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狩の使  作者: 在原白珪
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三十四段 あかなくに

   Ⅰ


 クラトと芥河の口論の結果、まずはノドカへの返事を書いてみることにした。

 手紙の内容を再度聞かせて、返事をタマキに言わせる。それをクラトが書き留めて、そのまま便箋に書き写せばいい。

 そう思っていた。

 しかしどうにも、真似しようとしても字はうまく書けない。タマキは同じものを書いたというが、微妙な差異が文字らしきものを謎の線の塊にしている。筆からペンに持ち変えてもそれは変わらなかった。力加減も筆運びも分からないのだ。

「練習が必要か……」

 クラトが諦めると、芥河は再び、タマキを膝の上に招いた。

「筆を持って。僕が書かせてあげる」

 芥河はタマキの手の上から筆を執る。


〈ノドカさん


おさそいありがとうございます。

ぜひ、ゆきであそんで、おしるこもたべたいです。


ゆきがふったら、またれんらくします。


                 タマキ〉


 たったこれだけを書くのに十数分かかり、その間にクラトはあくびをして背伸びをし、少し立ち歩いて、出がらしの茶を淹れた。

 芥河が筆を置いて手を放すと、タマキは書きあがった手紙を掲げた。

「何て書いたの」

 芥河に書かされているうちに、自分が言ったことを忘れたらしい。クラトは暇にうなだれた。



   Ⅱ


 夜、タマキが寝た後、居間に残された芥河とクラトの間に、気だるい視線が交わされる。

「あの様子では、君は途中で投げ出しそうだけれど」

 芥河の前置きに、クラトは眉をひそめる。

「タマキに読み書きを教えないでほしい」

「なんで」

「文字は分からない方がいいと思うんだ」

「あんたが今日、教えてただろ」

「その場しのぎだよ。あんなので覚えるわけがない」

「俺もシラツユも覚えたのに、なんでタマキだけ」

「考えすぎるからだよ」

 芥河はちゃぶ台に肘をかけて足を崩す。

 足袋を履かない足の爪が伸びて、硬く白っぽくなっている。

「シラツユはいい子だけど、考えすぎて、思いつめるところがある。文字が分かると、知っている言葉が増えて、多すぎる言葉で物事を考えるようになる。言葉の端が気になって、溢れかえってしまう。タマキにはそうなってほしくない」

 クラトは沙漠の国の物語を想起した。


 クラトが直接読んだのではなく、シラツユが読んだ現世の本の話を暇つぶしに聞いたことがある。

 沙漠の国で、文字を読み書きできる人は少ない。一握りの知識人や官僚のみである。

 とある貴族の子弟は学生となり文字を習っていた。文字を覚え、読み書きをするうちに、それまで共にいた友人が見えなくなったという。

 とある老人は文字を書くことを仕事に数十年生きてきた。働くごとに目が悪くなっていき、悪い目でまた働くために腰や首まで曲がり、他の職業に見られない姿になったという。

 職人が文字を覚えるとこれまで感覚でしてきた仕事に物差しや分度器が必要になり、浮遊者が文字を覚えると現実の女性に触れていてもどこか別の世界の人と会話しているのだという。

 沙漠の国の大臣はこういう弊害を文字に棲む妖精の仕業だとして、この妖精を捕えて打ち克つ方法を研究している。

「クラトは、文字を覚える前の感覚を覚えていますか」

 シラツユはそう聞いてきた。

 クラトは思い出そうとするが、他人が判別できる文字を書くのに苦労した思い出ばかりである。

「あいにく」

「私もです」

 二人は笑う。

「文字を通して言葉が分かって、そこから考えたことが、記憶に残るんでしょうね」

 そう言われて、クラトは何と返したであろうか。


 今思うのは、文字に棲んで人を脅かす妖精がいたとして、神や精霊の前に及ぶことなどないという、シラツユへの賛同である。

「あんた、言葉なんかに負けるのかよ」

「そうじゃない」

「何も教えないで、考えさせないで、言うこと聞かせたいんだろ」

 クラトは宵闇に似合う低い声を、涼しい板敷きの床に転がす。

「言葉なんかに騙されるわけない」

 クラトは席を立つ。

「おやすみ」

 芥河が一人、居間に残される。



   Ⅲ


「お前、本は読むか」

 交野が入ってきて、手持ち無沙汰なユキフミに問う。

 ユキフミは座椅子にもたれて座っていたところを、姿勢を正した。この頃は、布団から出て起きている時間が多くなってきた。そうはいっても、一日の三分の一ほどである。

「なぜ」

「そろそろ暇だろ」

「散歩に出てはなりませんか」

 交野はユキフミの前に膝をついて、足袋を履いていない片足を持った。そして裾の下に手を触れる。

「歩くと硬くなる。……いや、一度けがしたところは悪くなりやすいから」

 ユキフミはなんとなく、足に触れられている感覚を懐かしく思った。

 そして、けがをしたこと、以前の主人が介抱のために足をなでてくれたようなことを思い出す。そのとき、きっと自分は幸せだった。

 今はどうであろうか。考えようとして、もう傷跡もない踵と、膝をついている今の主人の額が目に入る。

 交野は笑顔を作った。

「うん。じっと本でも読んでいよう。俺の好きな本をやる」

「主の好きな本?」

「今持ってくる」

 交野はユキフミの足から手を離す。

 放り出された足がただの空気に触れている。その時間がユキフミには長く感じられた。

 しかし、交野にとっては同じ邸の中の書斎から、元々選んでいた本を持ってきただけである。

 楽しいものを待ちわびていたようでもなく、無関心でいるのでもない口元に、引き寄せられた。

「なんだ。字くらい読めるだろ」

 ユキフミは数秒、ぽかんと口を開けていた。

 交野が待っていると、どこからか言葉を発する。

「読んでいただけますか」

 交野にとっては、ユキフミから初めて頼まれたことである。胡坐をかき、膝を軽く叩いてユキフミを呼んだ。

〈慈恩の春色、今朝尽く。尽日、徘徊して、寺門に()つ〉

 耳の近くで主人の声が聞こえる。体を預けている。何かを教わっている。ユキフミはそういうことに懐かしさと安堵を得ていた。

〈十層、突兀(とつこつ)として虚空に在り〉

 ページがめくられるのに合わせて、顔を少し横に逸らす。交野と顔を見合わせる。

「飽きたか」

「いいえ。もっとゆっくり読んでください。その方が好きです」

 ユキフミにとって、本当の心かは分からない言葉であった。しかし交野の目には確かに、ユキフミの瞳に交野が映っているのが見える。

〈回梯、(ひそ)かに踏めば、洞を穿つがごとく。絶頂、初めて登れば、籠より出づるに似る〉

 ユキフミは、交野の声で聞かされる古めかしい言葉に段々と、更なる記憶を呼び起こしていた。


 芥河は文字を教えるために、家の中にあった本を持ってきて、一文字ずつ追いながら読み上げた。その傍にクラトがいて、難色を示した。

「もっと易しいやつがいいんじゃないか」

 自分は文章というものに初めて触れて、難いも易しいも分からない。

「これだって易しいことしか書いていない」

 芥河はそう言う。

「内容はまあ、そうだろうけど。文章だよ。そんな古いやつじゃなくて、もっと新しいやつの方が読みやすい。ほら、

〈夫、娘をして花を摘ましめ、之を甕に入れる。家の飾り麗にして、客を遇す〉とか言わないだろ」

 クラトは喋りながら眉をひそめる。

「〈家を麗しく飾り〉か?」

 微妙な読みの違いを真剣に気にしているらしい。しかし芥河にとってはこの古い文体そのものが、通常の読み書きとして捉えてきたものであり、日常会話と切り離すのは当たり前であった。

「何がいいのか分からないよ。もう、クラトが選んできて」

 芥河は諦めた本をクラトに持たせて、別の本と取り換えに行かせた。

 自分と二人になると苦笑いして、

「クラトは厳しいね。君は何でも聞いてくれるのに」

 と囁いた。


「どうする? 続きは読むか」

 今の、現実の交野の言葉である。気づけば一章分が読み終えられていた。

 交野は本を脇に置き、夢に魅せられているようなユキフミの体をさする。

「眠くなったんだろう。いいよ。おやすみ」

 ユキフミは何も語らないまま目を閉じた。 

出典


シラツユが読んでいた小説……中島敦『文字禍』

交野が読み聞かせていた漢詩……白居易「三月三十日題慈恩寺」、章八元「題慈恩寺塔」

クラトががんばって読んでいた漢文……自作

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