四十一段 踏み分けて
Ⅰ
何を言ってもユキフミがじっと悲しみに耐えているような後ろ首を見せているのを、交野はじれったく、そして半日も経つと面倒に思ってきた。
ユキフミは憚って自室に退いていたが、まだ機嫌は治っていないのかと、別の用事につけては交野が訪ねてくる。そうであることは透けて見えていて、交野の顔を立てようとして繕う言葉もまた、交野には透けて聞こえる。
「何が嫌なんだ」
「いいえ」
「何がと聞いているのに、いいえとは何だ」
「何も嫌ではないので」
「じゃあもっと笑うか、とぼけるかしてくれ」
ユキフミは膝を抱えて座ったまま、立ちすくんでいる交野の無精ひげを見上げる。
「元気ですよ」
交野はしゃがんで、その頬に触れる。
「本当に元気なやつはわざわざ元気だって言わねえよ」
「そうですか」
ユキフミは微笑むのをやめる。
交野の手にはそれが真実であることが分かっていて、作り笑いよりも柔らかく感じられた。それでも、ずっとこのまま、不幸せそうな遣いと居続けることには耐えがたい。
「外の景色を見たら元気になるか」
迷い続けた提案であった。
「どこかに出よう。どこがいい」
ずっと、外に出たいと思っていた。
しかしそれは主人のために現世の怪異を浄化したり、買い物をしたりしなければならない、という習慣のためであった。そこに楽しみや健康を見出しているとは考えたこともなかった。
ふと、春のことが思い浮かんだ。
――タマキはコンクリートとフェンスの間に生える小さな菫と、崖の前にしゃがんだ。
――「お花」
――タマキはつぶやく。
――クラトの顔色が暖かくなる。
――「お前、花が好きなのか」
――「うん」
――相変わらずタマキの声は小さいが、……。
――「そうか。じゃあ、花が咲いているところを見に行こう」
――「そうですね。たまには現世の観光でも」
――「していいの?」
――タマキは青ざめた顔で言う。
あのときのタマキと、同じ顔色をしているのであろう。ユキフミは気付いた。
ではタマキと同じように、桜をねだろうか。しかし冬に桜は咲かない。
ユキフミは膝を抱えたまま考え出す。
その姿に交野は、シラツユに初めて声をかけた日を重ねた。あのときも彼は一人で膝を抱えていた。
「コーヒーでも飲みに行こう」
「コーヒー」
ユキフミもまた、初めて教わって飲んだコーヒーの味と、喫茶店の電球の色を覚えていた。
「今はアイスクリームが乗ったやつはないだろうが、他の甘いのを教えてやる」
甘いものが欲しい気分ではなかった。
それでも交野に従って、現世に供することにした。
一月ぶりに邸の外を歩く。
交野はいつの間にか、ユキフミのために襟巻、洋服、外套、柔らかい靴、補助の指環を用意していた。この調子なら問題なく歩ききれそうだ、ユキフミはそう感じながら、見慣れない街を歩く交野についていく。
ユキフミが知っていた現世は、高い灰色の四角い建物が並んでいて、馬や牛のついていない車が走り、もっと煩雑であった。しかし交野の領地に、それほど多くのものはない。建物の背は低く、ちゃんと屋根がついていて影を作り、やはり車は走るが、その路上で猫があくびをしているので、手前で呑気に待っている。
冬の日差しは柔らかい。
交野はちらちらとユキフミの歩幅を気にして歩いている。
全てが穏やかである。
そう時間が経たないうちに、交野は「あそこだ」という。それらしい洋風の低い前栽が植えられた、れんが模様の小さな店である。ガラス戸から古ぼけた室内が見える。
交野はその扉を開ける。扉についた鈴が鳴る。
年老いた店主が出迎えるはずであった。
交野は発砲する。店主が怪異に変わっていたのだ。
交野の銃弾は怪異の肺を撃ちぬいたが、一発では浄化されない。
交野は舌打ちして、ユキフミを下がらせようとする。
しかしユキフミの体に染みついた習慣が、指環を外し、足を踏ん張り、矢を放った。
矢は音を立てて短距離を飛び、怪異の頭に当たる。怪異は苦しむ。
「下がれ! 危ない」
「いいえ。主をお守りします」
真剣な横顔から、交野の悪夢が蘇る。
怪異はもがきながら、二人めがけてカトラリーを投げつける。
前栽の錆びた葉から、店内の灰皿から、瘴気が漂い、ユキフミの足元に迫る。
Ⅱ
ユキフミが瘴気を吸う前に、怪異に穢される前に、交野は怪異を打ち破るか、逃がすかしなければならない。そうでなければ、あの日の繰り返しである。
交野がユキフミを抱えて逃げれば、繰り返さずに済む。だが、そうすれば交野の領地はどうなる? この怪異はいずれ鬼になって、生きている人間を襲う。人がいなくなれば交野はまた神でなくなる。
交野は銃を撃ち続ける。焦れば焦るほど、威力は落ちていく。
ユキフミの弓は変わらず怪異を撃ち続けた。
交野の焦燥をユキフミは知らない。
ユキフミにこびりついた魂も、交野は知らない。
そろそろ止めさせないと指が傷つく。そう、交野が思った頃であった。
怪異は浄化されて、店には何も残っていない。
「なくなっていたんですね」
ユキフミは息を整えながら呟いた。
「ごめん。去年の冬はまだ……」
「現世ははかないものですね。アイスクリームも、翁も」
交野は自分の間違いに気づいた。
「まあ、他の店探すか」
交野は店と翁への餞別に印を結び、瘴気を浄化する。
その様子に、ユキフミが見入っている。
「煙草を使わないんですね」
「煙草?」
交野は鼻で笑う。
「目に染みるし、あんなぽっと出のもの、好き好んでる神の方が少ない……」
誇張を交えて喋りながら、芥河や冠、杜若が愛煙家であることを思い出した。
彼ら――芥河がこれまでの、今でも、ユキフミが一番よく知っている神なのだ。交野のものにしたり、名前を変えたりしたところで、今すぐに塗り替えることはできない。
ユキフミは自分の手で、印を結ぶ真似をしだした。
「かっこよかったです。帰ったら私にも教えてください」
「教えたって、使うことないだろ」
「教わりたいだけです。いけませんか」
どこまでが本当の好奇心で、どこからがお世辞なのかは分からない。しかしこうやってユキフミから見上げられることが、交野は好きである。
交野は微笑み返した。
「いいよ。帰ったらな。さ、あっちに行こう」
交野は芥河の領地と反対の方向に誘う。
Ⅲ
常世の花畑に戻った。冠はやれやれと振り返る。
しかしクラトとタマキの姿がない。身代わりのつもりなのか、アライグマのぬいぐるみがある。
まさか、あそこで交野が邪魔をしてくるはずはない。では、芥河かクラトである。
前髪を掻き分けて声を漏らす。
「せっかく、俺が……親切で!」
助けてやったのに。その言葉は吐息と、冷えていく外気に溶かした。
勝手に助けようとしたら、勝手に途中で逃げられた。それだけの結果が、胸の中でうるさく這いずり回る。
クラトはタマキの手を繋いだまま、常世からすぐに現世の芥河に出た。
せっかくの冠からの厚意を裏切った。
自分でも信じられない。だが、ここで冠に匿われていれば、ずっとシラツユを取り戻せないままで、芥河を信じきれないままでいる気がした。
タマキはにっと笑う。
「シラツユを連れてから冠さまの邸に行こう」
「うん」
「主があのままじゃ、どのみち俺たちは終わりだ」
「うん」
「主もシラツユも、俺たちで元に戻す」
タマキの導きにより、二人は再び交野の領地を目指す。初めに来たときとは違う山道を進む。
それは、シラツユがカタノに連れられて行った道であった。
二人はそうとも知らず、暗い山道を歩く。洞窟を抜けると、昼に二人が迷った山の中腹に入った。
その山を下る。
指環をつけない霊体なので、滑り落ちても大きなけがはしない。二人は天狗のように山を駆けた。
舗装された道路が見える頃、タマキの息が上がっている。
「疲れたか」
クラトが聞くと、タマキは首を横に振る。
交野の領地にも粉雪が舞い始める。
「シラツユがいる」
タマキは目を赤くしている。
「そうか」
クラトは肩を叩いてやる。
生まれてすぐの頃から、タマキの感覚は鋭かった。魂の変容に伴う一時的なものだとも思われたが、それは今まで続いている。クラトはタマキの言葉を信じてきた。
「会いに行こう」
タマキは袖で涙を拭いながら、鼻水をすすり、そちらへ走り出す。




