三十六段 白菊を折り
Ⅰ
クラトは剣を向ける。
芥河の傍でなら、鈍った弓よりも、忌々しい剣の方がましに思える。
遠慮なく剣を振るうと、女の霊を斬ることができた。
しかし、人型の霊はそう簡単に浄化されない。言葉で物事を考える人間のケガレは強いのだ。
女の霊は苦しそうにしながら、クラトに反撃を試みる。
長く伸ばした赤い爪で斬りかかってくる。
クラトは避けながら、その赤さに目を奪われる。血で染まったような色ではない。染料のような、紫がかった艶やかな赤である。化粧として色を塗っているのであろう。
もし女性がみなそういうお洒落が好きであるであるとしたら、タマキもこれを真似したいと言うのであろうか。もしそう言われても「まだ早い」「塗るにしても淡い色の方が似合う」「爪は短い方がいい」と文句をつけるつもりだ。
危険と知った上で芥河の家に帰った。口裏を合わせるために子どものふりをした。筆を持った。
タマキは生まれてそろそろ一年が経つ。だんだん大人びていく。間違った大人にならないよう、今はクラト一人が守っていなければならない。
一年が経つのは、クラトにとっても同じである。もともと大人だからといって、成長しないではいられない。
シラツユがいなくてもやっていけるように、――帰ってくるときに楽をさせてやれるように、強くなるべきである。
構えていると、女の手には包丁がある。女の執念であろう。
クラトはその場から動かず、包丁の刃先を受けながら、女の胴に剣を差し込んだ。
女の霊は消えていく。
クラトは手の甲から出血しているが、平然としている。
「終わった?」
芥河も平然と、遠くからクラトを眺めていた。クラトはそちらへゆったりと歩いていく。
「終わった。帰る」
「怪我、治そうか」
「いいよ、このくらい」
「タマキが怖がる」
そう言われると、クラトは出血している片手を差し出した。
芥河の手のひらが重なると、傷は消える。
「そんなこと言うなら、怪我する前に助太刀してくれよ」
「それは違う」
「杜若さま」
クラトはここにいない神の名を呼んだ。
「タマキの代わりに戦ってくれたらしいぜ」
芥河はため息をつく。
「杜若は血の気が多いから。一緒にしないでくれ」
Ⅱ
話しながら、二人はアパートの階段を下りる。人間の警官たちは、悪霊がいたことにも、浄化されたことにも気づかないまま、事件の捜査を進めている。
機械的な仕事の中に、強い霊が身を潜めていた。
その男は、片手を上げて軽い挨拶をする。
「よう」
芥河は驚いた血流を沈めながら、睨む。
彼は交野である。
「何をしにきた」
芥河は、頑丈に作ったはずのクラトを守るように立ちはだかって、まるで交野を威圧するかのようである。
一方、交野は飄々と笑みを浮かべる。
「クラト、元気か」
名を呼ばれて、芥河はクラトの前に腕を伸ばす。
「なぜ」
「知ってるさ。クラトと、タマキだろ。そっちは留守番か? 人の怪異は危ないから」
「いつから」
「ずっと見てたし、ついこないだ話もした。なあ?」
確認に、クラトは恐る恐る頷いた。
クラトは彼を警戒している。秋の会で、シラツユが不自然な態度で接していた相手である。そして今は、芥河――つい今浄化した女の霊と似た様子で、恨むように接している。
彼に何かあるのではないか、それはずっと疑っていたことである。
クラトが頷いて、芥河は総毛立つ。
「脅したりしてねえよ。今だって、俺の領地の近くでこんなに強い悪霊が出たから、心配で見にきただけだ」
――俺の領地。
クラトは、膝に力が入らなくなるような感覚を覚える。
カタノは水無瀬の遣いではないか。
水無瀬の領地はここから離れている。
彼はほらを吹いているのではないか。いや、そんな様子に見えるか。
「もう、戻ったんだね」
芥河はそう言った。
「ああ。やっとお前と同格だ。クラト、あのときは嘘じゃなかった。でも今は、新しい遣いを得て位を取り戻した。狩の神、交野だ」
新しい遣いが誰であるのか、聞かずとも芥河とクラトには明白であった。
「返せ」
芥河が唸る。
「……返せ」
「何だ?」
交野はわざとらしく聞き返す。
「返せ、僕の精霊を!」
芥河は振り向かないまま、クラトの腹に触れると、剣を手にした。
剣を持ったまま、交野の方へ走る。
クラトは、芥河が本気で走る姿、武具を持つ姿を初めて見た。
芥河の剣は交野に振られる。
交野はのらりくらりと交わしながら、懐から銃を取り出す。
交野の銃声が、クラトに秋の会での戦いを思い出させる。
弾は外されたものの、接近した芥河の喉元に、交野の銃口が押し付けられる。
「どの口が言ってんだ」
剣を奪われても、クラトにはまだ弓矢がある。しかし、主人の喉を取られては身動きが取れない。
仕事中の警官たちはだるそうに、安い茶を飲んだり背伸びをしたりしだした。
これだけ人間が集まっているのに、クラトと芥河を助ける者はいない。見向きもしない。
人が神を助けるなど、ありえない話である。人を助けるのが神である。
「ほら、クラトが怖がってる。無理に戦わせるからだ。でも仕方ないんだよな? 強いケガレに近づくと、お前自身がケガレを思い出して、鬼になって、弱い奴らを傷つけるから。でも結局、代わりに戦う奴らが倒れる」
交野は勢いよく銃を天に投げた。
芥河は後ろに倒れそうになり、地面に手をつく。
その手の指先がわずかに黒ずんでいる。
「ナギサは返ってこない。だから、あいつも返さない」
穏やかに語る交野の横顔に、薄汚れた煙草の空き箱が飛んでくる。
クラトの悲憤であった。
「なんだ」
「俺たちは金じゃない。物じゃない。返す返さないじゃない。帰る帰らないだ。シラツユはどう思ってる!」
交野は顎を触って、少し考えるような素振りをした。
そして、やはりどこもおかしいところなどないように答えた。
「……そうだ。早く帰って来いって言われてたんだった」
交野の姿は煙になって消えていく。
クラトは引き留めようとして、寸歩のところで空を掴んだ。
拳を握りしめる。
Ⅲ
交野が外出している間、ユキフミは一人、布団を被らないまま仰向けになっていた。
――お前は怪我しやすいんだから単騎で行かせるなって、主は覚えてないのか
――俺は一人のとき、戦う意味が分からなかった。今もよく分かってない。……でも、シラツユが戦うなら守ってやりたい
――主の言うこと聞いてりゃどうにかなる。それよりお前がふらつく方が困るから
――ごめんな。俺たちを助けるために、あんなこと言わせて
〝あんなこと〟とは何であったか。
――ありがとうございます。あなたみたいな人は、他にいません
――本当です。カタノさんだけです
そうだ、あのときはまだ〝カタノさん〟であった。〝主〟でも〝交野さま〟でもなかった。
騙されたとは思っていない。
以前の自分は自身の弱さに困っていて〝カタノ〟は神位を戻すために従者を求めていた。以前の自分が助けられた対価として〝ユキフミ〟はここにいる。
それだけであろうか。
交野は自分の邸の中に入れるものをよく選んでいる。箸置きから、糸切りはさみ、硯、そういう小さなものでさえ、たとえ金や螺鈿の彫刻が入っていなくても、とても高級なものに見える。それでいて、どれも交野の手に馴染むような温かみがある。そういう神が、どうしてシラツユを、ユキフミに作り変えてまで迎えたのだろう。
寝返りをうつと、かづけられた上衣の袖が目に入る。自分が着ていていいのか不安になるほど、きれいな生地である。それを纏う肌はさらさらと白くなった。
交野との生活に不満はない。むしろ、これまでより大事に扱われていると思う。外に出てはいけないとか、食事が決められているとか、そういうことは構わない。ただ、そこに自分がいない。
――シラツユと一緒に座ってるのがいいんだ。主の命令を聞かなくてよくても、シラツユとタマキがいなかったら何もすることがない
あのとき、クラトが言っていた言葉の意味が分かった。
タマキが戦うことに意味を探そうとしていた悩みも、自分が寝込むまで分からなかった。
どうしていつも、二人の言葉を後からでないと分からないのだろう。あれだけずっと一緒にいたのに、今になってはどうしようもない。




