三十九段 渚
Ⅰ
山の中を駆けていたはずのタマキが、息を切らして見渡すと、辺りは渚になっていた。
冬の乾いた斜面は砂浜になり、うねる木の根は散らばる貝殻になり、はるかに連なる枝々は、緑がかった水面に姿を変える。
アライグマのぬいぐるみを抱きしめて、タマキの足は波の方へ向かう。冷たく湿った風が髪を揺らす。巻き上げられた砂がうなじに当たる。潮の匂いは少しだけ、桜でんぶの匂いに似ている。青白い世界で、タマキは懐かしい桜色のご飯を夢見る。
「君」
音のない声がした。タマキは向こうを見つめる。
「水に入ってはいけない」
タマキは波打ち際から後ずさりする。
「何を探しているの」
誰ともしれない声にタマキは口を開く。
「クラトと、シラツユと、主」
「そう。では、全てを主のせいにしてはいけないよ。その瞬間、君は何者でもなくなってしまう」
「私は、主から生まれて、主にお仕えする、主を信じる」
「どうだろう。信じることと従うことは違うことかもしれない」
振り返ると、白い日が差している。
波の向こうには何もない。
Ⅱ
タマキを見失ったクラトは、ひたすらに山道を上っていた。枯れた木の間を縫うように、やはり枯れた楓の蔦が這っていて、天に近づいているはずなのに薄暗い。虫も鳴かない。
「タマキ! 返事をしろ!」
数歩進むごとに呼び掛けているが、まったく返事がない。
勘の鈍いクラトにも、タマキの霊力が近くにないことが分かる。無駄だと思っても、他にできることはない。
更に歩みを進める。
芥河の領地に近いとはいえ、山の中まで足を踏み入れたことはなかった。
登るごとに、雪が積もる、ユウガオの住処を思い出す。今はクラトも孤独である。
シラツユに会うために、芥河を置き去り、タマキを見失ってしまった。この三人の他に、クラトには何もない。嫌いな芥河と、ずっと一緒だったシラツユと、手間のかかるタマキ。
一気に全てを失ってしまった。これほど絶望的なのに、クラトの足はまだ動く。目も見える。耳も聞こえる。
力尽きて、背負う弓矢も剣も投げ捨てられたら、どんなに楽であろうか。
目を閉じて、眠ってしまって、目が覚めたらシラツユとタマキが傍にいないだろうか。
そんなどうしようもないことを妄想しては、石を踏んで、その音がどこまでも響いていく。
蹴とばされた石はいともたやすく山道を登っていく。
その先に、開けた場所が見えた。
あそこでタマキが泣いているかもしれない。シラツユがけがをしてうずくまっているかもしれない。そんな憐れな期待をして土を踏みしめる。
開けた場所に出たかと思うと、そこは芥河の領地の〝芥河〟であった。
つい先ほど、タマキをつれて常世から現世へ渡ってきた場所であり、つい一月前、シラツユがいなくなった場所である。
川面に小さな波紋がいくつも広がる。雪が落ちているのである。
空はどんよりと曇って、砂利も、クラトの着物も、灰色に塗りつぶされたようである。
白い息を吐く。
顔と指先だけが熱を持って、赤くなる。
入水して常世に戻ろうという気は起きなかった。川縁に腰を落として、足を投げ出す。空を仰ぐ。雪が頬に当たり、溶けていく。
静かな中で、腹の中を、何かおぞましい叫びが入ってくる。ケガレの感覚である。
クラトにこれだけ強く感じられるのだから、とてつもない怪異に違いない。
立ち上がり、そちらへ歩き出す。走り出す。
クラトの頭の中は、怪異との戦いでいっぱいになった。浄化すればシラツユとタマキを奪還できる、言われもしないで、そんなつもりになっていた。
怪異の気配は、川からそう離れていない神社にあった。
ちょうど、夏に鬼が現れた場所である。そしてやはり、今日もそこに真っ黒い男の影がある。
朽ちかけの社殿を前に、石畳の上に浮かんでいる。
クラトは彼を睨んだ。
言葉を交わさないまま、剣で斬りかかる。
近づくことでケガレを受けるなどという心配を、している暇がない。自分の心配などとてもできない。
鬼は刃を受けながらも、血一滴流さない。
それでもクラトは剣を振り続け、一撃が首に当たる。
鬼は少し姿勢を崩したものの、剣の刃を片手で掴むと、クラトごと吹き飛ばした。
クラトは地面に体を打ち付ける。
それでも立ち上がる。
見ると、鬼はクラトに向かって歩いてくる。
クラトは逃げ出さず、剣を構える。
鬼はクラトを殴らなかった。代わりに言葉を発する。
「どうした」
クラトは固まったまま、剣を振らない。
「君はそんなに僕が嫌いか」
「そうだ、いつも俺たちの邪魔をする」
「邪魔をするのは君だ。……タマキを返せ」
「タマキ?」
クラトは耳を疑う。
「ユウガオじゃないのか」
「タマキはどこにいる」
鬼はクラトの胸ぐらを掴む。
「君が連れ去った」
鬼はクラトに迫る。
今日、俺がしたことだ。
――芥河さまは元々鬼だった。浄化されて神さまになったけど、強いケガレに触れると戻ってしまう。それで、そのとき、芥河さまは守っていたはずのわたしに斬りかかった
――強いケガレに近づくと、お前自身がケガレを思い出して、鬼になって、弱い奴らを傷つけるから
芥河は昨日、人の姿をした怪異に接近した。瘴気の中に入り、浄化した。
そうさせたのは俺だ。
それが一番、タマキを守るのに適した方法だと考えた。
しかし今、こうして鬼になり、俺の前に立ちふさがっている。タマキを求めている。こんな芥河に会ったら、タマキはきっと泣いて、力尽きてしまう。
「はは」
クラトは力ない笑いをこぼす。
「あんたから逃がすためだ」
鬼はクラトを地面に叩きつける。
「返せ。タマキには僕がいないといけない」
クラトは背中を痛め、すぐには立ち上がれない。立ち上がらないまま、鬼を睨む。
鬼はクラトを見下ろす。
「タマキは約束してくれた。お前が破らせた!」
クラトの眼前に鬼の爪が光る。
Ⅲ
冠は、昨日ケガレを受けていた芥河を案じて、常世の芥河の家を訪ねていた。
連絡をしないのは常のことであるが、今日は家の前で呼びかけても誰も出てこない。
玄関を叩いても同じである。鍵のかかっていない戸をそっと引いた。
食事の匂いがする。
玄関からすぐの居間には、朝食を取った跡が、皿を洗わないままで放られている。芥河が使うような食器が流しに運ばてすらおらず、飲みかけの茶と、転がった箸までそのままにされている。食事の途中で急な手水に立ったようなさまである。
「芥河」
冠は友の名を呼ぶ。
「芥河、いないのか」
繰り返しても返事はない。
「クラトは」
呼びかけながら、居間から出る。
芥河の家は、冠にとってもう一つの家のようなものである。各人の部屋をそっと開けてみたが、やはり誰もいない。そもそもクラトとタマキの沓がなかった。
しかし、芥河の草履はある。
クラトとタマキは平凡に外出している。芥河には外を出歩く趣味はない。不自然に姿を消した。
昨日の体調を見ているので、その不気味さには予測がついていた。
冠は頭を掻く。
冠には霊魂の浄化を手伝える下部がいない。芥河を助けるには自分一人で行くしかない。
しかしその自分一人が負傷すれば、邸で待っているムラサキとハルはどうなる?
冠が寵愛してきた二人には、冠抜きで生活する術を知らない。
冠は意を決して、現世に降りた。
自分の領地で、自分一人で全てを背負ってきた矜持を以てしてである。
そしてせめて、クラトとタマキだけでも見つけて、自分の邸に匿うつもりである。
芥河の領地には既に瘴気が漂っている。その霧の濃い方角と、クラトの霊力のある方角が同じである。冠は走りだす。
ネトコン13の審査期間が終わりましたので更新を再開いたします。次回からは毎週月曜夕方を予定しております。




