い。
「えっと、」
しかしここでユウガオの存在、――下部の女性に手を上げて逃げられた話を知られては、シラツユとの信頼が崩れてしまう。
「その、」
芥河は考えた。
「全然、決まったわけでもないし、少し、そういうのもいつか、って思っているくらいで、急ぐ話ではないんだけど」
息を整えようとしても、鼓動は早まるばかりである。
「もう一人、精霊を」
庭で小鳥が鳴く。
Ⅱ
しかし、話してから考えてみると理にかなっていることで、もう一人女性の精霊を生むことができれば、今シラツユに任せきりの家事が楽になるであろうし、クラトも面倒をみることで成長できるであろうし、現世で怪異を退治する時間も短縮されるであろう。秋の会などで女性の下部を連れた神と話すきっかけにもなり、特に冠の邸のムラサキとハルには良い話し相手になるであろう。
そして、ユウガオが帰ってこず寂しい芥河の心を埋めてくれる。ずっと願っていることである。
力には不安があるが、やってみなければ分からない。
「どうだろうか」
そうはいっても不安な芥河は一人、冠の邸を訪ねていた。芥河にとって兄貴分のような神である。
冠はムラサキとハルに淹れさせた茶を挟んで、芥河の話を黙って聞いていた。聞き終わると、そっと口を開く。
「相当キツいと思うぜ」
芥河の霊力の話である。
「ユウガオは消えてないんだろ?」
「うん。常世のどこかにいる気がしている」
「アンタが四人も抱えられるとは思えない。また自分が保てなくなる」
「でも、あれからは一度も戻っていない。だから、人数が増える方がいいと思う」
「気分が?」
「……まあ」
冠は表情を変えない。
「よく考えるんだな」
冠は煙草に火をつける。芥河にも分け与えられる。
芥河にとって、煙草は冠から教わったものの中で最も染みついているものである。こうして同じ場で行動を揃えるうちに、好きだとも思っていなかったのに、次第に一人のときにも欲するようになった。煙が出るので浄化にも使える、というのは言い訳にすぎない。冠が好んでいる、という他に、芥河が好む理由は未だ分からない。
息を吐く。
「だって、探し出したって、ユウガオは僕のことが嫌いだ。こちらから会いに行くのは違う気がする」
「そうだろうな」
「でも、この先ずっと、何百年も、千年も、このままではいられない。……彼女と一緒にいられることが、神でいる理由だったから」
Ⅲ
衰えた邸に小鳥が一羽、飛んでくる。小鳥はカタノの肩に停まる。この邸にはカタノ一人と、手近なところでしつけた動物が出入りするくらいしかない。
小鳥はカタノから離れると、小皿に置かれた穀物をついばむ。
カタノは腰を上げる。
カタノが訪れたのは水無瀬の邸であった。神格を失ったカタノは水無瀬の遣いとして身をやつして生活している。とはいえ元は同格だったこともあり、何か命を受けて働くということはほとんどない。気が向いたときに邸を訪れて、他の遣いや精霊たちの様子を見たり、籠りがちな水無瀬と会話したりするくらいである。
いつもの通り、黙って門をくぐり、庭番のヤギたちから凝視されながら中へ進む。水無瀬の邸には人や動物が多い。入れ替わりも激しい。友人ではあるが、まるで考え方が違う。
廊下で、タナバタとオノという精霊二人が掃除をしながら喋っている。
「まだ終わんねーの?」
「まだまだかかりますよ」
「どのくらい?」
「今日一日では終わらないかと」
「明日もすんの?」
「明日で終わらせるなら、今日は夕飯の後もしなくては」
「ええー」
オノがタナバタに家の仕事を教えているらしい。そういえば、タナバタが生まれてからまだ一年も経っていない。年末の掃除は初めてなのだ。
「えー? ……あの人誰?」
感嘆の続きで不審がられる。そういえば、タナバタと話したことはない。
オノはタナバタの背を叩く。
「前に言った、カタノさんですよ。挨拶なさい」
カタノは二人を笑って許す。
「そう怒るなって。顔見たこともないのに分かるわけないだろ? 初めまして、水無瀬の遣い・カタノだ」
タナバタは驚いたのか、箒を両手で握りしめたまま、
「……うっす」
と言った。オノの方が慌てて、頭を押さえつけて礼をさせる。
「すみません、生まれたばかりなので」
「いいよ。慣れてる。……そんなことより、大変なら人を増やそうか」
「本当?」
タナバタはきらきらした顔を上げる。
「水無瀬に言っとく」
去っていくカタノを、タナバタはまた不審だと思い直した。充分遠くへ離れたのを確認してから、オノに耳打ちする。
「なんであの人、主のこと主って呼ばないの」
「僕も、ずっとそう思っています」
オノは十年以上カタノと顔見知りでいるが、その理由を尋ねたことがない。それくらいに、カタノは客人のような扱いである。
カタノは水無瀬の部屋に上がる。
「よう」
どうせまた水無瀬は椅子にもたれているのだろうと思っていたが、ちゃんと起きて座し、こともあろうか杜若の遣いのスマとアカシと歓談している。
「なんだ、ここは杜若の邸か」
「いや、水無瀬さまの邸で合ってる」
「久しぶり」
杜若は昔馴染みの神だが、スマとアカシは比較的若い遣いで、カタノが神であったことを知らない。カタノから見れば、オノやタナバタと同じだ。
違うところがあるとすれば、杜若が旅の神であるせいか、スマとアカシも外出や交流が多いことである。今日も、水無瀬が呼んだというよりはスマが何か言いだしたのだろう。
「何してんだ」
「羊羹を食べて、賽子で遊んでる」
水無瀬が答える。
「へえ」
「君もどう?」
「俺は話があって来たんだが」
「じゃあ、話しながらでいいよ」
「うーん」
カタノはスマとアカシの顔をみやる。この二人は、芥河が鬼であったこと、神であったカタノに浄化されたことは知らない。だが、芥河がユウガオから逃げられたことは知っている。
「噂で聞いたんだが」
本当は小鳥を遣わして知ったことである。
「芥河が、新しい精霊が欲しいんだと。しかも女」
「「「へえ」」」
三人の相槌が重なる。
スマが賽子を転がす。
五の目が出る。
「ま、いいんじゃないか。うちみたいに男しかいないのも珍しいだろうし」
駒が進み、アカシが賽子を拾う。
「どうだろう。男ばかりの方が楽かもしれないよ」
一の目が出る。
駒が一つ進み、三つ戻る。
水無瀬が賽子を拾う。
「気を遣うからね。でも、まあ、いいものだよ」
四の目が出て、駒が四進み、また一つ進む。
賽子はカタノの前にある。
拾って転がすと、六が出た。
「おお」
「三周遅れだからな。もう一回振ってもいいんじゃないか」
スマの言う通りに、カタノはもう一度賽子を振る。
三が出て、九進むと、一回休みのマスに止まった。
「ついてるようでついてない」
「そんなものだよ。均して見れば、だいたい皆同じになる」
「それで、カタノはどう思うの。新しい女の子」
アカシが問う。普段からぼうっとしていて、何の欲もないようなアカシに聞かれると、悪い話のように思われる。だが、本当に悪者なのは芥河だけである。
カタノは無精ひげをなでた。
「……顔は見てみたい。それからだな」
「それから何」
アカシがとぼけて聞くのを、スマが賽子を飛ばして遮る。
「悪い」
賽子はアカシの膝に当たる。
アカシはそれを拾うと、スマの駒を待たずに、スマの方へ賽子を転がす。
膝に当てるつもりが不器用なために、部屋の隅まで転がっていく。
「待って」
アカシは賽子に話しかけながら立って追いかける。が、調度の下に入ったのか、見失ってしまった。
「どこ?」
スマはしばらく笑ってみていたが、どうにも時間がかかるので立ち上がる。
二人はあれこれ言いながら、色々な姿勢になって、小さな賽子を探している。
水無瀬はそれを面白そうに眺めているだけで、なかなか立とうとしない。
カタノは立ったが、二人を手伝うようなことはせず、戸棚から適当な茶碗を取って、用意されている茶瓶から茶を注いだ。
それを持って水無瀬のすぐ横に座る。
「今日も調子、良くないんだろう」
「悪いというほどじゃないよ」
水無瀬は動かない。
「俺が……」
「僕がそうしたいと判断した。それだけだ」
「じきに出て行く。だから、それまで」
「「わっ!」」
スマとアカシが棚をひっくり返した。
アカシが自分の袴の裾を踏んでこけそうになり、スマの腕を掴んだところ、スマと、スマが持ち上げていた棚ごとひっくり返ったのだ。
水無瀬の代わりにカタノが腰を上げる。
「あーあ、何してんだ」
「ごめんなさい……」
「俺が直しとくから、休んでな」
「すみません……」
アカシとスマは重なったまま床に転がっている。頭を打っていそうだが、二人はそれほど弱くもないので問題ない。
カタノは呆気に取られて話を途中でやめてしまった。
Ⅳ
それから年が明け、季節は進み、進み、秋になった。
芥河はシラツユを伴って秋の会に訪れ、二条に会った。
「久しぶり」
「だな。ここでしか会わないからな」
二条と芥河は話の調子が合うが、住処が離れているために、わざわざ用事もなく会うほどの仲にはなっていない。
芥河の後ろで、シラツユが頭を下げて挨拶する。
「元気か?」
「はい」
シラツユの顔を見て、二条は思い出した。
「そういえば芥河、新しい精霊はまだなのか」
「え?」
芥河は驚く。
「は?」
シラツユも驚く。
「芥河じゃなかったか? 杜若の家で聞いたんだが」
芥河の家で盗み聞いたことをカタノが水無瀬とスマ・アカシに話し、スマとアカシが主人である杜若に話し、杜若は友人の二条に話したのだが、
「まさか冠……」
芥河が家の外で話したのは冠にだけであるから、当然、冠が広めたと思ってしまう。
その渋い表情から、二条は察した。
「もしかして……」
しかし芥河であれ、誰かの秘密を勝手に広めたなどという泥を冠に塗りたくない。
「いや、そうだ。本当だ。もう一人、欲しいと思っていて」
芥河がまた咄嗟に言ってしまったので、シラツユはまた驚く。
「なかなか踏ん切りがつかなくて、まだなんだ」
「なんだ」
二条は軽く笑う。
「思い切りは早い方がいいぜ! 人が増えたら扶養手当がつくし」
二条は金のことしか考えていない。
シラツユは余計に面食らった。
芥河の袖を引っ張る。
「主……?」
シラツユに疑われている、と芥河は冷や汗をかく。
「前に話しただろう」
「でもあれきりでは」
「君たちの答えを待っていたんだ」
「そんなふうには見えませんでしたが」
あの方々は何で揉めていらっしゃるのだろう、と少し離れたところから、誰かの遣いや精霊の女性がこちらを見て言い合っている。
その中に、まっすぐな黒い髪に、赤いぐみのような唇の女性がいた。顔つきなどとても似ていないが、背丈にしても、声色にしても、ユウガオを思い浮かべるのには充分である。
芥河は一瞬見とれて、はっとするとシラツユの視線を痛く感じる。
どろどろになりながら帰宅し、急いで水だけ浴びて着替えると、居間にシラツユとクラトを座らせた。
「この前の話なんだけど」
どんな切り出し方をしても、既に不機嫌なシラツユに影響されてか、元々か、クラトも眉間に皺がよっている。
芥河は咳払いする。
「新しい精霊を生もうと思う。君たちの仕事を楽にするためと、話し相手になってもらうために」
クラトが挙手する。
「だるい。世話するの俺だろ?」
「そうだね」
「だからやめてくれ」
「でも、僕はずっと欲しいと思っていたんだ」
シラツユも挙手する。
「どのくらい前からですか」
「使っていない部屋があるだろう? 去年、畳を捨てた」
シラツユは頷く。
「あの部屋は本当に、このためにあったんだ。迷っているうちに畳が傷んで、埃も被った。それでもつぶせなかった。そのくらいずっとだ。……今年は新しい座布団を買って、紅も替えて、着物も洗おう」
「でも」
「春には生む。それまでに、君たちも心を落ち着けておきなさい」
芥河が二人に強く命じたことは、後にも先にもこの一回だけであった。




