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狩の使  作者: 在原白珪
36/48

三十六段 白菊を折り

   Ⅰ


 クラトは剣を向ける。

 芥河の傍でなら、鈍った弓よりも、忌々しい剣の方がましに思える。

 遠慮なく剣を振るうと、女の霊を斬ることができた。

 しかし、人型の霊はそう簡単に浄化されない。言葉で物事を考える人間のケガレは強いのだ。

 女の霊は苦しそうにしながら、クラトに反撃を試みる。

 長く伸ばした赤い爪で斬りかかってくる。

 クラトは避けながら、その赤さに目を奪われる。血で染まったような色ではない。染料のような、紫がかった艶やかな赤である。化粧として色を塗っているのであろう。

 もし女性がみなそういうお洒落が好きであるであるとしたら、タマキもこれを真似したいと言うのであろうか。もしそう言われても「まだ早い」「塗るにしても淡い色の方が似合う」「爪は短い方がいい」と文句をつけるつもりだ。

 危険と知った上で芥河の家に帰った。口裏を合わせるために子どものふりをした。筆を持った。

 タマキは生まれてそろそろ一年が経つ。だんだん大人びていく。間違った大人にならないよう、今はクラト一人が守っていなければならない。

 一年が経つのは、クラトにとっても同じである。もともと大人だからといって、成長しないではいられない。

 シラツユがいなくてもやっていけるように、――帰ってくるときに楽をさせてやれるように、強くなるべきである。

 構えていると、女の手には包丁がある。女の執念であろう。

 クラトはその場から動かず、包丁の刃先を受けながら、女の胴に剣を差し込んだ。

 女の霊は消えていく。

 クラトは手の甲から出血しているが、平然としている。

「終わった?」

 芥河も平然と、遠くからクラトを眺めていた。クラトはそちらへゆったりと歩いていく。

「終わった。帰る」

「怪我、治そうか」

「いいよ、このくらい」

「タマキが怖がる」

 そう言われると、クラトは出血している片手を差し出した。

 芥河の手のひらが重なると、傷は消える。

「そんなこと言うなら、怪我する前に助太刀してくれよ」

「それは違う」

「杜若さま」

 クラトはここにいない神の名を呼んだ。

「タマキの代わりに戦ってくれたらしいぜ」

 芥河はため息をつく。

「杜若は血の気が多いから。一緒にしないでくれ」



   Ⅱ


 話しながら、二人はアパートの階段を下りる。人間の警官たちは、悪霊がいたことにも、浄化されたことにも気づかないまま、事件の捜査を進めている。

 機械的な仕事の中に、強い霊が身を潜めていた。

 その男は、片手を上げて軽い挨拶をする。

「よう」

 芥河は驚いた血流を沈めながら、睨む。

 彼は交野である。

「何をしにきた」

 芥河は、頑丈に作ったはずのクラトを守るように立ちはだかって、まるで交野を威圧するかのようである。

 一方、交野は飄々と笑みを浮かべる。

「クラト、元気か」

 名を呼ばれて、芥河はクラトの前に腕を伸ばす。

「なぜ」

「知ってるさ。クラトと、タマキだろ。そっちは留守番か? 人の怪異は危ないから」

「いつから」

「ずっと見てたし、ついこないだ話もした。なあ?」

 確認に、クラトは恐る恐る頷いた。

 クラトは彼を警戒している。秋の会で、シラツユが不自然な態度で接していた相手である。そして今は、芥河――つい今浄化した女の霊と似た様子で、恨むように接している。

 彼に何かあるのではないか、それはずっと疑っていたことである。

 クラトが頷いて、芥河は総毛立つ。

「脅したりしてねえよ。今だって、俺の領地の近くでこんなに強い悪霊が出たから、心配で見にきただけだ」

 ――俺の領地。

 クラトは、膝に力が入らなくなるような感覚を覚える。

 カタノは水無瀬の遣いではないか。

 水無瀬の領地はここから離れている。

 彼はほらを吹いているのではないか。いや、そんな様子に見えるか。

「もう、戻ったんだね」

 芥河はそう言った。

「ああ。やっとお前と同格だ。クラト、あのときは嘘じゃなかった。でも今は、新しい遣いを得て位を取り戻した。狩の神、交野だ」

 新しい遣いが誰であるのか、聞かずとも芥河とクラトには明白であった。

「返せ」

 芥河が唸る。

「……返せ」

「何だ?」

 交野はわざとらしく聞き返す。

「返せ、僕の精霊を!」

 芥河は振り向かないまま、クラトの腹に触れると、剣を手にした。

 剣を持ったまま、交野の方へ走る。

 クラトは、芥河が本気で走る姿、武具を持つ姿を初めて見た。

 芥河の剣は交野に振られる。

 交野はのらりくらりと交わしながら、懐から銃を取り出す。

 交野の銃声が、クラトに秋の会での戦いを思い出させる。

 弾は外されたものの、接近した芥河の喉元に、交野の銃口が押し付けられる。

「どの口が言ってんだ」

 剣を奪われても、クラトにはまだ弓矢がある。しかし、主人の喉を取られては身動きが取れない。

 仕事中の警官たちはだるそうに、安い茶を飲んだり背伸びをしたりしだした。

 これだけ人間が集まっているのに、クラトと芥河を助ける者はいない。見向きもしない。

 人が神を助けるなど、ありえない話である。人を助けるのが神である。

「ほら、クラトが怖がってる。無理に戦わせるからだ。でも仕方ないんだよな? 強いケガレに近づくと、お前自身がケガレを思い出して、鬼になって、弱い奴らを傷つけるから。でも結局、代わりに戦う奴らが倒れる」

 交野は勢いよく銃を天に投げた。

 芥河は後ろに倒れそうになり、地面に手をつく。

 その手の指先がわずかに黒ずんでいる。

「ナギサは返ってこない。だから、あいつも返さない」

 穏やかに語る交野の横顔に、薄汚れた煙草の空き箱が飛んでくる。

 クラトの悲憤であった。

「なんだ」

「俺たちは金じゃない。物じゃない。返す返さないじゃない。帰る帰らないだ。シラツユはどう思ってる!」

 交野は顎を触って、少し考えるような素振りをした。

 そして、やはりどこもおかしいところなどないように答えた。

「……そうだ。早く帰って来いって言われてたんだった」

 交野の姿は煙になって消えていく。

 クラトは引き留めようとして、寸歩のところで空を掴んだ。

 拳を握りしめる。



   Ⅲ


 交野が外出している間、ユキフミは一人、布団を被らないまま仰向けになっていた。


――お前は怪我しやすいんだから単騎で行かせるなって、主は覚えてないのか

――俺は一人のとき、戦う意味が分からなかった。今もよく分かってない。……でも、シラツユが戦うなら守ってやりたい

――主の言うこと聞いてりゃどうにかなる。それよりお前がふらつく方が困るから

――ごめんな。俺たちを助けるために、あんなこと言わせて


 〝あんなこと〟とは何であったか。


――ありがとうございます。あなたみたいな人は、他にいません

――本当です。カタノさんだけです


 そうだ、あのときはまだ〝カタノさん〟であった。〝主〟でも〝交野さま〟でもなかった。

 騙されたとは思っていない。

 以前の自分は自身の弱さに困っていて〝カタノ〟は神位を戻すために従者を求めていた。以前の自分が助けられた対価として〝ユキフミ〟はここにいる。

 それだけであろうか。

 交野は自分の邸の中に入れるものをよく選んでいる。箸置きから、糸切りはさみ、硯、そういう小さなものでさえ、たとえ金や螺鈿の彫刻が入っていなくても、とても高級なものに見える。それでいて、どれも交野の手に馴染むような温かみがある。そういう神が、どうしてシラツユを、ユキフミに作り変えてまで迎えたのだろう。

 寝返りをうつと、かづけられた上衣の袖が目に入る。自分が着ていていいのか不安になるほど、きれいな生地である。それを纏う肌はさらさらと白くなった。

 交野との生活に不満はない。むしろ、これまでより大事に扱われていると思う。外に出てはいけないとか、食事が決められているとか、そういうことは構わない。ただ、そこに自分がいない。


――シラツユと一緒に座ってるのがいいんだ。主の命令を聞かなくてよくても、シラツユとタマキがいなかったら何もすることがない


 あのとき、クラトが言っていた言葉の意味が分かった。

 タマキが戦うことに意味を探そうとしていた悩みも、自分が寝込むまで分からなかった。

 どうしていつも、二人の言葉を後からでないと分からないのだろう。あれだけずっと一緒にいたのに、今になってはどうしようもない。

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