四十二段 信夫摺
Ⅰ
さびれた街に入った二人は、低い建物の屋根と屋根の間を飛んで、シラツユの姿を探していた。
走り、走り、タマキは屋根から飛び降りる。古びたタイルの歩道を更に走り、まさに扉を開けて店の中に入ろうとする少年の、外套に着られた背に飛びついた。
「シラツユ!」
少年は振り返る。
自分よりも若い少女が、顔も目も真っ赤にして泣いている。
「……タマキ」
後ろには背の高い青年がうずうずした顔で立っている。
「迎えに来た」
「……クラト」
ユキフミはぽかんと口を開けて、体の正面にしがみついてくるタマキの背中に触れる。タマキは何も警戒せず、胸に額を押し当てている。
「私は……」
「会いに来ちまったか」
ユキフミの背後には交野がいる。
「混乱させるな。今のこいつの名前はユキフミ。俺の遣いだからな」
クラトは威勢を張る。
「知るかよ! シラツユはシラツユだ。帰ろう」
タマキはユキフミの胴体にしがみついたまま、後ずさりして、引きずろうとしている。しかし動けない。
「帰りたい……ですが、帰ったら」
「お前の帰る家は俺の邸だ」
「……ずっと、クラトとタマキに会いたかった」
「あんたが邪魔してたんだな」
男たちが言い争う中、タマキが大人しい。
ユキフミは懐かしい危険な感覚を覚えて、顔を上げさせた。
顔がびしょ濡れになっている。
その顔をつけていたユキフミの外套も濡れて、弱く透明な糸を引いている。
「タマキ、鼻水」
ユキフミが叱っても、タマキは引き続き泣いていてどうしようもない。
交野はぎょっとする。その様子をクラトが腕を組んで見物していた。
「うちでは日常茶飯事だ。だから安い服しか着ない!」
「ちゃんとしつけろよ! くそ」
「くそじゃない鼻水だ」
クラトは冗談のどさくさに紛れて、ユキフミの腕を引っ張る。
「今日はしょうがねえから洗濯して返してやるよ。その間こいつは借りるぜ」
「返すつもりがないだろ。洗濯くらいうちでする」
言葉遊びに乗せられた交野はふと、クラトの後ろの遠くに目をやった。
古めかしい袍を来た男が歩いてくる。
「なんだ、主さんも連れてきてこの様かよ」
「主?」
クラトは振り返る。
確かに芥河の姿である。
ありえなかった。
「……主は今、」
いつも通りの芥河の姿をした影は、普段の芥河がそうするように、ゆったりと歩いて近づいてくる。
しかし、霊力を感じられない。
目を合わせると、芥河の影はにっこり笑った。
「やあ、現世は迷ってしまうね」
「主?」
クラトが呼ぶ。
「うん」
芥河は穏やかな声で答える。
「みんな揃っているじゃないか。よかった。シラツユも、タマキも、クラトも探していたよ。怖い思いをしなかったかい」
タマキは慕う声にやっとふり向いた。まだ、ユキフミの外套から手を放さないままである。
「かわいそうに、泣いているね」
芥河はクラトが腕をかざしたのをすり抜けて、タマキに寄り添う。
タマキの前髪に触れようとして、やはり、触れられない。
「おかしいな。ちゃんと、見えているのに」
「主?」
タマキの髪は動かない。
芥河の指はユキフミの頬に移る。
「久しぶりだ。痩せてしまったね」
やはり、芥河の指はユキフミの頬をすり抜けてしまう。
「なんで。こんなに近くにいるのに。僕は、君たちに触れられない。僕が生んだのに、分からない!」
芥河の影に瘴気が渦巻く。
「逃げろ!」
交野が叫ぶ。
クラトとシラツユがタマキの両腕を持って、隣の店の屋根に飛び乗る。そしてそのまま隣の屋根へ、隣の屋上へと遠ざかる。
路上で一人、交野が瘴気の塊に銃を向けている。
芥河は鬼に戻ろうとしていた。
「主!」
叫んだのはユキフミである。
「主は鬼になる。俺たちじゃ浄化しきれない」
「違います。主、主もこちらへ!」
クラトははっとした。ユキフミが呼ぶ〝主〟は交野である。
ユキフミは、交野が芥河を浄化しようとして、受けたケガレで神格を失ったという話を覚えていた。そして、今の交野の、初めて見る殺気立った顔に恐怖している。
「主!」
ユキフミの悲鳴に交野は顔を上げず、声を張る。
「大丈夫、時間を稼ぐだけだ。先に逃げてな」
「主!」
「芥河は悪い奴だが、そいつらは関係ない。ちょっとなら一緒にいてもいい」
ユキフミは心の中でその名前を繰り返す。
芥河という名前を耳で聞くのはいつぶりであろうか。少し前は、遊びに来た冠がしょっちゅう呼んでいた。
自分はただ〝主〟としか呼んだことがない。
冷たい風が白い雪を舞わせ、ユキフミの前髪を揺らす。
Ⅱ
交野が発砲する。
芥河の影はその弾に撃たれたまま、吐き出す。全く効いていない。そもそも交野は連戦で不調である上に、鬼は簡単に浄化できるものではない。
交野は銃を下ろし、剣に持ち替える。
刀身に降る雪が映る。
「あの剣」
ユキフミは語る。
「あの剣が芥河さまをお生みになったのですよ」
ユキフミの言葉はまるでおとぎ話のようで、タマキの耳が傾けられる。
言葉では交野と芥河の因縁を語りながら、ユキフミは自分の身の上についてばかり考えていた。それがかえって淡々と、交野を恨んでいた二人に客観を聞かせていた。
「結局、初めから主が悪かったんだな。……でもお前は、不憫だからって交野がしたこと、許すのか」
クラトはユキフミの言葉だけを聞いて、努めて冷静に尋ねる。
「神さま相手に許す、許さないというのは違います」
「違っても考えてみろ。お前はどうしたい、どうなりたい」
「考えることはありません。主の下で充分、暮らせています。……芥河さまに返せていない恩もありますが」
「そうじゃなくて、」
クラトが否定するたび、ユキフミは悲しげになる。寒さのせいか、鼻や耳の先、目元が赤くなる。
「ずっと、会いたかったのに」
そう言われると、クラトは言いたいことを言えない。全てシラツユのために、シラツユが幸せに生きるために助言しているはずであった。
そして、ユキフミが否定されたと思うたび、クラトも否定を返されていた。
「俺だって会いたかったよ」
「苦労をかけました」
「そうじゃなくて」
つい否定して、否定されて、言葉を飲む。
「、……。いいよ、理由なんて」
クラトが諦めると、ユキフミも諦める。伸ばせない手のひらに落ちた雪が解けて、流れ落ちる。
交野の剣は芥河の首を狙う。
かわして袖を斬られた芥河は、顔を上げ、屋上の三人に目を向ける。
「主」
しゃがんで下を見ていたタマキの声に、クラトとユキフミが気がつく。
ユキフミは瞬時に弓を構える。
「ばか、逃げろ!」
クラトがタマキの腕を引っ張り上げたときであった。
芥河の影が交野の前から消える。
交野が目を剥いたとき、芥河は既に三人の前にいた。
ユキフミはとっさに体勢を変えられず、タマキは普段のように芥河を見上げる。
芥河はクラトの胸を押して倒した。
芥河の手に剣が戻る。
クラトは倒れながらユキフミの前に防壁を張る。
ユキフミは芥河に矢を放つ。
Ⅲ
シラツユが怪異に矢を放つ様子をタマキは何回、何十回と見てきた。
しかしその怪異が鬼、――芥河であったことはない。
芥河が鬼だったこと、今でも鬼になると聞いたこと、現世の社で芥河に似た怪異に出会ったこと、そして今、芥河が自分たちを襲っていること、全て分かっていても結びつかない。
傍にいるのは神であっても鬼であっても、芥河である。
ユキフミの矢は芥河の影の中に消えていく。
「……君は、交野の味方かい」
芥河は剣を持ったままユキフミに近づく。
その間に煙が立ち、交野が立ちはだかる。
交野の銃口が芥河の胸を狙っている。
「何が悲しくてお前の味方なんかしなくちゃならねえ」
「なんで、僕には誰もいない。皆いなくなる」
芥河が嘆くほどに、交野は石を噛み砕いて、その歯で衣を引き裂いた。
「……お前みたいなやつ、浄化なんかしてやれるか。……ナギサを返せ!」
銃弾が貫いた後を赤い血潮が追いかける。
鮮血を浴びたのは芥河の真っ黒な影で、狙撃を受けたのは飛び込んできたタマキだった。




