三十段 時しらぬ山
Ⅰ
アカシはユウガオの白んだ眼差しを鮮明に覚えている。
「まるで、僕を笑ってるみたいだったんだ」
アカシは微笑んだ。
「僕にはできない笑い方だよ。フジくんもしない。タマキちゃんもあまりしないかもね」
タマキは、これまでに会ったいろいろな人の笑顔を思い浮かべて、そのどれでもなく、かつ、芥河が惹かれる笑顔などあるのかと、疑問に思う。
「いいよ。途中まで一緒に行こう」
「いいんですか」
クラトは飛び上がる。
フジは眉をひそめる。
「待ってください。なんで遣いが主と離れて暮らしてるんすか。絶対何かあります。危険です」
「大丈夫だよ。彼女は悪い人じゃない」
「じゃあなんで」
「悪いのは主だ」
クラトが言う。
「主がユウガオさんを傷つけた。それで逃げられたから、代わりに俺たちが作られた」
アカシは微笑んでいるのをやめた。
月が陰ったようである。
「そうだね」
アカシはクラトの言葉を肯定した。それがフジには信じられない。
「そうだねって何すか! クラトさんもタマキさんも、そんなんじゃないっすよ。たった一人の大事な」
「僕たちもそうなんじゃないかな」
フジの純粋な激高を、アカシは冷たく否定する。アカシの目には新月が浮かんでいる。
「僕とスマの前にも、遣いがいたって聞いたことがあるんだ。もしかしたら、僕たちの後にも誰かいるかも。主にしか分からないことだけどね」
「アカシさん、どうしたんすか」
「フジ君の言うことも正しいよ。僕たちの完全な写しは存在しない。けれど、僕たち自身も完全で、永久な存在じゃない。君たちは気づいたね」
アカシはまた微笑む。
タマキは、アカシと初めて話したときを思い出した。
現世の芥河の社で、仕事の輪に入れないタマキを、アカシが励ました。できるようになる、できるようになれ、とは言わなかった。できなくても大丈夫、タマキはその言葉に支えられてきた。
でも今は、その心がフジやタマキを貫く。
「大丈夫、特別なことじゃないよ。ユウガオさんもきっと分かってる」
Ⅱ
アカシは三人を伴って常世に戻ると、フジに手紙を預けた。スマに向けての伝言である。
「本当に、行くんすか? スマさんを呼ばなくていいんすか? 主に許可は」
「フジ君は心配性だね」
「許可を取るのは基本っす!」
フジはじたばたして訴える。敬愛するアカシに危険な行動を取ってほしくないのである。
杜若の邸の、整えられた庭先でわめいていると、洗濯物を干そうとしていたウツが様子を見に来た。
「うるさいな。フジ君、何が気にいらんの」
「ウツ! ウツにも言ってほしいっす。芥河さまから逃げた遣いに会いに行くとかなんとか」
「芥河さま?」
ウツはクラトがいることに驚いて、洗濯物を落とした。
ウツは、フジのたった一言で、芥河の社で見た怪異、スマの言葉、全てを想起する。
――「……なあ、芥河は何か知ってると思うんだが
――「……あれの正体。心当たりがなきゃ、もっと驚くはずだ」
――「後は芥河次第だ。俺には解決できない」
スマは身を引くと言った。ウツはそれに従う。
「怖いわあ。ボクはよう行かん」
クラトは苦笑いする。
「だから、途中までって言ってるでしょ」
「でも」
アカシとフジの様子は変わらない。
「フジ君は待っていていいよ」
「そうじゃなくて! ……ウツ! スマさん呼んで」
「呼ばん」
ウツは洗濯物を拾いだす。
「アカシさんが行く言ってるんやろ。なら、そうさせ。スマさんも止めたがるかもしれんけど、ボクたちくらいアカシさんのこと信じんと」
「でも今日のアカシさんはおかしいっす」
「なら、特別そうしたいって気持ちは大事なものやないの」
フジはまだ何か言いたげに、しかしそれをためらって、手のひらにこめた。
その手でアカシの肩を叩く。
「お供するっす!」
叩かれて、アカシの体全体が震えた。
「ありがとう」
フジは驚くべき勢いで残っている洗濯物を拾い、ウツに押しつけた。
ウツは整えられた、乾いた庭から四人を見送る。微風が吹いても何一つ揺れない。小さな芽の一つもなく、ただ、年老いた梅の木と、まだ背の低い桜の木が交互に並んで、梅の花が白くつぼんでいるばかりである。
庭の手入れが好きなスマは、冬には手持ち無沙汰になる。ウツはそんな冬が好きである。庭に洗濯物を干すと、それしか色のついたものがない。スマは部屋の炬燵に入って庭を、洗濯物を眺めている。
洗濯物は毎日変わる。全く同じ並びになることはない。冬が来て、草花がなくなると際立つ。
ウツは庭を彩りながら、タマキとクラトの暗い色の衣を目で追った。
「あの子、またおらん」
ウツは芥河の手狭な邸で一目見た、痩せて大人びた少年を思い出した。ウツはシラツユとまともな会話をしたことがない。
Ⅲ
普段から慣れた道すら間違えてばかりのアカシは、ところどころ立ち止まりながら、常世の山道を先導する。フジは不安でならない。
「これ、本当に五時までに帰れるんすよね?」
「……多分」
「どこを目指してるんすか?」
「雪が降るところ」
鹿も鳴かない、鳥の尾も揺れない山の中である。水の音もない。
楓の蔦も枯れていて、陽こそ遮られないが、孤独も隠されない。
「ここ、常世?」
タマキは質問する。
「そうだよ」
アカシは優しく答える。
芥河の家を覆う竹林は、季節によらず、青々としている。タマキはまだ見たことがないが、春先に筍が生えるくらいしか、変化はない。
冠の邸の裏に広がる花畑は、種類が変わっても、いつでも花が咲いている。昨日訪れたときも、桃色や黄色の菊が咲いていた。
タマキは、草花が枯れるのは現世だけだと思っていた。
「常世でも、神さまがいない土地に花は咲かない。ほら見て」
アカシは天を指さした。
寂しく細長い枝が伸びている。
「椿だよ。現世では咲いているはずだけど、ここでは咲かない」
タマキは初めて椿という木を知った。クラトも教わるまで気づかなかった。常世では山の奥でしか見られないのである。
「せっかく、落ちるまで枯れない花なのに」
フジが呟く。
歩き続けて、タマキがクラトにおんぶを訴えたところであった。
遠くから煙の匂いがした。
「誰かいるみたい」
タマキの額に雪が降りた。その冷たさに、タマキは目を覚ます。
アカシとフジは案内役を終えて来た道を帰る。
嫌がっていたフジも、中途半端な道で放り出した二人が心配で、今は最後までついていきたいという思いに変わっていた。
「心配っすね。あいつら、街育ちだから山なんて歩けないっすよ」
「街、ではないかな」
「違いました?」
「里くらいだと思う。でも、僕たちからしたら街だよね」
アカシもフジも、スマもウツも、田舎の生まれである。
現世を旅していた杜若に見出され、遣いや精霊として生まれ変わったのである。
フジとウツに現世で生きていた頃の記憶はないが、言葉が訛っていたり、静かで気取らない場所を好んだりするのは、その名残であろう。
反対に、スマとアカシには現世で生きていたときの記憶がある。
「寒いとお腹が空くね」
アカシは懐かしそうに、木の枝の先を折った。そして口に咥える。
「味がしない」
「木ってそういうもんすよ」
「昔はもっと甘かったんだけど」
「……体が変わったんじゃないっすか」
「そうだね。この体は鈍くて仕方ない」
アカシはつまらなそうに、咥えた枝を捨てた。転がって軽い音が鳴る。
重なるようにわずか先で、枝が踏まれる音が鳴った。
アカシとフジは勘づいて、合図もなく構える。
相手は気づかれたことを察し、姿を表した。
大柄な男が、小柄な男と切り下げ髪の男を率いている。
「お前ら、芥河の精霊の仲間か」
大柄な男は尋ねた。
アカシは応える。
「……僕はそう思ってる」
「何しに来た」
「ただの道案内だよ。彼らの目的は知らない」
「知らずにこんな山奥まで? とんだお人好しだな」
「えっと。……えへへ」
「褒めてると思ったか?」
フジは大柄な男を睨む。
「文句あるっすか」
「あいつらにな」
フジは正体の分からない男たちが、何かしでかすと思った。そのために弓を持とうとした。
その手を、アカシが止める。
「もし」
アカシは見知らぬ男たちに語りかける。
「君たちが僕たちの友人をもてなすとしたら、僕も誠意を以て君たちをもてなすよ。方法は君たちに合わせる」
アカシの目は、ひっくり返った三日月を映している。
男たちはそこに、獲物を睨む猫の牙を見出した。
大柄な男は太刀で弾き返そうとする。
しかしその刀身には、アカシの弓矢が映る。
大柄な男を守ろうと、小柄な男と切り下げ髪の男が飛び出す。
フジが二人ともをいなし、アカシは大柄な男に向けて弓を張り続けた。
「僕はこの弓を引くことができるけれど、君はどうする」
大柄な男は、アカシの強い霊力に圧倒される。
「言いたいことは言わせてもらう」
これが大柄な男の答えであった。
「ここらには、神がいない。神から離れて暮らす霊がいる。……俺らもそうだ」
大柄な男はひそかに嘘をついた。
「邪魔をしてくれるな」
依然、アカシは弓を構えている。
「君たちこそ。自我があるというのは苦しいね」
「何が言いたい」
「分からないなら、友だちにはなれない」
アカシは弓を下ろす。
「またね」
アカシはフジを伴って歩き出す。
しばらく歩いて振り返ると、目指してきた山の頂に白っぽく雪が積もっているばかりで、無法な男たちの姿はない。
「フジ君、嫌がっていたのについてきてくれたね」
「当然っす。アカシさん一人じゃ心配っす」
「ありがとう。僕も考えたんだ。フジ君を置いていくか、連れてくるか。どちらがフジ君には良いだろうって」
一歩歩みを速めて覗くと、そこにはいつもの穏やかな、そして寂しそうなアカシの顔があった。
「……僕だったら。嫌いな場所に主が行くと行ったら、嫌でもついて行く方が楽だ」
「楽?」
フジは聞き返す。
「うん。主の言われる通りにしているのが楽なんだ。いくら嫌なことでもね。むしろ、彼らみたいに、自分たちで考えて、間違ったことをしてしまうかもしれないのはつらい。クラト君とタマキちゃんはがんばっているよ。だから、僕も今日はがんばった」
これが、アカシが杜若でなく、同等のスマに不在の連絡をした理由である。ウツの言う通りであったと、フジは切なくなる。
「ごめんね、早く帰ろう」
「そうっすね」
フジは誇らしく、山道を下っていく。




