三十五段 ゆく蛍
Ⅰ
現世に降りる日、クラトは再び財布の中を確かめた。杜若の領地へ行くために大金を使ったばかりであるが、今日も、それなりの金を払う用意があるのだ。
「タマキ」
呼ぶと、タマキは飛んできた。何か菓子や洋服を買ってもらえると思っている。
「色鉛筆を買おう。筆を持つ練習だ」
クラトはそう言った。
三体の怪異を浄化してから、人に見える姿になって文具店に入り、様々な色鉛筆を見る。クラトにはどれも同じようにしか見えなくも、タマキは色の種類や形、箱の絵まで選り好みして、ぶらぶらとあちらの棚からそちらの棚など行ったり来たりする。
その間、店の外から大きな笛の音や、鳥の悲鳴のようなものが鳴る。タマキは気になって、ガラス張りの壁に顔を近づける。
点滅する赤い灯りを頭に載せた色々な車が、恐ろしい勢いで走り去る。
「何だろう」
他の客もその話をしているらしい。
幼い子どもを連れた男が、
「パトカーだぞ」
と教えている。男は子どもを抱えあげて外を見せる。子どもは小さい手を振る。
「何の車?」
タマキはクラトに問う。クラトは
「赤いのは火消し、白いのは医者、白黒のは巡視」
話しているところを、子ども連れの男が耳を疑うように見ている。男は抱えた子どもの耳に語る。
「消防車と、救急車と、パトカー」
なるほど最近はそう呼ぶのか、とクラトはタマキを窓から遠ざける。
「早く決めて帰ろう」
タマキはそのとき持っていた色鉛筆の箱をクラトに渡した。
買った色鉛筆の箱を手に、タマキとクラトは店の外に出る。
通りの車が一列動いていない。その方向の先に何かあるのであろう。それは、先ほど赤い灯りの車が走って行った方向である。
タマキとクラトは歩道を歩き、車の列を追い越していく。
車は動いていなくても小刻みに揺れていて、低く唸っている。御者は飽きた表情で、飲み物をちびちび飲んだり、腕を組んだりしている。また、開けた窓から煙草の煙を吹かせる者もいる。その煙が、車自体が吐く煙と合わさって、冬の乾いた空気を割く。
タマキは咳き込んだ。
「大丈夫か」
タマキは辺りを見渡す。
「車の煙だろ。きついなら裏道入るか」
「裏」
タマキは暗く細い路地に目を向ける。
その奥を走り抜けるものがあった。
「わんこ!」
タマキは叫ぶと、そちらへ走って行く。クラトも慌てて追いかける。
「犬がどうした」
「大変」
タマキは知らない道を、気配を頼りに走っている。
その意味が、クラトにやっと分かった。
息を切らした犬が曲がり角の影で唸っている。その背には血がついている。
睨む目の先に、包丁を持った人の影がある。
怪異である。
タマキも息を切らして、再び咳き込む。
クラトはその前に出て、弓弦を張った。
怪異との距離はわずかに歩み十歩程度である。
狙う弓の先が、クラトの視界の中で小刻みに揺れる。一瞬に人間の影を向き、次の一瞬に犬の背を向き、空を向く。
放たれた矢は人間の影の顎をかすり、建物の壁に当たって落ちる。犬は駆け出す。
人間の影も消えた。
浄化できていないことはタマキにも分かった。
クラトは弓をしまう。
「鈍ったな」
思えば、今日これまでに怪異を浄化したのはタマキの弓であった。今日に限らず、ユウガオに会ってからはそればかりであった。
クラトは以来一度も剣を抜いていない。
Ⅱ
怪異を見失ったまま、二人は常世に戻る。
芥河はクラトからの報告を聞くと、タマキを抱きしめた。
「無事でよかった。よく帰ってきたね」
人の姿をした怪異に、何かを重ねたのであろう。そうでなくても、クラトの弓で浄化しきれなかったのだから、タマキにはより危険であることに間違いない。
これまでは、それほどの怪異が現れてもシラツユの矢が射抜いていた。そのシラツユを守るのがクラトの役目であった。
クラトは芥河からの指示を待っていた。
芥河はタマキの背に腕を回したまま、こう言った。
「君一人なら、気負わずに戦えるだろう」
タマキがちらりとクラトを見上げる。
タマキまで失いたくない。そのためにどうすればいいか。考える時間がほしい。
確かに、芥河の言う通り、一人で戦えば負けることはないだろう。
でもその間、タマキを芥河――いつ鬼に戻るか分からない男一人に預けていていいのか?
クラトは時間を稼ぐための方便を試みた。
「疲れたから少し休む。タマキ、みかんでも食おう」
タマキは芥河から離れて、クラトの後についてきた。
芥河はついてこない。昨晩口論になったクラトと顔を合わせるのが気まずいのであろう。
しかし、時間を稼せぐことは、現世に残してきた怪異に猶予と成長を与えることにも等しい。
小屋に入り、安っぽい木箱の中のみかんを漁る。
「どうするの」
タマキは質問する。
「正直、俺だけで行っても怪異がどこに潜んでるか、見つけられない」
「うん」
「でもタマキを連れて行きたくない。もしタマキがケガしたら、俺は俺自身がケガするより動揺して、まともじゃなくなる」
クラトは皮の薄そうなみかんを選んだ。
「だから、主についてきてもらう。その間、タマキは冠さまの家。ムラサキさんとハルさんに遊んでてもらえ」
タマキは不満そうに、クラトの腕にくっつく。
「大丈夫、大丈夫。そうだ、ムラサキさんとハルさんに手紙を書くから、タマキも色鉛筆で何か書こう」
タマキはどうしても不満で、手に持っていた小さなみかんを箱の中に落とした。
代わりに、適当なふりをしながら大きなみかんを取る。
「これ食べてから」
「うん。それでいい」
クラトとタマキは小屋から家の中に戻る。
Ⅲ
久しく、クラトとともに現世に降りた芥河は街中にうっすらと広がるケガレの雰囲気を感じとった。
「血の匂いだ」
芥河はそう表現する。
「そういえば、犬に血がついてた」
「犬?」
「痩せた犬に。その犬を見て、タマキが追いかけたら、怪異に出くわした」
クラトはその犬が立ち止まった場所に芥河を案内する。
路地裏の狭く薄汚い様子は、神である芥河には縁のない場所である。どこからか、ごみや動物の腐臭がするような気さえする。
「こんなところがあったなんてね」
「でも、あんたの領地だ」
芥河は煙草に火をつける。湿っぽい空気がいぶされ、煙は空に昇っていく。
その煙草を手にしたまま、芥河は歩き出す。
「確かにここはケガレが溜まりやすい。長居はできないね」
芥河はクラトの前を歩く。
現世には一年に数回降りる程度の芥河に先導されるというのは、分かっていてもクラトには恥ずかしいことである。
芥河の足は規制線の張られた、二階建ての長屋の一室に向かった。
人間から見えない姿の二人は、騒々しい庭を堂々と通り抜け、薄い金属製の階段を恐る恐る上がり、何かを調べているらしい役人たちの輪の中に入った。
くたびれた布団、散らかった服とごみ、犬の首輪、床に物が落ちていることが、まるで手入れのされていない路地裏のようである。
部屋の中にはケガレが目に見えるくらいに溜まっていて、その中に、血しぶきの跡がある。
警官たちは〝犯人は被害者の後見人で、料理包丁を以て〟と話している。
鈍感なクラトさえも軽い吐き気を感じて、芥河の傍に寄った。
芥河は吸っていた煙草の煙を吐き出す。そこに霊力を重ね、場の浄化を試みた。
数秒のうち、半分ほど空気が入れ替わったような心地になる。しかし役人たち、人間たちは気づかないまま、仕事に追われている。
気づいたのは、言葉通り炙り出された、包丁を持った若い女の怪異である。路地で見かけたときよりも、その姿がくっきりとしている。力を増した証であろう。




