四十段 荒れたる宿
Ⅰ
鬼の爪が、クラトの袍を裂いたときであった。
革靴の音が神社に響く。
クラトは気を動転させながら、その足音が吉報であることに感づく。
冠は瞬く間に強弓を放ち、鬼が倒れる隙に、クラトの腕を掴んだ。
クラトは気がつくと、神社から離れた病院の屋上に転がっていた。
冠は笑顔を作る。
「よう、助けに来たぜ」
クラトは仰向けになったまま、はっと息を吸った。斬られた胸の傷が癒えていく。
目に腕をかざす。歯を食いしばる。
「助かったんだから泣くな。ちゃんと息をしろ」
冠は傍にあるベンチに腰掛け、紙煙草を出す。
安物のライターが小さな火を灯す。
いつもは嫌う煙草の煙が瘴気を和らげて、穏やかな息を誘う。
クラトは額から腕を下ろした。
冠の眉が遠山を穿っている。
「タマキが」
クラトは呟く。
「タマキと、あの山の中ではぐれたんです」
「ちょうど俺も、次に探すならタマキだと思ってた」
「主じゃなくて?」
クラトは冠に確かめる。
「ああ。芥河には時間がかかりすぎるだろうからな」
「なんで、主じゃなくて俺たちまで助けてくれるんですか」
「ん?」
冠は煙を吐き、笑顔を作る。
「知ってるやつだから」
「知り合い?」
「そうだ。なんとなくずっと見てきた、近くにいたやつらだから、手を貸したい」
「それだけですか」
「それくらいじゃなきゃ気持ち悪いだろ? 気に入ったのしか助けないようなやつとか、助けた見返りを求めるようなやつとかはクズだ」
「はは」
クラトは寝転がったまま笑いだす。
数秒笑って、深呼吸した。
Ⅱ
クラトと冠はタマキを探して、交野の領地へ向かう。病院から出てすぐにも猫の怪異を浄化したが、通りに出ても狢の怪異を、そして山中に入ってからは人型の怪異に出会う。
クラトは距離を取り、矢を放つ。
その少年の姿の怪異は、矢を頭に受けたものの、痛がる様子はない。落ちた矢を拾うと、左手に握りしめる。
クラトはとっさに木の枝に飛び乗った。
少年の怪異は矢を投げるが、樹上までは届かない。
後ろから冠が太刀で斬る。
少年の怪異は浄化される。
「けが、しなかった」
クラトは木から降りて手のひらを見る。
「まだ若かったからな」
若い姿という意味ではなく、怪異になってから時間が経っていないという意味である。
しかし、昨日の女性の怪異も同じくらいに若いはずである。
クラトは心の中でだけ芥河と冠を比べてしまう。
「さっさと行こう」
冠は偉そうにすることもなく、足を進める。
それから牡丹の怪異に出会い、浄化する。鹿の怪異に出会い、浄化する。そしてまた、人型の怪異に出会う。
その怪異は、髪を結ばない女性の姿をしていた。美しく上等な袿を着ている。
怪異が指を伸ばすと、矢尻が飛んでくる。
クラトは体勢を崩しながら避け、冠がその隙に矢を放つ。
矢は怪異の胸をすり抜けていく。
冠は舌打ちする。
クラトは息を切らしながら矢を射る。
しかし当然、その矢も怪異の黒髪をすり抜け、地面に落ちる。
冠は剣を抜いた。
当たったと思うと、怪異は影になって消え、数歩離れたところに移っている。
矢が当たらない。剣でも斬れない。
クラトは歯を食いしばる。
Ⅲ
怪異は突如、クラトの眼前に現れる。
身動きが取れなかった。
怪異の女の、長い黒髪が揺れている。そして口角が上がった。
怪異はクラトの首筋に歯を立てる――、かと思いきや、甘えるように口づけした。それでもクラトにとってはケガレである。
力が入らなくなり、剣を地面に転がす。
「クラト!」
冠は怪異に斬りかかろうとしても、怪異はクラトにまとわりついていて、狙いを定められない。
矢がぐらぐらと迷っている。
クラトはぼうっとその点を目で追っていた。
怪異は自分を捕えている。ならば、その逆も然りである。しかし、クラト一人の力ではとどめをさせない。
クラトは自分の胸の前に防御陣を張った。
冠の矢がクラト目がけて飛んでくる。怪異の胴を貫き、防御陣に落ちる。
「ごめんな。あんたはもう誰とも結ばれない」
怪異はクラトに体重をかけるようにして倒れ、消滅する。
クラトも地面に倒れる。
冠が駆け寄る。
「大丈夫か」
「はは。……初めてモテた」
言葉だけは元気だが、語気は弱い。
冠は冗談を返そうとしていた。
そこに、消滅したはずの怪異の影が再び現れる。
冠は剣を握る。
しかしその影はすぐに、桜の花弁になった。満開の桜が降ってくるかに思われた。
桜は人の姿を保ったまま、仰向けのクラトの上に留まり、形を変えた。
タマキである。
タマキはきょとんとした顔で、クラトの腹の上に落ちて座った。
クラトは飛び起きる。
「タマキ!」
そしてむせる。
タマキは姿勢を崩してクラトの体から落ちる。土の上に座ったまま、クラトを案じる。
「咳してる」
「なんで、お前が」
話が通じない二人を、冠が制止する。
「タマキ、クラトのケガレは今から俺が治す。クラト、タマキは元気だ」
冠に言われて、二人は互いの顔を観察する。
クラトは、確かにタマキは無事だと、再会を喜ぶ。
タマキは、クラトの首筋に見慣れない赤い痕を見つけて指を差し、冠に訴える。
「まあ、腹立つよな」
冠は煙草に火をつけて少し味わうと、火が点いたままの煙草の先をクラトの首筋に押し付ける。
クラトは熱さに叫んでまた地面に倒れる。
「ほら、治った」
確かに唇の跡は消えている。
「なんで冠さままで主と似たことするんですか」
「方法なんてどうでもいいだろ。治るんだから」
「なんで冠さまなの?」
タマキが話を遮る。
なぜ芥河がおらず、冠がいるのかと問いたいらしい。
クラトに当てた煙草は崩れ落ち、灰になって土に消えた。冠は新しい煙草を出す。
「お前と芥河が迷子になったからクラトと一緒に探してた。お前は何してた?」
タマキは思い出そうとするが、具体的な言動が思い浮かばない。
ただ、
「渚にいた」
と答えた。
「渚? 海?」
「海。……そうかも。でも、渚って言ってた」
「誰に会った」
「会ってない」
「じゃあ『言ってた』って」
「分からない」
「夢でも見てたんじゃ」
冠の、長く生きてきた記憶が〝渚〟という言葉に引っかかった。
交野の遣いに〝ナギサ〟という女がいた。
冠の計画としては、ここで二人を邸に連れて帰ればよかった。
しかしタマキの心が許さない。
「主、まだ迷子?」
クラトも冠も、苦笑いで頷くしかない。
「あっちにいるよ」
タマキは立ち上がる。それはクラトと冠が目指していた、神社と芥河の先、交野の領地の方角である。
「私、カタノさんを探してた。シラツユも。主を見つけて、一緒に会いに行く」
「それは……」
クラトが言い淀む。
「芥河と交野は仲が悪いぜ」
冠は爽やかに教える。
「でも、カタノさんがシラツユのいる場所、知ってる」
「おお」
冠は軽く驚くふりをしながら、内心、非常に驚く。ここまで知られてどうやって言いくるめようか、と算段を立てようとするが、すぐには立たない。一時的なごまかしを使うことにした。
「なあ、一旦俺の邸で休まないか。クラトはずっと戦ってた」
冠はクラトに目くばせする。
「そうだ。あんまり冠さまに付き合わせるのも悪いし、一旦」
タマキは二人の言葉をそのまま信じるが、頷かない。
「でも主、迷子なら探さないと」
「休んだらまた探しにくる」
「主、つらそう。だから早く」
「それは弱ってるんじゃなくて」
クラトは冠に目くばせする。
「鬼になってるんだ」
タマキの足が止まる。
「鬼?」
「ユウガオさんから聞いただろ? 覚えてるか」
「うん」
タマキは微笑む。
「だから助ける。神さまに戻してあげる」
「タマキが思うほど簡単じゃない」
タマキはクラトに反抗する。
「助けないと、主に会えない。一緒にいるって約束した」
「約束なんか」
「私が約束した。ちゃんと考えた」
これは力尽くになる、冠もクラトもそう思った。
霊力で常世への道を開く。
「何だって一旦帰る。態勢を整える」
一瞥されたクラトは、タマキの手を掴む。
三人は常世へ入った。




